奴隷邂逅【4】



【10】


 周囲は深い闇に包まれていた。どす黒く、ねっとりした粘菌状の物体がこちらへ近付いてくる。アメーバであれば仮足と呼んだか、海洋生物の触手と見紛う腕が、手にした銃へと伸びてくる。光沢を消した黒色に、年季の入った木製グリップが素手に吸い付く。名匠ジョン・ブローニングが遺作、〈ファブリック・ナショナル〉ハイパワーだ。重さからして、弾倉には十分な量の弾薬が込められていた。最後に使ってから久しいが、世界各国の銃器を扱うSASにとって、相当に馴染み深い一品だ。この銃そのものに憶えはないが、腐れ縁の様に勝手が分かる。スライド(遊底)の前後動作で初弾を送り、照準をコールタールの塊に定める。距離にして五メーター足らず。特殊部隊の一員として、外したら廃業レベルの惨事だ。傲慢にも鼻で笑ったが、それで手許を狂わせる要因にはならない。発射薬の炸裂が二度、手許で轟音を上げて火を吹く。閉鎖的な空間を想定していたが、どうやら存外に広いらしい。反響した発砲音が鼓膜を痛め付ける事はなく、発砲炎は闇を少しも晴らせずに飲み込まれた。

 夜目が利いてもいないのに、不思議と弾丸の射入孔を具に観察出来た。二つの小孔が、極めて近い位置に穿たれている。我ながら、大した御業だ。その外縁が、次第に黒ではない色を浮かばせる。視細胞にこびり付いて離れない、暗色の赤。各々の小さな孔から、粘性の赤が筋を引く。嫌悪が心臓を握り締める。武器がもたらす余裕が砕け散る。鼻筋を脂汗の珠が通過した瞬間には、もう遅かった。差し出された触手が突として腕を絡め取り、手首の関節を強かに捻り上げられた。虚空へ放り出されたブローニングが、足下で重い衝突を響かせる。空いている左腕で武器を手探りしたが、その前に何条もの拘束が全身の自由も奪った。

 射入口の周辺が盛り上がり、次第に形を成してゆく。色も粘っこい黒ではなく、青ざめた土気色へと変じる。重なっていた穴が、各々別の場所へと平面座標を移動する。やがて停止した孔を中心に、粘着質の物体は新たな造形をかたどる。人の顔――それも、知った顔だ。右は五歳くらいの男児、左はその母親。彼らの死に濁った瞳が、煮詰まった恐怖を訴えていた。触手が首にまで巻き付き、肉を引き千切らんばかりに締め付ける。引き剥がそうにも、軟体の触手は振り解く動作に追従して更に絡み付く。血の気の失せた顔が、こちらを見つめている。

 忘れもしない親子。細動する二組の双眸に、正気を失いかける。慄然から逃れられず、呼吸困難に眼球が突き出る感覚があった。脂汗が眼孔に落ち込み、泡立った唾液が顎を伝う。首の骨が軋み、死がほんの手の届くところにまで迫っていた。

 ――あの日、俺は配送の使いを受けたに過ぎない。選択権のないこちらには、何の落ち度も認められなかった。偶然にもあの場所に居合わせた、やつらにこそ非があった。死んだらそこで終わりだ。立ち塞がる障害を排せない、人生をやり通す力の行使を放棄した弱者が、生存競争から落後しただけ。たった一つの命も守り切れない輩に、祟り殺されるいわれはない。悔い改めてなどやるものか。生き延びる為でなく、二つの怨霊を今一度殺す為に、取り落とした銃をがむしゃらに足で探った。――死にたくない。その両足さえもがあえなく絡め取られ、体躯が地面を離れる。気管が自重で一層締まり、酸素の供給が余さず断たれる。――ああするしかなかったんだ。意識が朦朧と霞む。視界から暗黒さえもが消え去り、何かが砕ける音で目の前が真っ暗になった。



【11】


 勢い目蓋を開いた先に、血管の浮き出た自分の腕が伸びきっていた。耳障りで不規則な動悸が五月蝿く、起き抜けの思考を掻き乱している。肌に張り付いた下着と寝間着が、皮膚呼吸を阻害している。衣類に染み込んでいるのと同じ液体が、額に滝を作っていた。天井を見上げると、我が家で見慣れぬ出来過ぎた女中がいた。ランタンスリーブ(提灯袖)のない黒色のドレスに純白のエプロン、飾らないカフスとホワイトブリム。お名前はブリジット。昨晩から、うちのメイドになった女の子だ。よかった、こいつは現実だ。どうしようもなく浮世離れした現実だ。そしてどうやら、いい事ばかりでもないらしい。

 ブリジットはすこぶる怯えを孕み、腰も引けて俺を見下ろしていた。胸の前に、細い指で拳銃を抱いて。見返すと、俺の腕はテーブルへ伸ばされていた。就寝前に、銃を置いた場所だ。銃の位置がそのままなら、今頃はどうなっていたか。寝起きの面というのは余程の美人や色男でない限り醜く、見る者全てを魅了する素敵な傷跡野郎も例外ではない。まして、酷くうなされた後のそれだ。最早、言い訳の一つ二つで切り抜けられる案件ではない。もし拳銃が元の位置のままで、悪夢に囚われた俺が現実との境を見失っていたら?薬室は空であった。だが、それも結果論に過ぎない。何が起こっていても不思議ではなかった。ひょっとすると、ブリジットに取り返しの付かない傷をこさえる可能性さえあった。

 依然としてブリジットは銃を手に警戒を示し、如何様な言葉を掛けようかと躊躇っていた。彼女が奇声と混乱に身を任せる子でないのを、祈る神もいなかったので、暫定的に親父に感謝した。内心で失態を嘆いて目許を拭う最中、狼狽するブリジットが必死に取り繕う。

「すみません、そんなつもりでは……その、うなされていて……!」

 「そんなつもり」がどういった内容であろうと、俺に彼女を責める資格はない。現状だが、第三者視点からは、使用人が主人の寝首を掻き損ねた場面に映る。可哀想な子だ。掌の水分を寝間着の裾に吸わせ、そっと小さな頭を撫でてやる。ふやけた掌の接触に、ブリジットが身を竦ませる。ロシアマフィアの大御所の気分だ。それでも数秒を経ると僅かに警戒を解いて、肩の微震も収まった。空いている手で銃を彼女の手から抜き取ると、再び張り詰めて涙目になる。虐める腹づもりはないのだが、如何せん手にした玩具がいけない。弾倉を抜いて薬室の安全確認を行い、大分軽くなったそれをブリジットへ手渡す。彼女は雇用者の突飛な行動に対処を考えあぐね、上目遣いで返答を求めた。

