回顧07-02 月と夜と神童と(下)




 ツクヨミ様は、端的に言って子供のなりをしていた。見た目は幼い子供なれど、その佇まいは聡明さに満ち溢れ、神童という言葉が真っ先に連想される。

 白無垢を思わせる純白のベールを頭部に纏い、露草色つゆくさいろの蒼髪が肩口で揺れる。ベールの隙間から覗く理知的な双貌そうぼう紫檀したんの色に沈み、口許に引かれた紅が妖艶に寝転んでいた。気怠い三日月の形をしたその笑みが、年端としはも行かぬ少年の体躯に不自然に貼り付けられている。


 それはまるで──紅い月だ。磔にされた紅い月が、緩慢に蠢いて言葉を放つ。


「で、僕を呼んだのは、誰?」


 緊張感に欠けた面々に戒告するような声色の冷たさに、この体が思わず竦み上がった。氷刃の如きその鋭さに、両耳を薙がれたかのような錯覚に襲われる。

 感情を宿さない紫檀の瞳が、ぐらんぐらんと左右に揺れた後、その視線は私の握る刀へと定められた。私がささやかな覚悟も決めぬ間に、ツクヨミ様は瞬時にして私の目の前へとその歩を進める。


「そうか、君だね。で、僕に何の用?」


 唐突に突き付けられた死の予感が、私の呼吸を奪う。ツクヨミ様は、薄氷のような青白い指先を私の顎先へと伸ばした。身体中を這い擦る殺気が、この思考さえも奪っていく。


「おい、リサ!」


 気付けばアラタが強引に私の手を引き去り、ミシャグジ様が躰を差し込んで割って立っていた。


「ぐははは、俺様に損な役回りが回ってきたな」

「なんだ、賽の神か。で、お前に何が出来るの?」


 言うや否や、ミシャグジ様の左腕が吹き飛んだ。上腕じょうわんの鋭利な断面から、パプリカが潰れたような真っ黄色の体液が飛び散り、くぐもった低い声と共にミシャグジ様が片膝を落とす。


「糸織っ!」


 険しい声色で内灘さんが叫び、繰絡さんが跳躍する。中空を彷徨うミシャグジ様の左腕をその脇に受け止め、「落とし物ですよ」と微笑む繰絡さんは、どこか空恐ろしくも見えた。


「すまねぇ眼鏡っ子。太刀筋すら見えなかったぜ」

「仕込み刀でしょうね。私の位置からは死覚でしたが、腰元の扇子がおそらくそれかと……」


 闇の中に悠然と立つツクヨミ様の姿を見やる。その腰元に携えた扇子のには、薄桃色の花びらが鮮やかに描かれていた。


「えへへ、弱音を吐くには早いですよ。こちらは五名様、ツクヨミ様はお一人様です」

「違うぜ糸織。泥人形も勘定に入れろよ。こちらは団体様だ」


 内灘さんはそう言いながら、どこからともなく一本の瓶を取り出した。ビールの栓でも抜くみたく親指で蓋を弾き飛ばすと、中から朱色の液体が溢れ出す。てらてらとした光沢を放つその液体は、森の木々から染み出す樹液のような甘い芳香を放っていた。

 内灘さんは素早い動作で、ミシャグジ様の傷口へ液体を振り撒いていく。その様子から、私は消毒液のような役割を想像したけれど、どうやら効能はそれだけではないらしい。


「ミシャグジ様。僭越せんえつながらこの私が縫合させて頂きます。間に合わせの麻酔ですので、多少痛みますがご容赦下さい」


 繰絡さんはそう前置きしながら、ショルダーバッグから裁縫道具のようなものを取り出した。小さなその手に馴染む小柄な裁ちバサミと、真鍮の色をした細く鋭い縫い針──ミシャグジ様は右腕を使って自身の左腕を傷口にてがい、繰絡さんは一片の躊躇も見せずにその左腕を縫い付けていく。


 ぶちぶち、ぶちぶちと──在りもしない痛々しい擬音が聞こえるかのようだった。


 見るに堪えないグロテスクな光景であれど、それは懸命な救命行為だ。目にも止まらぬ早さで両腕を動かし続ける繰絡さんの気迫と、傷口を往復する糸と針を肉体に受け入れながらも、悲鳴一つ漏らさないミシャグジ様の精神力を前に、私とアラタは言葉を失ってしまう。


