奴隷邂逅【5】



【11】


 ごろつきのだらけのヘリフォードでは、自動車の制限速度の非遵守が規則である。冬眠明けの熊もかくや、ローカルルールぶっち切りの鈍足BMWは、さぞ異質に映るだろう。責めてくれるな、考える時間を一秒でも長く取りたいのだ。

 ようやくで帰り着いた自宅のドアノブに手を掛けると、唇が自然ときつく結ばれた。今後に期待しない道理はないが、諸々の緊張から自由でいられる図太さは持っちゃいない。「ただいま」の一言を発し、その響きが余りに不自然で嫌になる。習慣として登録されていない行動は、そう容易く真似出来るものではない。課された鍛錬を積まずして、特殊部隊を名乗る事は叶わない。たかだか帰宅の報告と照らし合わせる代物でもないが。

 異国の呪文から程なくして、実用一辺倒に近いエプロンドレスのブリジットが、小走りに出迎えてくれる。その所作に、一瞬でも夫婦とかいう単語を妄想した自分が恥ずかしい。彼女はさも当然という具合に鞄を預かり、可愛げのないジャケットをワードローブへと運んでゆく。余りに人臭くない仕草の何処にも違和感を覚えられず、良い意味での生臭さを取り戻して貰いたかった。

 リビングの中央に物干しが鎮座し、その隣でフルパワーの除湿器が熱唱していた。ここ数日は洗濯をしていなかったので、ポールがたわむ程の過積載だ。洗濯物全てに小皺ひとつなく、さながらサハラ砂漠の如く平滑に整えられている。うわっ、俺の下着まであるじゃないか。二十歳にも達さぬ少女に、ちんこの悪臭が染みた布切れを洗わせちまったのか!どうにもいたたまれず、申し訳ない気分である。しかも、同居人の所有物であるに違いない、白い三角が寄り添っている。おい、いいのかこれ。

 キッチンでは、何やら黄金色のスープで満たされた鍋がくつくつと音を立て、家中に芳香が漂っている。どうやら冷蔵庫に余っていた、腐る寸前のジャガイモとベーコンをぶち込み、ブイヨンを加えてコンソメで煮詰めたものらしい。夕食時には、食材に程良く味が染み込んでくれているだろう。つまみ食いは慎むべきと、ついレードルに伸ばしかけた右手を制した。

 鍋の前で垂涎していると、隣で食器を洗うブリジットがおずおずと尋ねてくる。「お風呂を沸かしましょうか?」基本的にシャワーで済ませいるし、何よりバスタブに赤カビが沸いていたので要らないと断った。それにしても女の子に入浴を勧められるとは、心中穏やかでない。すんごく宜しくない。

 心拍も乱れたままに、バスルームへ踏み入った瞬間だった。世界が爛々と煌めいていた。密室に鏡が研磨でも受けた様に輝き、悪臭と嫌悪を生していたカビが根こそぎ抹殺されていた。自分が家を空けていた間に、対NBC(核・生物・化学)部隊でも招いたのか。底知れぬブリジットの要領に、新たな汗が生じた。

 シャワーを終えてからも発見は多かった。床を舞っていた綿埃が失踪し、天井に巣くっていた蜘蛛が引っ越していた。下駄箱の隅に打ち捨てられた革靴は磨かれ、キッチンの水垢が撃滅されている。雇ったメイドの手腕に畏怖を覚える一方、己が自堕落な生活を噛み締めた。大人とは何か!

 さて、自身が人並み外れて人間臭いろくでなしなのを再認識させられたが、自然と意識がブリジットへ向く。瞳が死んだ魚よろしく底暗く曇り切って、生への執着を感じられない。感情の発露は見られるが、何れも自嘲めいて暗澹としている。外部から心の傷が見えているのに、それが辛いとは言えずにいるのが明け透けだ。今日明日に死ぬと宣告されても、さして取り乱しもせずに受け止めてしまう諦観が漂う。モールのお立ち台の上に座り込んでいた時の、自身への無関心の正体がそれだ。境遇に不満はごまんとあるが、打開する道筋は単身で拓くに険し過ぎる。抵抗の意図がくじかれ、感情の欠落が生じた。それでも最後に残った人間性が、断崖に片手でぶら下がっているのだ。煩雑な思考回路を有する霊長類、その頂点に立つ人間が故に持ち得てしまった苦悩だ。

 親に売られた事実から周囲に対する依存を失い、疑心暗鬼に陥って自らの殻に籠もる。心の内から外部へ絞り出した救難信号は、皮肉にも自身で作った殻に阻まれ戻ってくる。彼女から助けを呼ぶ事は出来ない。博打も覚悟で、こちらから歩み寄るしかないのだ。

「先が見えないよ……」

 キッチンでスープの様子を見るブリジットを視界の端に、額を押さえてごちた。繊細かつ危険な作業になる。ガラス細工を相手にしているみたいだ。ライフルを担いで駆け回るのが専門なのに、爆発物の相手を命じられている。


 夕食時、テーブルを挟んでブリジットとスープを啜っていると、不思議な充実感があった。今まで宅配の中華やインスタント食品で済ませていたのも原因としてあるが、人の手がまともに加えられている食事はありがたい。何より味がいいのが嬉しい。勝手に調味料でも加えたら、失礼に当たる完成度であった。

 食後の片付けに動けば、やはりと言うべきか、勤務初日のメイドさんが慌てて止めにくる。見苦しく食い下がれば、彼女の仕事がなくなってしまうと血相を変える。落涙しそうになるのを、唇を結んで耐え忍んだ。可哀想なやつ。口惜しくも現時点で彼女の個人的な領域に踏み込む術はなく、哀れなメイドは無言で食器を洗い始めた。掌に、深爪気味の指が食い込む。


 とかく我々は肉体を酷使する業種である為、眠れる時は眠っておくのが原則である。この戒律を遵守しない不良兵士というのが、大別して二種類いる。一つは、夜遊びに寝床を抜け出す者。もう一つは、悪夢から目を背けているやつらだ。後者は、実戦を経験した兵士に多く見られる。戦場で逸した空気に当てられた連中が、外傷の有無にかかわらず後遺症を持ち帰る。『シェルショック』や『湾岸戦争症候群』は、一般にも悪名高い。

 大概の兵士のトラウマは、至近距離における敵の殺傷・昼夜を問わぬ砲弾の炸裂・ホルモンの異常分泌による、既存の価値観の崩壊で引き起こされる。患者本人にすれば深刻だが、前例が多い故に研究も進んでいる。だのに、戦場の外で患った心的外傷のマニュアルは、未だ存在しない。それが俺の病巣だ。

 自身の殻に籠もったトラウマ持ちが行き着く先は、総じて極度の飲酒と決まっている。周囲が気に掛けても拒絶するのみで、瞳には酒瓶と悪夢のみが映り込む。この手の輩への対応は辛抱強い甘噛みが大事なのだが、兵隊は精神科医ではない。自分の家庭に支障をきたすまで、いじけた野郎の面倒は見られない。こちとら三十路前のおじんだし、そろそろ立ち直る潮時か。私情から食い扶持が増えた事もあり、飲酒量は減じるべきだろう。大量の酒類が地下室に貯蔵されているが、そう簡単に腐るものでもない。

 と、頭で自制を課しつつ酒瓶を取りに立ち上がるのと同時、目前にそっと紅茶のカップが置かれた。「食後の紅茶は不要でしたか?」下がり眉を伴った微笑みで訊かれては、要らないとは返せまい。ひん曲がった笑顔で礼を言って一口啜ると、どうやらラムが混じっている様だ。SAS隊員はよく紅茶にラムを垂らす。彼女がご存じとは思えないので単なる偶然だろうが、ともかくこの配慮は悪くない。夏の到着が遅れるイギリスの夜を過ごすのに、適度なアルコールは丁度いい。腹は膨れていたが、躊躇いなく二杯目を頼んでいた。



【12】


 サプレッサー(減音器)を銃身に捻じ込んだ〈コルトカナダ〉C8カービンを目線に構え、モルタル造りの廊下を進んでいた。カビの臭気が漂う屋内を、如何なる理由で忍んでいるのか――仔細には知れないが、何者かを殺害する目的とだけは把握していた。

 支援要員はおらず、単独での進行であった。抗弾プレートを挿入した戦闘ベストに銃の床尾がが食い込み、グリップを握る腕に力が籠もる。目先で等倍率の光学照準器が稼働し、肉食獣の眼球の如きライトが行く先を照らす。いつでも発砲可能だ。