「その……悪かった。今後またこんな事態があるとまずいし、しばらく預かっておいてくれる?その方が助かる」

 銃にみだりに触れるなと命じておきながら、何たる言い草かと苦笑した。のっけからやらかしてくれたよ、お前ってやつは。どうやら殺されるのではないと理解したブリジットは〈シグザウアー〉をおっかなびっくり受け取り、ハンカチに包んでスカートのポケットへ収めた。俺は俺で職場に行ける見てくれでなかったので、重い足を引きずってバスルームへと這った。すれ違いざまに窺ったブリジットの表情は、恐怖から哀れみを含んだものへ移り変わっていた。

 シャワーの湯で肌を焼くのが生の実感に縋る様で、矮小な自己が際立って感ぜられた。傷跡の一つひとつが、自らの生き字引だと暗示を掛けてきた。だのに、大層な史跡は現実には箸にも棒にもつかない。こいつは一種の交渉だ。昨日知り合った間柄に、元より信用などありはしない。そこに一定の信頼関係を築き、円満とは呼べずともある種の共生関係を構成する。奴隷は――駄目だ、メイドにしよう――雇用主に依存する運命だから、否応にも家主に従事しなければならない。俺個人としても十万ポンドは死ぬほど手痛い出費であるから、どうにか元は取りたい。心苦しいが、彼女にただ飯を食らわせる訳にもいかない。ちょっとくらいは、雑用を押し付ける必要性が生じる。それも、枕営業を抜いた分野で。はて、そいつは生身で軍艦をやっつけるくらいの戯れ言だ。だって、あの細腕に何をやらせろと?

 葛藤しながらぼろぼろのタオルで身体を拭っても、重い苦悩が肩を離れない。貧乏臭くて垢抜けない衣服に袖を通して陰鬱にダイニングへ戻ると、異常事態が発生していた。独り身の軍人は、朝食に贅沢なんぞ言わない。数枚のトーストとベーコンに、二つくらい目玉焼きでもあれば事欠かない。一人暮らしを始めてからこの方、そう思い込んでいた。「イギリス流の朝食は、毎日たっぷり!」手間を理由にその常識から目を背け続け、士官学校時代は食堂に入り浸り、SASに入ってからはべとべとした不味いロールケーキを胃に詰め込む事で、昼を乗り切っていた。夜は言わずもがな、陰気に酒場の厄介だ。

 それで、目下のテーブルのこれはどういった変わり様か。トーストにはバターが塗られ、中央の大皿に大量のジャーマンポテトが鎮座している。彩り豊かなサラダが緻密に盛り付けられ、ご親切にひっくり返されたマグカップまである。目玉焼きの姿はなかったが、代わりに形の整ったポーチドエッグが煌めいている。瞬時にテロリストと人質とを見分けられる俺様が、プロボクサーのパンチを頬桁に喰らったみたいになっていた。頭の中に住む小さな俺が脳味噌を叩き起こしたところで、ようやく状況描写に適した回答が導き出された。うちに料理が出来るメイドさんがやってきたぞ!そういえば、歩兵だけでアルゼンチン艦を撃退した英海兵隊なんてのもいたっけな!

 キッチンでは朝食を独力で作り上げた張本人が、ステンレスのポットに紅茶を用意している。疲労が溜まっていたとはいえ、寝ている主人を起こさずに、あれらの料理群をこしらえたのだ。畏怖をも覚える手際に、生唾を隠せなかった。こやつ、出来る。唯一の不満は、取り皿と椅子が一人分の用意だけという、彼女の卑屈さのみであった。

「どうも席が足りない様だけど?」

 給仕さんが、目を丸くする。物言わずに己が均整の取れた顔を指差し、衝撃と言わんばかりに見返してくる。それから歯痒い程に緩慢な動作で、食卓へ目を向けた。他に誰がいるんだい、冗談抜きに除霊が必要になっちまう。大きく首肯してやると、お手伝いさんはばつが悪そうに俯いてしまった。意図せず虐めているみたいだが、両者の立場を対等に近付けない限り、当方の主眼が達成されない。これはエゴではなく、双方にとって利得のある取引なのだ。説得力は皆無だが、とかく自分の言い訳っぽい逃げ腰を抑えてやる義務があった。ヒルちゃんの内側には、保守派と漸進派が同棲しているのを認めざるを得ない。

 椅子を俺が用意して、食卓に二人して着く。やはり、ブリジットはきまり悪さから煮え切らない様子であった。じきに慣れる。そう言い聞かせていた対象は、自分だったのかもしれない。どうやら食前の祈祷の習慣はないらしく、こちらとしてもやり易かった。料理は何れも美味を極めたもので――驚くなかれ、味がある!――そこそこ高級な店で出しても遜色のない腕だ。率直に褒めると、少しばかり気恥ずかしげに目を細めてくれた。いかん、恋に落ちそう。こんなので勝手に騙されるから、男という生物は救い様がない。

 数年振りにイギリス人としてまともな朝食を終えると、慣れた手付きでブリジットは食器の片付けに取り掛かった。俺が手伝おうとすると、恐れ多いと断られてしまった。無理強いするのもよくないかしらと退いたが、手持ち無沙汰なのも居心地が悪かったので、出勤前に出来る限りの用意を残した。親父と俺の携帯番号、PCのパスワード、最寄りの施設をマーキングした周辺地図。それから「何かあったら連絡してくれ」と記した封筒に、諸費として五十ポンドを収めて彼女へ渡す。かなり躊躇ってから包みを受け取ると、家主の行動が気掛かりで仕方ないという笑顔を向けられる。来たばかりで生活の勝手にも不自由するだろうから、次の休みに街へ連れ立つべきだろう。

 ナイロンの鞄を抱え、玄関で部屋履きからブーツへ足を突っ込んだところで、ブリジットがぱたぱたとカーペットを踏み鳴らして駆けてきた。腕には膨れたパトロン紙の袋が抱えられている。茶色の包みが、こう語り掛けてきた。「俺は弁当だ」そうか、お前は弁当か。何処の生まれだ?成る程、分かったぞ。不安も露わに、ブリジットがおずおずと紙袋を差し出してくる。ライオンの餌やりみたいだ。

「殆ど朝の余り物ですけど、ご迷惑でなければお昼にどうぞ」

 あれだけの御膳を振る舞っておきながら迷惑もへったくれもないと苦笑したが、果たしてこの実に遠慮っぽいのが彼女の本質なのかと疑念を抱く。この子の内を知れる日が訪れるか知れたものではないが、今は地道に親交を積むしかない。なあに、彼女の孤独に由来する心痛に比べれば、神経がちょっと目の鋭いおろし金で血だらけになるのなんざ、二二口径の拳銃弾を腹に喰らう様なもんだ。運が良ければ病院送りで間に合うし、悪ければ死んじゃうだけで済む。段々と錯乱してきたので、強張った笑みで礼を言って家を出た。朝からいやに疲れているのは、何も歳の所為だけではないだろう。

