第十二章 戦乱の魔法大陸(ガラス時代:西暦200年頃~西暦1011年)

 球体というものは全く便利で厄介な代物であった。球体はたった一つで食糧、工具、冷暖房、医薬品、武器の全てを兼ね備えている。人族国家は廃刀令や銃規制などにより民衆の武装を制限する事ができたが、魔族はそうもいかない。武器である球体を取り上げてしまう事は、同時に食糧、仕事道具、医薬品など生活の糧の大部分を取り上げる事であった。武器と生活を切り離す事ができなかったのだ。従ってどんな政治体制であれ国家は民衆の武装を実質的に認めざるを得なかった。

 民衆の武装は反乱を容易にさせ、国家は不安定に興亡を繰り返した。アメリカ大陸のどこかしらで常に戦争が起きるようになった。


 戦争は球体を洗練させ、魔法を発達させた。人族のような武器や防具の発展は全くなかった。人族における武具の進歩は全て球体の進歩に置き換えられた。

 木製防具は役立たずであった。簡単な火魔法ですぐに燃やされたからだ。金属製防具も役立たずであった。蒸し焼きや感電の危険を誘発したからだ。魔法による攻撃アプローチは冷気、炎、衝撃、電気など多様であり、それら全てへの耐性を兼ね備えた防具は存在しなかった。全身金属鎧を着込んでいても「衝撃」の直撃で骨がバラバラになる。そこで魔族は魔法に対して魔法で防御を行うようになった。17響打の魔法「護法」は魔法を減衰させる効果を持つ。魔族の戦いは魔法による遠距離戦が主流であり、近接戦も魔法(「衝撃」)で行われた。

 打ち合えば欠け折れ曲がる剣や消耗品である矢と異なり、魔法は魔力を再充填するだけで何度でも使う事ができる。かさばる武具を担いで邪魔な荷物を増やし行軍を遅くするぐらいならば、一つでも多くの球体を準備した。兵士の防具は単なる布の服であり、「護法」であった。兵士の武器は杖(球体)であった。


 アメリカ大陸は広大であり、ある地域では百年の戦争が続き、同年代の離れた別地域では百年の平和を謳歌する事もままあった。しかし最終的に魔族国家は南アメリカ大陸のアステカ国と北アメリカ大陸のマヤ国に分かれ、キューバ地域の要塞地帯を挟んで睨み合いを始める事になる。

 マヤ国とアステカ国の成立まで800年続いた戦乱の時代は覇権国家や主戦地域の移り変わりが目まぐるしく、全体の流れを追うのは容易ではない。本著では読者諸兄に学生の如き過酷な年号暗記を強いる事はしない。ここでは時代に名を轟かせた三人の人物を紹介するに留め、この時代がどのようなものであったか雰囲気を掴んで頂きたい。興味を持たれた方には「魔族戦役百八国」(カセイノ・ジョウジ著、西暦1945年初版)を紹介しておく。いささか古い本ではあるが、邦訳が出ているこの時代の歴史書の中では入門書として最適である。


 ジェロニモ・ゴヤスレイはアパッチ国(西暦305~515年)の英雄である。球体技師の父の次男として生まれた彼は、九歳の誕生日に父が従軍中に敵の魔法で殺されたとの知らせを受け、父の仇であるメキシコ国を生涯かけて討ち滅ぼす事を半月神クルールーに誓った。メキシコ国のガラス生産量はアパッチ国の八倍であり、国力差は歴然の絶望的戦争であった。しかし幼少期のジェロニモは焦らず、円月教教会での瞑想と、魔法陣を買い漁り多様な魔法を覚える事に時間を費やした。十歳上の叔父から近接戦闘の手ほどきを受けたが、一年で打ち負かしてしまった。

 ジェロニモが十五歳になり従軍できる年齢に達した時、アパッチ国の領土は既に巨大なハートストーンに守られた首都以外に残っていなかった。従軍したジェロニモは早速メキシコ軍との戦闘で単身突撃を敢行し三十人を屠る華々しい戦果を挙げた。ジェロニモらしからぬ猪突猛進な行動であったが、そのお陰で非常に目立ち、アパッチ国王の目に留まり直々に百人の兵を与えられた。ジェロニモはこの百人の部下に彼流の徹底した教練を施した。