 ライトの光芒が揺らめく廊下の先に、古びた木製のドアがはまっている。目標がその先にいると、直感が囁く。朽木の廊下を音なく移動し、錠の位置にV字型に成型された導爆線を貼り付けた。指向性の爆風で、ドアノブごと錠を切断する寸法だ。導爆線の端を手持ちの起爆スイッチに接続し、炸裂の閃光から目を庇って握り込む。聴覚を麻痺させる爆轟を伴い、ドアノブの周囲がくり抜かれる様に吹き飛ぶ。爆発に乗じて室内へ突入し、照準器を覗く。中央に鎮座する書斎机の向こう、自動小銃――カラシニコフを手にした黒いセーターの女が振り向く。こちらへ銃口をもたげる寸前だった。親指でセイフティを弾き、赤く輝く光源を女に重ねた。くぐもった破裂音が四つ。一発目は鳩尾、次が右胸、残りが頸に命中した。女が銃を取り落とし、弾かれる様に背中から倒れ込む。頸の大穴から静脈血を零し、四肢の痙攣を起こした。

 毛の詰まった排水口に似た音を発する対象に接近し、止めを頭部に見舞うおうと白光を浴びせる。その顔に、見憶えがあった。――忘れられるものか。未来を奪われた相手だ。

 仕事を忘れて逡巡する臀部を、何者かが小突いた。反射的に銃口を向けた先、いつからそこにいたのか、五歳ほどの男児が立ち尽くしている。感情の抜けた双眸が、血の海に沈む母親へ向いている。黒目がちな瞳が、機械的な動作でこちらを見上げる。照準が震える。夜毎襲い来る怪物に、歯を打ち鳴らして涙した。この子供とて、記憶から消し去れる存在ではない。小童の血色が途端に悪くなり、肌が土気色へ変じた。人が死に瀕した時の常だ。そいつは血涙を流し、無邪気に尋ねてくる。「どうして殺したの?」仕方がなかった。ああするしかなかった。あの日、あの場所。お前らが俺の前に現れた。非がそちらにあるのに、何だって俺ばかり責めるんだ。

 餓鬼の額に銃口を突き付ける。「また殺すの」黙ってろ。か細い襟首を掴み上げ、漆喰の壁に叩き付ける。お前らなんかに何が分かる。前も後ろも塞がれたこっちの事情を知らず、何も理解しようとせず、一方的に俺を悪者にしたお前らに、俺を狂わせる権利なぞ欠片もないのに。そうとも、俺は貴様らを、それはもう惨たらしく殺した。文句があるなら、あの時どうすればよかったのか、今からでも教えてくれよ――。


 強烈な三半規管の異常に、脂ぎった目蓋を開いた。ほの暗いリビングと、狼狽した面持ちのメイドが視界を彩る。恒例で全身は汗ばみ、鼻筋を塩の河が流れる。乱れた呼吸に胸が上下し、不快感が胃を握り締めていた。

 悪夢は毎度、多様な姿を取って眠りを脅かす。夢の中で俺は彼らを幾度も殺し、その数だけ罪悪感と自己嫌悪を抱え込んできた。不慮の事故、小さな齟齬が故の偶然と暗示しても、そうおめでたい脳味噌でもなかった。

 当月に入って最悪の目覚めに内心舌打ちしつつ、揺り起こしてくれたブリジットに礼を言い、寝間着まで染みた汗を流しにバスルームへと向かった。アイボリーの正装に身を包んだ彼女が、昨日よりは動揺していない風なのが幸いだ。

 二日、それも続けてだ。二度もあの子に傷口の一端を晒してしまった。バスルームの磨かれた壁に、肘を突いてうな垂れる。如何ほどの鈍感でも、何かしら気付くだろう。第一、あれが勘の鈍い女とは思えない。既に精神に疾患を抱えた事実を掴んでいる可能性は濃厚だ。この生活もまだ三日目だというのに、どれだけ負債を重ねるつもりか。

 毛質の固い髪を拭いつつリビングへ戻ると、さも当然と朝食が用意されていた。昨晩の残りのスープに、マッシュドポテトのサラダと目玉焼き、トーストという献立だ。テーブルに着くと、それを見届けてからブリジットも席に着く。彼女は料理に手を着ける前に、食材が不足してきた旨を上申した。以前ならあと二、三日は余裕があったが、人ふたりが腸でうんこを作り続けるには在庫が足りない。我々がうんこの生産を継続するのに、原材料の確保が急務という訳だ。うんこは大事だからな。

 そういった理由で終業次第、一緒に買い出しへ繰り出す予定に落ち着いた。特別事を急いてはいないが、一般的な日常の積み重ねで彼女との距離を縮められればと、一種の謀略に近い算段があった。俺とて、馬鹿ながらに懊悩しているのだ。


 厄介事というのは、望まぬ折にこそ襲来するのが定石である。玩具の積み過ぎで重たいBMWを職場の車庫へ突っ込み、そこから連隊の『内勤』が始まる。食堂ではショーンが、カロリー重視のロールケーキを腹へ押し込んでいる。控え室で表紙のよれた雑誌を広げるジェロームにヴェストの所在を尋ねると、銃身を交換したばかりのカービンを屋内射撃場でぶっ放していると言う。各々が自由な交通手段で出勤し、食ったり煙草を吹かしたり勝手にやる。そうして八時前には、談話室でその日の訓練について議論する。これぞ英国陸軍第二二SAS連隊の朝だ。もっともここ数年、俺はそれにさえ従えぬアウトローであったが。

 いざ八時になると、談話室が隊員でごった返してくる。煙草と火薬の臭いの染み付いた男達が、口々に訓練予定について意見をぶつけ合う。希望は議長なしにキリングハウスでの人質救出訓練へ収束し、小柄で足の速いスタンが施設借用の手配に走った。彼が戻るまで、残った者はやかましくくっちゃべる。三十秒も経たぬ内に帰ってきたスタンは、不服の念を全身から発していた。

「ブルー・チームの先約が入ってやがった」

 その一言で事情を察すると、我々は射撃場へと足早に向かった。ブルー・チーム――我々はレッド・チームに属しており、この二つで対テロリスト・チームを構成している――がキリングハウスを午前中貸し切るので、その間の我々は射撃場で穴開けに没頭しなければならない。それが面白くないとは言わないが、やはりキリングハウスで怒鳴って駆けずり回る方が、鍛錬を積んでいる実感がある。開けた明るい空間で金玉チックにぶらぶらする板切れを追うのとでは、興奮が段違いだ。

 手の痺れを歯牙にも掛けず三時間ほどMP5やP226を撃っていると、緊張した面持ちの中隊付准尉――名をティモシーという――が、クラプトン少尉(次男)の射撃ブースを訪れた。ここ数年、この男の伝令内容で好ましかった事例はない。引きも切らず跳ね回る発砲音の最中でおっかなびっくりイヤーマフを外すと、彼はこの環境でも通る声量で告げた。

「首都で銀行強盗だ。すぐにチームを作戦室に集めてくれ」

 仕事の話が転がり込んだ事で、脳の回転率が飛躍的に上がった。すぐに射撃場の同僚を呼集すると、周囲が一気に活気立った。仕事とは取りも直さず実戦であり、己が技巧を発揮する場である。歴戦の猛者から現場経験のない若造までが、三々五々の表情で作戦室へと流れていった。

 味気ない廊下を進む道すがら、不意に疑念がよぎった。慢心が命取りなのは重々承知だ。だが、英国屈指の特殊部隊が支店規模の銀行強盗に召喚されるとは何事か。寄り始めた眉根を揉み解す。兵士が不要な深読みなどするなかれ、そいつはお上の仕事だ。貴重な糖分を燃やして下らない脳内会議を開く前に、驕った増長を捨てろと念じた。

 作戦室には既に機動小隊――一個戦闘中隊は舟艇・航空・機動・山岳の特技小隊で構成される――の面々が集っていた。整列したパイプ椅子の最前列に座ると同時に、先の中隊付准尉が資料群を脇に入室する。演壇に立ち、咳払いをして書類に目を落とし、部屋の証明を切った。備え付けのスクリーンに、プロジェクターが像を投射する。「急な召集ですまない」と、彩りバジルとパセリみたいな謝罪が切り出しの合図だった。

「現場は首都近郊の個人銀行、発生時刻は一一〇七時だ。犯行グループは男女七名で、自動小銃での武装が確認されている。銀行員と当時の利用客、そして警備員の計二二名が人質に取られている。目下、警察が当該施設を包囲して交渉を試みているが、強盗犯は錯乱状態にあり、一触即発の状況だ。

 諸君らは現地で待機し、要請があれば犯行グループの無力化、並びに人質の救出を行う。可能な限り逮捕の形式を取るが、人質の安全が最優先事項だ。質問のある者は?」

 兵隊は微動だにせず、次の語を待った。

「結構。犯行グループは使用済み紙幣で五百万ポンドと、安全な逃走経路を要求している。条件が呑まれない場合は一五〇〇時以降、三十分毎に人質を一人ずつ殺害するとの宣言があった」

 銀行を襲撃しておきながら金を要求するとは、随分な欲しがりである。おおよそ、市内の銀行には大した額の保管がない現実を、金庫を開けてから知ったというオチだろう。間抜けなやつ。

