奴隷邂逅【6】


【14】


 目脂まみれの目蓋を開くと、照明の落ちたリビングで仰臥していた。カーテンの隙間から、昼の陽光が差し込んでいる。思考に掛かった結露を拭う様に目を擦り、状況の把握を試みる。ソファで片足を放り出した身には、薄い毛布が掛かっている。着衣は昨日のままで、頭髪には皮脂が植民地を形成している。けだるさもそのままにぼんやりと陽光を眺めていると、背後のドアが開かれた。

「あら、起きられましたか?」

 たった一人の同居人であるブリジットは屈託なく微笑むと、エプロンの紐を揺らして紅茶の用意を始めた。キッチンで電気ケトルがくつくつと音を立てる頃には、脳味噌がゆっくりと寝床から這いずり出る感覚があった。「うーん、おはよう」かったるい挨拶はいいから、とりあえず就寝前の記憶を呼び覚ましてくれ。

 毛布をソファの片隅へ押しやりつつ昨夜の回想に耽ると、気恥ずかしさに目頭を揉んだ。何たる粗相!自分より十も若い女の子に抱き着いた挙句、その胸でびーびー泣き喚いたのだ。このまま毛布にくるまり、外界の全てから遮断されて余生を過ごしたい。本当に頭から毛布をすっぽり被って唸っていると、テーブルに物が置かれる音がする。

「少し砂糖を多めにしました」

 ブリジットは毛布団子にそう告げると、キッチンへと踵を返す。今朝は何事もなかった。まるでそんな風に、彼女はただ紅茶のカップを置いていった。テーブルの天板に残る破壊の痕跡が、確かな現実を物語っているのに。毛布から孵化して湯気の立つ紅茶を啜ると、確かにいつもより甘い。胃にじわりと温かみが広がり、かすかに不安が和らいだ。だが、それでも疑念はくすぶり続ける。

 どういう理由で彼女は平静を保っているのか、まずはそれが分からない。自分の雇用主が底抜けに腑抜けと知ったら、明日の我が身を案ずるのが当然だ。いつ崩れるか知れない砂上の楼閣に、誰が好んで住むものか。

 ところがどっこい、あの子はすぐ隣のキッチンで鼻歌交じりに卵を割っている。現状を嬉々と受け入れ、しかるべき用意は整っていると自信に満満ち溢れている。正直に言って不気味だ。モールで初会したあの日に、お立ち台にぺたりと座り込んでいた奴隷とは似ても似付かない。第一、選曲が『ワルキューレの騎行』なのも不穏だ。

 程なくして、皿を両手にブリジットが朗らかな笑みを湛えてやってきた。彼女は山積みのパンケーキをテーブルに置き、俺の隣に腰を落ち着けた。ソファは一つしかないので妥当だが、何やら距離が近い。温められたバターがパンケーキに乗せられ、ナイフとフォークが添えられる。悪くない朝食だ。うちにミックス粉はなかった筈なので、きっと昨日の内に買っておいたか、または小麦粉からわざわざ作ったのだろう。形の良いパンケーキを眺めていると、アイボリーのメイド服を着たブリジットが怪訝に首をかしげる。

「お気に召しませんか?」

 純然たる疑問の双眸が向けられる。緊張や警戒といった態度は見られない。ケージ内の小動物を思わせた彼女は、何処へなりを潜めたのだろうか。

「いや……戴くよ」

 ナイフを手に取ってパンケーキに刃を入れ、フォークをで口へと運ぶ。バターの風味が口内に広がり、優しい甘さの弾力を味わう。焼き色も綺麗で、ちょっと高級なホテルのルームサービスでも不思議はない。ブリジットも俺が手を付けてから、自分の分にナイフを入れた。その所作に躊躇は窺えず、危険な主人の隣に座している事実など気にも留めていない様子である。食事の手を止めて視姦めいた変態行為に耽る俺に、彼女は小首をかしげる。

