15 約束
トロルの咆哮に僕の後ろでプラシアが小さく悲鳴を上げる。
まさか時代遅れのモンスターが出てくるとは誰もが予想していなかった。
訓練でトロルを用いるのは強いモンスターで、かつ操作がしやすいからだ。
トロルの石化は腕の辺りまで解けてきて、筋骨隆々の体躯を露わにした。
僕はカナリーの背中に問いかける。
「カナリー看護官、光の魔術は使えるか?」
「なるほど、また石化させようという案でありますね!」
日差しさえ当てればトロルはふたたび石化する。
教官は新兵が致命傷を負う前に光の魔術でトロルを石化させていた。
訓練を終えた幹部候補生の多くはまず光の魔術を会得する。
「残念ながら使えないであります!」
ただし前線で戦わない僕たちはほとんど会得しない。
僕とカナリー以外はほぼ魔術を使えないし、最善策は取れそうになかった。
ならば選べる選択肢は一つだけだ。
「ルルカ! 全員を連れてトロルの背後から逃げろ! 僕は殿を務める!」
全力での逃走、それが僕の出した結論だった。
命令を受けたルルカは迅速に動き出す。カナリーとナヴィもそれに続いた。
プラシアが僕をじっと見つめて、その場を動こうとしなかった。
「僕は大丈夫、先に逃げてくれ」
「ほんと?」
「ああ」
不安そうな顔をしていたプラシアだったが、僕の返事にきゅっと口を結んだ。
ああ、もしかしたら村でのことを思い出してるのかな?
「僕はいなくならない。約束する」
小指を立ててプラシアの前に差し出す。
プラシアはハッと口を手で隠して驚いて、それから僕の手を両手で包み込んだ。
……ここは小指を結ぶんだけど。ジェスチャーが伝わってなかったのかな。
「やくそく!」
僕の心配をよそにプラシアは元気よく返事して、急いでルルカの方へ走った。
トロルがプラシアを見ようと身体をひねると、足の石化で身体が止まる。
石になったところの表面がパラパラと砕けていた。
「間抜け面のトロル、こっちだ!」
僕の声に反応したのか言葉に反応したのか、トロルは僕へ向き直る。
「ブオオ! ブオオオ!」
トロルの咆哮は地鳴りのように僕の内蔵へ揺すりをかけてくる。
剥き出しの憤怒に当てられて、恐怖がせり上げ、指先が凍えて吐き気を催す。
血の気を失っては頭が回らなくなる。怯えた時ほど考えるのだ。
空を再び仰ぐ。
曇天が広がっている。
幸いにも今は昼。
曇り空が晴れるまで逃げればいい。
ルルカに指示した陣形に関しても間違っていないはずだ。
小型モンスターが出てもルルカが先頭にいれば素早く対応できる。
殿を僕が務めれば、闇の魔術で足止めができる。
広場の端に追い詰められないよう、ルルカたちの逃げた方へにじり寄った。
トロルが勢い良く動けば石化を無視して動き出してしまう。
股関節まで石化が解けているのだ。動けないことはない。
それをトロルに気づかせてはいけない。間抜けであれ、と切に願う。
僕はなんとかルルカたちの逃げた道、つまり僕らの歩いてきた道の前に立つ。
トロルの視界からは完全に消えている。
あとはこのまま気づかれないように後ずさればいいだけ。
パキ。
だったのだが。
枝を踏み折る音が鳴ってしまった。
……。
…………。
……………………気づいてらっしゃらない?
