第2話 入院

 優斗は、まだ自分が“依存症 ”という得体の知れない、病気のようなものの疑いがあるという現実を受け入れられなかった。いや、その「依存症」というものが、一体何者なのかということすらもわからなかった。しかし、女性問題が将来、公務員としての自分の足を引っ張るだろうという佐藤の言葉は、その通りだと納得もしていた。女性関係が派手だということが、なぜ「依存症」という病気らしいものと結びつくのか、それが全く理解できなかったのだ。

 優斗の派手な女性関係は、旭川柏葉高校の在学中から始まっていた。彼女と呼べる存在はいたが、同時に違う女性と肉体関係を持つということは日常茶飯事だった。それほど受験勉強に苦労せずに国立道帝大学法学部に合格し、そんな生活は大学時代にさらに派手になっていき、女性を抱かない日が一週間以上続いたことはなかった。しかし、学問の方は特に苦労せずに上位を維持し、地方自治の関する法律の矛盾点と課題をまとめた卒業論文は教授たちの評価も高く、大学院への進学を勧められたが、早く自立したくて就職の道を選んだ。両親が旭川市の公務員をしていたので、就く職は公務員と決めていた。だからそれなりの試験勉強をして、北海道の上級職員の試験を受けパスし入庁した。

 「道民のために」とか、「公共の福祉向上のために」という気持ちはあまりなかったが、上級職員の規定路線通り、採用されてからの配置は官房系統が続いた。政策を形にしていく仕事に生きがいを感じていた一方で、給料をもらう立場になったことで風俗通いも加わり、女性関係は一層激しくなっていった。

 そういう生活をしている男性は、優斗の周りにも何人もいた。むしろ、優斗の友人は、みんなそういう女性関係が当たり前だった。小学校時代から親友の中であるトオルも、高校時代から同じグループだったヒロキやアキラも、複数の女性と関係を持つということは、みんな普通にしていることだった。まして、優斗は独身である。複数の女性と肉体関係を持ち、風俗通うことに何ら罪悪感を感じていなかったのに、それを依存症の疑いがあるからと、受診を勧められているのだ。

 人事課長が勧めてくれた病院は、札幌市の北区、市営地下鉄南北線の北側の終点である麻布駅の近くにある「札幌幌北(こうほく)病院」という、病床50床の小さな精神科の単科病院だった。受診するにあたって、優斗は優斗なりにこの病院のことを調べてきたが、ここは小さくはあるが、ここの医師たちの評判はよく、特に依存症や摂食障害、神経発達症の診断と治療に定評があるようだった。もっとも、優斗自身はそれらの病気や障がいと呼ばれるものがどのような症状のものであるのかはわからないままであったが。

 「受診しようと思ったきっかけは何ですか?」

 外来の医師は、待合室で優斗が書いた問診票と優斗の顔を交互に見る様にしながら、診察を始めた。

 「自分では、自分の症状のことは認識していませんが、上司に勧められて受診を決めました。」

 優斗は自分の心情を正直に答えた。そこには、自分がなぜ今受診しているのかわからない、という反感の感情もこもっていた。

 「わかりました。これから松野さんのことを把握するために、少し子どもの頃のことを伺います。今回、性的なことで受診されている訳ですが、子どもの頃はどのような状況だったのでしょうか?異性に興味を持ったり、性的なことに興味を持ったりするのはいたって自然なことですが、例えば異性との交際の状況はどうでしたか?」

 優斗は、医師が何を聞きたいのか理解できなかった。

 「どう、と言われても、何を答えていいのか困ります」

 優斗の非協力的な態度にも、医師は笑顔を絶やさない。

 「すみません。ではもっと具体的に伺いますね。ええと、松野さんのご出身は・・・」

 医師は問診票から優斗の出身地を突き止めようとしているようだったが、問診票にその質問は無かったから、記載していなかった。

 「旭川市です。生まれてから高校まで旭川市で育ちました」

 しびれを切らして優斗は自ら答えた。

 「そうでしたか。ありがとうございます。初めて異性と交際をしたのは、何歳頃のことか覚えていますか?」

 「中学2年生の夏です」

 「初めて異性と性交渉をもったのは、いつですか?」

 「その女性と、中学2年生の秋頃です」

 「そうですか。言いづらいことを伺ってしまって申し訳ありません。その後、女性との関係はどのように変遷していったのか、教えて頂けますか?」

 (随分と簡単に人の過去に踏み込んでくるんだな)

