あくのひみつきち、再び

 駐車場まで駆けおりた優紀は、まず即席クッションが車に残されていたことに安堵の息をついた。誰が彼女を攫ったにせよ、持ち物までは改めなかったのだろう。あるいは、改める暇もなかったか。

 一瞬、荒事を想像しかけたが、それはありえない、と思い直した。

 部屋に争った形跡はなかったのだと、自分に言い聞かせる。


 優紀は祈るような思いで即席クッションを分解バラし、陽菜の上着をさぐった。ウェットティッシュ、ハンカチ、昨晩行った小料理屋の名刺、リップクリーム、メントールタブレット、そして――部員証。


「ハナちゃん、ナイス」


 さすがポワポワ系エリートである。常に微妙に詰めが甘い。

 観察部に異動したというのに、昨晩の小料理屋の興奮もあって、持ち物はそのままにしていたのだろう。だいたい一部の持ち物はハンドバッグに入れればいいのに。


 優紀はついでに端末を開き、至急報が出ていないか確認した。

 画面に『少年擬態者:高塚優紀』という表示がでた。『危険度判定:A』と、但し書きまでついている。ご丁寧にも、あねづきトレラントモールで振り返ったときの写真つきだ。どうやら尾行していたのは研究管理部の人間だったらしい。


 ――ってことは、変装が必要か。


 優紀はトランクを開け、変装用の小道具一式を漁った。

 当然だが、どれもこれも成人用サイズで、何ひとつ今の優紀には合いそうにない。

 メイク道具も子供がしていれば不自然だろうし、口髭の類もウケ狙い以外に意味はもたない。使えそうなものは、デカくてペラいジャンパーと野球帽くらい。

 ないよりはマシと捉え、優紀は野球帽をかぶった。そのときだった。

 不機嫌そうな女の声がした。


「ちょっと、君」

「はいっ!?」


 驚き振り向くと、黒髪ロングなおねぇさんが腕組みをして立っていた。

 少し明るめの緑のロングスカートに、おとなしい青色のブラウス。白いオーバルフレームの眼鏡は、地味系アクティブおねぇさんです、と全身で主張している。


 優紀は記憶をたどってみたものの、思い当る人物は浮かばなかった。また、たとえ一方的に優紀を知っている人間だとしても、少年時代の姿までは知らないはずだ。

 黒髪ロングおねぇさんは腰に手を当て、屈みこんだ。


「君、その車の家の子かな?」

「えっと、なにかありました?」

「うんとね? 私、このマンションの管理をしているの。それで、君のお父さんかな? その車の止め方、ちょっとまずいんだよね。できれば呼んできてほしいんだけど、いまどこにいるか分かるかな?」


 管理人の口調は、まるで子供を諭すかのようだ。どうやら、優紀のことを完全に子供だと誤認してくれているらしい。これなら誤魔化すのもそう難しくはない。


「え、えっと、僕、ちょっと分かんないかな」


 自分で口にしておいて、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。予想以上だ。マニュアルを見て精神変容について意識したからかもしれない。

 管理人は眉を寄せ、屈みこんだ。


「君、ほんとにウチに住んでるの? 初めて見た気がするんだけど。何号室に住んでるのかな? お名前は?」

「え、えぇと――」


 矢継ぎ早に繰り出される質問に困惑し、優紀は管理人から目を逸らした。

 トロそうな見た目をしているくせに意外に鋭い。下手な言い訳を重ねれば問題が大きくなる。それに渋沢瞳のマンションに残してきた観察部員たちもじきに目を覚ましてしまうだろう。おねぇさナイザーで眠らせるという手も――。

 優紀がまごついていると、管理人は眉間に皺をつくり、鼻をすんすんと鳴らした。


「あれ? タバコ? もしかして君、七〇六号室の子かな?」

「え? あの」

「七階でタバコを吸ってる人がいるらしいって苦情があって――」


 ヤバイ。タバコなんて吸うんじゃなかった。

 焦りに焦った優紀は、少年擬態者の口にしたショタの暗黒面ダークサイドという不安を喚起する単語を一度頭の片隅に追いやった。


 四の五の言っている時間はない。陽菜が攫われたのだとしたら、ナニをされているのか分かったものではないのだ。

 いまは倫理観は投げ捨てる。

 覚悟を決めた優紀は、ひとつ咳払いをして、帽子をとった。


「ねぇ、おねぇちゃん?」

「えっ?」

「おねぇちゃん、僕のお願い、聞いてくれる?」


 今の優紀にできる、精一杯のかわいい少年ソプラノボイスであった。

 まったく勝算がなかったわけではない。今日までの二年間、オネショ研で数多の愛され少年たちを見てきたのである。もちろん注視してきたわけではないが、見聞きしてきたものの再現はできるはずだった。