「はい、おしまいです。万事オッケーですよ。私が居なければまたまたその存在が薄まってしまうところでしたね」

「ちっ、広葉。お前また余計な事をぺらぺらと……」

「まぁまぁミシャグジ、積もる話は後にしようぜ。とりあえずありったけの子分を俺に貸せ。一度に出せる数全部だ。いいか、決してケチるな」


 ミシャグジ様が左肩をくるくると回すと、縫合し終えたばかりの縫い目から黄色い体液が滲み出た。まるでラジオ体操のように腕を回し続ける呑気なミシャグジ様を、緊迫の眼差しで内灘さんが戒めると、呼応するように爬虫類の瞳が怪しく照った。


「ぐはは、広葉。大事に使えよ?」


 ミシャグジ様が雄叫びを上げる。それはこの急場さえも楽しんでいるかのような、高揚した雄叫びだった。次々に地面が盛り上がり、泥人形たちがぼこりぼこりと姿を現していく。その数、ざっと数えて三十体以上。例に漏れず欠損だらけで不揃いな姿は、阿鼻叫喚の地獄に苦しみ藻掻く亡者たちのようだ。


「さっきから不思議だね。賽の神と人間が、いつの間に仲良くなったんだい?」


 泥人形の隙間から、極寒の声が問いかけた。どうやらツクヨミ様は、その冷淡な眼差しで私たちを観察していたようだ。痺れを切らしたというわけでも無さそうだったけれど、思えばこれは幸運以外の何物でもない。繰絡さんの言葉を借りるならば、「戦いなんて出来る限り回避」するための最大の好機。神の御慈悲か気まぐれか──この機を逃すまいと内灘さんが答えた。


「仲良しも何も、産土神様の神々しいお姿を前に、戦々恐々と縮こまっているだけですよ。さてツクヨミ様、愚かな我々共に、どうか弁解の余地を与えちゃくれませんかね? この度の過ち──我々の不手際を、微に入り細を穿ち、詳細に説明させてくださいよ」


 どこか不躾ぶしつけな語り口調が、一抹いちまつの不安を灯した。へりくだるつもりがあるんだか無いんだか、何とも判別し難い微妙な態度だ。焦燥ともどかしさを同時に感じながら、勢い任せに私も便乗する。


「あの、神様──ツクヨミ様。私です。その不手際をやらかしたのは、私なんです。まだ自分でもうまく理解出来ていないんですけど、私が、ほら、この刀を間違えて──」「俺も同罪だぜ神様。お師匠さんの刀じゃないと気付かずに剣舞を舞っちまった、ノータリンの俺も同罪だ。ぶっちゃけて言えば俺も、詳しくはよく分かんねーけどな」


 私の脇からアラタが言った。アラタも私と同じで、話の流れを掴み始めているようだ。ぼんやりとした輪郭に過ぎないものの、目の前の神様が──ツクヨミノミコト様が、どうやら私のせいでこの八景鏡塚に顕現されているという事実を、私とアラタは共に理解し、飲み込み始めている。


 『烏丸返し』に続く、このの理不尽を受け入れる事。それは、この世の理不尽を受け入れる事と言っても過言では無い。もちろん今だって、十分に受け入れ難いものではあるけれど──。「オカルトってものは、その目にしちまった瞬間には、とっくにオカルトじゃない」だったか。今しがた聞いたばかりの内灘さんの言葉が、妙な説得力を帯びて脳裏に浮かぶ。結局のところ私たちは、今目の前の現実を受け入れるしかないのだ。


「ふうん……まぁ、弁解はいいや、面倒。で、次は誰? 別に誰でも良いんだけど」


 愚民の訴えなど歯牙しがにも掛けずと、ツクヨミ様は冷淡に言い放つ。優雅な動きで扇子を広げると、咲き乱れた満開の桜が姿を覗かせた。妄想と空想に取り憑かれ、満開の桜の下には屍体したいが眠ると結論付けたのは、果たして何処の誰だったっけ。