「どうかなさいましたか?」

「いや、別に」

 まさか「以前の緊迫した態度はどうした」と訊く訳にもいくまい。紅茶をあおって誤魔化し、掛け時計に目をやる。十四時三四分。どうやら八時間近く寝ていたらしい。顔面が脂にまみれているのも説明が付く。腹ごしらえの後でシャワーを浴びるとして、ブリジットに今朝の痴態をどう釈明するか思案した。この上なく憂鬱だ。酔ったジェロームに抱き着かれる程度には不愉快だ。

 パンケーキを平らげると、言わずもがなとばかりに食器が片付けられる。こちらが手を出す暇さえ与えず、運んだ傍から洗い始める手際に感服する。何だってこんなに良い子が、うちなんかに身を置いているんだ。可哀想に。


 臭う着衣を脱ぎ捨てて浴室に足を踏み入れると、バスタブに湯が張られていた。折角の厚意を無下にするのも気が引けるので、身体の汗と泥を落としてから、ゆっくりと巨躯を湯殿に沈めた。

四一度の湯の中で身を丸め、鼻まで浸かって思案に耽る。この現状は何だろう。生きる目的を見失っていたところ、親父に奴隷の所有を命じられてブリジットを家に招き入れた。互いに警戒まみれで寝食を共にし、銀行強盗をやらかした奴隷連中を殺害して……。回想の内に、強い吐き気に襲われた。バスタブの縁にもたれて息を荒げ、鼻の頭に生じた汗が床に落ちる。内心で否定すれど、過去の自分に鉛弾を浴びせたのだ。身が引き裂かれる錯覚さえ抱く。かつて親父に拾われて払拭した筈の奴隷の意識を、未だに引きずっていたという証明に他ならない。いつまた吐いてもいい様に、そのままの姿勢を保った。

 最大の焦点はその後だ。憔悴して帰宅した俺に、社会的に誰より不安定な心理であろうブリジットは、如何に接してきたか。こちらの事情さえ知らない彼女は否定の片鱗さえ見せず、真っ向から甲斐性なしを受け入れてくれた。今朝のあれは幻覚か何かとも疑ったが、どうもその線は薄い。ともすると、彼女の行動は何に裏付けられたものか。大の男の涙に動揺し、急に神話めいた母性でも湧いたか。こじつけにも程がある。少なくとも俺の目には、彼女はごく律動的な態度で映っていた。考えてもらちが明かず、再び顔半分を湯に沈めた。

 吐息が水泡となって水面に浮き、弾ける。次第に倦怠感が生じてきた。いよいよ面倒臭くなった議論に終止符を打ち、バスタブから身を揚げる。後でブリジットも使う可能性を考慮し、湯面に浮かぶ縮れ毛を回収した。後ろから見たら、さぞ間抜けな絵面だろう。


 いつの間にやら用意されていた衣服を纏ってリビングへ戻ると、ブリジットが電子レンジの前で『ジョニーが凱旋するとき』を口ずさんでいた。奴隷制の残るイギリスへの嫌味と解放宣言を行ったアメリカへの羨望かと思いきや、それが終わると今度は『ブリティッシュ・グレナディアーズ』が始まる。それも、爪先でリズムを刻みながら。部屋の空気はそんなお一人様楽団による演奏と、チョコレートの甘い匂いに満ちていた。

「何か作っているのかい?」

 エプロンのフリルをひるがえして振り向くと、ブリジットは口角を優しく上げた。

「ブラウニーです。紅茶は如何致します?」

 返事の前に、ブリジットは早速カップを温めていた。最初からその用途で設計されたみたいに手慣れている。きっと調教施設にいた頃から、主だった炊事を担っていたのだろう。舞踏にさえ見える所作には、畏敬を抱かざるを得ない。間もなく二人分の紅茶が用意され、ダイニングテーブルに二脚のティーカップが置かれた。――おやまあ。食器棚に押し込んで、一度も使っていない〈ウェッジウッド〉だ。濃いミルクティーが六五度に冷めるまで何かお喋りでもしようかと考えたが、如何せん疲労した脳は修復作業中であった。話題探しにテレビを点けると、相変わらずBBCでガラス窓の破れた銀行が映っている。勘弁してくれと小声でごちたが、ブリジットに事情を説明するには好都合と判断した。不安の種は、萌芽する前に摘み取るのが好ましい。格好悪い話を持ち掛ける決意を下すと、カップに触れて温度を確認しつつ彼女に向き直った。

