第十八章 第三次世界大戦(アクリル時代:西暦1910年~1916年)

 ルルイエ合衆国では国家事業による内需の拡大、雇用創出、社会と経済の立て直しが行われた。共産時代の粗雑な魔力吸引設備は解体され、改めて作り直された。市街地とその郊外における魔力吸引設備の設置には補助金が出た。農業調整法により作物生産は正常に戻り、かねてからの人族と魔族の技術融合が実を結びはじめた。

 魔力吸引設備の性能は向上し、供給量は増大。魔法の効率化と併せ、供給が消費を上回るようになった。魔法行使には響打が必要であり、響打を行うのは魔族個人である。一人が一日に消費できる魔力量には限りがある。魔法行使の機械化は実現のための理論すら構築されておらず、使い切れない大量の魔力は消費されず放置された。

 魔力の価値は下がり、それに伴い地価も低下し安定し始めた。魔力は「どれだけあるか」より「どこにあるか」が重要になった。魔力吸引設備のない僻地に行けば誰でもいくらでも魔力を得る事ができたが、わざわざ時間と労力を費やしそんな場所に行き魔力をかき集める理由はなくなった。人々は街中で十分な魔力を十分安価に手に入れる事ができた。

 1895年頃には魔族国家は完全に復活し、更なる発展と繁栄に向けて歩き出していた。


 1888年に重力制御の概念の導入により高度随意飛行魔法が開発され、魔族は鳥のように自在に飛行できるようになった。一般的な杖による単独での最高速度は時速80kmに達した。風よけのためのヘルメットは必需品となり、市街地では多発した事故を受け飛行制限がかけられた。物資の輸送のために開発された航空機は例によって球形だったが、平地に着陸すると転がってしまうという致命的な欠点から、航空力学を考慮し人族の航空機と大差ない形状に落ち着いた(エンジン代わりに球体が積まれた)。


 ところで、この頃には大洋の渡航は規制緩和と航空機の発達普及によりそれまでと比較しかなり容易になり、一般人の旅行客が増加していた。ルルイエ合衆国への入国者数は1900年に十万人、1909年には三十万人に達した。人族の旅行客は飛行の発達により劣化した地上の交通事情や魔法を前提とした生活に馴染めず苦労したが、魔族も人族国家では苦労した。全ての人族国家では、魔族が国内で「吸引」を行う事、そして吸引設備を設置する事を禁止していた。加えて規定以上の大きさ・透明度の球体の所持は厳しく取り締まられた。潤沢な魔力を湯水のように使う生活に慣れた魔族は、旅先での制限、つまり限られた魔力と10響打もできないレトロな球体に大いに不便さを感じた。

 そうなった時にやる事は今も昔も変わらない。不正である。最近大学受験会場でのスマートフォンの持ち込みが問題になったが、この時代では人族国家にこっそり魔力吸引設備が持ち込まれた。実行者である16人からなる10代の若い魔族の一団は事態の重大さを理解していなかった。1910年11月20日、日本の横浜に持ち込まれ稼働寸前の魔力吸引装置と携行アクリル製球体を憲兵が発見した。憲兵は即座にこれを破壊。現場にいた魔族9人を射殺し、7人を逮捕した。世に言うヨコハマ事件である。

 魔族の若者にとっては三輪車に乗るのがバカバカしいから違法だけどカッコイイ自動車を持ち込んだ、という程度の認識だったが、人族の視点では魔法テロを起こそうとしていたようにしか見えなかった。人族にとって球体は恐るべき兵器だった。魔族にとっては日常の必需品だった。認識の違いが生んだ悲劇だった。

 ルルイエ合衆国は「あまりに過剰な処置である」として、謝罪と拘束された7人の解放、遺体の返還を求めたが、日本は拒否。これを受け、1910年12月8日ルルイエ合衆国は日本に対し宣戦布告を行い開戦。人族国家は十六ヵ国が日本を支持し参戦した(終戦までに更に四十ヵ国が参戦する)。第三次世界大戦の始まりである。


 第三次世界大戦は制空権の争いだった。魔族は船に乗る事ができず人族国家と陸地を接していないため、進軍は空路に限定される。魔族の航空機を人族の航空機が迎え撃ち、熾烈な航空戦が繰り広げられた。人族は電波レーダーで魔族の接近を察知し、魔族は魔力ソナーで人族の接近を察知した。人族がエンジンと装甲を進歩させれば、魔族は球体と結界を進歩させた。