 毎度機嫌の悪いエンジンを吹かすBMWで走り出し、弱ったサスペンションがもたらす揺れで、骨張った尻が痛め付けられる。不快感の原因はそれに止まらない。朝食は美味かったし、ブリジットの表情は堅苦しかったものの、純粋に可愛かった。だが、不覚にも出逢って半日の相手に、化膿した傷口を晒した愚行を赦せなかった。化粧でべたべたなメイドの脇を走り抜けた際、噛み締めた奥歯が軋んだ。


 幾つもの検問を通過し、自分の所属するCT(対テロリスト)チームの車庫に車を収め、食堂でたむろしている同僚に会うと、幾らか気が休まった。ヴェストに至っては、何も言わずに抱き締めて背中を撫でてくれた程である。女だったら、一発で堕ちていた。電話に出なかった件を謝罪し、教練軍曹と訓練の打ち合わせを済ませると、各自へ与えられた部屋で黒ずくめの戦闘服に着替えた。入隊直後でヘリフォードに来て間もない新米や、そもそも家を買わない連中は、このベッドと装備が転がっているだけの狭い部屋に寝泊まりする。この狭さから来る閉塞感が、俺を含めた兄弟には耐えられなかった。各々が特殊な来歴を有しているが、誰ひとりとして幼少期を暖炉のある開放的な家で過ごせた身の上ではない。俺の場合は、ニッパーを片手に日々を消費していた。時には鋭利なナイフを袖口に潜ませ、幾多の罪業を積み重ねた。いつしか凶行への罪の意識は薄れ、保身のみに気を配る様になっていた。それでも、無関心ではいられなかった。罪は肉やジャガイモと違って、腸内で自然に消化されない。本人の自覚なしに、長い期間を経て心とか頭の片隅に堆積していく。そのまま短命に死ねば、自身よりも大きく育った怪物と接触せずに済む。何かの拍子でそいつを隠している靄が晴れてしまえば、受け入れ難い現実と対峙して、精神は急速に蝕まれる。事象というのは、望まぬものに限って実現する。必死に目を背けていたのに、悪運が堰を切ってしまった。凍り付いたままでいてくれたらよかったのに、温水でゆっくりとほだされる暇もなしに、心が砕け散った。暑苦しい戦闘服に着替え終えた頃には、またも湿った気分に陥っていた。

 完全武装で個人部屋を出ようとするなり、ドアがノックなしに開かれる。デリカシーのない教練軍曹が一人、アーロンの仕業だ。現役を退いて久しい三八歳で、数いる教官の中でも突出して忌まれている。そんな男から、こちらが用件を尋ねる間もなく、すぐに元の服に着替えろと命令があった。その浅黒い顔に、面白げな笑顔が張り付いていた。それで事情を察し、社交辞令の笑みを返して戦闘服を脱ぎに掛かった。くそ、最悪の日だ。


 基地本部から少し離れた『キリングハウス』の正面に、〈ヘッケラー&コッホ〉のMP5サブマシンガンを携えた、中隊の半分が集められた。部隊の内訳は機動小隊と、兄弟も属する航空小隊だ。黒色の物々しい戦闘服とSF12レスピレーター(ガスマスク)で武装する隊員に対し、分隊長を務めるクラプトン兄弟は場違いな平服で混じっていた。

 キリングハウスは二階建ての建築で、中央を走る廊下の両脇に、幾つもの小部屋が連なっている。標的として、国際色に富む犯罪者が描かれた書き割りと、人質のそれが配置される。至る箇所に設置されたカメラが部隊の動きを記録し、壁には跳弾防止に特殊なゴムが貼られている。内装が自在に変更可能で、一般住宅から大使館の一室まで簡単に模倣出来る。極限まで現実に沿った訓練を実現し、米陸軍お抱えの強襲部隊:デルタ・フォースの訓練施設たる『恐怖の館』のモデルにもなった、SASの象徴的存在だ。ところがこの施設の使用にあたり、最も不名誉かつ貧乏くじな役回りというのが存在する。それ即ち、人質役だ。

 教練軍曹が普段着組の手首を後ろ手にきつく縛り、キリングハウス内部へと歩かせる。廊下を進んで間もない部屋でヴェストが座らされ、頭に麻袋を被せられた。布地に全て隠れる間際まで、その美貌が物怖じもせずにへらへらしていた。俺には真似出来ない。生きているのが不思議なくらい参っているくせして、今生への未練があり過ぎる。別の部屋に監禁されたショーンとジェロームも同様で、さも楽しそうに麻袋へ頭を通した。せめて目隠しだけはと念じたが、俺もお揃いの格好にされて、施設端の部屋へ放り込まれた。

 麻袋のほつれ目から、微弱な光が射し込む。コンクリートの床の無機質な冷たさが、布越しに伝わってくる。こんなところで死にたくない。部下を信用していないのではない。つい先日の訓練では、書き割りの頭部に六発も撃ち込んだやつがいた。これには如何なる屈強な男も絶命に至る。穴が空いたのは、人質のやつだったが。この部屋の書き割りは、二枚の敵が俺を挟む位置取りで立っていた。

 連隊(SAS)は時として、人命を賭してまで隊員に人質を演じさせる。実戦で人質の救出に当たる場合、彼らは木の板よろしく黙って座っていてやくれない。だからこそ、連隊は可能な限り実戦に近い状況を作り出し、隊員に非人道的な訓練を課す。対する人質役も捕虜に取られた際の心境や、すぐ隣を弾丸が掠める恐怖を経験する。副次的ではあるが、同僚との信頼を醸成する効果も含まれている。

 と、先達はご高説をのたまうが、俺はこの役回りに辟易していた。丸腰の無力な存在になるのが不安でたまらない。部下の育成の為とはいえ、要らぬ死に目に見舞われるのは遠慮したい。おいアーロン、頼むから代わってくれ。

 誰が真っ先に突入するのだろう。まさか数部屋を制圧するのに、三十人いる二個小隊の全員を突入させる無茶はなかろう。手塩にかけた航空小隊の面々が投入される未来を祈った。機動小隊の連中に鉛弾を叩き込まれるくらいなら、せめて同胞の弾で斃(たお)れたい。