 優斗は医師への反感を強くしながら、しかしこの医師にはごまかしは通用しないだろうということも確信していた。

 「その女性とは、高校1年生の夏まで交際を続けました。しかし、高校に入ってからはその女性以外の女性とも体の関係を持ちました。付き合う、という関係ではなくても体の関係だけの女性もいました。というより、最初の彼女と別れてからは、女性とは体の関係がメインとなりました」

 「高校時代には、どれくらいの女性と関係を持ったのでしょうか?」

 医師の質問は段々と具体的なものになっていった。

 「高校時代は5人です。その中には、体面上彼女と呼べる相手もいましたし、いわゆるセックスフレンドの関係にあった相手もいます。ついでに言うと、大学生になってからも女性はセックスの対象であることがほとんどで、大学の内外の女性たちと関係をもちました。」

訊いてもいない内容を先読みして答えた優斗の言葉に、医師は少し面食らったような表情を見せたが、それはほんの一瞬で、すぐに平静を取り戻したようで笑顔に戻った。

 「大学では、何を勉強されていたんですか?」

 「法学部で、特に地方自治法を学びました。両親が旭川で公務員をしていたので、僕も公務員になろうと決めていましたので。少しでもその後につながる様な勉強をしたいと思っていましたから」

 「道帝大学ですか?」

 道帝大学とは、札幌市北区に広大な敷地を誇る国立大学で、入学するためには北海道ではトップの偏差値を必要とする大学である。北海道庁の幹部人事は、この大学の学閥が重視されており、優斗もその同窓であることから、何かと助けられているのも事実だった。

 「はい。道帝大学法学部です」

 「そうでしたか。私も道帝大出身です。学部は医学部ですが。ところで、大学の内外の女性と言いますと、具体的には?」

 医師は、頃合いを見計らって話を元に戻した。優斗は大学の話になって懐かしい、心地よい感覚に浸っていたが、すぐに憂鬱な話に戻されて現実を突き付けられた思いがした。

 「同じ学部の同級生や後輩、それから他大学の女性や、飲み会で知り合った社会人の女性もいました。同時期に7人ほどと関係をもっていたこともあります」

 「そうですか。道庁へはストレートですか?道帝大出身だと、上級職員ですよね?」

 やっと、社会に出てからの質問になった。最初は反発していた優斗も、今ではその丁寧な質問の仕方に逆に好感を持ち始めていた。

 「はい。地方自治法の研究は北海道では珍しかったらしく、大学院への進学もかなり勧められましたが、早く自立したいと思って上級職員の試験を受けてパスしました。配属は今まで、官房部局です」

 「官房というと具体的にはどのような仕事ですか?」

 「行政でいう企画とか、人事とか、財政とか、政策を進めるための部署のことを言います」

 医師は納得したように何度も軽く頷きながら、時々パソコンにその内容を打ち込んでいるようだった。

 「率直に伺いますが、現在関係をもっている女性は何人くらいですか?」

 優斗は本当に率直に聞いてくるんだな、と思いながらも、なぜか話しやすいこの場の雰囲気に身を任せて答えた。

 「特定の相手は3人です。勤めてからはもっと多くの女性と関係を持ってきましたが。」

 「その中には、例えば真剣に交際したり、その結果結婚を考えたりした女性はいますか?」

 「1人います。その女性とも体の関係から始まりましたが、その関係を続けるうちに真剣に交際することを考えもしました。しかし職場が一緒で、彼女のキャリアを考えると、結婚という結論には至りませんでした」

 「なるほど。公務員の方は色々難しいものがあるのですね。ところで、女性との性交渉以外では、そのような行為はどのようなものですか?例えば・・・、そうですね、マスターベーションとかは?」

 「マスターベーションはしません。それをしない代わりに、一週間から二週間に一度は風俗に行くか、パートナーと行為を行っています」

 普通は、初対面の人と話す内容ではないな、なんてことを思いながら、優斗は淡々と質問に答えていった。最初の頃に優斗が抱いていた反感は消えていて、この医師には正不思議に正直になっていた。

 そこまでの質問を終えて、パソコンに向かって話の内容をカルテらしい画面に打ち込んでいた医師は、優斗の方を向き直って話を続けた。

 「松野さん、正直に申し上げます。私は今、性依存症、正確には性嗜好障害と言いますが、その疑いがあると思っています。しかし、依存症というのは風邪や骨折と違い、目に見える症状があるからすぐに確定診断ができるというものではありません。そこで、様子を見るために三週間ほど入院をして頂きたいと思いますが、いかがでしょうか」