 1911年の横須賀沖空中戦では合計14時間に及ぶ戦闘で人族1200機、魔族1050機が大規模戦闘を行った。戦闘は痛み分けに終わり、続く1912年の沖縄上陸戦では強襲上陸により五つのハートストーンが沖縄本島に設置され要塞化が行われたが、完成前に戦艦ビスマルクによる砲撃で三つ破壊され、残り二つは台風による長期の月光遮断により魔力が枯渇し「結界」が消失した隙に日本国陸軍によって制圧された。1914年のニューヨーク沖海戦では人族の揚陸艇17隻の上陸を許したが、四日後にはこれを退却させている。

 戦争は一進一退であり、双方共に沿岸部を一時的に占拠する事はあれ、内陸まで押し進む事はなかった。

 実はベーリング海峡に秘密の海底トンネルを掘り侵入する計画もあった。1912年に着工され70kmまで掘り進んだのだが、折り合い悪く小規模な地震が起きトンネルが崩落。8000人の溺死者・行方不明者を出し工事は中止された。

 第三次世界大戦のパイロットとして人族では「破壊王」ルーデルが有名だが、魔族の間では「不死身の」ジヨセフが有名である。ジヨセフはその生涯で1200回以上出撃し、四十二回撃墜された。その内敵地または海上での被撃墜は29回であり、遠泳7回、敵戦闘機奪取4回、個人での大西洋飛行横断2回、ハイジャック3回、味方による救助11回、敵空母のエンジン室で仮死状態になり密航1回、輸送機からの脱走・パラシュート降下1回と、必ず帰還した。わざと撃墜されているのではと疑われたが、自伝「金剛石は砕けない」によると単に空中戦での回避行動が苦手であっただけらしい。彼はジェロニモを敬愛し、そのゲリラ戦術を帰還に活かした。帰還時に敵国の情報や兵器を持ち帰る事が多かったため、戦争後期には「ジヨセフは撃墜されるのが仕事だ」と揶揄された。なお、彼は終戦後にも民間航空機でのエンジントラブルによる不時着を経験している。


 長期化する戦争に決着をつけるべく、ルルイエ合衆国は時間兵器の開発を行った。1912年に大統領の認可を受け始動したこの計画はデイオ・ブランドウ博士によって主導され、「世界計画」と名付けられた。この兵器が実現すれば、敵の動きを文字通り「止める」事ができるはずであった。

 ルルイエ合衆国は人族連合もまた巨額の資金を投じ新兵器を開発している事を掴んでいた。詳細は不明であったが、人族の新兵器に先んじて時間兵器を完成させるため、研究には秘密裏に最大限の援助が成された。人族もまた魔族が新兵器を開発している事を掴んでいた。水面下の開発競争は加速した。

 1916年7月30日、日本はマンハッタンにウラン型核兵器「少年」を、フランスはサンティアゴにプルトニウム型核兵器「ファットマン」をそれぞれ投下した。核爆弾は一瞬にして数万人の命を奪い去り、大地を放射性物質で汚染した。

 ルルイエ政府はあまりにも被害が大きすぎ即座には詳細を把握できなかったが、人族に先を越された事を悟った。マイケル・ウィルソン大統領は原爆投下の第一報を受け、研究者達の反対を押し切り未完成の時間兵器の使用を命じた。

 1916年8月6日、停止型時間兵器「星の白銀」がハワイの真珠湾で、無限型時間兵器「黄金の鎮魂歌」がフランスのパリ市でそれぞれ起動された。

 「星の白銀」の効果範囲は時間が停止した。光すら停止するため、現場はまるで黒く桁外れに頑強なドームに包まれたようであった。これにより真珠湾に停泊していた62隻の軍艦と沿岸軍事設備の八割が比喩ではなく停止した。時間停止は1918年に解除され、通常の時間流に戻っている。

 一方「黄金の鎮魂歌」が起動したパリ市は悲惨であった。起動地点であるエッフェル塔を中心とした半径5400mの空間は時間的に外界と隔離され、同じ2分20秒を永遠に繰り返すようになった。笑顔で母親と手をつなぎ歩いていた少年が無限に交通事故を繰り返し肉塊と化す陰惨な映像は読者諸兄も一度は見た事があるのではないだろうか。こちらは現在でも解除は実現しておらず、解除の目処も立っていない。


 両種族政府は被害の詳細が明らかになるにつれ恐怖した。核兵器と時間兵器は敵種族どころか星をも滅ぼしかねない兵器である事を自覚した。時間兵器が起動したハワイとパリ、核兵器が投下されたマンハッタンとサンティアゴの様子はラジオ放送やテレビ放送、写真などで世界中に伝えられ、民衆を恐怖させ、政府を批判させた。

 1916年8月14日、キューバ本島において人族連合とルルイエ合衆国は和平を結んだ。これによって第三次世界大戦は終結した。


 次の最終章では大戦後の世界と未来への展望を記し、この本の結びとしたい。

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