第二部 過去語りに耽る

回顧08-01 火之来の娘




 目が覚めれば見慣れた天井──というわけにはもちろんいかず、ジプトーン加工の施された知らない天井を、虚ろから抜け出ようとする私の意識が捉えた。不規則的に並んだ黒い斑点模様が、次々に微笑んだり泣き出したり、無数の人々の顔となって私の意識を揺り起こそうとしている。

 パレイドリア効果だとか、シミュラクラ現象だとか、そんな小難しい言葉たちが浮かんでは消える間にも、私の焦点が徐々に定まっていった。


 目線を動かして周囲を見やると、右手に構える大きな窓から穏やかな日差しが差し込んでいた。窓の外には色付き始めた木々。風に揺られ舞い落ちた葉が、少しの物悲しさを演出してみせた。

 私が仰向けに寝転んでいるこの場所は、どうやら病室のベッドのようだ。生活感を感じさせない淡色のカーテンや、所々が薄くひび割れた剥き出しの白壁──そして何よりも私の左腕に向けて、だらりと伸びた点滴の管がそう判断させる。


 左肩から肘の付け根辺りまで、締め付けられるように窮屈な感覚があった。おそらくは包帯か何かで固定されているのだろう。恐る恐る指先に力を込めてみると、鈍い痛みが肩口に走ったものの、思ったとおりに指先を動かす事が出来た。その事実に、私は心から安堵する。


「梨沙ちゃん、やっと目が覚めましたね。私が分かりますか? 稀有けうな名前の繰絡糸織くりからいおりです。気分はどうですか?」


 首だけをそっと左に回すと、パイプ椅子に腰掛けたままで微笑む繰絡さんの姿があった。繰絡さんの質問は、もちろん私の意識がはっきりしているのかどうかを問うものなのだと思う。けれど私はあろうことか、繰絡さんの質問に答えるよりも先に、更には自分が置かれているこの状況云々よりも先に、頭に浮かんだ率直な疑問を先に投げかけてしまうのだった。


「あの、繰絡さん……迷彩服はどうしたんです? っていうか、本当に繰絡さんですか?」


 白を基調としたレーストップスに、淡い花柄のティアードスカート。そして首元にふんわりと巻かれたベージュ色のストールを身に着けている推定繰絡さんには、ただの一点たりとも迷彩柄が見当たらなかった。金髪のボブカットを覆い隠すハンチング帽も、分厚くて大きな丸メガネも、華奢な肩から斜め掛けにしたショルダーバッグも、何一つとして身に着けてはいない。


「梨沙ちゃん、あれは戦闘服みたいなものですよ。私と先生はこう見えても、意外と形から入るタイプなのです」


 人指し指を立てて私にそう説きながらも、「えへへ」とはにかむ人懐っこい笑顔は繰絡さんそのものだった。私はその姿に思わず見蕩れてしまう。「私はもぎ頃」どころか、穢れを知らない令嬢のように無垢な美しさだった。


「という事は、内灘さんもですね。あの赤い格好が普段着じゃなくて良かった」

「まぁ先生はどちらかというと、赤いボディスーツ姿の方がマシですけどね」


 あの姿の方がマシって、普段はふんどし姿か何かなのか──絶句する私に、手のひらサイズの紙袋が二つ差し出された。


「左が胡桃くるみあんぱんで、右が栗あんぱんです。点滴で摂る栄養と、食事で摂る栄養とでは、また別の元気が湧いてくるものですよ。まさに人体の不思議ですね」


 病床のあんぱんとは、何だか斬新だ。ドラマで度々見かける、ベッドの脇でリンゴの皮を剥くシーンを思い浮かべながら苦笑する。

 私は戸惑いながらも、右手を伸ばして左側の袋を受け取った。怖々とした気持ちでゆっくり上半身を起こそうとすると、繰絡さんが優しく背中を支えてくれた。ほんのりと甘やかな繰絡さんの香りが、私の鼻先をくすぐる。


