第四章 眩惑 Stregare. (4) こいつじゃない
それから数度目の夜、レオはいつものようにそっと屋敷を抜け出した。夜闇に溶け込む裾の長い黒の上着を羽織ると、時刻の確認のために空を仰ぐ。だいたい、日付が変わるあたりだろうか。異形とエゼクラートの住民が活動を開始する時間帯だった。
レオは誘導のために意図的に親指を噛み切ると、溢れ出た血をわざと頬に擦り付ける。傷口はその間にも、みるみるうちに塞がってしまった。傷の治りが速いことに関してだけは、カルナーレに生まれてよかったと思う。
針葉樹林がざわめく。独特の気配を察知し、レオは暗闇の中を一心不乱に走り出した。
ノスフェラトゥの臭いがどんどんこちらに近づいてくる。
後ろだ!
レオは瞬時に脇下から短銃を抜き、容赦なくトリガーを引いた。引き続けた。
ハンマーが雷管を叩き、銃口から銀の弾丸が発射される。排出する空薬莢。轟音。暗闇の中で何かが蠢いた。それを狙い木陰に身を投じると、一旦マガジンごと新しいものに装填し直し、一点にめがけて再びトリガーを引く。
まだだ。
こちらへ襲いかかる屍を、稲穂色の瞳が表情一つ変えずに追いかけてゆく。うなる咆哮。掌にジンとした衝撃が残った。
こちらに、もっと近づいてくれ。
連続する発砲音。硝煙の香りが、夜の冴えた空気に入り混じる。
とうとう絶叫と共に、蠢く塊が地面に崩れ落ちた。しばらくレオは銃を向けたままその様子をじっと観察していたが、完全に沈黙したことが分かると、そっと塊に近づいた。
眼下で血を流す塊――ノスフェラトゥだったものは、窪んだ眼を闇の深淵へと向けていた。レオはそっと瞼を閉じてやり、その左胸にいつも通り、十字を模したナイフを突き立てる。
「……こいつじゃない」
ぽつりと呟き、レオはすっくと立ち上がった。同時に死臭が立ち込めてゆく。脂でべとついた腐臭をなるべく嗅がないよう、彼は袖口で鼻を塞いだ。
今日も外れだった。
ふっと息を吐くと、背後から別の気配がした。いつものレオならば気配を察知してすぐに銃口を向けるところだが、この時の彼は違った。ただ、呆れながら肩を竦めるだけだ。
「コルラード。仕事はどうした?」
「気付いていたのか」
黒く塗り潰された闇から姿を現したのはコルラードだった。彼もまた、いつも狩りの際に身に纏っている黒の外套姿でいた。愛用の剣は、腰ではなく背中に背負っている。
彼はくすくすと笑いながら、レオのすぐ隣までやってきた。
「おれが家を出てから、ずっと尾行していただろ。気配で分かる」
「気配?」
レオは肯いた。
「お前のは、なんかねちっこい」
「ねちっこいのか……心外だな」
その時、レオはコルラードの衣服にべったりと血液が染みついているのに気がついた。コルラードはまるで気にも留めていない風だった。だからレオは敢えてそれを見なかったことにし、ふいっとそっぽを向く。
コルラードはぐったりと横たわる同族を目の当たりにし、悲しそうに眉を下げた。屍の横にゆっくりとしゃがみこみ、腐敗しかけた青白い頬を撫でてやる。
「……軽蔑するか?」
レオが囁くように尋ねると、彼は静かに首を横に振る。
「『彼』の捕食行為がどういうものだったのかは知っている。諫められて当然だ。君がやらなければ、俺がやらなければならなかった訳だし」
だが、と彼は言う。「悲しいことには違いないけど、ね」
レオが振り返ると、既にコルラードは立ち上がっていた。暗褐色の瞳をレオの眼差しへと向け、それからゆっくりと逸らした。
「終わったのなら、帰ろう。その身体に沁みついた死臭を洗い流して、君の仕事を終わらせてくれないか」
「ああ」
レオの返事を聞く前に、コルラードはさっさと先に歩き出す。彼の背中を見つめると、レオはなんだか言いようのない違和感に駆られていた。
一度立ち止まり、レオは屍を振り返る。
あの死体は朝になれば灰になる。そうすれば、あのノスフェラトゥの被害に遭う者はいなくなる。当然の罰なのだ。そう思い込まなければ、この仕事はやっていけない。
コルラードに絆されてしまったのだろうか。
短く息をつくと、レオは再びコルラードの背中を追いかけた。
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