 首筋に冷や汗を生じたのと時を同じく、遠方から金属の殴打と摩擦が空気を引き裂く。隠密性を捨て、迅速かつ瞬発的な暴力性に物を言わせる手順を採ったらしい。敵を瞬間的に無力化するフラッシュ・バン(特殊閃光音響弾)の炸裂と、乾いた銃声が屋内を跳弾する。麻袋を介した鼓膜を振動する度に、心拍が不規則に歪む。肩が震え、寒気が身を包む。誰とも分からぬ怒号が飛び交う距離が、秒刻みに縮んでいた。涙こそ出ないが、股間がじっとりと汗ばんでくる。唇をきつく噛み締めたが、それで気が休まる道理もない。殆ど平静を手放したのと同時に部屋のドアが荒く開かれ、重厚なブーツが踏み込んでくる。手を伸ばせば届く距離で、フラッシュ・バンの爆音が弾ける。聴覚の狂った世界でけたたましい発砲が続け様に起こり、すぐ傍に木片が砕け散る。神経が限界値を振り切った。自我を離れた身体が叫びを上げて床へ突っ伏す。尿道と肛門が弛緩しなかったのは奇跡に近い。制圧完了の怒声。太い腕が濡れた腋へ割り入り、およそ引きずられる形で運び出される。長い廊下を半ば担ぎ上げられて揺られる最中も、俺は人ならぬ音を喚き散らしていたらしい。

 戸外へ転がされて拘束と麻袋を解かれた時には、顎に多大な疲労感を抱えていた。湿っぽい微風が汗まみれの身に厳しく、骨まで冷え込む。監禁場所から解放された先では、分厚い雲が陽光を遮っていた。

 手首に生じた麻縄の跡をさすりつつ、キリングハウス脇に停まる、撮影機材の詰まった特殊車輌を覗き込む。車というより、映画マニアの秘密基地みたいだ。積み重なるモニターへ食い入る教練軍曹に今しがたの突入の評価を仰いが、ろくでもない神経伝達物質が残ったままで、唇が上手く動かなかった。

「最高だね。部屋を八つ回るのに、八人もいて二分掛かってる。人質は一人も残らなかったな。お利口な坊ちゃんは、敵かどうか識別するのに三秒も掛けてる。注意深いな、刑事になるにはいいんじゃないか?あとはヒル、お前のアドリブは傑作だったよ。あの雄叫びで全体の動きが鈍くなったんだ!」

「そりゃどうも」

 こいつの口からは、いつだってうんこしか出てこない。趣味悪い笑みを浮かべる教練軍曹に、生茹での作り笑いを差し向けた。くそ野郎、演技じゃねえよ。目尻までひきつる間際に、背後からショーンが肩に腕を回してきた。供給過多なホルモンが、ようやくで分解されてくれた。

 モニター群で、黒ずくめの連中が実験マウスみたいに駆けずり回っている。ドアを片っ端から蹴り開けたり、ショットガンでヒンジをひん曲げたりとやりたい放題だ。確かに暴力的で娯楽性には欠かないが、口惜しさにこめかみを掻いた。教練軍曹に同意するのは反吐がこみ上げるが、殆どの隊員が原隊の習慣を捨て切れていない。評価の確認に、件の突入班がレスピレーターを外してやってきた。成る程、航空小隊の、入隊して一年も経たない青二才ばかりだ。嫌味を受ける用意をしておけと、指でバツ印を送る。突入班の間に、渋い表情が拡散した。その中でただ一人、余裕げに鼻毛を引っこ抜いている若造がいた。軒並みの隊員が建物の制圧に手間取った中、例外と呼ぶに値する働きを見せたそいつは、名をダニエル・パーソンズという。生粋のコクニー(ロンドン子)で、身の丈が一七〇センチちょっとのこいつは、昨年の選抜訓練をほぼ無問題で通り抜け、追随する継続訓練でも専門知識を貪欲に吸収している。艶のある硬めの巻き毛、小憎らしさのある顔立ち、何より二三という若気に溢れた年齢は特徴的で、仲間内での評判も良かった。加えて、対象がヴェストやショーンにであれば疑問を抱かないが、物好きにも入隊当初から俺に懐いていた。自分の理想を投影していたのか、俺もこいつを贔屓目で見ていなかったとは言えないし、あけすけな嘘を吐いてまで隠蔽する事でもない。

 人質役で何やら疼痛にも似た心労とストレスを負ったが、どうやら不必要に頑健な我が身は、まだ仕事に意欲的らしい。いつの日か物理的にやっつける予定の教軍曹の指示で、装備を身に着ける。その間に別の班がキリングハウスに突入したが、最初のものより拙い結果に終わった。さっきのが初めての社交ダンスなら、こっちは小学生の学芸会だ。

 新人の技能不足においてはその実、お国に責任がある。今日の社会情勢から、通常部隊の枠組みにはまらない専門家集団――特殊部隊への需要は上昇する一方だ。頭数の増加が急務であった。この風潮はSASへも波及しており、選抜訓練で要求される規定水準の低下は避けられなかった。玉鋼のごとき精鋭集団に、大量の不純物が混入した。昨今の紛争における人的損耗が、それに拍車を掛けているのも見逃せない。

 モニターの中で動く人影が、次第にゴキブリに見えてきた。今日も大事を取って休暇を取るべきではなかったのか。本国に待機しての対テロ勤務期間中は、お上の発令とあらば、我々は基地へ丸裸で出頭しなければならない。とはいえ基本的には受動的な勤務であり、身体能力と戦闘技術を維持していれば、組織からお咎めはない。それでも各自がこうして身に鞭を打っているのは、それだけこの職に愛着を持っている為であり、自らの向上を願って止まぬ克己心がもたらす、ある意味での自己主張である。これが俺の様な士官になると士気云々で兵士の規範となるべきなのだが、ここ数年は階級ばかりが独り歩きで、ちょっと喧嘩のやり方を心得たろ物ぐさという印象が強い。こいつはまずい。存在さえも危うい信頼を取り戻すべく、そろそろ身の振り方を改めるべきか。これも自己の欺瞞だというのは、自明の理であるが。

 録画された映像を若手に見せ付けながら、教練軍曹がねちっこくがなる。声量が無意味にでかい。あの野郎、鼓膜を叩き破るつもりか。ジェロームに至っては、物陰で耳栓を丸め始めた。老人の無為な講釈をまともに聞いてなどいられないので、M16ライフルの動作機構を妄想してやり過ごした。「馬鹿みたいに無防備に頭を――」がこっ!「立ち止まってる暇なんかあったら――」がちん!「つべこべ考えずに敵の――」ぱーん!ああ、面白い!

