奴隷邂逅【9-4】

 訓練施設のトイレで血を洗い流し、クラプトン一家は一路パトリックのホテルへと向かう。諸々の疲弊からハンドルを握る手がおぼつかなかったが、弱音や苦言は許されない。助手席の女の子は、何やら複雑に思い悩んだ様子で、自分の世界に沈んでいた。虚ろに対向車線を眺めているかと思えば、物言わずこちらを見つめ、首をかしげる。何にせよ、先の一件が成人前の少女には過激だったのに変わりはない。これが原因で要らぬ苦痛を増やさなければいいのだが。

 ――と、親父までも含んだ大人が気を揉むのに反し、当の本人は何処吹く風であった。あれだけ衝撃的な場面を見ておきながら、打ちのめされた様子が皆無である。この子の技芸を考慮すれば平静を装うのも不可能ではないだろうが、それにしたって落ち着き払っている。今だってここ、ホテル『デイヴィッド・スターリング』の一室で、呑気に血の滴るステーキをもぐもぐしているが、包み隠さず言えばぞっとしない。陳腐なスプラッタ映画よっか、遙かにおぞましい光景を目の当たりにしてこれだ。女性が流血沙汰に強いのは、果たせるかな真実であったか。そんな彼女は雇い主の懸念も露知らず、外食に頬を緩ませている。

「美味しいですね」

 能天気なものだ。ややもすると、調教期間に病んでしまったのかと邪推すれば言い訳が立つが、それはそれで何とも涙を誘う。可哀想なやつ。

 空の食器がボーイ君に片付けられ、叔父の計らいで部屋へ届けられたギネスをちびちびやる前で、ブリジットは多種の果実が沈む〈ピムズ〉を機嫌良くキュウリで混ぜている。作る手間もあるし、俺はどうにも苦手な一杯だ。

 目下、リチャード・クラプトンが第二子は悩んでいた。ブリジットの精神状態とか、ちんちんがおっきしないからではない。当ホテルで中の上の等級に位置する、八二二号室の調度品についてだ。くそ、恨むぞパトリック。

「何でダブルにするかなあ……」

 アルコールが混じった鼻息が空しい。部屋を覗いて初めて事態に気付いたところで、俺は膝から崩れ落ちた。応接間と言われても遜色ない装飾が施された室内、真紅のカーペットが敷き詰められた寝室には、新婚旅行で数々のアベックが使ったと思われる豪奢なダブルベッドが鎮座していた。祈りを込めて手探りするも、左右に分割する機能はない。ちくしょう、おじきめ!脂汗が生じる傍から、相部屋の君が頬を赤らめて上着の裾をつまんでくる。止せ、何を企んでいやがる。

 ブリジットとの肉体的接触による痛みが薄れてきたとはいえ、やはりこの心身は継ぎ接ぎでようやく保たれている。左様な行為は時期尚早であるというのが臆病な自身の見解であったが、どうも利口なお手伝いさんは対抗勢力に属している。

「俺はロビーのソファで寝るから、お前さんは……」

「怒りますよ?」

 飛び切りの笑顔で言い放つのだから、こいつは厄介だ。時刻は二二時。昼からぶっ続けで働いて疲労が溜まっているし、明日も訓練予定がみっちり詰まっている。願わくば柔らかいベッドで横になりたいが、そうなると肉体の回復に反比例して心労が募る。まさか、ブリジットを部屋から追い出す悪逆もあるまい。

 参ったとばかりに後頭部を掻くと、皮脂が爪の間にたっぷり侵入する。胸元の臭気は、動物園を想起させる。それに、血の臭いがまだきつい。

「お風呂に入っては如何ですか?」

 台詞が他意を含んでいる気配がするのは、おじさんが疲れているからだと思いたい。備え付けのバスルームに足を向けると、当然の如くブリジットが後を尾ける。如何なるつもりか問えば、「お背中を流しします」とほざきやがる。断ろうにも、嬉々と瞳を輝かせる娘さんを前に、無碍に拒絶するのもはばかられた。命運尽きたと諦め、脱ぎ終えるまで外で待つ様に命じ、その扉を閉めた。

 数分後の、黒い大理石張りのバスルーム。股間にタオルを巻き樹脂の椅子に掛ける主人の身を、非番のメイドさんが洗う図が展開されていた。袖と裾を捲った彼女の手には、ボディソープを贅沢に含むスポンジが握られている。磨き上げられた姿見に傷跡だらけの男と、そいつに甲斐甲斐しく尽くす物好きが映り込む。理解に苦しむが、いやに楽しげである。かく言う俺も初めは渋っていたが、為すがままの内にゆったりとした心地良さに警戒を解き、満更でもなく脱力していた。