 優斗は面食らった。気持ちの整理をしてやっとの思いで受診をしているのに、今度は入院しろとこの医者は言う。自分の病状はそこまで深刻なのだろうか。精神科に入院と言ったら、職場で自分はどのように思われるだろうか。瞬時にそんな思いを巡らせながらも、当然ながら回答に窮している。

 「やはり、精神科に入院というと、抵抗がありますか?」

 医師は、回答を急かすことなく、しかし決断を促すように言葉をかけた。

 「二週間後に異動の内示が出る予定です。内示の後はおそらく二週間で異動になります。今から三週間となると、引き継ぎや新しい職場へ行くための準備ができません。午前中の3時間ほど、職場に出るための外出を許可して頂けるのであれば、入院してもいいかな、とは思います」

 それからの病院の対応は早かった。医師が看護師に一言声をかけると、すぐに必要な書類の説明が始まり、それが終わるたびにサインが求められる。3回ほどサインをした後、すぐに病棟へと案内された。看護師は歩きながら、この病院には急性の患者が自分の意思とは関係なく、医師2人と親族の同意のもとに入院している保護病棟と、患者が自分の意思で入院を決めて入院する解放病棟の2つがあること、保護病棟の出入りは厳しい制限があるが、解放病棟は朝7時から夜7時までは出入りが自由なこと、しかし病院外に出る際はその都度許可が必要なので、外出届けを前日までに病棟のナースステーションに提出する必要があること、携帯電話は病棟の談話室か個室の病室みで使用可能なこと、などを機械的に説明していった。

 案内された病室は個室だった。「個室に入るほど重病なのか?」という問いを看護師にしてみたが、「重病、軽病という括りではなく、今は女性の患者が圧倒的に多いので、なるべく男性は個室に入ってもらうことにしている」というような答えが返ってきた。

 優斗はまさか即日入院になるとは思っていなかったので、そのための準備を何もしていない。午前10時に診察の予約をして、ほぼ時間通りに診察室へ通され、2時間近く診察を受け、今はもうすでに正午を回っている。昼食の給食準備は間に合わないと先ほど看護師に言われたが、昼食を気にしている気分でもなかった。一度家に戻り、荷造りをして戻ってくるという手もあったが、どうも先ほど説明された手続きが面倒に感じた。要は、慣れない診察に疲れていたのだ。優斗は携帯電話を取り出し、“西掘(さいぼり)静香 ”という名前を呼び出してコールすると、4回ほどの呼び出し音で相手が出た。

 「こんな時間にごめん。実はちょっと訳ありで入院することになったんだけど、急に決まったから何も準備してきてないんだ」

電話先の西堀静香とは、優斗の大学の後輩で、今はすすきのにある高級クラブ「シュエット」の雇われママだった。優斗とは大学時代から体の関係を持っていたが、静香は卒業後に結婚し、4年間ほど連絡を絶っていた。しかし、優斗が秘書課時代に先輩とそのクラブに行った時に偶然再会し、その時に静香が離婚して、そのクラブで働き始めて以降No,1を取り続け、雇われママとして働いていることを知った。そして、その日の営業終了後に静香のマンションでセックスをしてから、また2人の肉体関係だけの付き合いが始まったのだった。それからもう既に5年が経とうとしていたが、今ではお互いがお互いの家の合鍵を持っている。

 「なになに、どこが悪いの?」

 静香は心配するというよりも、面白そうなものに興味津々といった高いテンションで話している。

 「だから、ちょっと訳ありで検査しなくちゃいけなくなって、検査のための入院なんだ。だけど、今日初診で即日入院になっちゃったから、準備してきてないのさ。だから、静香に家から着替えとか携帯の充電器とか持ってきてもらいたいんだよ。麻布駅の近くの幌北病院。」

 「いいよー。起きたばっかりだから、夕方出勤前に届けてあげますよ」

 静香は、仕事場のすすきのから徒歩圏の札幌の中島公園すぐ側の高層マンションに住んでいる。一方優斗は、地下鉄南北線の北24条駅から徒歩10分ほどのところにある2LDKのデザイナーズマンションを借りていた。公務員といっても30代の優斗の手取りは、超過勤務手当てを入れても手取りで30万円に届くことはなく、そこからこのマンションの家賃8万円あまりを支払うのは決して楽ではなかったし、安い公務員官舎に入れば現在の家賃の半額以下で済んだが、家に頻繁に女性が出入りする様子を隣人に勘付かれたくなかったのと、女性とセックスをするたびにラブホテルを利用する費用を考えれば、妥当な家賃だと納得していた。

 「面倒かけてごめん」

 優斗はそう言うとすぐに電話を切って、それ以上の静香の興味本位の質問が続かないようにした。

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