「ブリジット、今朝の話だけどな」

「言われずとも結構です」

 実に見事なカウンターだ。半開きのままの唇が元に戻らず、次の語句が見付からない。彼女はこちらを真っ直ぐに見据えていた。

「今は何も仰らず、ただお休みになって下さい。ヒルバート様が落ち着いた頃に、またお聞かせ願います」

 そうしてそっと微笑むと、ブラウニーの様子を見に席を立った。俺は俺であんぐりと落ちた顎もそのままに、目で彼女の背中を追うだけであった。きっぱり毅然としてはいたが、奇妙にも冷徹とか無関心という風ではなかった。知ってはいたが、変な女だ。占領下の市民みたいに縮こまっているかと思いきや、身体だけはでかい男を前に動じる素振りも見せやしない。一体全体、どうなっちまってるんだ。同じく変人の親父になら分かるかもしれない。心の中の父君は応じる。「ビールには、エダマメだ」俺は一人で悩み抜く決断をした。そんなの、フィッシュ&チップスに決まってるだろうに。

 腐りかけの脳細胞を発電機に繋いで唸っていると、ブリジットが食パンの塊みたいなブラウニーを大皿に乗せてやってきた。隣近所へお裾分けでもするのか?無言で食パンにナイフが差し入れられ、切り落とされた一片が俺の皿に寄越される。

「甘いものはお好きでしたよね?」

「ああ、うん」

 はて、いつそんな情報を与えただろうと訝しみ、ヘリフォードへの片道切符を彼女に握らせた車内だったと思い出す。焼き菓子は好きだとか何とか言った記憶があった。とはいえ、手間を掛けてこんな手配をする理由に足るとは思えない。雇い主に気に入られる策の一環とも考えられるが、その場合は彼女が不肖の主人をどう捉えているかが重要で、それ以前に彼女が早朝の一件に動揺を示していない理由の糸口が要されるやも分からない。果たしてどの疑問から着手すべきかという強迫だけが先行する。ちくしょう、良い匂いだな。

 ブリジットは自分の皿にもブラウニーを取り分け、残りのブロックにラップを掛ける。その手に、思わず視線が奪われた。繊細で陶人形の様に白く、爪が深爪気味に切り揃えられている。指は如何にも華奢な造形で、ぶつけたら砕けてしまいそうな程に儚い。指の腹はしっとりとしていて柔らかそうだ。気色の悪い視線を察したブリジットがこちらを窺ったので、何食わぬ風でブラウニーにフォークを入れた。程よい甘さの中に、ブランデーの芳醇な香りが粘膜を酔わせる。その奥から砕いたアーモンドの香ばしさが顔を覗かせ、後腐れが残る前にお暇する。成る程、見事だ。食後の紅茶と茶菓子というだけでも、この子を招き入れた甲斐があった。

 テレビの画面は件の事件現場から、ヘドロの浮かぶテムズ河へと移り変わっていた。河の向こう岸に、我々を自分らの手先みたいに使役する組織の一つ、内務省のMI5(情報局保安部)の本部たるテムズハウスが鎮座している。やつらが仕事を持ってこないと我々の必要性が危ぶまれるとはいえ、忌々しい制服組だ。てめえの都合だけ押し付けて、何の支援も寄越しやしない。憤りで眉根が寄った頃、物腰の柔らかな声が掛けられた。