「私の尊敬する方の一人、木村安兵衛きむらやすべえさんが生み出した偉大なる発明、それがあんぱんです。さぁ梨沙ちゃん、どうぞ召し上がれ」


 繰絡さんに勧められるがままに、私は胡桃あんぱんを口に運ぶ。意外と噛みごたえのあるパン生地が、「食事をしている」という行為を強く実感させた。小麦の風味の隙間を縫うように、微かなお酒の匂いが鼻先に抜けていく。


「繰絡さん、本当に美味しいです。私、あんぱんを侮ってました」

「えへへ。『あんぱんは文明開化の味がする』とはよく言ったものですね。あんぱんは和洋折衷わようせっちゅうの最高傑作ですよ」


 もぐもぐと咀嚼しながら、あらためて今の状況を整理する。この病室が完全な個室だとか、壁に掛かった時計から今が既に夕刻だとか、風景を見る限り二階か三階くらいの高さだとか──そんな事実を一つずつ確認しながら、本当は真っ先に確認しなくてはならない事に、本当は何よりも気になって仕方のない事に、ようやくとして向かい合う決心を固める。


 そんな私の決心を読み取ったのか、「ご馳走様でした」と告げる私の言葉に被さるようにして、「さて皆様の近況ですが」と、急ぎ足で繰絡さんが繋げた。滔々とうとうと流れ出す言葉の淀みの無さは、まるで内灘さんの如く──。


「まずは梨沙ちゃんのお祖父様ですね。朝方に病院からの連絡を受けた宗一郎さんは、慌ただしくこの病室へと駆け付けました。その思い詰めた表情は、見るに堪えないものでありましたが、お昼前には凛々しいお顔立ちで出発されました。今頃はご自身の使命と向き合っておられるはずです。本来納めるはずであった刀の奉納、穢れてしまった刀のお清め等々、ご多忙を極めているはずです。梨沙ちゃんもご存じかと思いますが、刀剣とは決して刀匠一人の力で完成するものではありません。研師の方から鞘師の方まで、果てには水主祀りに関わった町長さんをはじめとする役場の方々にまで、幅広く頭を下げ回っておられるのではないでしょうか。屶鋼なたみの刀鍛冶に関わる方の中には、当然烏丸町からすままちの外に住んでおられる方も見えるはずです。そういった意味でも、宗一郎さんは暫くお戻りにはなられないでしょう」


 爺じが復調したという喜びも束の間、私は暗澹あんたんたる想いに包まれた。無意味な伝統を守るどころか、ちっぽけなプライドを守るどころか、無闇矢鱈にしっちゃかめっちゃかに、私がこっ酷く掻き回したのだ。無知な私の独断と、浅はかな行動の結果、爺じに頭を下げさせていては少しも笑えない。


「さて次に先生ですね。先生は梨沙ちゃんの依頼内容を完遂すべく、新太さんを引き連れてツクヨミ様の捜索を続けています。新太さんが足手まといなのは否めませんが、新太さんの強いご要望に先生が折れた形です。また、ミシャグジ様も惜しみ無く力を貸してくださり、人海じんかい戦術ならぬ人傀じんかい戦術で、手負いのツクヨミ様を捜索しています」


 その報告に愕然とする。私以外の皆が無事で何よりだけれど、まだ事が済んでいない事に──ツクヨミ様が依然としてこの烏丸に顕現しているという事実に、落胆の色を隠せない。そして、アラタがまだ危険の最中さなかに居る──焦燥に焼かれた私は、身を乗り出して繰絡さんに問いかける。


「ツクヨミ様は、手負いなんですか? 手負いでしか、ないのですか? 私が刺されたあの時、泥人形の自爆を一身に浴びたツクヨミ様は、既に満身創痍に見えました。そして私はこの両腕で、持てる力の全てで──ツクヨミ様の動きを封じたはずです。だから、だからもう終わったとばかり……」