 社会不適合者の独白と愚痴が終わり、何やら分隊長らで突入の手本を見せる話の流れになっていた。煩雑な苦悶を吹き飛ばすには、この上なくおあつらえ向きだ。訓練の最中は、それだけに思考を割り当てられる。仮定された現実とだけ戦えばいい。年端もいかぬ時分から戦場へ身を投じてきた身には、これが最も性に合っている。

 突入の準備に数分間が与えられたが、装備の点検にあてる余裕はなかった。若手が指導を求めて、小隊長らに押し寄せたのだ。各々が好き勝手に質問をぶつけてくるのに対し、回答を投げ返すので手一杯だった。頼れる長兄と一撃必殺の三男を師と崇めるなら納得がいくが、彼らは淫蕩末子やぐうたら次男にまで純真な生徒の眼差しを向けた。遅刻を筆頭とした規則違反が褒められた行為でなかったとはいえ、悪い上司をやらなかったのが報われた。安い給与で貧窮する若造に、度々ビールやチップスを奢ったりしていたのが功を奏した。模範的ではなかったが、若人の憤慨や相談に付き合う、それなりに分別ある身の振りではあったらしい。だらしはないが、理由なしに他者の否定はしたくない。おまけに甘い汁に預かれる可能性のある相手に、文化的生物が集うのは実に合理的だ。

 それがわざわざ俺を目当てに来る弟分がいる説明にはならないが、怒鳴り付けるだけのアーロンに誰も――一人として!――教えを請おうとしない事実が、人徳の儚さを物語っている。作戦中に脚を負傷するまでの現役期間、彼は腐心していたのは、いつだって目上へのシナ作りだった。

 恨むべくは、この無意識が同族以外には作用しない、意識的な行使が不可能であるぶきっちょな性質であった。要するに、軍の仲間とはよろしくやっていけるが、一般人との円滑な交流は望めない。若い女の子とお喋りなんて、どだい無理な話だ。お陰でエリート路線に乗るのが当然、最前線でお国の敵へ鉛弾を贈る立場に一生ならない『持てる者』の集うサンドハーストでは、無価値な孤立を味わっていた。

 そして上司が心苦しさを噛み締めている間も、可愛い部下は悪気なしに質問責めで窒息させんとする。随分と肉付きの良い雛鳥だ。忙しいから後でと言うのに、誰も聞いちゃいない。見なされたところで窮屈なだけだが、誰も俺を将官と認めてくれず、根暗ぶってる気分屋だと思われている。とはいえ、当の本人もこの不当な認識はやぶさかではない。


 実戦同様の重装備で施設の入り口に立つと、脳の旧皮質から闘争本能が涎を垂らして這い出てきた。胸と背中に装備した、セラミックの抗弾プレートが重い。如何なる訓練であれ、実戦と同じ、或いはそれ以上に負荷を掛ければ、然るべき折にそれが活きる。訓練が厳しければ、本番はそれだけ楽になる。言うは易しで、これをまともにやるには並ならぬ克己心を要求される。だからと自分達が優れた人間だとは示し難いが、自負と矜持がなければこんな仕事はやっていない。

 人質役はアーロンが数人を指名しており、先程と同様の状態で拘束されている。人数は知らされず、敵の位置も変えられている。隊員の注目がクラプトン兄弟に向けられているのが不愉快らしく、アーロンはぶすっとしてモニター前に陣取っていた。彼の怒声が突入の合図だ。隊列は一本の縦列で、先頭に〈ベネリ〉M4ショットガンを脇に吊すジェローム、次いで俺、ショーン、ヴェストと続く。各々が、専用のクリップで連結された弾倉を銃へ押し込んだ。先台(ハンドガード)に〈シュアファイア〉の大光量フラッシュライトが捻じ込まれたMP5をしっかと肩付けし、呼吸を落ち着かせる。訓練であれど、強烈な緊張と興奮が神経を満たす。これをやる為に、連隊に入ったのだ、楽しくて仕方ない。皮膚に密着したレスピレーターの所為で、自分の呼吸が尚更にやかましく聴こえた。

 同時に、強力な武器を手に安堵もあった。やはり銃はいい。心に無償の愛で安寧をもたらしてくれる。それが高級なドイツ製であれば、皆まで語るべくもない。樹脂の面の下で、現実の不安も余所にほくそ笑んだ。

 首筋の汗が背に伝った頃、罵声に等しいアーロンの合図が放たれる。ジェロームが陸上選手よろしく駆け出した。密着した距離を維持して俺も続き、後方から同じ動きに追われる。ほの暗く味気ない廊下が視界に展開し、四組のブーツが硬い地面を音もなく走る。レスピレーターで狭められた視界が、発電機の如く揺れる。ジェロームが前方右手、一つ目の木製ドアへと目標を定め、その脇の壁に張り付く。そのままドアノブに手を掛けたが、鍵が掛かっていた。即座にMP5からショットガンに構え直し、ドアの新品のヒンジ目掛けて発砲する。耳を聾する大音響と共に、三発の特殊弾薬(ハットン・スラグ弾)が上下の金属板と錠をねじ切った。ジェロームがMP5を持ち直して廊下へ警戒を向け、あとの三人が俺を先頭に部屋へ突入する。穴だらけのドアに肩からぶつかって部屋へ飛び込み、後続がつかえない様に部屋の隅へ進みつつ、視線を巡らせる。敵の書き割りは見当たらず、横倒しされた人質役がいるだけだった。制圧の完了を叫ぶが早いか、今度はヴェストを先頭に対面の部屋へ突入する。鍵は掛かっておらず、ヴェストは胸に収納されたフラッシュ・バンを室内へ投げ込んだ。部屋の壁に衝突した円筒缶が、百万カンデラ超の閃光と百八十デシベルの大音響で室内を蹂躙する。我々はレスピレーターに特殊な黒いレンズを装着しているので視界を失わずに済むが、人質やテロリストは一時的な見当識障害を被る。SASが対テロ部隊を創設して以来、欠かさずに使い続けている逸品だ。

 燐やマグネシウムの化学反応で生じた白煙の中へ、ライトを点灯して踏み込む。室内には黒いバラクラバ(目出し帽)を被って銃を手にした男の書き割りが二枚あったが、最後尾の俺が室内を覗いた時には、頭部に風穴が幾つも空いていた。

 壁沿いに次の部屋への突入は、俺が先頭を務めた。ドアの隙間から投げ込んだフラッシュ・バンが炸裂する前に身を滑り入れると、敵の存在が確認された。部屋の中央に、マグカップとポットが置かれたテーブルを挟んで二枚。人質はいない。慣わしでMP5の銃口は初めから殺害対象へ向いており、後はそこに細かな修正を加えるだけでいい。ライフル弾と比較して大人しい発砲炎が銃口に生じ、背後のショーンが銃を構える頃には、書き割りにおびただしい数の穴が穿たれた。

 機械的な反復作業がその後も続き、最後の部屋には人質三人が転がされ、五枚の書き割りが乱立するという呆れた演出が待っていた。各々が無心で人体の急所を撃ち抜き、全目標の無力化の後、廊下を駆け戻って施設を飛び出した。