「痒いところはございませんか?」

 健常な変態であれば「おちんぽ!」とでも返す場面であろうが、そこは不肖ヒルバート、臆病が過ぎる鶏さんには為し得ぬ業である。もしブリジットが戯れに死にかけの息子様に触れようものなら、神経性ショックで即死する危険性さえある。苦し紛れに「襟首」と答えると、鏡の向こうの彼女はスポンジと絹の手で首と肩を撫ぜた。猫が喉許を愛撫されるのは、こんな具合なのだろう。泡に覆われた皮膚を、滑らかな手指が蹂躙する。母親が子供にするのと同じだが、性的な情欲を僅かばかりも催さないと豪語すれば虚言になる。何にせよ、父親の不始末でおちんちんは機能しないのだが。

 背中と腕を洗い終えると、ブリジットは前に回り込んで胸に着手する。……背中を流すんじゃあなかったか?顎の下で励む彼女は、時折皮膚に走る醜悪な切創や銃創をなぞっては、感慨深げに吐息を漏らす。その呼気が下腹部に掛かる度、珍妙な感覚に毛がざわめいた。

「くすぐったくありませんか?」

「少しね」

 こういった奉仕には慣れているのか、一切の抜かりもない。脛の毛を巻き込む事なく滑るスポンジが、息を呑む間に腰のタオルへ接近する。肝を冷やす思いであったが、その軌道はすぐにタオルの奥から外れた。いやはや、思慮深い娘である。調子の良い発言をしている裏で、踏み込んでいい領域をわきまえている。追撃の機会は逸しないが、決して深追いはしない。そんな小賢しさを察しておきながら、この不出来な男は彼女の提案ひとつ断れない。この甘さが、いつか我が身を殺す要因にならなければいいが。

 器用に乳首等の粘膜系を避けつつ、メイドさんは主人の身を清めた。汗と血とが適温の湯で流されると、矢継ぎ早に頭髪へ陶磁の指が差し入れられる。毛穴に詰まった皮脂が湯でふやかされ、水気を帯びた毛髪が目に掛かる。額に触れる柔らかな手が、陰気な前髪を掬った。

「ほうら、色男」

「下手な嘘だ」

 気恥ずかしさに顔面の筋肉を動かしていると、手で温められたシャンプーが頭頂部に置かれて泡立つ。もしゃもしゃと巧みな力加減で頭皮を指の腹で掻かれ、思わず息が漏れた。それに気を良くしたのか、ブリジットは鼻歌混じりに語り出した。

「ねえ、ヒルバート様。貴方をお慕いする理由なんですけど、本当は凄く不純な理由があるんです」

「へえ……」

 揺り籠に放り込まれたみたいに、丸っきり気の抜けた相槌を打った。

「でも、この先自分の心に押し止めておくのはちょっと辛いので、今言っちゃいます」

「そうかい?」

 夢見心地を幾らか割いて、少し真剣みを帯びたブリジットの言葉に受け答える。あー、駄目だ。癖になりそう。

「例えばそう……私にとっての普通の人は、パズルの間違ったピースを無理矢理にはめ込む様なものなんです。ピース自体は決して歪んではいないけど、パズルの枠がそれを受け入れない。拒むばかりで、許容の素振りも見せない。そういう頑固なのが私です」

 湿度の高い個室に、泡だらけの頭を揉む音だけが聞こえる。鏡には、神妙な面持ちのブリジットが映っている。口を挟もうとも考えたが、彼女はまだ何か言いたげだった。

「若輩者が何をと思われるでしょうけど、そんな方々に私の心情なんて理解されないでしょうしね」

 本題に中々入らない彼女の口振りに、肝要を窺い知れない。脳から煙を出す直前の雇用主を気遣ってか、ブリジットは簡潔な結果を示してくれた。

「つまり、歪んだパズルはそれに合わせて歪なピースしか受け入れられないんです。私と同じく、人生の線路から脱線した人。私が思慕を寄せるとしたら、その人しかいないでしょうね」

 はにかみつつ、悪戯っぽく鼻を鳴らす。「お前は歪んでなんかいない」そう無責任に言い放てない辺り、やはり臆病風に吹かれている。

「すぐに見付かるといいな」

「あら、随分な物言い」

 口先を尖らせてはいるが、何処か愉しげな口調だ。端からこちらが断固たる拒絶を示さないと、予知していたらしい。

「俺ってそんなに普通じゃない?」

「普通だと思われていたんですか?」

 酷い娘!形式上とはいえ、お前さんの主人だぞ。もっとも、その関係を否定したのは他ならぬ自分であるし、下らない垣根を踏み倒して冗談の一つを飛ばしてくれるのだから、こんな僥倖はないが。

 「流しますよ」の合図で目を閉じ、脂ぎった泡が排水溝に吸われゆく音が密室に満ちる。シャンプーを流し終えるとブリジットはバスルームを退出し、俺は股間を洗った。ややもすると、お前さんが復活させられる日もあるのかもな。鏡の中でぐったりする分身に、皮肉めいた笑みを向けてやった。

 身体を拭い、下着の上に備え付けのバスローブを羽織る。スイートでもなければ、その質はさほどよろしくない。部屋に戻ると、ブリジットが小説から顔を上げてこちらを見やる。あの子が先程まで自分の身を清めていた現実を思い返すと、中々に迫るものがある。あの白く繊細な工芸品が触れてきた事実に、小さからぬ罪の意識が生す。しかも書類上とはいえ、あれが俺の所有物というから尚更に気を揉む。小説に栞を挟んで閉じると、ブリジットは自分も汗を流すと告げ、脱衣所へ足を運んだ。何だろう、おじさんもやもやしてきたぞ。