「あーあ、やっぱりお話にならねーか。歴史をかんがみる限り、神様と王様はもっと民の声に耳を傾けるべきだと思うんだが」


 内灘さんの声色には、儀礼的な慎ましささえも既に無かった。決して好戦的な人には思えないけれど、それと同じくらい人格者であるとも言い難い気がする。


「赤い人、それは心外だ。僕は君たちの為に生きているよ。短命かつ薄明な君たちの為に、僕は永い時間を生きている」

「よく言うぜ。寝惚けて存在理由さえも見失ってんだろ? 『君たちの為』だなんて、便利な言葉に挿げ替えて気取ってんじゃねーよ!」


 存在理由──大仰なその言葉と共に、内灘さんが大地を蹴った。その跳躍を号砲として、ミシャグジ様と繰絡さんが一斉に続く。ボディスーツの赤色と、くすみ淀んだ乳白色と、闇夜に馴染む迷彩柄が、それぞれにツクヨミ様へと飛び掛かる。


 内灘さんの豪腕をいなすように、ツクヨミ様の扇子がひらひらと薄闇の中を彷徨う。その鉄拳が空を切る度に、押し出された空気が風となって木々をなびかせた。繰絡さんはといえば、内灘さんの繰り出す連撃の合間を縫うように、右へ左へと縦横無尽に飛び回っている。奇襲でも仕掛けるのかと思いきや、いつの間にかその軌跡には、糸で出来ていると思しき足場が組み上がっていた──文字通り、縫い上がっていた。


「とりあえずもう一回寝んねしろや」


 高い位置から濁声が響き、大地に向かって垂直に刺又が振り下ろされる。繰絡さんの縫い上げた足場から更に跳躍し、全ての自重を重力に預けた渾身の一撃だ。ツクヨミ様の小柄な体躯を、頭部から串打ちにせんとばかりに、神の雷槌いかづちが天空から放たれる──どことなく滑稽な『FEEL SO GOD』の綴りと共に。


 地鳴り。衝撃。砂埃──ややあってから、内灘さんの声がした。


「おいミシャグジ。お前、俺に当たったらどうす──」


 ミシャグジ様への文句を最後まで発する事もなく、鈍い衝撃音を上げて内灘さんの巨躯きょくが跳ね飛ばされた。受け身を取る事も出来ず、直線上に生えていた太い樹木にそのまま衝突する。その躰全体を樹の幹へとめり込ませた内灘さんは、ダンプカーに突っ込まれた軽自動車のように、見るも無残な姿だった。


「君たち、僕の御膳で礼儀知らずだね。で、この非礼をどう償うの?」


 一方、悠然と問いかけるツクヨミ様には、外傷一つ見当たらない。


「俺様も神様だっつーの!」


 ミシャグジ様の薙ぎ払いを、広げた扇子で軽々と受け止めるツクヨミ様。がちんっと響いた重たい金属音から、それが鉄扇てっせんであるという事実が窺い知れた。そのままし合いの形となったけれど、少し遅れてミシャグジ様の歯噛みの音が聞こえた。どうやら力比べでも分が悪いようだ。


「そのまま止まっていて下さい」


 ミシャグジ様と圧し合うツクヨミ様の周囲を、繰絡さんが円を描くように飛び回り、ありったけの糸を巻き付けていく。瞬く間に完成した人型ひとがたの繭は、その色こそ機械的なスチールグレイだったものの、羽化を待つ蛹の姿を連想させた。


「げははは、神様を生け捕りとはなかなかやるじゃねーか」


 愉悦を隠さないミシャグジ様の哄笑が、高らかに響く。しかし安息も束の間、きりきりとした摩擦音と共に、糸玉の繭は内側から崩落した。何事も無かったかのように佇むツクヨミ様の左手には鉄扇が、そして右手には短刀が握られている。おそらくはそれが、鉄扇に埋め込まれた仕込み刀──つまりはミシャグジ様の左腕を切り落とした刀か。


「えへへ、さすがにショックですね。特別製の鋼線こうせんですよ。それこそ筋金入りの……。それが滅多切りのぶつ切りじゃないですか」

「僕は別に、遊びに来たわけではないのだけれど……でも、身に迫る火の粉は降り払わないとね」


 口元の紅が不敵に笑う。ツクヨミ様は左腕を高く持ち上げ、日本舞踊を思わせる構えを取った。そしてそのまま揺蕩たゆたうように、ゆらりとした舞踊さながらの動きで、ミシャグジ様へと迫っていく。


 徐々に速度を増す足捌きが、ミシャグジ様を決して逃さなかった。早く、速く、疾い動作で、たちまちのうちに鉄扇が振り下ろされる。無軌道な乱撃が、ミシャグジ様の躰へと何発も打ち付けられた。何度も、何度も、何度も何度も執拗しつように──トンネルでも掘るかの如く、地面に大穴を穿つように。

