高塚優紀の受難
青のノースリーブをきた渋沢瞳が連れている少年には、見覚えがある。昨日ファイルの中にあった写真と同じ顔だ。少年の年齢は目測でおよそ十一歳。くりくりとしたつぶらな瞳をし、頬はほんのりと赤い。一見すると邪気の類は見て取れない。
しかし、嫌な予感が止まらない。
「ハナちゃん。あのくらいの歳の子がさ、ジムから出てくると思うか?」
「えっ? どういうことですか? 別に居てもおかしくはないんじゃないですか?」
「渋沢瞳が入ったのは午前九時ちょっと手前だ。それからずっとここで見張ってる。その間にあの少年がジムに入ったのは見なかった。つまりあの少年はずっとジムの中にいたってことだ」
「別の入り口から入ったって可能性は除外なんですか?」
すっとぼけているが、正論だ。
優紀たちが見張っていた入り口は一カ所だけで、裏口もあるかもしれない。可能性は低いが、ジムと隣接して住居があり、そこの少年という可能性も捨てきれない。
だがしかし、あやしい。十歳かそこらの少年がフィットネスジムに通うか?
「分からない。分かんないけど、今回は少しきな臭い感じもあったんだ」
「どういうことです?」
「少年擬態者かもしれないってこと。ただの、カンだけどね」
「カン、ですか」
「そうだよ。まぁ裏付けも取るけどな」
そう言って、優紀はスマホで少年の写真を撮り、助手席に投げ渡した。
「ハナちゃん連絡して。ジムと少年の繋がり調べるように。観察部に」
「りょーかいっ、ですっ」
言いつつ、素早く敬礼で返してきた。緊張しているのだろう。
渋沢瞳と少年の乗ったパステルグリーンのカッツェが駐車場を出た。車が向かう先は予想通り、ショッピングセンターの方向である。
警戒心を高めながら追尾すること十数分。前方に巨大な建物群が姿を現した。
リージョナル型ショッピングセンター『あねづきトレラントモール』だ。
市の人口に対して異常に広い敷地面積を誇り、生活のすべてが整えられると標榜する大型商業施設である。その圧倒的な敷地面積は市外からの客も呼び寄せるほどだ。
しかし、市外からの客の多くは女性層・若年少年層に特化した店舗群に打ちのめされるらしく、リピート率は思いのほか低いという。
それもそのはずで、元を正せば姉月市の住人のため――つまり逆光源氏計画観察計画のためだけに招致されたのである。そのせいか、姉月市の住人たちの間では、却って価値観の合わない客が少なくていい、などとまことしやかに言われている。
「ふわぁぁ……すっごいですねぇ……」
陽菜は窓の外にそびえる巨大建造物を見上げて、ぽかんとしていた。
「ハナちゃん、この街に住んでどれくらいだっけ? まだ来たことないの?」
「研究所と自宅の往復が大半でしたし、近くに小さなスーパーもありますから……。一回くらいは入ってみたかったので、ちょっと得した気分です」
「そりゃよかった――」
近くにスーパー?
「ちょい待ちハナちゃん。あそこで食料品買いこむ気だったの? ショッピングモールってどういうところか知らない?」
「分かってますよぉ」
陽菜の返事は、どこまでも上の空だった。その呆け方は、日中を公園で過ごす婆さん級である。
ダメだこりゃ。
と優紀は唇の端を下げ、渋沢瞳の車から二台分の距離を保ったまま、駐車場へと車を滑りこませた。
「よし。店舗内追尾に移ろうか。ハナちゃん、ネクタイ締めて」
「ふわぃ? って、はい! あ、でもあの、私、ネクタイって結んだことなくて」
陽菜は慌てて首にネクタイを引っかけ、こねくり回した。
優紀の私物である灰色地に白ストライプが入った安物のタイは、力任せに引っ張られ、みるみる内にくしゃしゃになっていく。
