二日目の朝はトラブルから

 一夜明けて、午前八時二十七分。

 優紀は計画者・渋沢瞳の観測点を目指して車を飛ばしていた。アクセルペダルを踏む足に力が入る。三十分以上の遅刻であった。そのうえ、困ったことがひとつ。

 助手席の陽菜が、昨晩由来の大興奮状態を維持したままなのである。


 寮として指定されているアパートの前で拾ってから、ずっと昨晩の店のどこそこが良かったと、語り続けているのだ。一晩経っているにもかかわらず、興奮冷めやらぬといった調子で、延々と語っているのである。


「いままで大学でも勉強ばっかりだったし、私まだお酒が飲めないから誘ってもらえないし、すっごく、すっごく嬉しかったんですよ!」

「そうかー。よかったなー」


 優紀の無感情な返答は、拾ってからの三十分で、すでに熟練の技術となっていた。


「あ、聞いてませんね? すごく大事な話なんですよ! 私はとうとう小料理屋デビューしたんです! もうただのお嬢ちゃんじゃありませんよ! 賢い子だねー、なんて子供扱いはさせません! いいですか? もう一度いいますか?」


 陽菜は猛烈な勢いで同じ会話を繰り返す。

 そのほんわかエリートの狂態に、優紀は執念すら感じるのだった。


 昨晩、優紀は期待に応えようと、ジュースで酔っぱらった陽菜の愚痴を聞いた。

 なんでも、飛び級をすると決めたのは高校で友達を作り損ねたから、らしい。

 一人っ子で両親に過保護に扱われていたのも不満だったという。そこで努力して飛び級したのだが、大学で待っていたのは好奇の視線だった。しかも入学早々、敢えて教えるようなことはない、とまで言われてしまった。

 

 そうしてステキなキャンパスライフなるものを送れなかった陽菜は、そういうことならばと奮起し、さらに環境を変えようとオネショ研に自らをねじ込んだのである。

 しかし、最後にたどり着いたオネショ研でも、最年少で研究所に入った才女扱いが待っていたのだ。まして未成年ゆえの年齢差。当然、友達などできなかった。


 その時点で優紀は、自ら苦行に身をおいているのでは、と思った。けれどそれを口に出すことはなかった。諦めろというのも、すでに終えた選択を否定するのも、あまり建設的ではないと思ったからだ。

 代わりに優紀は、


「じゃあ社会人デビューだ」


 と、テキトーな発言をしてしまった。気楽にいこうよ、くらいのノリである。

 しかし陽菜は、ノリにノってしまったのだった。


「ほんとに楽しかったです。今日もいきたいです。いいですか? ダメですか?」

「あぁ、まぁ、観察の状況しだ――」

「楽しみですねぇ。今日はどういうところに行きます? 今度は先輩の行きたいお店でもいいですよ? 私だって大人なんです。お付き合いもできるのです!」


 優紀は正面に見えてきた観測点のマンションが、まるで大砂漠のオアシスのようにも思えた。仕事ならば話は途切れるはずだと、そう思ったのだ。


「ほらほら、ハナちゃん。マンション見えてきたから、あとでな」

「え、でもでも、まだ今日のお店が決まってないで――」


 名残惜しそうな陽菜の言葉を遮るように、社用車の端末が電子音を響かせた。


「うわわ!? なんですか、なんなんですかこれ!」

「慌てなくていいよ。ただの入電だから。端末だして」

「は、はい!」


 言われるままに陽菜はグローブボックスを開いた。

 出てきた端末の画面には、『応答求:至急』の文字が光っている。

 陽菜の指先が液晶をタップすると、すぐさまスピーカーから声が聞こえてきた。


〝夜間観察班から担当へ。渋沢瞳が外出。行先不明。計画者は車を使用する模様。こちらでは追尾困難〟

「担当了解。車種とナンバー分かりますか?」

〝薄緑の軽自動車。ナンバー目視できず。他に出ていった車両なし〟

「先輩! あれ!」


 端末の声を遮り、陽菜が前方を指さした。

 渋沢瞳のマンションからパステルグリーンの軽自動車が出てきた。フロントグリルにMの社名ロゴがつけられて、その上に猫耳のマークがある。

 ソプラノ・カッツェだ。

 丸っこいのに四角いデザインと豊富なカラーバリエーションは、姉月市の色鮮やかな風景によく馴染む。逆説的に、見失えば森の中の木になるのは間違いない。しかも不幸なことに、当該車両は優紀たちに向かって曲りだしていた。