「本日のご予定はございますか?」

 この子が我が家に来て初の休日だ。大人として気の利いた回答を返してやりたかったが、持ち合わせの弾は常に切らしている。

「いや、何もない。今日は家で休ませて貰うよ」

「承知しました」

 ブリジットはぱんと両手を合わせると、表情を綻ばせた。何がそんなに楽しいのか。ブラウニーをもぐもぐやりつつ思案しようとしたが、諸問題で既に物理メモリが満杯だったので断念した。〈テスコ〉で新品の脳味噌は扱っているだろうか。ビール一杯くらいの額で買えるかな?濃いミルクティーを啜りながら、阿呆らしい議題に真剣な自分を嘲った。

 互いがブラウニーを胃に収めると、ブリジットは昼食の下ごしらえに取り掛かった。既に洗濯は済んでおり、晴天の下に衣類が干されている。独りの時は乾燥機で済ませていたので、風にたなびく白いブラウスやエプロンというのは新鮮な光景だ。そして、通りからは見えない様になっているものの、ブリジットの下着が丸見えなのには参った。――水色とピンクか、可愛いじゃないか。

 下着の持ち主は、キッチンでレタスを相手に包丁を入れようとしていた。生野菜なんぞ、自分一人では絶対に用意しようなどと思わなかった。世界一出来の良い缶詰を我慢して食べれば、ビタミン不足には陥らなかった。それが今では瑞々しい生鮮食品を新しいままに食えるのだから、涙の零れる心地である。BBCがまた首都の銀行を映したので、本当に涙腺が刺激されそうになった。

 目蓋を押さえて感情の流出を抑えていると、どかんと肝の冷える衝突音に腰を浮かした。見ると、キッチンでブリジットがタマネギを敵に苦戦していた。包丁がタマネギの中程にまで食い込んでいる。そしてまた、プラスティックのまな板に金属板が激突する。どうやら、野菜を力任せに叩き割っているらしい。彼女の料理の手腕は大したものだが、目下の様子が余りに危なっかしい。その細腕に体重を掛けて、食材を無理くり断っている。反射的にソファから立ち上がり、キッチンへと歩を進める。ブリジットの隣に立って、その手からそっと包丁を掠め取った。微小に動揺を示した彼女に構わず、刃を光にかざす。うわあ、思った通りだ。

 包丁はホームセンターの、上から二番目ほどの価格で売られていそうな総ステンレス製で、かなり使い込まれた風であった。うちにあったものではないから、彼女の私物なのだろう。歴戦の商売道具を、色々な角度から眺めつつ問い掛ける。

「これはいつから使ってるの?」

「ええと、二年ほど前からですが……」

 おずおずと答えるブリジットを前に、軽く頷いた。刃の表面に、無数の細い筋が走っている。切れ味が悪くなる度に、簡易シャープナーをあてがった証拠だ。シンクの下の棚から直方体の塊を引っ張り出して、調理台へ置く。セラミック製の水砥石である。砥石の表面を十分に濡らし、適切な角度を付けて包丁をあてがった。

「刃が潰れてる。だからまともに切れなかったんだ。これくらい上等な包丁なら、研げばあと三年は使えるよ」

 三分ほど掛けて片面を研ぎ、裏に返して『カエリ』を落とす。砥石というと、欧米ではオイルを使う油砥石が主流だが、俺は好んで水砥石を使っていた。理由の一つには、水の供給さえあれば場所を選ばないというのが挙げられる。もう一つは、単純にオイルで周囲が汚れないからだ。カエリを万遍なく落とすと、更に二つの水砥石を用意する。粒状の異なる砥石に当ててやり、より鋭利な刃を付け直す。親父も酒の席で言っていた。「弘法のハゲだって、筆くらい自分で選ぶだろうよ」腕の立つ者が、良い道具を使うべきなのは言うまでもない。包丁の手術をしている間、彼女がじっと作業を見つめてくるので照れる。三つ目の砥石での研磨を終えて水ですすいでやれば、リハビリの時間だ。先程まで苦戦していたタマネギへ、重力だけで一撃を打ち込む。かつての輝きを取り戻した刃が、強固な植物細胞をすうと両断した。いやはや、これでこそ刃物だ。

