第四章 眩惑 Stregare. (5) 君は俺だけのもの

 その時、突然「レオ」と彼がその名を口にした。


「君、怪我をしたんじゃないか」

「え? いや、別に」

「嘘をつかないで。君の血の匂いがする」


 遠回しにカルナーレの臭いを指摘された。確かに、囮にするために少々意図的に出血したけれど。もう傷口は塞がってしまったし、そこまで強く臭いが残るはずはない。


「……まさかとは思うけれど、囮に使ったんじゃないだろうね?」


 そのまさかだ、とは言えなかった。

 だが、レオの無言をコルラードは肯定だと取ったらしい。足を止めると、ぐるりとこちらに振り返った。


「どうして君はっ!」


 ぎらりと光る捕食者の目がそこにはあった。

 瞠目したままレオが身を竦めるも、コルラードは速足で近づき、そのままレオの身体を砂地の上に突き飛ばした。腰を強かに打ち付け、痛みに顔を引きつらせているレオに、彼の猛攻が迫る。そのままレオを組み敷くと、両手を彼の頭の上で無理やり砂地に縫い付けた。


「こらっ! 何を……!」

「黙って」


 鋭い口調に、思わずレオの身体が硬直した。熱に絆された荒い息を吐き出しながらコルラードはその目を細める。月明かりに照らされ、独特の光彩がまるで御影石のようにつるつると光って見えた。


「前に忠告したよね? 俺以外のノスフェラトゥを見ないでって」

「はっ……?」


 空いている右手を、レオの冷え切った頬に当てる。そこには微かに彼自身の血液がこびりついていた。それを見て、より一層コルラードの怒気が増す。


「俺だけ追いかけてよ。他のノスフェラトゥなんかにうつつを抜かさないで。他なんか見ないで、俺だけを狩って」


 こんなに他人の臭いをまとわりつかせて、と彼は悲しげに呻いた。


「君が『血狂い』を追っているのは知っているけれど……それとこれとは別だよ。どうして俺の気持ちを分かってくれないの。それとも焦らすのが好きなの?」


 その一言に、レオの心臓が跳ねあがった。親書を焼いた時だろうか? それとも、もっと前? いずれにせよ、ここ数夜の行動は彼から言わせれば全てお見通しだったという訳か。


 そんな思考を断ち切るように、コルラードがレオの首に巻かれているタイに手をかける。いとも簡単に解かれてしまい、さすがのレオもぎょっと目を剥いた。


「やめろ、ここっ、外……!」

「君が誰のものか、あいつらにきちんと見せつけてやらないとね。君にも嫌と言うほど分からせてあげる」


 口調が明らかに本気だった。

 ひとつずつ、丁寧に細工の付いたボタンを外していく。上から順に、一つ、二つ。三つ目が外されたとき、とうとうレオの綺麗な鎖骨が露わになった。


「君は俺だけのものだ」


 剥きだしの首筋にそっと鼻を押しつけると、微かに汗の臭いがした。コルラードにとっては、それすらも血液と同じくらいに愛しい匂いと化している。じっくりと堪能するかのように、蕩けた瞳を暫し彼の白磁の肌へと向けていた。


 たまらず、彼の細い首筋に吸いつく。


「あっ……!」

「いっそのこと、君をノスフェラトゥにしてしまおうか。俺が噛み付けば一瞬だ」


 刹那、縫い付けられていた手の力が僅かに緩んだ。その隙をついて、レオの左手が勢いよく跳ねあがる。


 乾いた音が、凍れる夜に響き渡った。


 頬を力強く叩かれ、コルラードはぽかんと呆けた様子でレオの瞳を見つめている。一体なにが起こったのか、頭の中でうまく整理できていないのだ。


 そんな彼に、レオはキッと強く睨みつけた。


「このバカ! 突然襲いかかる紳士がどこにいる!」

「ご、ごめん……。ちょっと、君の血の臭いに惑わされて」


 あまり冷静じゃなかった、と彼は申し訳なさそうに言った。しゅんと肩を落としつつ、大人しく彼を拘束していた手を離す。

 同時にむっくりとレオが上体を起こすと、


「君がやって来てから誰の血も飲んでなくて……その、く、空腹で……力も弱っていて……す、すみません本当。この通りです」


 じっとりと目が据わっているレオに、コルラードは必死の弁解を試みている。しかし、なにを言っても言い訳がましくなってしまう。さすがの彼も途中で何を言っても解決しないということに気付き、それ以降はむやみに口を開こうとしなかった。


「……本当に、飲んでないのか」

 沈黙を破ったのは、意外にもレオの方だった。「こんなに他人の血をつけているのに」

「我慢している」

 コルラードは真顔のまま、そっと彼に顔を近づける。「君に嫌われたくなくて」

「それってなにか関係性が……」

「あるよ。ノスフェラトゥに吸血されると、性行為と同じくらいの快楽が被吸血者に襲う」


 なんだかとんでもないことを聞いた気がする。


 さっとレオの血の気が引いた。だが、あいにくコルラードにはその表情の変化は目に入っていなかった。


「だから、なるべく君を『血狂い』に近づけたくない。君は本気なの?」

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