 優紀は陽菜を一瞥して言った。


「車両確認。ハナちゃん、バレるから指ささない」

「うわわ! すいません!」

「いいから端末にナンバー打ち込んで」

「了解です!」


 優紀は右手を伸ばしてナビをいじりつつ、渋沢瞳の車両とすれちがった。

 バックミラーを睨み、渋沢瞳の車の動きを目視確認する。右に曲がっていった。

 そう認識すると同時に、優紀はアクセルを踏み込んだ。車が急加速を始める。

 観測点の駐車場に突っ込み、ハンドルをめいっぱい逆方向に切る。路面をつかみ損ねたタイヤが空転しながら滑りだす――。

 助手席で端末と格闘していた陽菜が悲鳴を響かせた。


「先輩!? 先輩!? なんですか!? どうなってるんですか!?」

「落ち着いて、ハナちゃん。別に危ないことしてるわけじゃないから」


 言うなり優紀は反転した車体を急発進させ、渋沢瞳の追跡を始めた。

 あまり優秀な観察部員ではないゆえに、優紀はムダに緊急事態に慣れていた。

 どのみち姉月市内にいる限り、警察の使用するNシステムもかくやという異常な数の監視カメラによって、対象の位置情報はいくらでも追えるのである。

 優紀はまったく焦ることなく、騒ぐのは助手席の陽菜だけだった。

 

「せ、せんぱい!? 地図が、それと、点が光って!?」

「ハナちゃん、そんな焦んなくていいから。その点が計画者が通過した監視カメラの位置だよ。順番に言っていって。追っかけるから」

「わ、分かりました! え、ええっと、二本先で、左折です!」

「了解」


 カーナビに出してくれれば読み上げてもらう必要はない。しかし、いま伝えるのも野暮だろう。いま陽菜は、さながらスパイ映画の主人公のごく興奮しているはずだ。


 ――そういや俺も最初はそうだったよなぁ。


 と、優紀はほっこりした気分でハンドルを切った。



 緊迫感たっぷりに読み上げられる光点の位置を聞きつつ、悠々と車を流す。焦ることはない。仕事でもない限り、朝早くに赴く場所など限られている。

 果たして渋沢瞳の車は、市内のフィットネスジム前で停車した。

 優紀は店の前を速度を落として通り過ぎ、その間に駐車場に目を光らせた。

 まだ時間が早いからか、車は二台しか見当たらない。一台がパステルグリーンだ。


「ハナちゃん。ナンバーは?」

「間違いないです。渋沢瞳さんの車、ありました」

「おっけ。連絡返しておいて。追いついたってさ」


 言いつつ優紀は周辺を一回りして、ジムから少し離れた路上に停車した。

 計画者の行動が計画対象者と直接結びつくとは思えない。あとは待つのみである。

 それにしても、と優紀は思った。

 陽菜がナンバーを一瞬で記憶し、聞いただけで確認するという判断に至るとは。普段のほわほわは演技なのではないかと思わせる優秀さである。この調子で精神面と技術面が磨かれていけば、あっという間に立場が逆転してしまうかもしれない。


 優紀は鼻で息をつき、後部座席のバッグから、アンパンと牛乳を取り出した。

 朝から甘いものはどうなんだ、とは思う。しかし悲しいことに『張り込みといったらこいつだぜ』とか現在は入院中の先輩がほざいたせいで、ほとんど癖になってしまった。

 