「司令本部は既に現地へ向かっている。君らは装備を整え次第出立、現地で次の指示を待つ。以上だ」

 中隊付准尉が言葉を切るなり、動きは速かった。兵隊が席を立って、一斉に装備を取りに駆ける。車庫では積み荷の用意に、火器係や兵站係軍曹がせわしなく指示を出していた。

 自分の荷造りをしつつ彼らの作業へ横目をやると、目を疑う事態が起きていた。矢継ぎ早に車輌へ積まれるのは旧式のMP5ではなく、新型のMP7が収まるケースだ。MP5は欧州で主流の九ミリ拳銃弾を使用する、高精度のドイツ製のサブマシンガンである。しかして、昨今の犯罪集団は抗弾ベスト等を着込んでいる事例が多く、拳銃弾の性能では無力化に至らない不運がままある。対してMP7は同じく〈ヘッケラー&コッホ〉製だが、ライフル弾に追随する貫通力を備えた弾頭を使用する。有効射程こそライフルに遠く及ばないが、CQB(近接戦闘)を念頭に置いた場合は非常に頼もしい。サイズはMP5よりもコンパクトで、しかもサプレッサーを装着した場合は特殊仕様のMP5より減音率が高く、そして反動も小さい。これぞ真に強襲部隊に適った銃である。唯一の欠点は専用の四・六×三十ミリ弾を使用するが故に弾薬代がかさばるのだが、現場連中の知るところではない。

 左様な高級品を、例に漏れず財政難に苦しむイギリス陸軍が――盟友アメリカと傭兵国家スイスは別だが――最新秘密兵器にゴーサインを出すのだ。何らかの目論見が働いているのは想像に難くない。本件には、上層部と情報機関が一枚噛んでいる。


 夜逃げみたいな物資を積んだレンジローバーに率いられ、戦闘集団を満載したマイクロバス二台がエンジンを掛けた。出発前に、ブリジットへ本日中に戻れない可能性の連絡を入れ、夕飯は出前を取る様に告げた。「お気を付けて」とだけ彼女は応じ、後は何の詮索もなかった。守秘義務まみれの特殊部隊の都合を理解してか、或いは単に関心がないだけか。私用の携帯の電源を切る寸前、もの悲しさが肺の底辺りを吹き抜けた。

 バスの座席で弁当のサンドウィッチに齧り付いて、それを平らげるのと一緒にエンジンが始動した。紙袋で口許を拭い、点眼液を注す。形を取らない疑念が、いやにしつこくつきまとっている。恐らく精神的な疲労のせいだ。長い移動時間を貴重な睡眠に費やすべく、念を入れて睡眠薬を半錠噛み砕く。参ってはいるが自分は絶対の実力を有する兵士だと念じ、そっと目蓋を下ろした。



 物置同然の地下室が、当時の俺に与えられた唯一の寝床であった。部屋の一角にレーキや錆の浮いた芝刈り機が墓場を作り、採光窓の真下でベッドがカビを生している。照明には裸電球ただ一つが吊り下がる。暖房器具は調子が悪く、冬場は指を口に含んでの作業が続いた。

 そこへ押し込まれて何年だったか。それさえ曖昧であったが、申し付けられた仕事をこなす限りは、食いっぱぐれる危険はなかった。養親代わりの雇用主は鼻持ちならない下衆だが、扶養を受ける身分では逆らう気も失せる。その頃はただ、生き延びる事だけに腐心していた。

 ほの暗い作業台で道具の手入れをしていると、不意に地下室の木戸が開かれる。食事の時間には早い。朽ちかけた木の階段を踏み鳴らし、体重百キロは下らないであろう、顔中に不潔な髭を生した中年がこちらを一瞥し、忌避感を催す口臭を撒いた。

「乗用車、二つだ」

 それだけ告げると、男は地下を後にする。俺は黙して汗と煤の染みた作業着を羽織り、皮手袋をはめた。道具箱の蓋を跳ね上げると、彩り豊かな細い紐やボルト、古びた鉄釘やらが所狭しと詰まっている。こいつらは単なる添加剤だ。底の大部分は、ビニールで個包装された粘土で占められている。小振りのナイフを右手に、粘土の塊を一つ作業台に乗せる。緻密に必要分を量ってから、すうと刃を落とし込んだ。

 道具は良い。使い方ひとつで、全く異なる顔を見せてくれる。ナイフで物が切れない場合、それは大概が用法に基づく失態からもたらされる。正しく接してやれば、これ程に心強い手足は存在しない。彼らは人間と違い、絶対に裏切らない。

 細い銅の束が収まる紐を適度な長さに断ち、半田ごてで溶接する。換気扇がないので、埃の焼ける臭いや鉛の有毒ガスが鼻腔をつく。対象が自動車とくれば、エンジンか燃料タンクが標的だ。幸い余剰空間は幾らでもあるので、俺の子供を隠す場所に困らない。「最低限の規模で、最大の成果を」何も持ち得ぬ男の子へあの男が授けた、たった一つのお言葉だ。

 使い込んだニッパーが、白い導線をぱちんと切断する。暗闇に音が吸い込まれたのを境に、視界が遠のいていった。



 薄いまどろみの中、マイクロバスのエンジンが止まった。脂の浮いた目蓋を擦って窓を覗くと、我々より先に基地を出発したブラックホーク・ヘリコプター二機が、彼方のヘリパッドで翼を休めている。ご苦労さん、うちの親父は重かっただろう?

 職務の前に休養を摂るつもりが、不出来な脳味噌が祟って要らぬ疲労を負ってしまった。とり殺される悪夢でないだけ、救いはあるかしら。はつらつとした仲間に混じり、手摺りを頼りに一歩ずつバスを降りる。くそ、手指も満足に扱えない。

 時刻は十五時過ぎであった。我々の車輌群は、現場から五百メーター離れた公園に駐まっている。立ち入り禁止のテープが敷地を包囲、一定の間隔で蛍光イエローのジャケットを羽織ったスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)警官が配置されている。そこかしこを制服姿が走り回り、諸々の手配に追われていた。

 滞った血流を正す為にバスの付近で足踏みしていると、傷ひとつないMP5を肩から吊る、頬のこけた女性警官が我々の誘導にやってきた。いい体格をした野郎の集団が、細身な彼女の後ろを着いていく。案内された待機所は十を越える数のポータキャビン(分解して運搬可能な家屋)で、他より大きい一棟が中隊長――つまるところの親父だ――や情報班が詰め掛ける、前方作戦基地(FOB)を兼ねた司令本部となっている。隣の棟では交渉人が受話器を片手に額に皺を寄せ、警察の人間が絶え間なく出入りしている。どの棟も灰色で、物流コンテナみたいに平坦で退屈な容姿をしている。入り口のすぐ近くでは、発電機が肺炎患者みたいな駆動音を撒いていた。

 SASの待機所にあてがわれた棟に個人の荷物を置き、半ば寝不足の頭脳を叩き起こす。まずは上着にIDカードを留め、無関係者としてしょっぴかれる確率を潰した。小隊長として司令本部の戸を叩くと、内部では先発のヘリで到着した情報班がラップトップと睨み合っている。あれには古今東西の建築物の資料が収められており、突入計画の立案を効率化してくれる。たかが情報と侮るなかれ。窓枠の材質ひとつが、強襲計画の成否を左右する。木製と見ていたドアが、いざ斧で叩くと火花が散るやもしれない。素人からすれば、大金を浪費して好き勝手やっている風に見える。その実、緻密で地味な計算に基づいて行動しているのに。特殊部隊の使命は作戦を成功に導くのではなく、数あるリスクを回避して失敗から逃げ切る点にあるのだ。

 クラプトン少佐は、情報班員と銀行内部の監視映像を舐め回していた。自動小銃を手に、角刈りの男が苛立った様子で立哨に当たっている。言っては悪いが、動物園のサルとそう違わない。戸口の小隊長に気付くと、少佐は席を立ってこちらへ向かってくる。その表情が、どうも仕事の色ではない。

「話がある。外へ出よう」

「今でなきゃ駄目なのか?」

 親父は不穏な雰囲気のまま頷いた。こいつはぞっとしない。

 司令部の棟から二分ほど歩き、警官の目に留まらない辺りで親父が足を止める。苦々しくこちらへ向き直ると、曲がった煙草を咥えた。ジッポーの火が、その顔に影を落とす。

「……警察が全権を我々に委譲した場合、実働部隊からお前を外す。異論は認めない」

 いつもながらに突飛なお言葉であったが、此度はいつにもまして過激だ。暴力が能の身に、死ねと仰る。

「理由を訊く余地はあるのかな」

「いいだろう。どうせすぐ耳に入るだろうからな」

 親父は風下へ向けて紫煙を吐き、居心地悪げに何度も煙草を咥え直した。

「銀行強盗を決行したのは、この辺りの縫製工場が保有する奴隷の集団だ」

 その単語に、解析処理が遅延を起こした。瞬きも忘れて情報を噛み砕いたが、それでも実時間で十秒を要した。

「つまり、任務に支障をきたし得るから後方支援に回れと?」

 親父は深々と肯定し、ばつが悪そうに首をもたげた。

 少佐の判断はもっともである。第十七航空小隊の長が、他者と異なる価値観を奴隷に有しているのは事実だ。彼らに同情めいた感情など抱いていない、そう断言するのは難しい。実際に敵として対峙し、引き鉄を絞る指に躊躇いが生じない確証はなかった。