 

「ね、おねぇちゃん。だめかなぁ?」


 優紀が放ったもじもじボーイソプラノに対し、管理人はうつむき、顔を隠した。

 イケる。と胸中でほくそ笑み、優紀は畳みかけた。


「僕とおねぇちゃんだけの、ひみつのお願いなんだけど」

「ひみつのおねがい?」


 管理人の声色に、優紀が見てきた計画者たちと同じ色が乗った。対象者ショタを発見したときのそれだ。やはり秘密の共有はおねぇさんの母性を刺激するらしい。

 あとは、少しばかりのスキンシップでサービスしてやればいい。

 すかさず優紀は管理人の胸に飛び込んだ。


「お願い! おねぇちゃん!」

「っっっ!!」


 管理人は、ぷっ、と鼻血を吹いた。顔を背け、手で覆い隠した。

 勝機とみた優紀は、管理人の躰を強く抱きしめた。陽菜よりいくぶんか大きい胸の谷間に顔をうずめ、その下から顔を見上げる。うまいこと目が潤んでくれていることを祈って。

 数十秒にも感じられる、長い、長い間があった。


 ――さすがにキツいか!?


 優紀はごくりと喉を鳴らした。おねぇさんの背中に回した手が、震える。

 そのとき、管理人の手が、優紀の頭を優しく撫でた。


「ど、どっ、どんなお願いかなぁ?」


 管理人は鼻息荒く、わざわざ頬を寄せてきた。挙動不審すぎる。

 勝利である。

 人として、オトナの男としての大事なナニかは確実に少し失われた。しかし、とにかく好機を得た。あとは、もうひとつの難題を通すだけである。

 優紀は喉を振り絞り、不安な少年特有のたどたどしさと、舌ったらずを再現した。


「おねぇちゃん。車の運転、できる?」

「車? どこかに行きたいの?」


 管理人の声は、それに応じてか、一気に甘ったるくなっていた。

 優紀は社用車を指さし、震える声で答えた。


「この車を、お父さんが持って来いって言うんだ。ぼく、どうしたらいいか……」

「えっ? えっと、それは……えっ?」


 管理人の眉がへの字に歪み、車と優紀を交互に見比べた。疑われている。

 当り前だ。どこの世界に十歳の少年に車をまわせと指示する親がいるのか。


 ――いや、いる。いるはずだ。どこかのダメな世界なら!


 優紀は意を決し、悲壮感を演出した。


「持って行かないと、また殴られちゃうよ! もう痛いのは嫌なんだ!」


 管理人のおねぇさんの眉間に、深い、とても深い皺が刻まれた。


「いま、なんて?」

「えっ、あの、持って行かないと、その、父さんが――」

「お父さんが?」


 管理人の目力が高まる。全身から怒りの気迫が滲みだす。

 コワイ。

 優紀は、そっと躰を離そうとした。強い力で押さえ込まれ、身動きできなかった。


「ぼ、ぼくが言ったって知ったら、また、殴られちゃうかなぁ、とか……」

 