「ええ、梨沙ちゃんはご立派でしたよ。あの場の誰よりも勇ましく、誰よりも果敢にツクヨミ様と向き合いました。そして、身動きを塞がれたツクヨミ様へと放たれた、先生とミシャグジ様の一撃も、それは大層ご立派でした。誰も文句の付けようが無い会心の一撃です。ですが梨沙ちゃん、先生との契りのげんをよく思い出してみてください」


 記憶の糸を手繰る私を待たずして、繰絡さんは流暢に続ける。


「先生はこう仰られたはずです。『ツクヨミの撃退を請け負おう』と。あのやり取りの中で、『抹消』だとか『抹殺』だとか、そういった言葉を先生は一度も使われなかったはずです」


 そう言われれば、確かにそうだ。私は深く納得しながらも、曖昧に頷いた。確かにそうだけれども、だから何だと言うのだろう。その言葉の違いに、果たしてどれだけの意味があると言うのだろう。


「梨沙ちゃん、神様は死にません。いえ、死ねないと言った方が正しいでしょう。『神格化の原則』に則り、神様は死なない。もしも神様に『死』が在るとすれば──『死』にも等しい『消滅』の瞬間が訪れるとすれば、それはこの世のすべての方の記憶からその神様が忘れ去られた時です。地球が滅びでもしない限り、現実的に難しい話です」

「神様は、死なない──つまり最初から、ツクヨミ様を撃退するすべは無かったという事ですか?」


 聞きたい事は山程あった。『神格化の原則』だなんて当たり前に言うけれど、そもそも『神格化』とは何なのだろう。昨晩はじめて神様と対峙したばかりの私には、内灘さんや繰絡さんのように、神様に関わる人たちの常識なんて欠片も分からない。「現実的に難しい」などと言われても、腑に落ちないししっくりこない。何故ならばこの現実さえもが、既に現実を越えているのだ。この世のオカルトを──神様の存在を受け止めはしたけれども、決して戸惑いが消えたわけじゃないのだ。


「撃退という言葉は、噛み砕けば『追い払う』という意味です。昨晩だって、結果だけを見れば撃退には成功しています。梨沙ちゃんが傷を負ってしまったのは私たちの不手際であり、本当に申し訳なく思っていますが──」


 そこで初めて、繰絡さんは言葉に詰まった。「撃退には成功だなんて、それは屁理屈なんじゃ」──という言葉を、私はすんでのところで飲み下す。ただのりにも関わらず、命を懸けて私たちを助けてくれた相手に、吐き出していい言葉では無いと思ったからだ。


 少しだけ冷静に返ると、底無しの恐怖がじんわりと全身を覆っていくのが自覚出来た。もしかして私は──私とアラタは、この先の人生ずっと、ツクヨミ様の襲撃に怯えて生きていかなくてはいけないのだろうか。そしてその度に、どうにかその場をやり過ごして──もしくはその都度ツクヨミ様を撃退して、命辛々生き延びていかなくてはいけないのだろうか。


 繰絡さんが、そっと私の手を握った。いつもの私だったら、咄嗟に振り払っていたかもしれない。けれど、繰絡さんの眼差しに宿った真剣のような鋭さと、握る手に込められた確かな力強さとが、私の抱えた恐怖を丸ごと包み込んだ。


「大丈夫ですよ梨沙ちゃん。私はなにも、梨沙ちゃんを不安にさせたいわけじゃありません。先生がこの依頼を引き受けたからには、何らかの解決策があると推測します。先生は狡賢い男です。何の算段も無く、何の勝算も無く、無理難題を引き受けたりはしません」

「……繰絡さん、それって褒めてるんだかけなしてるんだか、よく分かりませんね」


 繰絡さんの大きな瞳が柔らかく緩み、「私にも分かりません」とはにかんだ。その微笑みは、繰絡さんが内灘さんへ向ける信頼が揺るぎないものだと、優しくも雄弁に語っていた。