 当時の戦争は、マンモスに戦場用の巨大球体を乗せたソリを引かせ、兵站を重視し周囲を警戒しながらじわじわ戦線を押し上げるゆっくりとした戦いが主流であった。これに対しジェロニモは強襲と奇襲を好んで用いた。巨大球体を運んでいると行軍がどうしても遅くなるため、ジェロニモの一軍は巨大球体を捨て、マンモスを捨て、杖だけを持ち運んだ。水は水場を予め調査し現地で調達し、食糧は一食分しかもたず、その身軽さをもって流星のように行軍した。魔力を糧にし食糧不足に耐えられる魔族だからこそ成立する強行軍であった。素早く敵陣に近づいたジャロニモ軍は、日中の陽光に乗じて奇襲をかけた。食糧に火を放ち、目に付いた球体を片端から叩き割り、混乱が収まる前に離脱した。殺す事よりも荒らす事を重視した。ジェロニモは最初の奇襲で必ず一人の捕虜を攫った。少し離れた場所で食事を取りゆっくり休んだ後、捕虜を尋問、殺害。顔の皮を剥ぎ、その皮を口に詰め込んで敵陣に届けた。士気が挫けたメキシコ軍はジェロニモに成す術もなく蹂躙された。またジェロニモは3kmというテレパシーの長射程を存分に生かし、初手の奇襲の後は遠方から敵陣に離反を囁きかけ、味方につけるか、さもなくば対立を煽った。

 メキシコ軍の間では千人の兵士よりジェロニモ一人が恐れられた。ジェロニモはメキシコ軍を恐怖に陥れ、七年でメキシコ国首都のハートストーンを破壊し戦争を集結させた。その後二ヶ月も経たない内にジェロニモは病死。メキシコ国を滅ぼすためだけにあったような短い人生であった。ジェロニモが残したテレパシーや多様な魔法を用いた戦術・策略の数々は後の時代の戦術家に大きな影響を与えている。


 遍歴の彫刻家ハウザーの生没年は定かではないが、西暦600年代の人物であるとされている。どの国にも属さず南北アメリカ大陸全土を自由に旅して回り、行く先々で石像を彫り、売って暮らした。彼の手の指は六本あり、三歳で母親の完璧な石像を彫ったと伝えられる。ハウザーは魔族としては極めて珍しく芸術に球体の意匠を用いない美術家で、逆に作品から球形を廃した上でどこまで芸術性を追求できるかに拘った。ハウザーの石像の出来は実物以上であると言われる。

 ハウザーは各国に生きる偉人の石像をよく彫った。金払いが良く簡単に旅費を稼げるというのが理由であったようだが、気に入らなければどれほど大金を積まれても頑として石像制作を拒否した。ある時、ある国の王が自分の石像制作を拒否された事に腹を立て、ハウザーの右手を切り落としてしまった。片手しかなくなったハウザーは絶望し、彫刻家としての道は閉ざされたかに思われたが、そうはならなかった。話を聞いた各国の友人やパトロンが知恵と金を出し合い、魔法義手を作成して贈ったのである。

 ハウザーはこの義手のお陰で立ち直り彫刻を再開した。この経験がよほど印象的だったのか、後期のハウザーの石像には意図的な欠損が見られる。計算され尽くされた欠損はかえって完成度を高め、ハウザーの評判をますます高めた。

 ハウザーが生涯に彫った石像は千体以上と言われ、そのうち約二百体が現存。うち八十体はホットスプリング美術館に展示されている。

 美術に興味が無い魔族にとっては彼は石像よりも「ハウザーの義手」で有名である。後年、ハウザーは諸国遍歴の中で石像制作の報酬として義手の改造を要求した。ハウザーの義手は国を移るたびに機能が追加され、巨大化していった。伝承でしか残っていなかったこの義手は西暦1999年にロッキー山脈のアンゴルモア洞窟で発見され魔族の男達のロマンを掻き立てた。大人の男の身の丈ほどもある巨大な義手は伝承が嘘ではなかった事と、当時の混沌とした魔法・加工技術を教えてくれる。


 聖女ポカポカ(西暦966年~)は円月教によって月神であると認められた唯一の魔族である。キューバ本島で熱心な円月教徒の両親の下に生まれたポカポカは、テレパシーで話しながら聞くマレフィカ・クーブのような能力を持っていた。彼女のテレパシーは海を超えて届き(推定射程60km以上)、微かなテレパシーも拾い上げて聞き取る事ができた。ポカポカは月神の声が聞こえると言い、彼女自身の卓越した能力によってそれは信じられた。