 今しがたの突入映像が再生されるモニター前に、隊員が押し合いへし合い集っていた。ポルノビデオの上映会だと説明されても、誰も疑問を抱くまい。映像を元に隊員の動きを分析し、各々の改善点を指摘するのが教官らの仕事である。興味深い事に、ごろつきばかりの隊員はそれらしからぬ態度で教習に臨む。克己心の塊であるが故に、適した餌を用意してやれば大人しいものだ。可愛い奴らめ、むさい顔以外は。

 兄上様が「喉が渇いた」と舐め腐った理由で指導役をなすり付けてきたので、「一時停止」の手垢まみれのマウスを手に講釈を垂れる羽目を喰った。

「えー、一人の失態が全員の死に直結する。何がしかのトラブルが起きたら、すぐに大声で伝えろ。いいな、大声でだ。どんぱちやってても聞こえる様にな。スタン、ちょっとやってみ」

 隊で一番背の低い同期のスタンに命じて、耳元で叫ばせる。「掩護しろ!」ちくしょう、ホルンに頭を突っ込んだみたいだ。年甲斐もなく身体を張るもんじゃない。凄惨な耳鳴りに襲われたが、左の耳を庇って続けた。

「うーん、今の通りだ。ちょっと五月蝿いくらいが丁度いい。まあ一番大事なのは、無用な障害を避ける事だ。銃はちゃんと整備しておけよ。別に俺が言えた義理でもないが、支給されてる玩具はお高いんだ。てめえの女よりも大事に扱え」

 選抜訓練を生き延びた者へわざわざ垂れる程の御託でもないが、軍人なら聖書に加筆しても遜色ない項目だ。日本の板前は、商売道具たる包丁を常に最高の状態に保っている。我々なら銃が相当する。さるべき時に予定外の動作を起こす事態があってはならない。肝心なのは、どれだけ丁寧に整備を施しても、銃は支障に見舞われる可能性が付きまとう点だ。こればかりはヒト手の及ばぬ分野である。刃物と銃で部品数が違い過ぎるのがいけない。銃と称している所為で一般人は意識していないが、彼、或いは彼女らは――何らおかしな表現ではない――機械なのだ。油を定期的に注してやる必要があるし、汚れたら掃除しなければならない。部品が老朽化したら該当箇所の交換も必要で、甚だ面倒臭い。そう、だからこそ可愛い――。


 キリングハウスでの訓練を十五時過ぎまでぶっ続けでやり終えた我々は、疲労の溜まった銃を丹念に労い、凄まじく『美味しい』料理の数々を無償で提供して下さる食堂でカロリーを補給した。ブリジットがこしらえたベーコンのサンドウィッチが、空っぽの胃腸を癒してくれる。基本的には朝食とは変わらないが、冷めて湿気たトーストでも味を保っている。付け合わせに茹で卵が二つ用意されている辺りも抜かりない。脂っこいクリームがべたべたするロールケーキ(基地の備え付け)を片手にしたジェロームが、隣で恨めしげに睨んでいた。鬱陶しいので止めて戴きたい。構わずパンの咀嚼を続け、茹で卵の拉致を企てる愚弟の、いけない手をはたき落とす。強か内出血の生じた手をさすりつつ、お馬鹿な弟は不遜な目を向けてくる。何処に当方の落ち度がありました?

「なあ、どんな子なんだよ」

「何が」

「ほう、とぼける。買ったんだろう?奴隷だよ」

「その名詞を使うな。メイドとか、お手伝いさんと呼べ」

 ジェロームは呆然と言葉を失ったが、反論はなかった。普段はろくな発言をしないが、空気を読めない風ではない。単におつむが宜しくないだけだ。

「で、そのメイドさんってのはどうなんだよ。美人?それとも可愛いの?」

 この男だから想定はしていた。女と聞いたら見境のない駄馬め。出し渋る程の情報でもないが、こいつに教えるのは癪だ。新月の夜に、うちの防犯設備を無力化してでも夜這いに来ないとは限らない。こいつの出自からすれば、それも不可能ではない。

 二つ目の卵の殻を剥きながら返答に思案していると、食堂の入り口からショーンとヴェスト、ダニエルが春のミツバチよろしく飛んできて、俺を取り囲んで座った。参ったな、退路が失われた。兄弟は、俺がメイドを家に招き入れたのを耳に入れているだろう。ダニエルは興味本位といったところか。平静を装って卵の脱衣を続けたが、ジェロームが顎髭を武器に詰め寄ってきた。「髪色は?おっぱいはでかいの?美人?それとも不細工?」止めろ!ちくちくした金色が頬に痒い!

「寄るな気色悪い。発疹が出る」

 卵を一口で平らげ、悪辣ににやける野郎どもの顔を窺った。どうも逃がしてはくれないらしい。腹を据えるしかあるまい。

「……たっぱは百六十センチもない。年齢は十八で、血液型はA型。髪色はくすんだブロンド。色味はそう濃い方ではないな」

「おっぱい」

 わざわざ性的な特徴を避けているのに、ジェローム君はしつこかった。さしもの優しいお兄様でも、固めた拳をぶつけたくなる。

「……そう大きくは、ないんじゃないかな」

「ジャガイモくらいか?」

「いや、見た事はないが、そんな酷い形はしていないだろう。おい、ダニエル。お前、こんな与太話なんざ聞いても面白くないだろう」

 色の沈着したマグカップのコーヒーを啜る後輩は、事もなげに肩をすくめた。

「この件に関しちゃ、最初から存じてましてね」

 ちくしょう、親族以外にまで漏れてやがる。結局、端からこいつらの掌で哀れに踊らされていた訳だ。可哀想な俺!そんな惨めな俺に、ジェロームが追い討ちを掛けてきた。

「じゃあ何だ、おっぱいの大きさに関しては頓着がなかったのか?それとも、おっぱいの小さい子を選んだの?」

「お前の頭の中が、おっぱいとおめこだけなのは知ってるよ。でもな、訊くにしても他にあるだろう」

「失敬な、尻とかふとももなんかも忘れるな」

 お前に比べれば、大概の失敬なやつらは紳士だよ。

「で、大金はたいておいて訊くものでもないが、上手くやれそうか?」

 ヴェストに紅茶のカップを差し出してくる。それを受け取りつつ、言い淀む。上手くやる?ブリジットと円滑な関係を築きつつ、自らの傷跡を埋めるなど、そんな芸当が叶うだろうか。

「はっきり言って、かなり困難を極める。彼女……ブリジットは繊細だし、何の苦労もなしに済むとは思えない」

 それに、今朝の一件は大きなマイナスだろう。どう埋め合わせするかも見当付かない。最初から絶望で真っ暗だ。カップの内へ吸い込まれる錯覚で気分が塞いだところで、ヴェストが肩に手を置いてきた。