 革張りのソファに尻を沈め、持参したミリタリー情報誌を上の空で広げて十五分。シャワーの音が止み、程なくして大きめのバスローブを纏ったブリジットが脱衣所から出てきた。砂色の髪は水気を帯びて輝きを増し、何処か色香を放っている。胸許から覗く細い鎖骨は、彼女の言葉とは裏腹に歪んでなどおらず、美麗な渓谷を描く。端的に言ってしまえば、綺麗の一言に尽きる。

「明日は何時に起きられるご予定で?」

「十時にはホテルを出るよ」

 声が少々上ずったのは、あながち聞き違いでもないかもしれない。そりゃあそうだ、性欲が失せた訳ではないのだから。ブリジットが隣に腰を下ろすと、濡れ髪からラベンダーの匂いが漂う。自宅と違う、ホテルの備品のせいだ。

「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」

 大腿部に、しっとりと潤った手が添えられる。前屈みに肉薄され、蠱惑的な上目遣いが向けられる。

「……何?」

 胃の奥からこみ上げる戦慄におののきつつ、深い色合いの瞳を真っ向から見据えた。何処までも落ち込んでいきそうな蒼い虹彩、まるでフランス人形だ。前傾姿勢になった事で、ブラをしているとはいえ、その胸が僅かにはだける。ほのかに上気した肌色が劣情を誘うが、同時に不能な自己に血涙する歯痒さだ。

「ヒルバート様は私の事をどうお思いで……?」

 華奢な指が顎に這わされ、色素の死んだ傷跡をなぞられる。やけに甘えた弁口は男心を小刻みに揺らし、諸々の針が振り切れる。

「ブリジット君、君の意志を踏まえた上で申し上げたいんだが、こういうのは人生で大変に重要な事柄だ。もっと熟考すべきでは……」

「その時間は既に設けた筈です」

 何てこった、目が据わっていやがる。どうやらアルコールの勢いでもないらしい。

「どんなお返事でも構いません。お聞かせ願えませんか?」

 かすかに潤んだ瞳に、身動きが取れなくなった。いかんな。これが演技か定かではないが、こんなのを前に虚偽を吐ける生き方はしていない。まだ温かい、ブリジットの髪に触れる。そろそろ万策も尽きた。どうせ金目の物なぞない身だ、不用心な開城も悪くはない。

「歪んだピースねえ……」

 小さな耳の裏を掻いてやると、くすぐったげに目を細める。この子となら、変われるだろうか。抱いたばかりの一抹の希望に、如何程の効能が込められているかは知る由もない。だけど、もう考えるのはたくさんだ。

「上手くやっていけるかな?」

「案外何とかなると思いますよ。結構いいカップルじゃないですか?」

 カップルねえ……。阿呆っぽい響きに、底知れぬこそばゆさを感じた。だがまあ、彼女も俺もここまで来てしまったのだ。行きつく場所まで彷徨ってみるのも面白いやもである。それで決断する辺り、やはりやきが回ったのだろう。前頭葉の回路が、色恋とやらの発する正体不明の熱線で焼き切れてしまったのだ。

「率直に言うと、俺はブリジットに惚れてるよ」

 眼下の少女は黙って次の語句を待っている。

「……最初は生活がどうなるかと苦悩していたけど、こうやって一緒に馬鹿をやってくれるし、元の荒んだ日々に戻れる気がしない。何と言うべきか、自分が無意識に欲していた暮らしが得られたみたいなんだ」

 手をそっと頭頂部に運び、穏やかに撫ぜる。甘酸っぱい芳香が立ち昇り、自分が落ちるところまで達したのを確信した。

「うちに来てくれてありがとう。これからもよろしく」

 恋人となった少女は微笑み、緩やかに唇を重ねてきた。一切合財を吐露し合ったのだ、今更拒む理由は見付からない。

 細かに揺れる長い睫毛と、桜色で形の良い口唇。本当は緊張している証拠に、弱々しい鼻息。全てが興奮と歓喜に直結する。柔らかな唇を擦り合わせる事で、無上の慕情が芽生える。どちらともなく顔を離せば、シャワーで生じたものではない熱に浮かされていた。

「ベッドへ行きましょうか」

「それ、男の台詞だよ」

 苦笑するブリジットに手を引かれてダブルベッドへ導かれ、身を横たえる。直後にブリジットも布団に潜り込み、硬い胸に顔を埋めてきた。自惚れになるやもしれないが、この子は随分前からこうしたかったのではなかろうか。いやあ、罪作りなもんだ。

「言っておくけど、いやらしい事はなしだからな」

「ちょっと残念です」

 本当にそう思ってくれているらしく、ブリジットは眉根を寄せて不平を垂れる。とうとう主従関係を超えたこの晩、二人で夜が更けるまで語り合った。失った時間の、払い戻しが始まった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る