 舌下に溜まった唾液を飲み下した途端、額に脂汗が滲む。奴隷を撃つのに、まさかこうまで抵抗を呈するとは。掌が塩っ気のある水分でふやける。目に見えて冷静を欠いていた。

「補充要因にはニーナをあてがう。お前は情報班の補佐に回れ。どうせヴェスト辺りが着任するだろうが、ゆくゆくは中隊長の任を負うかもしれん。後方支援の経験も有用だと思うが……」

 ちゃらんぽらんな演算回路でも分かる。こんな精神状態で実行部隊に加わるなど不可能だ。たった一人の下らない事情で、隊全体を危険に晒す道理はない。そう、理屈では理解していた。

「不測の事態に備えて、装備の点検はしておけ。負傷者の出る可能性は否めないからな。ともかく、お前は本部に戻ってIA(緊急行動)計画の考案に立ち会え。いいな?」

 ここで了解の意思を示せば、万事が滞りなく進んでいただろう。だが、作戦の都合と無関係な場所で懸念が生じていた。この対テロリスト勤務に就く直前の遠征では――中東で要人の警護などを担っていた――我々を含め、各国の特殊部隊は多くの犠牲を出していた。帰国後に再編成された航空小隊はダニエルを始め、実戦童貞の新人で溢れ返った。元からいた兵士はちびのスタンを含めた数人と、俺の兄弟だけであった。そこに今回の一件である。出過ぎた老婆心と一蹴をされるだろうが、手塩に掛けて育てた愛弟子を放っておけないのが人心である。

 ――というのは建前だ。実際、この矮小な心中には私情しかない。目下の状況の打開に、躍起になっていたのだ。手段さえ定かではなかったが、本件への直接介入で自らの汚点と真っ向から直面すれば、糸口くらいは掴めるのではと考えていた。例えそれが、心を引き裂き得る荒療治だとしても。

「なあ親父、あんたの言い分は分かる。だけど、今回はどうしても参加したい。部下を育ててきたのは教官もそうだが、俺達だ。連隊は単なる同僚じゃない、そいつの命を預ける関係だ。こう言っちゃ何だが、新米連中はニーナをあんたのお茶汲みだと思ってるぜ?

 おまけに、実戦が初ってやつも多い。どいつもこいつも不安を抱えている。余計な懸念事項を増やさない方が、作戦の展開にも支障がない」

 親父は手を顎髭に唸り、半眼を向けてくる。具申を訝しんでいるらしく、少々肝を冷やした。今の彼は兄弟の父親である以前に、D中隊の責任者だ。この場で重要視すべきは息子の要望ではなく、隊の運用とリスクの試算である。駒といえど、無傷で帰ってくるのが望ましい。

 眉間に深い皺を刻み、殆ど吸わずに燃え尽きた煙草を携帯灰皿に収めると、絞り出す様に息を発する。二本目への着火もせず、困った風に肩をすくめた。

「それなら、俺からは以上だ。但し、お前の参加への所見が他からあった場合は別だ。即刻にお前をチームから外す。その時は諦めろ」

 最終確認に了解を示すと、やれやれと親父は司令本部へと戻っていった。手の掛かる息子を持つと苦労する。とはいえ、こちとら普段から振り回されているのだ。ちっとくらい煩わせたってばちは当たるまい。

 ほぼ無事に了承も得られたので、すぐに突入の事前準備に取り掛かった。司令本部にホワイトボードが置かれ、対象である銀行の外観、平面図、航空写真が掲示されている。その脇に数枚の顔写真と、細々とした指示を書き殴ったメモが留められている。不明瞭な顔写真の内二枚は犯人のものであり、一方は二十歳になるかならないかの女であった。こいつに銃口を向ける可能性があると考えると、胃が喘いだ。

 他は現時点で判明している人質のもので、何故か一人だけマーカーで赤く縁取られている。見るからにスラヴ系の顔立ちで、肥えた頬に手入れの行き届いた口髭をたたえている。直下に書かれていた文字列にはヴィクター……いや、ヴィクトル・アバカロフとあった。他の人質にも名前は振られていたが、アバカロフの写真は特別大きい上に複数枚の用意があった。うっわあ、きな臭いぞ。

 既に銀行の3DCG資料が出力されていたが、我々はもっと仔細な情報が欲しかった。つまり、肉眼に現場を収めたかった。狙撃チームを指揮するショーンが、銃のケースと通信機材を抱えていた。被服には、イギリスの標準迷彩であるDPMの上下を着ている。事件発生時点から警察の狙撃手が銀行の観測を続けているが、そろそろ交代させてやる頃合いだ。中隊付准尉に話を付け、ショーンとダニエル、他ふたりの狙撃要員を連れて公園を後にする。交渉人の働きで一五〇〇時の人質殺害は避けられていたが、やつらの気がいつ変わるか知れない。事は常に流動している。

 航空写真を参考に狙撃チームの三人を配置した後、ダニエルと一緒に銀行の周辺を練り歩いた。警察の規制線に包囲された銀行は、規模的には中程といったところだ。全体的に直線の多い建造物で、木製の玄関ドアは両開き。その左右に窓があり、二階も同様のレイアウトを取っている。玄関は南に面していて、西側にも窓が二枚ある。給水タンクの設置された屋根は平坦な作りで、アルミ製の手摺りが縁に設けられている。明かり取りは二箇所、窓には全て茶色のカーテンが引かれており、目視で内部を窺うのは不可能だ。周囲に取り立てて高い建造物はない。視界が開けているので、誰の目にも留まらずに車輌を走らせるのは困難だ。付近に停止車輌は見当たらない。風向きは安定しており、突風も吹いていない。裏口が北側の壁に設けられており、ゴミ置き場に直結している。ダニエルが大量の写真を撮って俺が要点を書き留めた末に、現場から退散した。

 本部に戻ると、ホワイトボードの情報が増えていた。犯人と人質の写真が増え、メモ書きが何枚か新しいものに交換されている。そこにダニエルの写真と俺のメモ書きが加えられて、ボードの余白は失われた。

 ホワイトボードの前に、隊員がロールケーキなど不味そうな得物を手に集まった。全員が掲示物に目を通して暗記する。詳細なブリーフィング(要旨説明)を行う頃合と判断し、中隊付准尉が人の海を分けてボード前に陣取った。

「人質の殺害は一時的に回避したが、未だ予断を許されない状況が続いている。犯行グループは次の殺害を一七〇〇時と予告した。

 狙撃チームからは現状、大した情報は入っていない。銀行内の監視カメラの映像から、犯行グループ側が相当に焦っている事が窺える。いつ何をしでかすか分からない。全員が拳銃か自動小銃で武装していて、手製の爆発物の存在も確認されている。

 人質は一階ロビー、二階の各部屋、地下金庫に分散して拘束されている。両腕をテープで巻かれているが、足は自由だ。現時点で命に関わる負傷者は見られない」

 そこまで言って、中隊付准尉は例の強調された中年の写真を指差した。

「我々にとって最も大事な救出対象がこのヴィクトル・アバカロフ――駐英ロシア大使館職員だ。彼はその……やんごとなき存在でな。ともかく彼の安全確保が最重要課題だ」

 居心地の悪そうな中隊付准尉の口ぶりで、ぴんと来た。恐らくはこのアバカロフ駐在員、イギリス側の諜報員である。そりゃあけちな銀行強盗如きで失うには惜しい駒だ!精度を重視してMP7を引っ張り出した理由に合点もいく。

 銀行の見取り図の一角――地下金庫に、青いマグネットが置かれる。それが、アバカロフの所在だ。大使館職員が駐在先で殺されたあれば、ロシア側とて良い顔をしないだろう。警察の特殊部隊が、二の足を踏んで突入したがらない訳だ。

「警察は既に本件の全権を我々へ委任した。今後、諸君らの任務は人質の救出――人質の救出へ移行する」

 作戦の目的というやつは、決まって二度繰り返される。その場の全員が酒場で見せる阿呆面を仕舞い込み、神妙な面持ちでホワイトボードを見据えていた。

「ブリーフィングは以上だ。スタン、IA計画を立ててくれ」

 それだけ伝えると、中隊付准尉は自分の持ち場へと戻った。代わってスタンがボード前に立ち――おい、踏み台が必要じゃないか?――作戦立案の指揮を執った。

「全員、建物の位置関係は把握したな。ヒル、近距離偵察の収穫は?」

 これが連隊の良いところだ。スタンは俺より年下で階級は軍曹だが、全く対等な立場で会話する。最前線において、階級差は無意味だ。腰巾着みたいにかしこまる必要もないし、意見があれば積極的に目上へ直訴可能な体制が敷かれている。