 湾曲した軌道を捌き切れず、両腕を躰の前で固めて打撃の嵐をやり過ごすミシャグジ様。しかし、やがて重たい一撃が脳天を捉え、ミシャグジ様は堪らずにその場に崩折れた。


 口元の紅がもう一度歪み、繰絡さんの方を向き直る。「次は君だね」と告げるその口調には、何の感情も滲んではいない。物心もつかぬ幼子が、遊び飽きた玩具おもちゃ屑箱くずばこに捨てるくらいの無関心さで、ツクヨミ様は死の宣告を突き付けたのだった。

 倦怠感さえ感じさせるようなおもむろな動きで、短刀が繰絡さんへと向けられる。その刹那、繰絡さんの華奢な体が恐怖に竦み上がったのを、私の眼が確かに捉えた。


「おい待てよ、先に俺だろ。こういうのは、まず男の子からだろ」


 私の右手に位置するアラタが、挙手と共に申し出る。その手に握られた得物は、当然竹刀だ。そんなもので立ち向かおうだなんて、はっきり言って馬鹿げている。それこそ自殺行為でしかない。


「ちょっと、アラタ? 今の見てたでしょ? 何言ってんのよ。こんなの私たちの出る幕じゃ──」「本当は、俺たちの問題だろ? 本当は、内灘さんたちの出る幕じゃないんだ」


 こんな時でさえも真っ直ぐに、至極正論を述べるアラタ。しかし正論の強さに反して、その声は弱々しく震えていた。竹刀を握ったその手さえもが、一目で分かるくらいにがたがたと震えている。そこに滲み出たのは、明確で明瞭な恐怖だ。私が初めて見るアラタが、今、目の前に立っている。


「逃げろ、リサ」

「え?」

「本当はいけねーって分かってるけど、俺とリサは逃げちゃいけねーって気がするけど──でも俺は、リサに生きてて欲しい。こんな願いは、完全に俺のワガママなんだけどな」


 アラタは物問いたげに私を一瞥した後で、その視線を真っ直ぐにツクヨミ様へと向けた。

 たった一瞬の視線に込められた、アラタの言外の問いかけ。私には、その意味が読み解けてしまった──そして読み解けてしまった以上、私には答える義務がある。


 私が記憶するこの十余年の間、率直を貫いてきたアラタが、真っ直ぐだけを積み重ねてきたアラタが、逃亡という不義理な選択を私へ勧めている。その痛々しさが、その物悲しさが、私の鼓動を押し潰して、私の弱さを際立たせた。


 いつも遠回りで、いつも後回しの、俗物的な私の弱さ──穿った見方をすれば、その弱さを差し引いたものが、私に残された強さだろう。それはもしかしたら、自己中心的で、都合の良すぎる換言なのかもしれない。

 けれど、今はそれで良い。

 安物で、偽物で、不誠実で、不透明で──たとえ十把一絡じっぱひとからげの些末な勇気でも、決して零ではない強さが、私にはある。


「さぁ神様。お手柔らかに頼むぜ。まぁ俺の見立てでは、お師匠さんの方がずっとずっと強いけどな」


 震えた声が愛おしい。その痩せ我慢も強がりも、私が全て拾い集めよう。こんな私を想ってくれるアラタの気持ちも、この際、私の強さに加えてしまおう。


「まったくもう……逃げるわけないじゃない。あんた一人じゃ無理だってば。ツクヨミ様、用があるのは私にですよね」


 不思議と恐怖は無かった。ツクヨミ様へと刀を構えると、その白刃に覚悟を決めた私の顔が映り込んでいた。視界の片隅で、歯痒そうな表情を浮かべたアラタが茫然と立ち尽くしている。


 大丈夫、アラタは一人じゃないから、そんな顔をしなくても大丈夫。私が微笑むと、白刃の中の私も、嬉しそうに柔らかく微笑んだ。


 ──何だ私、こんな顔も出来たのか。


 他人事のようにそう思うと、素直な喜びが私の覚悟を増進した。アラタの苦しみを拭うために、私は言わなくてはいけない。アラタの言外の問いかけに、誠心誠意をもって答えなくてはならない。この喉を震わせて、言葉に想いを託して、私は言う。


