第十七章 共産主義革命(アクリル時代:西暦1848年~1879年)

 第二次世界大戦後、人族と魔族は正式に交流を持つようになった。依然敵対していたが、敵対していたからこそ敵の情報を探り不本意な衝突を避けるために最低限の交流を持ち調整が行われた。交流を禁止すれば密航者が地下に潜り摘発が難しくなるというのも大きかった。相互交流を限定的にでも正式に認め、不法入国者の発生を防止し取り締まるのは重要であった。

 1848年、カール・マルクスによって著された「共産党宣言」はこうした種族間交流の中で魔族国家にもたらされた。共産主義はアメリカ大陸東部沿岸をたちまち席巻した。

 第二次世界大戦中、駆逐艦隊の砲撃により東海岸沿岸都市は破壊されていた。そのインフラ再建においてテフィニアム・ヒニエが提唱した魔力管理システムが実施された。魔力革命期に個人や企業毎にバラバラに行われていた魔力吸引は、区画整理により街全域に均一・等間隔に設置された吸引設備によって効率よく生まれ変わった。アメリカ大陸の東海岸一帯は国境に関係なく同じシステムで統制され、その魔力の分配問題は共産主義思想と共鳴し市民を共産革命に煽り立てた。

 一口に共産主義といっても方針の違いにより細分化されているが、おおよそ「財産の共同所有による平等な社会の実現」という主張が軸となる。魔力革命により魔力供給の源となる土地の価値は急上昇し、魔族は所有する土地面積により貧富の格差を広げていた。貧者に分類され魔力に餓える多くの市民にとって、共産主義的な魔力の共同所有・分配は抗い難い魅力を持っていた。

 共産主義の旗の下、民衆は国家を越え一つの思想一つのシステムによりでまとまった。それは魔族・人族間の団結すら生んだ(1839年に人族による魔族悪魔認定は取り下げられている)。初期には魔力吸引設備の布設、区画整理、公平分配の推進を行儀よく行っていた共産主義運動家の活動は次第に過激化し、資産家から強迫・強奪などにより財産や土地を奪うようになった。政府はこれを厳しく取り締まったが、共産主義は民衆の圧倒的支持を受け広まっていった。

 第二次世界大戦は実質的な引き分けであり、得られたものは聖遺物のみで賠償金や土地など経済再生を促す物はなかった。人族の技術も獲得していたのだが、人族の異質な技術を理解し普及し魔族産業に活かすには長い時間が必要であり、短期的な利益はなかった。戦争による人的・経済的ダメージから長く抜け出せず疲弊した民衆にとって、悠々と暮らしている資本家を打倒しその不当に蓄財している富を自分達の手に取り戻す、というのは手っ取り早く生活を楽にする手段であった。

 かくして共産主義の火は燃え上がり、1862年、とうとう共産主義革命へと導いた。元来魔族は球体魔法という万能かつ取締の難しい道具により武装蜂起が起き易い。テレパシー通信設備は占拠され、革命の声は大陸全土へ広がり、マヤ国とアステカ国でほぼ同時にクーデターを起こした。鎮圧に向かった軍のほとんどは離反者による内部分裂で空中分解した。

 1862年12月15日、革命運動家オグララ・スーはパナマ州パナマ市中央広場において「ヒューペルボリア共和国」の設立を宣言。これにより南北アメリカはキューバを除き単一国家によって統一された。革命を主導し成功に導いたオグララ・スーは熱烈な支持をもって市民の共和国初代書記長に就任した。

 「全ての知的存在による公平かつ平等な社会」を掲げたヒューペルボリア共和国は人族にも権利を認め、入国を歓迎した。また第一言語としてセンザール語を設定。これの普及に努めた。センザール語はキューバ島で古くから話されている言語であり、旧マヤ国・旧アステカ国の中間的語形を持っていた。


 権力を握ったオグララ・スーはまず産業構造の改革と財産の分配に乗り出した。あらゆる商品の生産は全て政府の管理下で行い、全ての労働者がその労働に見合う正当な報酬を公平に受け取るもシステムが目指された。そのための資金には資産家から没収された財産が使われた。社長や投資家といった「不当な搾取を行うブルジョワジー」を示す言葉は抹消されたが、同じ意味の別の言葉にとって変わられるだけであった。

 市民は新体制に希望を抱いたが、期待に反して生活はなかなか楽にならなかった。産業構造の急激な変化は経済の不安定化と(一時的な)生産効率の低下を招き、生活はむしろ苦しくなった。前政権を運営していた人々の大多数は処刑されるか投獄されるかしていたため、新政権を運営するのは参政経験のない者ばかりで、政策の方針こそ定まっていても実際の運営となると機能不全を起こした。彼らには熱意があったが能力はなかった。あるいは能力を育むだけの時間がなかった。

 ヒューペルボリア共和国は人族にも門戸を開いていたが、入国時に財産を没収されるため、熱心な共産主義者を除きやって来なかった。


 結局のところ、大部分の市民にとって共産革命は単純に「生活を楽にするための革命」「気に入らない金持ちを倒すための革命」であり、その思想的意義は根付いていなかった。改善されない生活に市民が不満の声を上げると、政府はこれを弾圧した。思想統制、監視社会は革命前よりも息苦しいものであった。1875年には政府の魔力供給効果の過信、歪な農業生産構造、飢饉などより作物が不足し、800万人に及ぶ餓死者を出した。暴動が頻発し、粛清は日常化した。

 オグララ・スー書記長はおよそ二年毎に抜本的改革策を打ち出したが、どれも事態の解決には至らず、支持率を低下させ、1877年に失脚した(その翌年に自宅で急死した)。政府と議会は次第に同じ共産主義の中でも思想の違いが浮き彫りとなり、官僚の腐敗と相まって分裂を繰り返した。


 1879年7月1日、自由党議員ジョニイ・ヴァレンタインが二代目書記長ファニー・ジョウスタアを拘束、自宅に軟禁。その三日後の緊急議会において政府の解体議案が提出され、書記長不在の中賛成多数で可決。ヒューペルボリア共和国は終わりを迎えた。同日ジョニイ・ヴァレンタインはルルイエ合衆国の建国を宣言。それから一週間の内に監禁されていた官僚と政治家は解放され、初代大統領ジョニイ・ヴァレンタインの下で国の再建に尽力した。


 魔族における共産革命は失敗に終わり大きな犠牲を出したが、魔族を国境を越え団結させた事、全ての国民に義務と権利の概念を自覚させた事、言語を統一させた事においては魔族の一体化に貢献したといえる。


 次の章では、魔族の再起とそれに続く第三次世界大戦について見ていこう。

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