「ああもう、しょうがねぇな。貸してみ」
「す、すいません……」
優紀は消え入りそうな陽菜の言葉は聞き流し、ネクタイを手に取った。
さすがに体格差があるだけに男物では長すぎるらしい。かと言ってピッチリ結べば怪しくなることこの上ない。
ならば。と優紀はくるくると小剣を大剣に巻きつけ、クロスノットで結び目を作り始めた。表面上は取り繕えても内心焦っているのもあって、安物のタイはいつもより滑りが悪く感じた。
「くぬ、こうだっけか?」
「せ、先輩? 大丈夫ですか?」
「これで、多分、まぁちょっと緩くしすぎたけど、タイの長さ合わないし、しょうがないだろうな。ちょっと鏡みて、確認して」
陽菜はバックミラーに手を伸ばし――、
「あ、いいです! これちょっと可愛いです! なんですか? どうやって斜めに結び目作るんですか? 今度でいいので、教えてもらえますか?」
ご満悦のようだった。
「いいよいいよ、教えてやるよ。って渋沢瞳! どこ行った!?」
ネクタイを結ぶのに気を取られて失尾しましたなど――、
大目玉は確実である。
優紀は唾を飲み込んだ。
「ハナちゃん、二手に分かれて探すぞ。見つけたら連絡ちょうだい」
「えぇっ!? 私、この中入ったことがないって、言いましたよね!?」
「大丈夫だよ。ちょっと実戦投入が早まっただけだ」
それだけ言って、優紀は車を飛び出した。
「あ、ちょっと先輩! 待って、待ってくださーい!」
背後で陽菜の半泣き声が響いていた。
渋沢瞳と少年の行く先はふたつに絞られる。
家族向けに偽装された少年向け特化エリアか、あるいはオトナの生活と偽装された、おねぇさん・ウィズ・ショタ特化エリアだ。
広大な駐車場の中でときに飛び跳ね、ときに周囲を見渡し駆けだして――。
普通にいた。
びくり、と優紀の足が止まった。
駆けだそうとした矢先の事であり、強引に止めようと踏み込んだ靴底はアスファルトの上で盛大かつ強力なタップを踏んでいた。
渋沢瞳と少年が、ほぼ同時に振り返る。
優紀と渋沢瞳の視線が交錯し、時が止まった。
大失敗である。
本来なら対象に気付かれた場合は、何食わぬ顔をして追い越し、背中越しに尾行を続けるなどの策をとる。しかし、完全に足を止めてしまった今、それはできない。
おそらく顔も覚えられただろう。これほどの失敗をしたのは一年前が最後だ。二か月前かもしれない。どうでもいい。なんとかしないとまずい。
動揺を顔に出してはいけない。悟られてもいけない。できることと言ったら、
「あ、あぁ、えーと、すいません、人違いでしたぁ」
人違いの振りくらいのものだった。
「いやー、ははは、ははは、ははははは」
優紀は乾季のサバンナ並みに乾いた笑い声をあげ、渋沢瞳と少年の横を通り過ぎた。さらに前進を続けるも、背後にたしかなキツい視線を感じる。
――俺、不自然すぎる!
優紀は平静を装いスマホで陽菜に渋沢瞳の位置情報を送った。そのまま足は家族向けエリアに向ける。入ったところで、すぐに陽菜からの折り返しがあった。
〝対象確認しました。追いかけます〟
ほっと一息つく暇はない。服装を変えなければならないのだ。
顔を見られてしまったのは不覚だった。近距離で会話を交わしてしまったこともあり、ほぼ確実に記憶されただろう。しかし変装しようにもメイクも含めた小道具はすべて車の中である。焦って飛び出てきてしまったことで打つ手が思いつかない。
考えあぐねていると、ふたたび陽菜から連絡があった。
〝部長から、新型の即時変身装置なら偽装可能。使え。とのことです〟
――直接連絡してくれ! なんでハナちゃん経由を了解したんだ俺!