「大丈夫だって。怯えたアラタも、捻じ曲がったアラタも、私は嫌いになんてならないよ。それどころか……今までよりもちょっとだけ好きかな」

「……はは、俺もう今ここで死んでもいいわ」


 最後の最後で顔を覗かせた意気地無さが、「ちょっとだけ」とかいう余計な単語を付け足してしまった。あと少しだけ素直になれれば、私だって思い残す事は何も無いのに──縁起でもない事を思う私は、縁起でもない事を呟くアラタと共に、目の前の神様へと同時に斬り掛かる。


 まさか初めて真剣を振るうその相手が、人間じゃなくて神様だなんて、少しも笑えない。いや勿論、人間相手に真剣を振るう状況だって、十分に笑えないんだけどね──自嘲気味にそんな冗談を浮かべながら、今宵二度目の死の覚悟を決めた私に、人を見透かしたかのようなあの声が響いた。浮き世への未練を忘れるな、と言わんばかりに、私たちの足を踏み留まらせた。


「上等上等。時間稼ぎご苦労さん」


 ぼこり、と地中から──ぼこりぼこりと地中から、無数に伸びた褐色の腕が、ツクヨミ様の足首を掴んでいく。そのままツクヨミ様を支柱にして──それこそ人柱にして、覆い隠すように泥人形たちが群がっていく。蠢く褐色が、ツクヨミ様の薄氷の肌を、美しい蒼髪を、紫檀の瞳を埋め尽くしていく。私はその絵面から、残飯に群がる無数の蟻たちを連想した。あるいは美しい少年が、神童の純潔が、悪漢の欲望のままに陵辱される姿を。

 そしてツクヨミ様の口元が──磔にされた紅い三日月が、身に受ける屈辱に引き攣るのが垣間見えた。


 爆音が轟き、閃光が走る。


 理解は、一瞬だけ遅れて訪れた。

 三十体を超える泥人形が、一斉に自爆を決め込んだのだ。アラタが言う所の「メガンテ」が、三十回を超えるメガンテが、一斉にツクヨミ様へと放たれたのだ。


 粉塵収まらぬ中、内灘さんがガッツポーズを決める。その分厚い掌で繰絡さんの頭をくしゃくしゃと掻き毟りながら、「糸織、よく頑張った」と褒め立てる姿は、まるで繰絡さんのお父さんのようにも見えた。ミシャグジ様はよろよろと立ち上がり、体中のダメージを検分するかのようにあちらこちらをさすっている。「まったく、割に合わねーぜ」という呟きこそ発したものの、やはりどこか嬉々としたその様子からは、この不思議な共闘戦線を好ましく思っている事が伝わってきた。


 そして私はといえば、無意識の内にアラタに抱きついていた。一瞬だけ我に返り気恥ずかしさを覚えたものの、構わずにそのままアラタの存在を体中で確かめる。震えの止まった彼の体が、そしてその体温が、生存の歓びを大いに実感させた。「人前でスキンシップはやめて」などというごもっともな言葉は、未来永劫、私の辞書から削除するべきなのかもしれなかった。


「ぶっちゃけ想像以上だったぜ。ツクヨミ恐るべし──糸織の編んでくれたこのダサいスーツが無かったら、マジでヤバかったな」

「このデザインでオーダーを出したのは先生ですよ。ツクヨミ様にまで『赤い人』だなんて呼ばれて、正直私は吹き出しそうでした」


 どうやらまた夫婦漫才が始まるようだ。微笑ましい光景であれど、内灘さんの額からは、どくどくと赤い血が流れ出している。内灘さんの赤い血も、ミシャグジ様の黄色い体液も、本当ならば流れる必要の無かった血だ。本来ならば、感じる必要の無かった痛みだ。


「内灘さん、繰絡さん、ミシャグジ様──本当にありがとうございました」


 私は深い罪悪感と共に頭を下げた。そこには、一ミリの社交辞令さえも混ざっていない。心からの謝罪と、心からの感謝。そしてアラタも私の隣で、深々と長々と頭を下げた。

 ややあってから、内灘さんは私たちの肩を軽く叩き、顔を上げさせた。そして屈託の無い笑顔を満面に咲かせて、揚々と言う。


「ま、良いってことよ。でもこれは仕事だからな。お代はきちんと請求するぜ」

「がははは、広葉は見た目通りの変態だからな。気を付けろよお嬢ちゃん」


 命辛々いのちからがらにしがみついた浮き世は憂き世で、当然だけれど無情なお支払いが待ち構えている。代金じゃなくて相応の代償──果たして私は、一体何を要求されるのだろう。