「ブオオオオオオオオオ‼」
トロル、咆哮。
僕へ向き直り、近くの丸太を手に取った。
「ま」
ずい。
風を切るにぶい音とともに、丸太が僕めがけて飛んでくる。
あまりに凝視しているためか、なんだか時間がゆっくりに感じた。
直径が僕の足のサイズと同じくらいの丸太だ。
あまり長くない丸太とはいえ、あんなものに当たれば身体が破裂する。
ふと脳裏によぎったのは傷だらけのプラシアの姿。
「 闇の精霊よ…… 」
なぜ闇の魔術を唱えていたのか僕には分からない。
こういう時は回避するための風の魔術だと決まっているのは分かっていた。
「 我に 加護 を与えよ! 」
グローブの上に現れた黒くて丸い球を前に突き出した。
と同時に、肩をもぎ取られるような強い衝撃が全身に走る。
反射的に、衝撃に対して真っ向から抗う力が身体に沸き起こった。
上半身を持っていかれないように、下半身で上体を支える。
しかし落ち葉や小枝の落ちている地面でそれは難しい。
僕の身体はいつの間にか押し負けて、地面を滑るように後退した。
後退しながら丸太の重みが薄れていく。闇の魔術で質量を減らしたのだ。
丸太が軽い音を立てて地面に落ちる。
僕は腕を前に突き出したまま動けない。
「はっ、痛すぎて動けないとは」肘、肩、首に走る激痛で笑えるほどに動けない。
「なっ……、ぐっ」気合を入れて腕を下ろした。
腕が熱を帯びているのか冷え切っているのか……。感覚が麻痺している。
痛みによる息苦しさから逃れるために、何度も短い呼吸を繰り返した。
疲弊する僕にお構いなしに、トロルが一歩を踏み出す。
完全に石化は解けてしまったようだ。
僕は震える足をなんとか奮い立たせて、トロルに背中を向けた。
あとは逃げるだけ! 逃げるだけだ!
少し離れたところに、プラシアの半分だけの青い翼が見えた。
心に訪れる安らぎに僕は風の魔術で丸太を避けなくて良かったと安心した。
時々振り返りながら、トロルから一目散に逃げる。
トロルはあまり足が早くない。その上、足場の悪いここでは余計に遅い。
どうやら丸太を携えている様子はなかった。
振り向いた時、トロルの頭上に晴天が見えた。
神話より前の人類は晴れた空を「青空」と呼んだらしい。
はるか上空のロフトピアの空は淡い金色で、黄昏を思わせる。
ほっと胸をなでおろすと、腕の激痛がぶり返してきた。
生い茂る木々によって晴天が見えなくなる。
ふたたび顔を前に戻すと、ルルカたちがなぜか立ち止まっていた。
僕、というよりは、後ろのトロルを遠目に眺めている様子だ。
ああ、なるほど。もう石化してしまったのかな?
振 り 向 い た ら 目 の 前 に ト ロ ル が い た 。
「……っ」
言葉に詰まる。息を呑む。呼吸を忘れるほどに心臓が大きく跳ねた。
トロルの腕を間近で見ると、つぶつぶが集合して実に気持ち悪い。
身体の左側だけ毛穴が開いたようなゾッとした感覚がした。
その腕が僕を掴みかかろうとした時、ヒュン、と空を切る音がする。
次の瞬間、トロルの腕に石がぶつかり、時間差で破裂した。
「サラ医官! う、腕が……! 早くこちらへ!」
カナリーに引きずられ、僕は腰が抜けていたのだと気がつく。
ナヴィがスリングショットを構えながら、軽く舌打ちした。
トロルはほとんど無傷で、少しだけよろめいただけだったようだ。
僕の代わりにルルカが前に出て、トロルの視線を引きつけている。
カナリーの応急処置を受ける間、トロルから目が離せなかった。
どうやら木漏れ日くらいではトロルの全身を石化できなかったらしい。
もっと日の当たる場所、つまりあの広場で足止めしていれば良かったんだ。
「カナリー看護官……、すまない……」
「何がすまないでありますか! サラ医官がいなければすでに全滅してました」
カナリーが僕の手を握って真剣な目で訴えた。
……格好悪いところを見せてしまったな。
プラシアが僕を不安そうな目で見つめている。
そんな顔するな、約束は果たすよ。
トロルと向き合い、観察したことで、僕には一つのアイディアが浮かんでいた。
「カナリー看護官、ありがとう。それと、トロルを倒す方法を見つけたぞ」
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