 指先で包丁を回してブリジットに返してやり、そのままソファへと戻ろうとすると背中から呼び止められた。

「実は、切れ味の悪いナイフがあるんですけど……」

 こんな事例が今日まであったかと思案した。彼女から俺に労力を要する依頼を申し出る事態は、これまで皆目なかったのである。当然二つ返事で快諾し、水切りに掛けた砥石を再び持ち出す。

「それで、どいつが死にかけだって?」

 抽斗から、包丁と同一シリーズと見られる果物ナイフが取り出される。刃渡りは十センチ強といったところだ。一番粒状の粗い砥石に水を敷いてナイフを受け取ろうとしたところに、彼女はこんな発言を寄越してきた。

「あの……研ぎ方を教えて戴けませんか?」

 随分と積極的な物言いに面食らい、目をしばたたく。性奴隷という商品区分上、忌避の対象たる主人に教えを乞おうと仰る。初見で抱いた変人の疑いが、いよいよ証明の最終段階に突入する。狡猾にも、主人との接触で動向や反応を探っているのだ。奴隷市場でのこちらへ対する品定めは、まだ続いていた。

 教練は彼女より俺に困難を強いた。繊細な行程を要する以上、かなり近くで見守ってやらねばならない。それも、頭髪の生え際が仔細に見て取れる程に。首筋を、痺れが伴う痛みが走った。

「……まず、ナイフを寝かせて砥石にあてがう。そんなに力は入れなくていい。それから、左手を刃に添える」

 刃を砥石に固定し、彼女は次の指示を待つ。

「適度な角度を付けて前後させる。途中で出てくる黒い汁は流さない様に。研磨に必要な液だから」

 次第に、砥石の表面に薄汚い研ぎ汁が生じる。それを合図に、ナイフを抑える手ががく付き始めた。初心者に多い失敗だ。一定の角度を維持していないと、まともな刃が付かない。

「刃の角度は変えない様に。折角付き始めた刃が台無しになるからね」

 ブリジットは愚直に応答するが、どうにも上手くいかないらしい。最初はこんなものだと思っていたが、如何せんやり過ぎると、刃が余計に削れて寿命が落ちてしまう。優秀な道具が短命に終わるのは忍びない。次の自分の行動を考えると皮膚がひり付いたが、やらねばなるまい。下唇を噛んで意を決し、ブリジットの右手にそっと手を重ねた。ちくしょう、しっとりしている!

「手首に力を入れて。そうすれば動かずに済む」

 別段緊張した風もなく、ブリジットは前後運動を再開した。俺の指示でナイフを裏返し、タイミングを見て次の砥石に移行する。慣れてきたら手を離し、すぐ隣で見守る。集中しているのか少し汗をかいたらしく、くせっ毛混じりの髪から甘い匂いが立ち昇る。オスとしての興奮を覚えると共に、女性という触れ得ざる存在に近付き過ぎたせいで吐き気がこみ上げた。やはり、駄目か。ブリジットが見ていない事を祈りつつ、震える右腕を背後へ隠した。

 遂に術式が完了したナイフを、ブリジットがトマトの上に置く。音もなく鉄板が果肉を割き、鮮やかな断面が覗く。

「お見事」

 セクハラ紛いに、ブリジットの肩をぽんと叩く――同時に熾烈な電流が上腕から肩へ抜ける――と、彼女は満足げに笑んで、礼を述べた。落ち着きある声音に、実年齢との落差を否応なく感じる。俺の傷跡にさして動じない点といい、只者ではない気風を纏っているのは確かだ。精神状態さえ正常であれば、今すぐにでも奪い去ってやりたいくらい良い女に違いない。そう、正常な身体であれば――。それが引き鉄となり、今朝の記憶が舞い戻った。

 歳の離れた少女に抱き付いて嗚咽を漏らした数時間前。あの時、俺は不快感はおろか、むしろ安寧を味わっていた。今しがた彼女に触れた際に走った痛みと痺れは、微塵も顔を覗かせなかったのだ。ひょっとすると――。不意に浮上した推測を否定する。こちとら女性と特別な関係を持てる身ではないし、ましてあの一件での自分を赦せていない。心の何処かで、訓練教官よりも手厳しい自分が、俺を罰している。