「きちんと払いますよ……その、いやらしいことじゃなければ」

「ちっちっちっ。先生を侮ってはいけません。ギリギリいやらしくないくらいの、いやらしい要求をしてくると思いますよ。これぞまさに、フェティシズムというやつですね」

「マジかよ変態のおっさん。でもちょっとだけ気になるぜ」


 くだらない冗談を交わしながら、胸の奥にほんのりと灯る明かり。人と話す事など煩わしいとばかり思っていた私が、初めて感じる居心地の良さがそこにあった。まったく、本当にどうかしている。今宵知り合ったばかりの人たちと、ましてや白蛇の姿をした神様と、こうして打ち解けている私は、本当にどうかしている。


「広葉、お前が何を要求するつもりなのか知らねーが、説明だけはきっちりしてやれよ」


 そう言いながらミシャグジ様は背中を向け、薄闇の中にしゃがみ込んだ。モミジ状の手のひらを地面にかざすと、蛍のような幻想的な光が、次々とその手の中へと吸い込まれていく。


「俺様はまたしばらく粘土遊びだ。全部で四十四体──こいつは骨が折れるぜ」


 相も変わらずの濁声に、ぜになった愛おしさと寂しさが滲んでいた。私は静かに目を閉じて、その後ろ姿に手を合わせる。


 暫しの沈黙が流れた。もしかすると他の皆も、私と同じようにして黙祷を捧げていたのかもしれない。ミシャグジ様の忠実なる手足として、そして永い孤独を共に過ごす同胞として存在した、不気味極まりない人外たちの最後に、哀悼の意を捧げていたのかもしれない。


 秋虫たちの鳴き声が、この八景鏡塚を埋めていく。いや、八景鏡塚を埋めていた虫たちの音色に、今更ながらに私が気付いたのだ。


 ──私とアラタの迷い込んだ、この不思議な夜話やわの終わりがすぐそこにある。


 そう思うと急に物悲しくなり、得体の知れない深淵の中に飲み込まれてしまいそうな寂しさを感じた。家に帰った私を待っているものは、地に足の着いた現実だ。愛しくて苦しい、向かい合うべき現実だ。


 家に帰ったら、まずは何よりも爺じに謝ろう。っていうか爺じは、ちゃんと回復しているのかな。少しでも調子が悪そうなら、無理矢理にでも医者を呼ぼう。そういえばアラタだって、お咎め無しでは済まされないだろうな。私たち二人が、揃って人攫いにでも合ったなんて大騒ぎになっていなければ良いんだけど。


 ──とすん。


 小気味良い音が、唐突に鼓膜に響いた。

 それと同時に、神楽囃子の太鼓の律動にも似た衝撃を左胸に感じ、恐る恐る閉じていた目蓋を開く。


 唇が触れ合うほどの至近距離から、呪うように私を覗き込む紫檀の瞳。火柱のような充血が広がる、文字通りの血眼の瞳。


 私の左胸に深々と突き立てられた刃が、生々しい鮮血に染まっていく。


 傷口からこぼれ出た私の命が、ツクヨミ様を染めていた。その透明な肌も、絹のように美しい髪も、全てを紅く染め上げていた。妖艶な口元の紅さえも、紅く紅く塗り潰していた。

 不思議と、痛みは無い。

 ただその代わりに、妬けるような熱さだけが、じんわりと身体中に広がっていく。灼熱の痒みに顔をしかめながら、私は呟いた。


「これって絶対に、傷跡の残るやつじゃん」


 完全に平和呆けしたその呟きは、私の喉元だけで放たれ、少しも空気を震わせなかった。薄れゆく意識の中で、私はせめてツクヨミ様の両腕を、紅く染まったその両腕を、最後の力を振り絞って全力で掴んだ。


 ──大丈夫。これで後は、誰かが何とかしてくれる。


 おそらくは内灘さんが。あるいはミシャグジ様が。にっこりと繰絡さんが。泣きながらアラタが。

 誰かの荒い声を聞いた。誰かの咆哮を聞いた。誰かの掠れ声を聞いた。誰かの慟哭を聞いた。


 長過ぎるこの夜の最後に、罰のように私に与えられたもの。

 それはステータス異常「暗闇」でも、ステータス異常「睡眠」でもなくて──ステータス異常「昏睡」、もしくは、「死亡」だった。




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