「何かあれば連絡しろよ。どうせお前の事だし、既に大分やらかしたんだろう?」

 女が彼に惹かれて堕ちる理由の片鱗を知った気がする。この男の言動からは下心が感じられないのだ。力強く温かい掌から、麻薬に近い成分が分泌されるのかもしれない。

「近い内に酒場にでも連れてこいよ。こっちとしても、見知っていた方が対処し易い」

 俺とは方向性と度合いが異なりながら、女性恐怖症を抱えているショーンが魅力的な提案を示してくれた。お前さんのトラウマが治って、早くいい女が出来る事を祈るよ。

「家に帰り辛かったら、うちにも空き部屋の一つくらいありますぜ」

 歳の離れた愛弟子に、こうまで言って貰えるとは思わなんだ。下手くそに微笑んで、今度ギネスのケースを持って行こうと誓った。

「いつでも電話してくれ」

 鼻息荒くジェロームが寄越したメモ用紙には、電話番号がきざな書体で記されていた。おまけにどぎつい香水まで振り撒かれているらしい。当然、俺はやつの電話番号も住所も把握している訳だから、こんなものを貰う意味はない。だから無言でライターをヴェストに借りて着火した。おお、アルコールでよく燃える。

「あの子に連絡を付けるなら、俺を通すんだな」

「お兄ちゃん、独占はよくないよ。女の子は須らく、健全な青少年の共有財産なんだから」

 こいつも俺の緊張をほだそうとしているみたいだが、いつまで青少年を名乗るつもりだろうか。お兄ちゃん、お前の行く末が心配だよ。

「そこまで俺様を危険視するに、相当の上玉と見える。だろ?」

「わざわざ推察してくれてありがとう。回答は控えさせて貰う」

 反応に満足したのか、色魔が気味悪く口角を上げた。捕食者の目だ。こんなのに彼女を引き合わせたら、ひとたまりもない。対面したが最後、こいつはジーンズのベルトに手を掛ける。そしてこう叫ぶ。「ばーん!おちんちんだあ!」ただでさえストレスの掛かっている彼女の心に、止めの一撃を喰らわせる訳にはいかない。今からでも、ブリジットの住む家を別に借りようか?だが、親父に金を返すと啖呵切った以上は節約を心掛けるべきであるし、何より別居状態というのは当初の目的に反する。ここはジェロームの良心と道徳を信じるしかない。元よりその存在さえも疑わしいが。


 かくして執拗なジェロームの訊問をやり過ごし、雑務を終えて帰路に就かんとしていた矢先であった。個人部屋から出た俺を待ち構えていたのは、平服姿の親父であった。何やら深刻めいた面持ちで、壁に背を預けている。彼は俺に手招きして耳を貸させた。

「時間はあるか?」

 鉛弾を千発単位でぶっ放して疲弊している身ではあったが、時間の融通は利いた。軽く頷くと、そのまま外へと誘導される。どうやら基地内で済む用事ではないらしい。

 愛車の収まる車庫に辿り着くと、兄弟と何故かダニエルが退屈げに待ち構えていた。ヴェストが自車の鍵を指で弄んでいる。空気に幾分か張り詰めたものがあり、飲みに行く雰囲気ではない。

「何処か座れる場所に行こう。連隊のやつらが使わない所がいい」

 相応しい場所に心当たりがあった。先日も利用した喫茶店だ。知る限り、連隊の連中を見かける事はあっても、集団で訪れるのは皆無だろう。長居したところでお咎めもない。満場一致で会場が決まり、各々ヴェストと俺の車に乗り込む。こちらには、親父、ジェローム、ダニエルが乗った。

 二台が走り出し、ヴェストの車を先導して十分も経たない内に、件の喫茶店に到達した。客は我々の他にはおらず、入り口を監視可能な奥まった席を選べた。我々に反してやる気のない店員が、席料代わりの注文を取りに来る。大概が紅茶かコーヒーのみを注文するのに対し、レアチーズケーキとくそでかいパフェを希望する者がいた。前者は俺、後者は親父だ。人間が脳味噌を万全の状態に保つには、糖分が不可欠だ。単に甘味に飢えている訳ではない。

 紅茶――うわ、ソーサーにちょっと零れてる――を始めとした注文品が揃うと、親父が口火を切った。

「ただお茶をしに集まった、なんて思っているやつはいまい。これは他でもない、我らが愛するヒルバートの直面する課題に即応する為の作戦会議だ」

 ここに来て初めて当事者がその事実を認識したのだが、親父様は唖然とする次男など歯牙にも掛けない。

「昨晩実際に会ったが、かなりの上物だ。はっきり言って、うちのヒルちゃんには勿体ない娘さんだよ」

 途端、ジェロームの瞳に獰猛な輝きが宿った。

「誰かさんを煽る発言は止してくれ。うちに乗り込んで来たら洒落にならない」

「残念だな、煽るつもりで言ったのに」

 帰ってもいいのではないか。そうも考えたが、せめてこのケーキを平らげるまでは動静を見ようと踏んだ。幸か不幸か、この決定は間違っていなかった。形の悪いクリームの山の一角を削った親父が、スプーンを俺へ向ける。

「まずはブリジットの情報が欲しい。購入時に、色々と書類を渡されただろう。健康状態なんかの記載があるやつだ。今もあるか?」

 妙に詳しい父を訝しみつつ、鞄から昨日の書類群を綴じた分厚いファイルを取り出す。先頭のページには、ブリジットの履歴書もどきが収められていた。各々が首を伸ばして書類を覗き込む。顔写真が添付されている所為で、ジェロームが食い気味だ。

 全員が紙面の箇条書きに着目し、怪訝かつ不審を多分に含んだ視線を向けられる。月経の停止、記憶の喪失に関する事情を説明しても、やはり納得を示す者はいなかった。

 皆が情報に目を通すと、パフェを腹に収めた親父が悠然と語り出した。

「とりあえず、奴隷制に関して幾つか確認を取ろう。少し長くなるぞ。飲み物の追加は?」

 全員がかぶりを横に振り、紅茶で唇と喉を潤してから親父は咳払いを一つやった。

「この写真で察する通り、ヒルバート君は並外れた面食いだ。それはさて置いて奴隷制だが、現代のこいつはかなり厄介で微妙で……ぶっ飛んでる」

 親父の毛むくじゃらの腕が、懐から取り出したメモ帳とボールペンで概念図を描く。殆ど読み取れない雑な線と図形が、紙上を乱れ飛んだ。

「一言に奴隷制と呼んではいるが、今じゃその本質は見る影もない。西部開拓時代においては、黒人の輸入販売マニュアルに過ぎなかった。リンカーン台頭の踏み台を最後に、アメリカでは廃れた慣わしだ。だが、イギリス連邦というガラパゴスで卑しい進化が促された」