 ぼうとした夢想に幕を下ろすと、急に冷めた心地に陥った。馬鹿たれ。てめえが人並みの色恋沙汰を願うなんざ、高望みが過ぎる。このままではいけないとは分かっていても、我が身に刻まれた法律は易々と改訂出来ない。それが、親父より拝した命令だとしてもだ。臆せず取り繕わない自分で彼女と向かい合う事が出来れば、或いは……。仮定を前提とするのは無意味だ。御託を並べるより先に、実行を伴う意志を見せれば済むのだから。キッチンから去る最中、やり過ぎて軋む様になっていたが、女々しさに奥歯を噛み締めた。


 それからは特に何事もなくゆるりと過ごしていたが、夕食を終えた頃に嵐に見舞われた。食後の紅茶に舌鼓を打っていると、何やら表が騒がしい。自動車の元気なエンジン音が少なくとも二つ。それが我が家の前で急に止まり、しばし静寂が訪れた。訝っていると、玄関ドアが乱暴に連打される。

「ヒルちゃーん!ジェローム君だよー!」

 ちくしょう、黄金の砂嵐が来やがった。来客に応じようとするブリジットをリビングに引き留め、玄関ドアを僅かに開く。

「体力があり余っているのは結構だが、ちっとは近隣の迷惑を思慮したっていいんじゃねえか?」

 鼻先で、愚弟ジェロームが頭の悪そうな笑みで鼻をほじっていた。表の路肩に、兄弟の車が停められている。俺の嫌味など聞こえなかったとばかりにジェロームは制止を突破し、家中へと進撃を開始した。何なのこの馬鹿力!

「こっちから良い匂いがする!」

 気持ちの悪いやつ!くそ野郎の襟首を掴んで進行を阻み、かろうじて屋外へと放る。盛りの付いた駄犬め、少しは大人しくしろ。騒ぎを聞き付けたブリジットが、廊下に顔を覗かせた。

「どうかなさいましたか?」

「大丈夫。すぐにやっつけるから、中にいてくれ」

 こいつらが我が家の平穏を脅かしに来るのは、大概が酒場へ誘う時だ。俺の状況を危惧したか、でなければ単にブリジットの美少女振りを拝みに来たか。前者である事を祈った。

 ――酒場か。腕の中でグロッキーになったジェロームもそのままに、指を口許に思案する。独り身であった時分は身ひとつでほいほい着いていくのも容易であったが、家にうら若きおなごを残すならば話は別だ。自分だけ広い家に取り残されると知れば、良い気はしないだろう。こちらへ来てから日も浅く、個人の娯楽が揃っていないのも大きい。だがしかし、それを踏まえても酒場というのは女の子が訪れて面白い施設ではない。果たして彼女を連れて酒浸りへ行くべきか、はたまた家に残ってちびちびと晩酌を決め込むか。ジーンズに包まれたジェロームのケツをショーンの車の後部座席に押し込む中で、俺は前者を選んだ。あとはブリジットの返事次第だ。


「行きます」

 リビングでブリジットから返ってきた応答は味気なく、しかし前向きなものであった。

「あらそう……」

 拍子抜けに脱力したまま財布と携帯をポケットへ捻じ込み、部屋履きからブーツへ換装して玄関に立つ。その後に続いてブリジットもブーツを履き――メイド服から着替えずに――戸締まりを済ませて家を出た。

 ヴェストのアウディの後部座席に二人して乗り込むと、二台の車は排気ガスを撒いて発進した。

「ブリジットだっけ?ヴェストだ、よろしく」

 バックミラー越しに、優男の兄貴がブリジットに視線を送る。平均的な女はこれでぐらりと落ちるのだが、彼女は取り乱した様子もなく挨拶を交わす。異性に不信感を抱いている風でもなく、敵意を持っているという訳でもないらしい。それも営業スマイルを前面に対応するのだから、弱冠十八の小娘とは信じられない処世術だ。他人に気に入られる方法をわきまえている。