「銀行からの視界はかなり開けている。正面から接近するのは難しい」

 スタンはボールペンをクリックしながら考え込み、またすぐに口を開いた。

「ヘリでの接近は?」

「可能だ。邪魔になる建物はない」

 ダニエルが答え、ヘリの進入ルートの提案として、航空写真を指がなぞる。それが受け入れられ、計画は着々と組み上がった。

 完成したIA計画は無難なものになった。IAが発動したら、我々はヘリと車輌の二班に分かれて目標に接近する。ヘリが先立って屋根にロープで降下し、車輌はその後で建物の東側から接近する。降下部隊は明かり取りと二階の窓から、地上部隊は正面玄関と窓から突入する。降下部隊は二階、地上部隊は一階と地下の脅威を排除しつつ、人質の安全を確保する。負傷者が生じた場合は医療担当がその場所に駆け付け、応急処置を施す。安全が確認されればすぐに人質を屋外へ誘導し、一人ひとりの顔と名前を照合する。それが終わったら、我々の任務は終わりだ。

 IA計画の確認が終わると、我々は装備を身に着けた。難燃性の下着に真っ黒な戦闘服を着込み、その上から大量のポーチが付属したベストを身に着ける。この内には当然、セラミックの重い抗弾プレートが挿入されている。傍目からは、こんななりの人間が階段を跳ね上がるとは思わないだろう。

 次にまたもホワイトボード前に集結し、会談を再開した。先程に練ったのはあくまで緊急時の計画だ。これから話し合うのは、こちらの予定通りに救出作戦が展開される場合の『本計画』である。目標には大胆に突入するか、それとも隠密に時間を掛けて侵入すべきかなど、それぞれ議論を戦わせる。その最中にも絶えず情報が転がり込み、全犯人と人質ほぼ全員の出自が揃った。

 本計画が速度を重視した攻撃的なものに決定されると、我々は屋外で演習を行った。ロープを張って実寸の間取りを描き、その中を歩いて感覚を掴む。間取り図に人質の位置を書き込み、どの経路を用いれば人質に危害を加えずに犯人を無力化させられるかを考えた。

 二度目の刻限を過ぎても、犠牲者は出なかった。どうやら交渉人にやり手を雇ったらしい。順調に犯人グループの心身を疲弊させ、どうにか綻びを作り出そうとしている。これで向こうさんが勝手に降伏してくれれば文句はないのだが、素直に両手を後ろに回してくれるでもないらしい。相手が奴隷という事で、胃腸はずっと悲鳴を上げていた。絞られた雑巾みたいになっている。何とか鈍痛を治めようと、何杯も紅茶を飲み干していた。だが紅茶も万能ではないらしく、苦痛は継続した。


 陽が沈み星が瞬く時分になっても、現場に動きはなかった。相変わらず人質殺害の表明がされているが、声が完全に震えている始末である。ちくしょう、本当に我々が来る必要性はあったのか。甚だ疑問ではあったが、これも仕事である。退屈な座学より長い待ち時間に、警察に貰った湿気った菓子パンを喉へ押し込む。不意に、不味さから郷愁めいた感情が湧く。悲しいかな、否定の余地なくブリジットに餌付けされていた。

 我々は幾度も作戦に手を加え、新鮮な情報を加味して更新した。単純な演習を繰り返し、車輌やヘリの整備状況を確かめ、目標の縮尺模型で計画のぼろをしらみ潰しに滅した。僅かでも危険が残る手順では、人質どころか我々まで死傷しかねない。特に、アバカロフ駐在員に被害が及ぶという不祥事は避けねばならない。

 やがて時刻は二三〇〇時を回り、方々から欠伸が聞こえる様になった。隣の棟からは、こんな時間でも慌ただしいやり取りが聞こえる。突入計画は極限まで煮詰めた。使用する装備も点検を済ませてある。通信機のバッテリー残量も問題ない。交渉人と警官には悪いが、我々はさるべき時に備えて休ませて貰う事にした。

 待機所の床一面に、警察が用意した寝袋が雑に並べられている。全身の力が次第に抜けていくのを感じつつ、隅で寂しそうにしていた一枚の中へ潜り込んだ。他の隊員も同様に支度を整え、すぐにやかましい寝息を立て始めた。悪魔の子守唄から身を守ろうと頭まで潜り込み、そっと目を閉じた。雑音は防げたが、今度は誰かの汗の臭いがきつかった。


 並ならぬ空気に意識が覚醒した。周囲がざわめき、隊員が足に寝袋を引っ掛けたまま外へ飛び出してゆく。芋虫よろしく寝袋から脱出して腕時計を確認すると、丁度日付が変わった時分であった。「IAに備えて待機!」との命令がしきりにがなられ、各自が顔も洗わず銃を片手に所定の位置へ駆けた。状況が急変した。遂に犯罪者が腰を上げてしまった。

 我々は車輌部隊と降下部隊に分かれた。降下部隊にはショーン以外の兄弟を含んだ十二人が割り当てられていて、ヘリパッドで駐機する二機のブラックホークに半数ずつ乗り込み、直径五センチのファストロープを膝に抱えて待機する。興奮気味のダニエルは一緒のヘリに乗り、俺の隣に座った。

 機長がヘリのエンジンを起動し、メインローターの回転が耳朶を打つ。地面から砂埃が立ち上り、機内が騒音で満たされた。

〈ブラヴォー・ワン、スタンバイ〉

〈ブラヴォー・ツー、スタンバイ〉

〈チャーリー・ワン、スタンバイ〉

〈チャーリー・ツー?〉

〈チャーリー・ツー、スタンバイ〉

 各コールサインを振られたヘリとレンジローバーが、突入準備の完了を告げる。ブラヴォーはヘリ、チャーリーはレンジローバーを指しており、俺はブラヴォー・ツーの乗客の一人となった。自分の四人編成チームに割り振られたコールサインは、デルタ・スリーだ。

「ヒルバートさん、大丈夫かい?」

 レスピレーターを額に乗せたダニエルが、神妙に肩を叩いてくる。その顔に期待がありありと見て取れたが、不安に臆する気配は窺えなかった。それに比べて上官はといえば、鼻筋を滝が流れていた。恐らく顔面蒼白で死人みたいになっているだろう。愛弟子が初陣だというのに、この体たらくは何だ。汗をグローブの甲で拭い、引きつった笑みを浮かべた。

「老体の心配より、自分のケツ穴が増えない様に祈ってろ」

 通信機に接続したヘッドセットから、狙撃手越しの状況報告が伝達される。

〈こちらシエラ・ワン。犯人が玄関ドアを開けた。AKを持っている。顔は見えない。人質を一人連れている……女だ。玄関を出た〉

 頭の中で最悪のシナリオが構成される。狙撃手のスコープ・レンズの先、痺れを切らした犯人が銃を手にしている。そいつが人質をこれからどうするかは明白だ。女という事でアバカロフでないのは確かだが、我々とて人の子だ。みすみす無辜の民を死なせる道理はない。

〈アルファ(司令本部)より全部署へ。IAに備えろ〉

 機内の隊員が、MP7の薬室に初弾を装填した。弾倉が脱落しないか、銃床はきちんと展開されているか、EoTech――等倍率の光学照準器――に故障はないか。最後の確認を済ませて、レスピレーターを装着する。何度もやってきた行為が、震えの所為で、てんで要領を得ない。

〈犯人が何か言っている……かなり興奮している〉

 額を伝った汗が目に入る。ちくしょう、軟弱な精神め。この程度のストレスで押し潰されそうになるとは。厚い生地越しに大腿をつねったが、発汗はいや増した。

 アドレナリン以外が要因の心拍数上昇を必死に御する最中、通信の音声は鬼気迫るものとなった。

〈犯人が人質に何か叫んでいる……両手を頭に、人質を跪かせた……やばい!〉

 声が途切れた。遠方、銀行の方角から乾いた破裂が大気を伝わる。

〈作戦開始だ!行け!行け!〉

 本部から少佐の怒号が飛ぶ。重力が一瞬真逆の方向に働き、二機のヘリが地面を離れる。急いでケブラー(防弾繊維)を樹脂で固めたヘルメットを被った。重みを嫌って大多数の隊員は戦闘服のフードだけで済ませるが、俺は走って頭をぶつけて、今より脳足りんになりたくない。

〈目標まであと三十秒〉

 機長の明瞭で簡潔な報告で、各自が限界まで気を引き締めた。ヘリは滞りなく窓のない北側から接近し、屋根の上空でホバリングする。膝上のファストロープを落とし、周囲の安全を確保するまでが降下部隊の第一段階だ。

〈あと十五秒〉

 夜闇の中に、銀行に向けて疾走するレンジローバーが見える。車外に隊員を満載したその周辺で、幾つもの閃光が瞬く。フラッシュ・バンの爆発だ。大音響で犯行グループの注意を散らす目的で、室内の突入前にも投げまくる。