 齧りつく。甘い。だがそれがいい。

 朝のぼんやりとした頭に染みわたる糖分は実に効率的でもあり、また悔しい。

 優紀がもそもそとアンパンを咀嚼し牛乳をすすると、非難の声が飛んできた。


「先輩、ずるいです。こういうことになるなら、私も朝ごはん買ってきたのに」

「ハナちゃん。俺、昨日言ったよね? おにぎりでもなんでもいいから、朝飯食べてくるか、持ってくるかしなよって。言ったよね?」

「覚えてないです」

「――なんだよ。この手は」


 優紀の前には、陽菜の白い手の平が差しだされていた。目を滑らせると、お腹を手で押さえ、不満げに頬を膨らませてもいる。


「ちょっと分けてください」

「マジかハナちゃん」

「分けてください。じゃなきゃ、私、あのジムに入って中でごはん買ってきます」

「それ、ほとんど脅迫だよ。しかも自爆覚悟の厄介なやつだよ」


 言いつつ優紀は残るアンパンの半分をしぶしぶ手の平の上に置いた。


「えへへー。あざーす」

「あざーすじゃなくて、ありがとうございます、だろぉ? 慣れない言葉使うなよ」


 口ではそう言いながらも、美味そうにアンパンを頬張る陽菜の姿を見た優紀は、それ以上怒る気にはならなかった。

 アンパンを喉に詰まらせかけた陽菜が、ミネラルウォーターを買いに走るまでは。

 優紀はハンドルに額をおしつけた。

 バックミラーに、自販機の前で水を飲む陽菜の姿が映っている。


 ――なんでまたリクルートスーツなんだよ……。


 ビジネス街ならまだしも、現在位置は商業区に近い。通勤時間を過ぎてしまえば陽菜のパンツスーツ姿は悪目立ちしてしまうだろう。

 今後も追尾を続けなければならない以上、リスクが高い服装は避けたい。一瞬とはいえ渋沢瞳とすれ違っているのもある。変装が必要だろう。

 小走りで車に戻ってくる陽菜の姿を見ながら、優紀はどうすべきか考えはじめた。


「ごめんなさい先輩。落ち着きました。以後注意しますね。あとこれ、お詫びです」

「お茶? トイレ近くなるんだよなぁ。てか大丈夫? まだちょっと顔青いよ?」

「もう大丈夫です。もっと、もっと、しっかりしないとですね」


 そういうと、陽菜は両手でぎゅっと握りこぶしをつくった。顔立ちとリアクションの幼さも相まって、ほとんどコスプレである。やはりこのままではまずい。


「よし、しっかりしてもらうためにも、変装しよう。上着脱いで」

「へ? 変装ですか? 上着?」


 陽菜は訝しげにしつつも上着を脱いだ。変装というにはまだ足りない。

 同じく上着を脱いだ優紀は、ネクタイを外して陽菜に投げ渡した。


「それ、あとで緩めに締めておいて。上着は脱いだままな」

「ええ? あの、ちょっと意味が分からないんですけど?」

「俺の予想通りなら、渋沢瞳はこのあとショッピングセンターに行く。あの辺りだと、それくらい不思議な格好してないと、却って浮くんだよ」

「な、なるほど、ですね? じゃあ、お借り? しますね?」


 素直にネクタイを受け取ってはいるものの、いまいち理解の外といった顔だ。

 しかし、とりあえず変装の準備だけは整った。あとは渋沢瞳が出てくるのを待つばかりである。

 そして、実際にたっぷり二時間ほど待ったころ、陽菜の不満そうな声がした。


「せんぱーい。暇ですよーぅ」

「分かるけど、これが仕事だからね」

「なにか本とかありませんかぁ?」

「すまん。俺、本はマンガくらいしか読まねぇんだわ」

「えぇー? もっと本は読んだ方がいいですよーぅ」


 ダレすぎである。

 今朝の緊迫感など嘘のように、下手すればいまにも寝てしまいそうなほどに、陽菜はぐーたれている。昨晩は寝つけないほどに興奮していたか、あるいは今朝のテンションの高さで、すでに体力を使い果たしたのだろうか。いずれにしても緊迫感が抜けすぎるのは良くない。

 が、窓越しに見える空は高く、窓を開ければ心地よい風が抜けていく。


 ――ダレる。このままじゃ、俺も確実にダレる。


 頼むから早く出てきてくれと、優紀は念じた。

 都合のいい願いが神に通じたということはないだろう。

 しかし渋沢瞳は姿を見せた。


「ふぉっ! 先輩!」

「いちいち大声出すなよ。バレんだろ?」

「すいません!」

「あのね。まぁいいや、追う――っ!?」


 顔を前に向けた優紀は、言葉を失った。

 ジムから出てきた渋沢瞳の顔が緩んでいる。原因は明白。その後ろから、一人の少年が顔をだしたのだ。つまり、計画者はジムで計画対象者と落ち合う手はずになっていた、ということだ。

 言い換えれば、待ち合わせをしていたのである。

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