 ペン先で叩いている図は奴隷制の変遷らしいが、その意図を汲み取るのは不可能に等しかった。舌で唇を湿らせて、親父は重々しく語を継ぐ。

「ヴィクトリア朝の勃興以来、我らが大英帝国は新時代に突入した。産業革命に伴って、お家仕事を押し付ける使用人制度が最盛期を迎えた。今の奴隷は、この住み込みの使用人に比較的近い。通常の使用人と異なるのは人権の全剥奪と、雇用主に俸給の義務がない点だな」

 話題が深い場所へ潜るのに従い、心臓が締め付けられる思いに苛まれた。自分の過去を抉り出しているのだから、面白い筈がない。似た経歴を持つ兄弟も、少々の動揺を喰らっている。

「奴隷売買のシステムに移るぞ。昨今のこいつは、大半の利益が奴隷販売業者に吸収される仕組みになっている。中間業者の介在は殆ど見られない。規模こそ凄まじいが、経済活動としては健康じゃないな。

 実際に奴隷が雇用主の手に渡る過程を辿っていくぞ。奴隷の調達元だが、闇市で親に売られたり、衣食を求めて自ら志願して奴隷候補となるのが大半だ。前者の場合は、手続きが完了した時点で元所有者――つまりは親等に金が払われる。この金額は業者の査定で決定されるが、基本的に美形である程に高額が弾き出される。ここまではいいか?」

 システム考案者の下衆を者を吊るし上げたかったが、周囲にならって首肯した。親父は言葉を濁したが、孤児の最終処分場という裏道も、英国の悪習として根付いている。

「高級な……容姿の優れた奴隷は、顧客が求める優れた奴隷となるべくして、大なり小なりの調教期間が設けられる。家事の能力や一般常識、主人の性欲を満たす技巧なんかを叩き込まれる訳だ。この書類を見るに、ブリジットは三年の調教を履行している。知る限りは、かなり長い方だ」

 三年という期間を耳に、引っ掛かるものがあった。物言わず気付いたらしく、親父は目を伏せる。

「ブリジットの売約は十万ポンドで結ばれた。ちょっと頭の回りが悪いやつでも気付く。個人消費としては大打撃だろうが、数万ポンドぽっちじゃ業者側の手間に見合わない。年単位で衣食住を賄い、目的別の教育を施してやるんだから、学生を養ってるみたいなもんだ。黒字なんて手が届く道理がない。ましてやうちの次男坊は分割払いを申し出てる。下らない小細工が咬んでいるのが分かるな?」

 親父は全員に目配せし、喫茶店の店員を一瞥した。こちらに目もくれずに、三人で談笑をしている。接客業者としては最低だが、この場においては好都合だ。

「実は調教期間中でさえも、奴隷販売業者は収益を生む術を確立している。それも、経費をごっそり削れる方法をな」

 親父の顎に皺が寄る。

「――風俗で働かせるんだよ。コンパニオンみたいな綺麗どころもあるが、大半は性的なサービス込みのマッサージ店があてがわれる。売却後の必須技術を習得させながら、店舗からは指名料の一部を掠め取るって寸法だ。これなら販売側は教える事柄が一つ減るし、ついでに金も手に入る。企業や契約にもよるが、一部分が素体を提供した親に入る場合もある。いわゆる派遣社員みたいな扱いだ。駆け足にさらったが、以上が現代の奴隷制事情だ。疲れたから質問は手短にしろ」

 トドみたいに唸って天井を仰ぎ、親父はカップに残った紅茶を飲み干した。明らかに、俺からの問いを待っている。

「血縁者と連絡は取れないのか?」

「不可能だ。個人情報の保護という名目で、業者は奴隷の出処に関しては絶対の秘密厳守を貫いている。そもそも、知ってどうするつもりだ?」

 もっともな返しで、言葉に詰まった。奴隷への投影が過ぎた為に、自然と生じた発言であった。

 幼い頃は、実親への憎悪を糧にしていた時期もあった。血眼になって出生を手探ったが、DNA鑑定を以てしても、この血の起源は辿れなかった。揺り籠から墓場までの支援は、あくまで英国が保証する人間様のみに許されていた。それから数年も経つと、くすぶっていた残虐な復讐の種火も収拾を見せた。時間が全てを解決するとは、よく言ったものである。

 疑問はまだ残っていた。

「……あの子が奴隷としてでなく、一人の人間として満足な幸福を得られる様に、俺が出来る事ってあるのかな」

 珍しく素直なせがれの問い掛けに、親父が言い淀む。芳しくない反応だ。

「心苦しいが、俺ら軍人がどうこうして、奴隷の社会的地位は弄くれない。最近は奴隷制撤廃を掲げている政治家もいるが、口先だけの公約に過ぎない。反対を主張する非営利団体も幾つか挙げられるが、何れも後ろ盾が不在だ。法整備も不十分で、奴隷の証言は法廷で無力。未だその名詞だけで差別意識を催す輩は珍しくないし、施設利用を規制する動きもままある」

 表情の陰った面々を見かねてか、親父は意識的に目許を緩ませた。

「だが、何も悪い話ばかりじゃあない。奴隷への追い風があるのも確かだ。昨晩みたいにメイド服でめかしてやるのも、穴だらけのシャツとジーンズでビッチを気取らせるのも自由。服装に関しての規制は、今やなきに等しい。変な噂を立てられたいなら後者を推奨だ。

 それに、奴隷を養子として迎え入れる資産家だっているくらいだ。大量の資格で武装した、奴隷出身の起業家だっているんだぜ?昔に比べれば、仕える主人で当たりを引けば、そう生き辛い時世でもないって事だ。お前はどっちだろうな?」

 にい、とチョコレートにまみれた歯を覗かせる親父に苦笑する。無論、こちらも悪い様に事を運ぶ意志はない。要はつつがない会話を繰り広げられる間柄を醸成する指標を掲げつつ、己が心的外傷の治癒を見守ればいいのだ。これまで、一度として実を結んではいないが。



 喫茶店を後にすると、各々が自宅や酒場へと勝手に向かった。愛車のハンドルを握る左腕、時計が十七時を過ぎを指している。

 先程の親父の説明、ブリジットへの接し方、周囲の協力……何れも、数日前には想像だにしていなかった生活だ。状況が何処へに転ぶかも知れないが、この不確定な現状を不快と言い切れない自分がいた。取りも直さず、大人げなく期待していたのだ。しばらくは退屈せずに済むのだから、悪い事ばかりじゃない。バックミラーで変態が眉根を寄せ、頬を緩ませていた。



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