 兄貴の車に乗り込んでから十分。陽が沈みきらない時分に、年季の入ったオーク造りの物件に辿り着く。降車して顔馴染みの用心棒の脇を抜けると、むっとした熱気が顔に吹き付ける。裸電球が吊られた店内に足を踏み入れるなり、果たせるかな俺の背後に店内の注目が向いた。少なくとも、店内にブリジットと同じ格好の人物はいない。我々は空いている円卓に着くと、ジェロームが肌の浅黒い店主に注文を取りに立った。少しして戻ってきた両手には、エールで満ちたパイントグラス(イギリスにおいては約五六八ミリリットル)の集団があった。おい、どうして五つあるんだ。年齢の上では合法だが、本人の同意を得ていない。俺の懸念など他所に、ブリジットは変態から受け取ったビールをくいと口に含んでいた。何だよ、悩んでいる自分が馬鹿みたいじゃない。

 各々が黄金を一口やって臓器を温めると、ブリジットへ自己紹介を行った。アルコールの助けもあってか表面上は打ち解けたらしく、彼女は絶えず目を細めていた。心労でぶっ倒れないのだろうか。

 この酒場を選んだ理由は、連隊の仲間が余り利用せず他者の目を気にしないで済むからだが、ブリジットの容姿と服装が完全にその意図を打ち消していた。周囲の視線が、凄まじく心に刺さる。その中で一人だけ、小さなメイドさんへ目線を向けていないやつがいた。カウンターでスコッチをあおっている、ブロンドの女だ。すぐに通信中隊のシェスカ・エヴァンズだと気が付いた。何てこった。顔見知りがいないからと来たのに、もう地雷を踏み抜いてしまった。脂汗を浮かべる同僚の視線を悟ったのか、シェスカが面白兄弟を捉えた。そして含みある笑みを浮かべて手を振る。ちくしょう、明日は基地で弄くり回されるぞ。だが彼女の目線はブリジットではなく、目下女性恐怖症を患っている三男坊へ向けられていた。

 シェスカはグラスを手にカウンターを立つと、堂々とした足取りで我々の円卓へ距離を詰める。その表情から、僅かに酩酊している事が見て取れる。やがてショーンの脇に立つと、その腋に手を差し入れて立たせた。

「なあに男ばかりで飲んでるの。ちょっと付き合いなさい」

 哀れなショーンは目を白黒させて慌てふためき、ビールのグラスを持つ暇もなく、シェスカが元いたカウンターへと拉致されていった。成る程、ああいうのが好みらしい。残されたショーンのビールを飲み干しながら、兄貴に耳打ちする。「あいつ、今日は家に帰れるかな」兄貴は肩をすくめる。「まあ、また財布を抜かれるヘマはないだろうよ」ジェロームがただ一人、陰鬱にぼやいていた。「どうして俺じゃないのよ……」日本かぶれの親父の言葉を借りて言うならこうだ。「あきらメロン」全く面白くないので、実際に言うのは止した。

 俺が二杯目とフィッシュ&チップスを注文に立った頃には、ブリジットの頬が少し上気していた。平静を保っているが、酒気に当てられて眼球が緩慢な動きになっている。長兄と末の弟にはビールを、ブリジットにはグレープフルーツジュースを注文し、自分はジン・トニックを頼んだ。飲み物のグラスを持って戻ると、ほろ酔いのブリジットが兄弟と談笑する光景が繰り広げられていた。悪くない。いつまでも同じ屋根の下で、同じ人間と暮らしては息が詰まる。たまにはガス抜きが必要だ。特に、ここ数日で心身に多大なストレスの掛かっている彼女には。