 恐ろしさのあまり、演技でもなんでもなく、口が回らなくなっていた。

 ふいに管理人の手が離れる。優紀は尻餅をついた。

 管理人は俯いたままで、その表情まではうかがえない。

 しかし。


「なんて、なんて親!」


 大地に向かって吐き捨てられた怒声は、本物以外のなにものでもなかった。

 管理人は髪を振り乱し、顔をあげた。優紀を安心させようと無理やり笑顔を作っているらしい。しかし、その目は血走っていて、唇の片端はひくひくと痙攣している。

 管理人は、言葉を選ぶように、慎重に、怒気を覆い隠しているかのように言った。


「一緒に、行ってあげるね? 私が、車を、運転して、ぶっとばしてやる……っ!」


 管理人の理性は、途切れかけているようだった。


「そ、それじゃあ……その、じんこーぞーか研究所のビルに……」

「分かったわ。助手席に乗って? すぐに行くわよ!」

「う、うん」


 喜ぶべき状況に持ち込んだというのに、優紀の喉はカラカラに渇いていた。



 怒りに燃える管理人の運転は、凄まじい荒さだった。

 法定速度を軽々と上回り、曲るたびにタイヤを軋ませるような代物である。

 原因はペダルに張り付けられたペットボトルだ。


 どうやら管理人は、かわいそうな男の子が暴力親父に怯えて自力で運転しようとしている、と思ってしまったらしい。

 タバコの匂いと、優紀の吐いた嘘と、そして言葉に混じるおねぇさナイザーの効果と。あらゆる状況が、管理人の頭の中でありもしないストーリーを作り上げたのだ。


 優紀はその想像力に半ば感心し、半ばあきれつつ、道路の先を見やった。 

 すっかり暗くなった空の下、オネショ研ビルが、青白い光で照らされていた。

 かつては海中で揺らめく昆布のように思えていた研究所は、今では悪のひみつ基地にしか見えなくなっていた。そしてそこに所属する優紀自身は、いまや悪の怪人に違いなかった。

 

「それじゃあ、一緒に行きましょう!? こんな時間に子供を呼びつけるなんて、とんでもない暴力オヤジだわ! 絶対、引っぱたいてやる!」

 

 駐車場に車を停めるとすぐに、管理人はそう叫んだ。

 怒りに震えるその姿は、おねぇさんとしてだけでなく、人として全く正しい。

 どちらが素なのかは分からないが、本当に気のいい人なのだろう――いや、だからこそ、まだ彼女は計画者として観察部にマークされていなかったのだ。

 騙した気まずさもあり、優紀は唇を湿らせた。


「管理人さん。ごめんなさい」

「えっ? なに? 君はわるくな――」

おねぇさナイザーおねぇちゃんお休みなさい!」


 管理人の鼻から、鮮血が一筋垂れ落ちた。

 せめて短いまどろみの中で、少年と過ごした淡い夢だと思っていて欲しい。

 優紀はそう願いながら、陽菜の部員証をポケットに突っ込み、車を降りた。

 目指すは地下三階、研究管理部だ。


 ――待ってろよ、ハナちゃん。いま見つけてやるからな。


 地下三階、研究管理部でエレベーターが停止した。

 優紀は野球帽をかぶりなおし、もってきた陽菜の鞄に目を落とした。

 肩紐に巻かれた腕時計は、即時変身装置の連続使用限界を超えてから三十分ほど経過したことを示していた。

 

 正確な経過時間が分からないが、安全に再使用できるようになるまで最低三十分は必要である。エレベーターから一歩足を踏み出せば、おねぇさナイザーだけで切り抜けないといけなくなる。しくじれば優紀自身もショタの暗黒面に取り込まれ、めでたく少年擬態者の一人となのるのだ。


 優紀は深呼吸をして、陽菜の部員証をカードリーダーに通した。

 開いた扉の先にあるのは、悪のひみつ基地だ。

 長い廊下の天井では、相変わらず切れかけの蛍光灯がチカチカと明滅していた。

 足を踏み出せば靴音が――。


 きゅっ、と鳴った。

 ゴム底のスニーカー様耐衝撃ブーツは、見事なまでにキッズ用スニーカーの音を再現している。


「音、か」


 ひとりごちた優紀は、余計な物音を立てないように、そして少年が迷い込んだ風を装いつつ、慎重に足を進めた。

 思い返されるのは、第四観察室で見た、巨大なオープンリールだ。

 優紀の想像通りなら、あれは本物の少年たちの音声を収集するための機器だ。決して即時変身用具の変成器開発に使うものではない。


 少年擬態者か、あるいは、あわよくば本物の少年を量産するためかもしれない。

 成人男性を捕獲し変身させ、その上で観察と称して監禁する。監禁された連中は秘匿されていた連続使用限界を超え、少年の暗黒面に墜ちる。

 それならば、優紀ではなく陽菜にマニュアル全文が送られたのも納得できる。おそらく、同時期に面接を受けた連中は、全て少年擬態者にされたのだろう。唯一残されていた優紀は、本当に新型の実験素材用として確保されただけなのかもしれない。


 しかし、それではまだ謎が残る。 

 なぜ、完成した少年たちを野に放ったのだろうか。

 シンプルに思いつくのは人口増加研究のためだ。しかしその場合、なぜそいつらを観察部で狩りだす必要があるのかが分からない。おねショタだろうがショタおねだろうが、人口増加という観点において差はないはず。


 どこかで見落としがあるのかもしれない。

 思考の迷路に入りかけていた優紀は、あっさりと辿りついた研究管理部のネームプレートを目にして、頭を切り替えた。


「ハナちゃんまでたどり着けば、全部わかるだろ」


 あらためて一呼吸入れ、優紀は扉の下方を、つま先トゥーで蹴りつけた。

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