 目標の玄関前に、仰臥する男と喚き散らす女を目視した。先程の破裂は犯人のAKではなく、シエラ・ワンの狙撃銃が火を噴いた音らしい。

 ヘリが目標の上空に到達し、三本のロープが下界へ落とされる。後には引けない。野太いロープを四肢で掴み、重力に引きずられる身を御する。眼下のロンドンの、まばらな明かりが近付いてくる。猛烈な摩擦をグローブ越しに耐えつつ、本調子でない身体に屋根を踏ませた。着地の衝撃だけで目眩を覚えた。役目を終えたロープがヘリから切り落とされると、各チームはIA計画で割り当てられた持ち場へ移動した。ヴェストのチームが屋上の手摺りにロープを括り付けて窓へと懸垂降下を始め、ジェロームらがプラスティック爆薬とポリスチレンで組んだ枠状爆薬を二枚の明かり取りに貼り付けた。

〈デルタ・ワン、スタンバイ〉

〈デルタ・スリー、スタンバイ〉

〈デルタ・ツー、スタンバイ〉

 これで降下部隊の準備は整った。本部からの合図を待ち、導爆線で爆薬と繋いだ起爆装置を握る。騒ぎを聞きつけたであろう、一階の窓から黒いバラクラバ(目出し帽)を被る男が首を突き出した。そいつは外の景色をそう長く楽しめない内に狙撃手に頭蓋を撃ち抜かれ、部屋の中へと戻っていった。

〈シエラ・ツー、ホワイト・ワン・ワン(一階の窓)のエクスレイを排除〉

 どうやら今しがたの狙撃はショーンらしい。室内へ死体が転がった事で、人質の叫び声が爆発した。

 玄関前に二台のレンジローバーが停まり、隊員らが玄関ドアと一階の窓に、長い棒の先端に設けた爆薬を仕掛けた。

〈アルファ・ワン、スタンバイ〉

〈アルファ・ツー、スタンバイ〉

〈アルファ・スリー、スタンバイ〉

〈行け!〉

 全部署の準備が整うや、少佐の掛け声が耳元で弾けた。諸所で爆轟が耳をつんざき、木戸やガラスが千々に砕ける。内部へフラッシュ・バンが投じられると同時に、隊員が身を滑り入れる。ガラスが消し飛んだ明かり取りに飛び込むと、チームはダニエル、デイヴ、俺、パーシーの並びで埃の舞う屋内をライトで照らしつつ、事前に指定した経路に従って進んだ。侵入地点から間もなく一つ目のドアに到達し、ダニエルがベネリを構える。チームの突入準備が整ったのを確認すると、鍵とヒンジを破壊してドアを蹴り開け、そこへデイヴがフラッシュ・バンを投げ入れた。内側から女のおぞましく甲高い嬌声が起こり、こちらの集中を掻き乱そうとする。室内に武器を持った犯人の存在は窺えず、部屋の隅で縮こまって喚く人質らが確認出来るだけであった。銃に装着したライトと銃口を向けて犯人が紛れ込んでいないのを再確認し、簡便な連絡を本部に寄越す。何か言っている人質の手首を樹脂製の手錠で拘束し、その場で伏せている様に怒鳴り付けて部屋を出た。我々は赤十字の看護婦ではない。素人に余計な配意などせず、びびらせておく方が好都合である。

 四方八方で破壊が起こり、ひっきりなしに通信が入っていた。犯人の殺害報告、人質の確保……。負傷者は今のところ出ておらず、焦燥と葛藤に霞む視界と思考で、残りの犯人の計上を試みた。その答えが出ない内に次のドアへ到達し、デイヴがビデオゲームめいた巨大なハンマーでドアを叩き壊した。前にいたダニエルに続いてフラッシュ・バンの閃光に身を投じると、自動小銃を手にした二人の犯人と、数人の人質が悶え苦しんでいる光景が飛び込んでくる。犯人の一方へダニエルは惑いなく発砲し、頭部が熟れ過ぎた果実の如くばっくりと爆ぜる。俺ももう一方の犯人に照準を重ねる筈であったが、それを視界の隅に捉えた瞬間に耐え難い吐き気に襲われた。普段は大人しい照準が、統制を失っている。勢い指を引き絞った結果、弾丸は犯人の耳を掠めて後ろの壁を穿った。痛みでそいつが反射的に俺へ銃口を向けたが早いか、ダニエルのMP7が再び火を噴き、敵の胸に幾つもの穿孔を空けた。男は床にどうと倒れ、微動だにしなくなった。

「馬鹿野郎、死にたいのか!」

 ダニエルが怒号と共に俺の肩に掴み掛かる。室内の安全は確保されたが、今しがたの失態は甘んじて受け入れられるものではない。ダニエルの射撃がコンマ数秒でも遅れていれば、心臓が今もあるかさえ危うい。今回使用する弾丸は跳弾の心配のないフランジブル弾だが、狙いが大きく外れて人質に命中していた確率も否定し得ない。舎弟が初めて人間を殺めたという時に、何たるざまだ。

 その後も二つの部屋へと突入を続けたが、何れも拘束された人質が詰め込まれていただけであった。他の部署からの報告を合わせて、現時点で五人を排除していた。残りは二人。次に突入する部屋が近付いてくる。そこからも人質の叫びが漏れていたが、何やら怒鳴り散らす男の声が混じっていた。犯人の存在を確信すると、チームは俺を最後尾にドア脇に待機する。最後尾の要員は、廊下に残って味方の背中を守る。弱った駄目上官の精神状態を危惧した上での、ダニエルの配慮であった。

 そのダニエルがベネリを構え、定例通りに三発のハットン・スラグでドアの機能を壊した。即座にパーシーがフラッシュ・バンを投入して部屋に飛び込み、ダニエルとデイヴがそれに続いてなだれ込むと同時であった。

 前方の曲がり角から、泣き喚く女――それと、彼女を羽交い絞めする栗毛の女がぬうと現れた。栗毛の右手には、コードに繋がった物体が握られている。かなり着膨れていたが、体型によるものではない。コードが、羽織っているジャケットの下へ繋がっていた。何てこった。

 ダニエルらが突入した部屋から、連続して発砲が響く。ちくしょう、あの女。爆弾を抱えてやがる。そいつが今や、震える指を起爆スイッチに掛けている。

 果たして本物だろうか。安っぽいブラフである可能性を願った。ジャケットのポケットが膨れている。あの中に、鉄釘やベアリングが詰まっているかもしれない。二人の女はそれぞれ、方向の異なる恐怖に表情筋を引きつらせている。直感が告げていた。あの女はじき、自爆する。

 爆弾の真偽を確かめる猶予はない。爆風による被害の規模は?考えている場合ではない。銃を目線に構え、照準を女に重ねた。胸は人質が肉の楯となって撃てない。頭を狙って、延髄か脳幹を破壊するしかない。こんな精神状態の身に、そうまで精密な射撃が要求されている。余計な憶測に視界が霞んだ。腕が張り詰めて銃が震え、世界がコマ送りに流れてゆく。胃から食道にかけて、内容物がこみ上げる感覚があった。汗腺がまともに機能していない。ずぶ濡れの指先が、氷の様に冷たかった。

 他の隊員にやって貰うか?無理だ。手の空いている者は近くにいないし、他部署の到着を待つ余裕もない。腋に嫌な湿り気があった。思考だけが目まぐるしく錯綜し、にわかに涙が滲んだ。――やるしかない。

 震える腕を筋力で抑え付けた。現状、脈拍を制御する事は叶わない。拍動の間を見極め、その隙に引き鉄を絞るしか手立てはない。遊びがなくなるまで、引き鉄を絞り込む。もう僅かでも力を込めれば、発砲に至る。

 やにわに喧騒が遠のく。聴覚が動作を停止したのだ。電源駆動の赤い照準が四方八方に散る。焦るんじゃない。頬や顎では駄目だ。自爆を止めるには、脳と脊髄を断ち切れる部位に中てなければならない。一発で決めなければ、あの人質は死ぬ。

 脳裏から這い出してきたトラウマが、視界に侵入した。過去に手に掛けた女の姿が犯人に重なり、上書きされる。濃いブラウンのボブカット、冷めた碧眼に雀斑の浮いた青白い肌。黒のセーターにぴっちりしたジーンズを身に着けている。単なるフラッシュバックだ。思考回路は一瞬で結論を出しているのに、神経が指への命令を受け付けない。

 混沌とした一秒間だった。まだ引けない、照準がぶれている。力を抜け、呼吸を整えろ。口内がどうしようもなく渇く。皮膚がひりつき、全神経が悲鳴を上げた。視界の霞が濃くなる。状況が過去の光景と重なる。あの時と同じだ、殺せ。

 一種の脅迫に駆られ、重い指が衝動的に動いた。確かな反動が肩を伝わり、上半身で吸収される。短い銃身から射出された弾丸は、女の口腔を精確に貫いた。職業柄の癖で、自然と次弾が放たれる。目と鼻の先で二つ目の発砲炎が上がり、女の右目を潰す。犯人の全身から力がふっと抜け落ち、糸の切れた人形よろしくその場でくずおれる。手には起爆装置が握られたままだ。銃を下ろし、死体へと駆け寄る。戒めを解かれた邪魔な人質を脇へ突き飛ばし、死体の腕から起爆装置を蹴り飛ばした。