 どれくらいそうしてアルコールを摂取し、会話に花を咲かせていただろうか。野外では星が瞬き、街灯に蛾が体当たりする時分になっていた。ショーンとシェスカは知らぬ間に姿を消し、彼の車もなくなっていた。果たしてどちらの家に泊まるのだろうか。霞の掛かった頭で弟の情事に関心を寄せたが、眠気に敗れて断念した。ヴェストの呼び掛けで今日はお開きになり、自分も足取りがおぼつかなかったが、自棄酒で円卓に突っ伏した金色の馬鹿と、ぽうと夢見心地に身を預けるブリジットを支えて酒場を出た。外気が火照った顔に優しく、程良く酔いが醒める。ヴェストのアウディの後部座席にブリジットと阿呆を搬入して自分は助手席に乗ると、車内が一気に酒臭くなった。特に、ジェロームの口から発せられるそれが酷い。全員の乗車を確認すると、酔った素振りの全く見えないヴェストがイグニッションにキーを挿してエンジンを掛ける。アウディはゆったりと快適な乗り心地で、誰かが車内でゲロを散らす惨事はなかった。途中でジェロームを彼の家の玄関に転がしてやり――うわっ、こいつ泣いてる!――それから我が家まで送って貰った。

 見慣れたオフホワイトの前にアウディが停まると、後部座席で揺られるブリジットはすっかり眠りに落ちていた。

「手伝おうか?」

 俺の身を案じてヴェストが提案を持ち掛けたが、一人で十分と言い切った。酔いが回っていれば、痛覚も少しは鈍るだろう。ジェロームよりも遥かに軽いブリジットに肩を貸そうとしたが、完全に寝入っていたので、抱きかかえて運ぶ必要があった。これから野郎の家に連れ込まれるっていうのに、無垢な顔をしていやがる。脱力した人間というのは非常に重いのだが、六十キロもない彼女を持ち上げるくらい、靴紐を通すよりも容易い。無論、俺にとっては苦役を強いられるが。ブリジットの腰と背中に腕を通して抱え、慎重に車外へ搬出する。腕に鋭い痛みを覚えたが、大事なメイドさんを取り落とすまいと歯を食い縛った。

「やっぱりまずいんじゃないか?」

 強かに首を振り、ヴェストの気遣いを断った。彼は無言で、俺の上着から家の鍵を取り出して先行し、玄関ドアを開けてくれた。それから別れを告げて車へ戻り、玄関ドアを閉めると共にアウディの走り去る音が響き渡る。

 腕に抱えたブリジットの匂いに半ば魅了を、半ば吐き気を覚えながら階段を一段ずつ上がる。肘で寝室のドアを開くと、最後に見たそれと同じ光景があった。ただ、以前にあった埃っぽさは感じられず、ほのかに少女らしい生活感が窺える。シングルベッドは綺麗に整えられ、シーツには皺ひとつ見られない。ブリジットをそうと横たえると、彼女が軽く鼻を鳴らした。並みの男であれば――。何度目になるか知れない妄想を鼻で笑い、ブーツを脱がせて慎重に部屋を去った。

 寝酒の〈ベイリーズ〉の瓶とグラスを手にリビングのソファに腰を下ろし、テレビの電源を入れる。時刻は二二時を過ぎた頃で、もう銀行強盗の特集は組まれていなかった。未だ自分のものと思いたくない疼痛と痺れが残る腕で、グラスに乳白色の液体を注ぐ。この一日、ブリジットの俺に対する態度の変化を論題に常に頭を働かせていたが、自己を納得させるに至る弁は得られずじまいであった。本日の疲労を籠めた吐息を盛大に漏らし、グラスに口付ける。本来は牛乳とシェークするが、煩わしさから端折ったせいで原液の強烈な甘さが粘膜にねっとり絡み付く。感覚が麻痺した頭脳が度を増して鈍感になり、眠気に拍車が掛かる。一杯を飲み終える頃には、両の目蓋がすっかり下りていた。これから幾度となく、こうした異物感や神経の痛みと付き合い、次第に精神が擦り減って失われるのを待つのだろうか。否、そうならない為に彼女を迎えたのだ。薄れゆく意識で再び思い定め、ソファの肘掛けに頭を預けた。あの子の胸は、こんなに無機質で固くはなかった――。下らない独白を一笑に付した。



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