優紀は自らへの呪詛を胸中で叫び、トイレへと駆け込んだ。入ると同時に周囲を確認。人の気配なし。流れるように四つ並んだ個室の一番奥に籠る。
ポケットをまさぐる。確かな感触がふたつ。使い込まれた感触を弾いて、新型を取りだす。蓋を開けたところで、優紀はふと思った。
テストなしに使って、大丈夫なんだろうか。
考えてみれば、調整こそしたもののいまだ一度も試していない。しかし迷っている時間もない。陽菜のことだから追尾自体は大丈夫だろうが、もし渋沢瞳と一緒にいる少年が少年擬態者なら。
到底、陽菜に戦闘能力があるとは思えない。
優紀は頭を振って不安を打ち消し、叫んだ。
「トータルコーディネート!」
カキン、とバネが跳ねるような音が微かに鳴った。安全装置の解除音だろう。
祈るような思いで、ジッポーのフリントを擦る――。
と同時に、
目の前が真っ白になった。
光ったのだろう。白い光だったはずだ。
強すぎる明りで目が焼かれれそうだった。というより、焼けたのかもしれない。
急に視界が暗くなったのだ。
「ぐぁ、あ、あああぁあぁぁぁあ!」
ほんのワンテンポ遅れて、頭をぶち割られるような痛みを感じた。痛みは一瞬で全身へと広がる。肘、膝、手首、足首。末端にいけばいくほど痛みは強まる。全身がバラバラになっていくような感覚だ。
そして手足の感覚が失われるのにつれ気が遠くなる――。
優紀は意識を手放し、瞼を閉じた。
むぃーむ、むぃーむ。
と、何かが震えた。
多分、スマホなのだろう
――陽菜か?。
腰のあたりでする震動を基準に、霞む意識を手繰り寄せる。全身の痛みは消え失せている。代わりに、躰中に妙な圧力を感じる。まるでサランラップで全身を巻かれているような、あるいはウェットスーツを着せられているような感覚だ。
優紀はスマホを取ろうとして、ポケットの辺りを叩いた。
スーツとは違う、少し硬い肌触りと、余裕のある空間があった。
おかしい。
優紀は瞼を開いて手もとを確認した。ぼやけた視界の向こうで、黒いスリムタイプのスラックスが、ややオーバーサイズなデニムに変わっているようにみえた。
よく見ればシャツも違う。昨日クローゼットから下ろしたばかりの糊のきいたYシャツは、ふにょふにょとして柔らかいネルシャツになっている。一回り大きなサイズで、青と白のチェック柄だ。優紀の趣味ではない。
しかし、どこか懐かしい。
――ダボついてるとガキくせぇんだよな、って、えぇ?
シャツをつまんだ指先の感触自体も違う。明らかに小さい。そして、若い。
優紀の頬を汗が伝った。
震えるスマホはこの際無視して、座り込んでいた便座から飛び降りる。
ペコ。と、軽い音がした。
聞きなれた革靴の固さがない。ゆっくりと顔を下ろすと、黒革の短靴は、野暮ったいマジックテープのスニーカーになっていた。サイズからして子供用だ。
動揺した優紀は、見ないようにしようと顔をあげた。
個室扉の取っ手が目の前にある。扉の高さが変わるはずがない。
――いやいやいや……。いやいやいやいやいや。
優紀はぐっと息を飲み込み、個室から外へ躍り出た。いや、躍り出ようとした。
床がふわふわしていて、踏ん張りがきかない。
違う。
優紀はすぐに気づいた。
躰の感覚と歩幅、つまり足の動きと移動する距離と高さが合わないのだ。そのせいで床を掴み損ねている。まるでスキップでもしているかのような上下動である。
躰を起こして、滑る床でなんとか体勢を維持する。すぐに目につく。
小便器がデカい。
いやまさか、そんなはずは、と洗面台の鏡を見ようとした優紀は――、
凍りついた。
水栓が真正面で邪魔をしていて、鏡がみえない。
腕を床と水平に伸ばしてみる。肩はちょうど蛇口の高さと同じらしい。
首を左に振ると、端の一カ所だけ一段低くなっていた。力の入らない膝を奮い立たせてたどり着き、洗面台に手をついて、一度、深呼吸をする。
優紀は、意を決して鏡を見た。
――あら可愛い。
鏡の国には、怯えているのか顔を真っ青にしている、背の低い少年がいた。
黒髪はくりくりとうねった犬っ毛で、丸くつぶらな瞳は不安そうに泳いでいる。ふっくらとした頬からは、哀れにも完全に血の気が失せている。
――かわいそうにねぇ、いまお兄ちゃんが助けてあげますよぉ。
精神的不安が臨界点に達した優紀は、我知らず胸裡で世迷言を呟いていた。
鏡の中のあどけない少年が、計画者の感傷を誘いそうな微苦笑を浮かべる。
優紀は体感覚を頼りに、震えの止まらない手を顔へと動かした。
鏡の中の背の低い少年もまた、同じように手をあげた。動作知覚と鏡像の少年の動きが同期し、頬に指先が埋まっていく。
児童特有の、ぽよぽよとした、人をダメにする柔らかさ。
鏡の中の少年の目がるるると潤む。
優紀は温い水滴がつぅっと頬を伝うのを感じた。
「な、なんじゃ、なんじゃあこりゃあ!」
優紀の口からでた叫びは、愛くるしく幼気な、美しいボーイソプラノだった。
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