 顔面に二射を受け、犯人は確実に絶命していた。そう分析は出来ていたのに、四肢が脳からの信号を棄却した。荒い呼吸は治まるどころか悪化の一途を辿り、嗚咽までが混じる。肺が圧迫感に襲われ、眼球が飛び出す錯覚さえ抱いた。銃口が再び死体を向く。前脳の手綱が切れた。獣の脳が、斃(たお)れた女に向けて追加の弾丸を撃ち込ませた。女の服が見る間に赤黒く染まり、幾何学模様のカーペットに異臭を放つ液体が染みる。空になった弾倉を捨てて次の弾倉へと手を伸ばしたその時、肩に何かが触れて行動を阻まれた。ダニエルだった。

「もう死んでる」

 叱責するでもなく、憐れみを示す声音でもなかった。状況を諭す。それだけが目的の、感情の抜け落ちた声であった。

 死体は無残に変貌していた。頭部は最初の二発が小さな穴を穿ち、胸と腹が三十を超える鉄塊で抉られている。まるで月の裏側だ。周囲には白い破片――砕けた肋骨が散らばり、腸の内容物が腐臭を撒く。改めて検分しても、あの女と似た部位など何処にもなかった。拘束されていた人質は、すぐ隣で失神していた。

 ダニエルは黄色のサイリュウムを取り出すと、折り曲げてから犯人の死体に置いた。処理班に爆発物の位置を知らせるもので、黄色なのは煙の中でもよく目立つからだ。

 俺はダニエルに腕を引かれて戸外へ誘導された。正面玄関前の道路に人質が集められ、事前情報と身元の照合が進められていた。警官が目まぐるしく動き、報道規制と事後処理に勤しんでいる。

 人質の身元確認が取れると、彼らは車輌で何処かへ運ばれていった。連隊は不測の事態に備え、尚も銀行内で待機している。粗製の爆発物は、警察が穏便に解体した。

 犯行グループの鎮圧から、かなり経っていた。不意に膝が笑い、手の震えが止まらなくなった。呼吸器が平常運行に戻らない。血流も狂い、脳への酸素供給もままならず、傍にあったプランターに尻餅をついた。臀部に、冷たい土と折れた茎の感触があった。異常に気付いたダニエルに声を掛けられたところで、玄関ドアが開かれる。手帳を手にした初老の男性警官が、戸口に立っていた。

「遺体について事情聴取を行うから、着いてくる様に」

 もう色々なものがすぐそこまで出かかっていたが、まだ職務が残っていた。

 初めに、ダニエルが射殺した犯人を検めた。何れも、頭部と胸の急所に数発を喰らっている。全く以て見事だ。最初の仕事でこれだけやれていれば、何も言うまい。警官はダニエルに幾つか質問を投じた。どういった状況で撃ったのか。何故射殺する必要があったのか。無意味な質疑に、舎弟は的確な返答を端的に寄越した。

 それから他二体分の聴取が終わり、とうとう俺が殺した女の番が回ってきた。既に血が抜けて、皮膚が蒼白になっている。悪臭が立ち込め、警官が表情を強張らせる。首筋が痛痒い。自分の所業とはいえ、惨い死に様だ。警官はしかめ面で向き直った。

「ここまでやらなければならなかったのかね?」

 その言葉はもっともだ。特殊部隊としての判断の欠如、並びに理性を喪失して蛮人と化した自身に、反吐を生す思いであった。

「犯人は爆発物を所持しており、人質と密着していました。判断を遅らせれば、人質が死んでいました」

 平静を装ったが、こみ上げる何かを耐え切れずに鼻水が垂れた。神経が限界を振り切っている。目尻は絶えず引きつり、目蓋が存在意義を失っている。

「爆発の規模が分からなかったので、最善を尽くしたまでです」

 強い訝しみを警官は示す。だが彼は鼻息を一つ漏らすと、視線とペン先を手帳へ落とした。何とか切り抜けられた。軽い安息を覚えるや、耐え難い吐き気が去来する。俺は警官に失礼と残し、その場から逃げ去る様に屋外へ駆けた。

 玄関ドアを跳ね開けた途端に勢い蹴躓いて転び、臨界点に達した吐瀉物を地面へ散らした。褐色を何度もえづきながら体外へ排出したが、胃の中が空になっても不快感が心臓を掴んでいる。気管が胃液で荒れて、焼け付いた風になっている。汚れた口許を拭う事も出来ずに、花の折れたプランターへとしな垂れた。

 涙が零れていた。何が、部下の初陣を見届ける義務だ。驕った自己を恨む。作戦への参加はその実、連隊という居場所を失いたくないエゴが生んだ逃避行動ではないか。トラウマと対峙するなどと、あてつけも甚だしい。

 いい歳こいた男が、様々な液体でぐちゃぐちゃになっていた。思考がとっ散らかっているところへ、足音もなくダニエルがやってくる。好ましくない頃合いに現れるやつめ。今はやけに親しげな、それでいて遠慮のある態度だった。

「さっきは悪かったな」

 何の事だと問い返す前に、突入時の罵声の件だと言う。表情も繕えず気にしていないと返すと、彼は優しく笑みを浮かべた。

「もうすぐ事情聴取が終わる。一足先に本部へ戻ろう。この暗さだ、泣きっ面も遠くからじゃ見えないだろうよ」

 そう言って、ダニエルはいじける先輩へ手を差し伸べた。

「行こう、ボス。こんなくそ壺にいちゃいけない」

 彼はこうまで、ろくでなしの上司を慕ってくれた。安っぽい台詞なくともこちらの心情を汲み取り、今でも俺を連隊の一員だと認めてくれている。舎弟へ素直に感謝の念を示しつつ、その腕を取って本部へとゆっくり歩き出した。



【13】


 平服に着替えてから仮設トイレでもう一度胃液を吐き散らし、壁にもたれて数分を過ごした。アンモニアの悪臭が鼻についたが、それよりも鼻腔に逆流した液体がきつかった。便器の水面に浮かぶ黄色い物体を視界の隅に、自分の不甲斐なさへ反吐を催し、再び人らしからぬ嗚咽を便器へぶち撒けた。

 我々の装備は全て、警察に回収された。犯人殺害の正当性などを調べる為だが、果たして意味があるかは知らない。とにかくそれが決まりなので、我々は配られたビニール袋に自分の装備を放り込んだ。

 帰りたい。それだけが目下の願いであった。酒を飲むだけの気力もない。ただソファに体重を預け、暖かい毛布にくるまって床に就きたい。空腹は辛いが、何か胃に入れてもすぐに吐くのがおちだ。他は望まない、両の目蓋を閉じて眠りたかった。

 時刻が午前の三時を回った辺りであった。視界に入るものが何なのかさえ、区別がつかなくなっていた。ダニエルと思しき手が肩を揺らし、マイクロバスに乗り込む様に告げた。どうやら地元に戻れるらしい。半ばダニエルの肩に担がれる様にマイクロバスの席へ着かせて貰うと、息をする間に眠りに落ちた。

 次に目を開くと、またしてもダニエルに揺り起こされる場面であった。夢さえ見ない程に疲弊していた。今度は引きずられる様にして降車し、基地で各自が事後報告を行う手筈だ。ところが、ごま塩頭を綺麗に刈り込んだ連隊長――ブラッド・クリーヴズ中佐に何か話す前に、俺の事情説明は終わっていた。浅黒い肌が事務仕事に不相応な連隊長は、親父の同期であると共に、俺の来歴を知る数少ない御仁でもある。そのボスが開口一番、もう帰っていい、そして今日は休めとのお言葉を下さった。万感の思いで連隊長に謝罪と礼を述べ、荷物をまとめて基地を出た。

 おぼつかない足取りで自車のドアに手を掛けると、後ろから口笛に呼び止められる。甲高い音の出所は、兄貴だった。

「事故死したいのか?運転してやるよ」

 一度断りを入れたが、ヴェストは頑なに譲らなかった。ふらふらの弟を助手席にぺいっと放り込むと、鍵を強奪してエンジンを始動、我が家へと疾走した。すまん、お兄ちゃん。

 早朝の空いた道路を五分も走らぬ内に、BMWはオフホワイトの我が家に到着した。

「作戦に参加したやつらは全員、休暇をあてがわれてた。気兼ねせずに養生しろよ」

 それだけ告げると、ヴェストはそそくさと徒歩で自宅へと走ってゆく。あいつも自分の車があるのに、世話を掛けさせてしまった。

 おぼつかない指で鍵を開け、閑散とした表から家中へ身を入れると、ようやく安堵を味わった。ブリジットは当然眠っているだろう。屋内はしんと静まっていた。腹のガスを抜きながらブーツの泥をこそぎ落としていると、二階からの物音が静寂を破った。――まさかな。粘つく固唾を飲んで様子を窺っていると、階段をぱたぱたと足音が下りてくる。しまった、起こしてしまったか。頭を掻いて後悔を噛み締めていると、薄青のナイトキャップを被るブリジットが、同じ色の寝間着に上着を羽織ってやってきた。まだ目尻に眠気が残っているのに、出迎えてくれるとは。