 当時円月教は戦争の仲裁によって権威を維持し、また高めていた。戦争に疲れた人々にとって円月教の仲裁は救いの光であり、泥沼化した戦争の落としどころを探る支配者達にとっても渡りに船であった。この仲裁があったおかげで魔族は戦争を繰り返していても最低限の秩序と文化を保っていられたと言えるが、仲裁により国力を回復させるひと時の平穏を何度も挟んだせいで戦争の根本的終結が長引いたとも言える。

 ポカポカは聖女として大国同士の仲裁調停に九回派遣された。最初の派遣の時ポカポカはまだ十二歳であったが、調停を行う大使の補佐を努め、二度目(十四歳)からはすぐに全権大使として教会の顔を担うようになった。ポカポカのテレパシーはとても聴き心地が良く、受信した者の心を落ち着かせ、調停の取りまとめに役立った。またあえて直接的な表現を用いるが、顔が非常によく整っておりスタイルもよい美少女(美女)であった事も印象を良くした。ポカポカの神秘的な力と美貌は民衆の心を鷲掴みにした。

 九度目の調停を成功させ、三十三歳になったポカポカは教会に抗議運動を起こした。「教会は戦争の調停を行う裏で戦争の種を蒔き、不当かつ法外な調停仲介料をせしめ私腹を肥やしている」というのが彼女の主張である。その主張が真実であったかどうかはさておき、教会はポカポカをキューバ本島の塔に軟禁した。

 半年も経たない内にキューバ本島にはポカポカの主張に同調した円月教徒とポカポカを慕う人々が押し寄せ、彼女の解放と教会の体質改善を強く求めた。教会は彼らの本島上陸を拒否し、二度の流血を伴う強行上陸の試みの後睨み合いになった。三度目の強行上陸は円月教史上を夥しい血で染める凄惨なものになると思われた。

 三度目の強行上陸実行直前の夜、キューバ本島周辺に居た人々は、ポカポカが囚われている塔の頂上から満月に向けて一条の光が伸びるのを見た。光に打たれた満月は瞬く間にその身を翳らせ、姿を消した。ポカポカを軟禁していた本島の円月教徒は奇跡に恐れ慄き、勢いづいて上陸を行った教徒達によって無抵抗のまま拘束された。解放されたポカポカは乞われて教皇の地位につき、百十三歳で眠るように息を引き取るまで教会の自浄と平和運動、新しい体制作りに尽力した。

 塔から伸びた光が何だったのか、どうやって満月を消し去ったのかポカポカは最後まで沈黙を守ったが、一般には彼女は月を「打った」のだと信じられた。これを由来として、聖女ポカポカは死後「打月神ポカポカ」の名で祀られた。打月神ポカポカという名前は日本人には間抜けな響きに聞こえるらしく吹き出す事があるが、一部の熱烈なポカポカ崇拝者にとってポカポカは最新最後の偉大な月神であり、その名は神聖なものである。笑えば侮辱と取られ殺されかねないので、円月教徒と話す際はよくよく注意してもらいたい。

 余談だが、最新医学の発達により判明した事実に基づきポカポカの神秘的な能力の一端は網骨の異常にあったという説が提唱されている。網骨奇形症は一千万人に一人の珍しい病気であり、網骨の奇形化を促す。奇形化によって誘発される症状は個人差が大きいが、全員に共通するのは陽光を浴びた際の酷い頭痛である。幾つもの文献からポカポカも同様の症状に悩んでいた事が明らかになっている。網骨奇形症によって異常発達した網骨がポカポカに高いテレパシー能力を持たせたのだと考える事ができる。

 しかしポカポカの「月打ち」は現在に至るまで説明がついていない。塔の上で行われた何かしらの魔法行使に伴う発光に偶然月蝕が重なったのだと考えるのが最も自然であるが、「月打ち」が行われた西暦999年七月はどう計算しても星の配列から考えて月蝕が起こるはずがない。その上魔族の網骨が最大限に変形したとしても、月まで届くテレパシー出力は到底得られない。「月打ち」による月蝕は当時の天文学者や占星術師の予測を覆す奇怪な現象として世界中で観測され、はっきりと文献に残っている。ポカポカの死後に捏造された事件であるとは考えられない。このような未解明の神秘もポカポカの人気と崇拝に一役も二役も買っているのだ。


 次の章では、二大国による冷戦時代について見ていこう。

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