第3話 出会い


 入院翌日から、朝食後に職場に行って3時間ほど勤務をして、午後に病院に戻るという優斗の生活が始まった。異動までのおおよそ一ヶ月間で、すべきことは山積しているのだが、一日3時間しかない勤務時間では当然その全てを消化することはできない。だから優斗は、引き継ぎ資料の作成に集中することにしていた。優斗の仕事の大半は調整ごとである。相手がある仕事内容であるので、年度の途中で担当者が代わることは多少なりとも相手方に不信感を与える可能性が高い。それを極力回避するために、引き継ぎには万全を期す必要があるのだ。行政というのは、資料至上主義であると思われがちだが、部署によってはそうとばかりとも言えない現実がある。特に利害関係が複雑に絡み合う知事の政策の推進については、むしろ資料に残せるような内容の方が少ないのだ。そういう仕事の引き継ぎには最大限の注意を払わなければならないが、幸いにして優斗の後任は当面課長の佐藤が兼務することとなった。どこの誰かわからない後任に引き継ぎをするよりも、優斗の仕事を把握している佐藤が兼務することが、せめてもの救いではあった。ほとんど取ったことのない年休は溜まっているし、休日出勤した分の代休も溜まっていたので、休みを取るのに苦労はしなかった。課内には、佐藤が気を利かせてくれて、内臓系の検査のために3週間ほど入院をしているということにしてくれていたので、入院の内容は当面バレずに済みそうだった。

 道庁地下の食堂で昼食を済ませると、そのまま地下鉄に乗って病院へ戻る。病棟へは危険物の持ち込みはもちろん、携帯電話以外、ノートパソコンやタブレット端末など仕事ができるような道具の持ち込みは厳禁であり、病棟へ入る際は看護師のボディチェックを受ける必要があった。

 検査入院ということだったので、血液検査や、点滴や、レントゲンの撮影や、脳波の検査や、そういうことを優斗は想像していたのだが、夕方に一度主治医が様子を聞きにくるだけで、特にすることもなかった。それで自然と、病棟の中で唯一テレビがある談話室で時間をつぶすことが増えていった。

 談話室では、実に多様な症状を持つ患者を目の当たりにした。ある車椅子の女性高齢者は、一日中何事かをブツブツつぶやきながら、時々激怒したように怒鳴り声をあげた。ある20代くらいに見える女性は、身の回りで起こる全てのことが不安になっているようである。その日の朝優斗が耳にしたのは、「寝汗をかいてしまったが、寝汗のかきすぎで死ぬことはないか?」という驚くような質問だった。ある中年男性は、幻覚が見えているようで、本気でアイドルが病院に来ると思い込み、その患者曰く「談話室をコンサートができるようにセッティング」しようとして看護師たちに制止されていた。これらの患者たちの症状を見るにつれ、優斗は少なからずショックを受け、同時に、生まれて初めて精神科の重要性を認識したのだった。

 入院して3日ほど経った日の夕食の後、食事の時間は食堂となる談話室で、優斗は一人の女性から声をかけられた。ちょうどその頃、夕方のニュースでは賛否が分かれている安保法制に関する国会の動きを連日伝えていた。その女性は、一台しかないテレビで毎日流れている安保法制について質問をしてきたのだった。

 「毎日毎日このニュースやっているけど、よくわからないんです。一体この“安保法制 ”ってやつで、何がどう変わるんですか?」

 そう声をかけてきた女性を改めて見てみると、優斗はその異常な細さに驚いた。

 「今はまだわからないんですよ。国会で与野党が駆け引きをしていますから。ただ、個別的自衛権しか認めてこなかった政府の解釈を変更して、集団的自衛権を認めることは、いい悪いは別にして、今までの政府ではできなかったことですね」

 優斗はいきなりの見ず知らずの女性の質問に戸惑いながら、その細さで生命が維持できていることを不思議に思った。

 「個別的?集団的?自衛権?やっぱり難しいですね」

 彼女は優斗の言葉を全く理解できないようだった。

 「個別的自衛権というのは・・・」

 優斗は説明を続けようとしたが、それを遮るように彼女は話題を変えた。

 「私、佐谷佳奈子(さや かなこ)と言います。松野さん、ですよね。昨日夕食の後に看護師さんと話をしているのを聞いていました。私、摂食障害なので、ご飯食べた後に一時間は座っていなければいけないので、よく人の話を聞いてしまっているんです。すみません、盗み聞きしていたわけじゃありません」」

 彼女は、そのか細い体からは想像できないほどはっきりとした口調で、自己紹介をしながら自分の病状を話した。それで相手は理解できていると思っているような話ぶりだったが、優斗は、そもそも摂食障害とは何なのか、なぜ食事の後に一時間も意味もなく座っていなければならないのか理解できなかった。

 「あ、そうなんですか。それで僕の名前を知っているんですね。ここにいると、いろんな話が聞こえてきますもんね。僕も正直、こんなにいろんな病状の人がいると、それぞれの人がどんな病気なのか興味があります。実は僕、精神科への入院は生まれて初めてで、精神的な病気とかは、まだ全然わからないんです」

 優斗は遠回しに、佳奈子が言った佳奈子の病気のことが理解できなかったということを言いたかったのだが、彼女はそれに気づかないようである。

 「あの看護師さんに何でも訊いてしまう人は、不安障害と言って、とにかく身の回りのことが不安になって仕方がない症状なんだと思う。時々怒鳴り声をあげたり人や、一見、訳のわからない行動をとっている人たちはみんな統合失調症と言って、幻覚や幻聴の症状がある人たち。あの人たちはあの人たちで、自分の法則にのっとって行動しているんですよ」

 優斗は、佳奈子の知識の多さに驚いて、頷くことが精一杯だった。そんな優斗の様子を気にすることもなく、佳奈子は話し続けていた。

 「もしよければ、これから色々教えてくださいね。ご飯の後は、必ず座っているので」

 優斗は淡々と自分のペースで会話する佳奈子との距離感を掴みきれずに、「こちらこそ」というのが精一杯だった。食事が終わってちょうど一時間ほど経った頃、佳奈子は看護師に何事か声をかけられ、「それじゃあ、戻りますね」と言って病室の方向へと去って行った。

 テレビでは、まだニュース番組が続いていて、最近よく見るようになったコメンテーターの面々が、安っぽい言葉で安保法制を批判していた。

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