「お帰りなさいませ」

「悪いね、こんな時間に」

 気管が荒れて、酷いしわがれ声だ。彼女は首を横に振ると、無言で俺の荷物と上着を預かる。キッチンで顔を洗っていると、脇のガス台に銀色の鍋が鎮座している。誘惑に駆られて蓋を開くと、どうやらビーフシチューらしい。一人しかいないってのに、わざわざ作ったのか。主人が帰ってくるのを見越していたかとも考えたが、それ望みが過ぎるだろう。傲慢野郎め、何様だと思っていやがる。身の程知らずの背中へ、ブリジットが両の指を胸の前で絡ませて問う。

「温めましょうか?」

 こんな朝っぱらから、そんな恐れ多い注文を出せるか。空腹の俺は応じる。

「じゃあ、お願いしようかな」

 馬鹿野郎!すぐに言い直そうとしたが、既にブリジットは換気扇を始動して鍋に着火していた。途端に漂う香辛料の匂いに、理性が吹っ切れた。流石にもう胃腸は安定しているだろうし、折角の厚意だ。ここは素直に受け取っておこう。やつれた身体をソファへ放り、シチューが温まるのを待った。

 陶器がテーブルに接触する音で、まどろみから覚める。目の前にかぐわしいシチューの皿と、ガーリックトーストの皿が置かれている。カーテンの引かれた窓から白みかけた朝の光が漏れて、照明のない部屋を薄ぼんやりと包む。

「お待たせ致しました」

 キッチンへと戻ってゆくブリジットに軽く礼を言って、ステンレスのスプーンへ手を伸ばす。立ち上る湯気からは、香辛料と赤ワインの芳醇な匂いが鼻腔を愉しませる。様々な養分が溶け出したルーへスプーンをくぐらせ、ニンジンを口に運んだ。美味い。消化器は軒並み弱っていたが、舌と喉は味を認識してくれた。ジャガイモのとろみが溶け出している。ガーリックトーストと併せて食べるとそれぞれの味が際立って、弱った身に食欲を催す。スプーンを握る手の動きは緩慢ながらも、止まる事はなかった。

「今日は休みになったんだ」

 左手にトーストを持ちつつ、当たり障りのない台詞をキッチンへ投げる。

「左様ですか」

 再び家に静寂が訪れた。皿をスプーンが突く音のみが、気まずく響く。気の利かない自分のおつむは憎たらしいが、憔悴した身にこの上鞭を打つ拷問は重ねたくなかった。

 話題を求めてテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を入れる。液晶にBBCの女性キャスターが映り、株価の推移を読み進めている。テレビの音声を右から左にぼんやりとジャガイモを咀嚼していると、不意に画面が夜の場面に切り替わった。――首都近郊。我々が人質救出に出向いた、あの銀行だ。スプーンを握る手がはたと止まった。報道規制が敷かれていた筈なのに、黒ずくめの我々が優秀なテレビクルーの手でカメラに収められていた為ではない。水の滴る氷の腕に、喉許を掴まれる感覚があった。映像から目が離せなくなった。野次馬の一人としてであったら、事情は違っただろう。だが俺は人質を取った犯罪者を殺す目的であの場にいて、実際にそうした。奴隷を、殺した。

 シチューの器が、ごぽりと音を立てて泡を発する。それが緩慢に連続して湧き、不定形の液体が一つの形を成してゆく。どうやら人の顔らしい。あの母親か、それとも彼女の子供か。どちらでもなかった。つい数時間前に惨殺した、あの女奴隷の顔が皿に現れた。怯えた目の女が、ゆっくりと口を開く。

「お前が殺した」

 仕方がなかった。あんたが起爆装置に手を掛けた時、誰かが撃たなきゃならなかった。それが偶然に俺だっただけだ。女が再び語り掛ける。

「お前さえいなければ――」

 いなかったらどうだって?どの道、お前は連隊の誰かに脳味噌をぶち抜かれていた。自分の行動を思い返せ。殺されて文句の言える立場でななかっただろうが。腕が震えた。女の顔に薄ら笑みが浮かぶ。

「その娘と同じ、奴隷を殺したんだよ」

「黙れ!」

 スプーンを逆手に握り、皿の中心へ叩き付けていた。飛沫が方々へ散り、頬にへばり付いた。視界が狭まり、口から荒い息遣いが漏れる。割れた皿の中に、女の顔はなくなっていた。

 そうして何秒経っただろう。心拍が安定してくると、周りが見える様になった。すぐ傍で、ブリジットが唖然と硬直していた。シチューが床にまで飛散し、砕けた陶器の破片が音を立てる。弁明の言葉を見付けようと身振りで何か伝えようとしたが、狼狽で両手が空を掻き乱しただけだった。スプーンに映る汚れた顔が、返り血を浴びたみたいになっていた。

 自ら生んだ病に侵され、幻覚に惑わされた挙げ句に奇行へ走る男の姿を想像し、頭が真っ白になった。どうして俺ばかりが、こうも苦しまねばならないのか。膝の上、掌に爪が食らい付く。見せてはいけない滴が、遂に目尻から零れた。

「ヒルバート様……?」

 不審を示すブリジットへ、申し開きする意志さえ残っていなかった。銀行強盗発生からの情報が頭の中を駆け巡り、錯綜する情報を抑えられずに意識が掻き乱れる。自律神経も抑制を失い、全身の汗腺で弁が崩壊した。

「いや、違うんだ……。これは……」

 顔を覆って涙を隠そうにも、液体は指の間を抜けてゆく。終いには鼻水まで垂らす勢いで、嗚咽を発していた。奴隷を殺した事実。連隊への負い目。兄弟で自分だけが抱く劣等感。ブリジットに対する不甲斐なさが絡み合い、感情の堰を軒並み失った。ここにいるのは最早、最強の特殊部隊の一員ではない。大人になる段階を踏めずに育った、ヒトの出来損ないだ。

 自制を欠いた身体が震え出す。落ちた液体がカーペットに染みを作る。塩の味がする口は、既に人語を発せられる状態ではなくなっていた。涙と鼻水で、手がべとべとになっていた。目の焦点が定まらない。系統だった思考は引き裂かれ、またも胃腸がひっくり返る感覚があった。

 侮蔑されただろう。唾棄すべき存在と見なされたに違いない。ブリジットとの間に醸成しようとしていた信頼は、基礎さえ造る前に崩落した。ようやくで手にした糸口が、息をする間に潰えた。別の絶望が併合した事で、慟哭は尚更に収まらなくなった。

 年甲斐ない醜態を晒し続ける俺へ、ブリジットはどんな目を向けているのだろう。確認する気にもなれず、ずっと目を覆って俯いていた。親父から借りた金、周囲の期待、全てが灰塵に帰すのを悟った。

 不意に、温かいものが肩に触れる。そのまま寝室へでも行って独りにしてくれていたら、少しは冷静になれたのかもしれない。だが、ブリジットその場に留まっていた。生半可な孤立感から、反射的にその手を追いやってしまう。僅かにすくんだ彼女の表情に罪悪感が芽生え、いたたまれずにその瞳から逃れようと背を向けた。さっさと見捨ててくれ。俺は他人様に誇れる男じゃないんだ。

 このままナイフで一思いに胸を貫きたかった。そうすれば、この苦しみからも解放される。誰よりも臆病な自分なぞに叶う訳がないと即座に帰結して、ソファの上で膝を抱えた。ブリジットの視線が、尚も背中に感じられた。

 膝がびしょびしょになって間もなく、それは何の兆しもなく起こった。汗まみれの背中に、物理的な衝撃が加えられる。それ自体はとても軽いものだったが、正体を判断するのに時間が掛かった。冷えた背中に、ブリジットの体重と温度を感じる。汗ばんだ首に彼女の両腕が回され、胸の前で交差していた。他者への拒絶を示した大馬鹿者を、ブリジットが抱いていた。

 想定の外をゆく行動に、疑問を持つ以前に困惑した。胸に触れる腕は、優しくも力強い。腫らした目を後方へ向けると、ブリジットと視線が重なる。全てを許容する、聖人よろしく落ち着いた瞳。湖水地方の水面の様に穏やかだった。

 自分の内で、何かが音を立てて融解した。自我などとうに失われていたが、今や律をも放り出した。がばと振り返ると、彼女の華奢な体躯などお構いなしにしがみ付く。小さな胸に、顔を埋めて吼えた。エプロンに鼻水が染みるのも慮らず、心の防波堤を破壊した濁流への恐怖にむせび泣いた。己が生んだ水害に飲み込まれない様、しがみ付く拠り所を無心に求めていたのかもしれない。

 ようやく本来の精神年齢を曝け出せた男の頭を、ブリジットはそっと撫ぜる。久しく、ひょっとすると一度も触れた憶えのない、慈愛の手だ。極限からの解放か、それとも無意味な意地を捨てられたからだろうか。ただ、涙が止まらなかった。


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