「さてさて、最後に私ですね。私が先生から与えられた役目は二つです。一つは、こうしてストーリーテラーの如く梨沙ちゃんに現状を報告する事。先生はとにかく話の要領を得ませんので、たった一つ二つの報告をするだけでも莫大な時間を消費します。その自覚が、おそらく先生自身にもあるのでしょう。ですから私が、こうして梨沙ちゃんに報告する役目を仰せつかりました。なにせ梨沙ちゃんは、私たちの大切なご依頼主様ですから、極力失礼の無いようにしませんとね。ほら、よく言いますよね。『お客様は神様です』って」


 その冗談が可笑しくて、私は思わず吹き出してしまった。お客様である私が神様で、私を襲ったのも神様で、力を貸してくれているのも神様なのだ。この世の中、神様だらけじゃないか。


「それに先生は変態ですからね。花の女子高生の看病を任せるわけにはいきません」

「確かにそれは、神様よりも恐ろしいですね」


 そう言って笑うと、肩口がずきんと傷んだ。そこで私は、薄桃色の入院着を着せられている事をはじめて意識する。もしかすると繰絡さんが着替えさせてくれたのか──そしてある事に思い至った。


「もしかして繰絡さんが、私の傷口を縫ってくれたんですか?」


 繰絡さんがミシャグジ様の傷口を縫った壮絶な光景を思い起こす。大昔や戦時中であれば当然の光景なのかもしれないけれど、現代っ子の私とアラタには刺激の強すぎる光景だった。


「えへへ、僭越ながら最低限の応急処置は私がさせて頂きました。けれども梨沙ちゃんは女の子ですからね。傷痕が極力残らないように、手術自体はこの病院で行いましたよ。執刀した私のお父さんが、『不幸中の幸いか急所は逸れている。刃物の鋭さも幸いして傷に広がりは無い。月日と共に随分と目立たなくなるだろう』と言っていました。梨沙ちゃんがツクヨミ様の腕を掴んで固定した事も、傷口を広げずに済んだ一因かもしれませんね」

「繰絡さん、今さらっと言いましたけど、私は繰絡さんのお父さんにまで借りを作っちゃったんですね」

「梨沙ちゃん、お医者さんが患者さんを治すのは使命、もしくはただのビジネスです。お父さんはこうも言っていました。『屶鋼のお孫さんの命を救ったとなれば、俺の病院にも箔が付くぞ』と」

「それは言わなくてもいいやつです」


 こんな時にまで屶鋼の看板のせいで特別扱いされるとは、本当に憂鬱だ。しかしそれは案外、私に負い目を感じさせない為に、繰絡さんが色付けた冗談なのかもしれない。


「今、またさらっと言いましたけど、『俺の病院』なんですか? という事は、つまり──ここは繰絡さんの病院?」

「もう、本当に梨沙ちゃんは質問尽くしですね。やれやれですよ」


 ここぞとばかりに眉をひそめてみせる繰絡さんの姿は可愛らしく、安息さえ感じさせた。夫婦漫才のようにとまではいかなくても、冗談混じりで冗長なこのやり取りの中で、いつの間にか私の心が随分と軽くなっている事を自覚する。


「梨沙ちゃんは、ここがどこだか分かりますか?」

火之来ひのらい病院だと思います」

「正解です。さすが梨沙ちゃん、聡明ですね」


 即答したのは、入院施設を備えた病院が他に思い浮かばなかったからだ。個人病院は幾つかあるにしても、総合病院と呼ばれる規模の病院にあたっては、ここ火之来病院しかない。


 火之来病院は、この町で唯一の総合病院だ。総合病院という定義が、明確にどれくらいの規模の病院を指すのか私には分からないけれど、少なくとも閉鎖的で閉塞的な烏丸町において、火之来病院の存在は医療の基盤であると断言出来る。当然、そのありがたみを知らない人は居ないし、屶鋼の孫娘──つまりは私なんかを治療してしょうもない箔など付けなくても、火之来病院は烏丸の人々から充分に必要とされている病院である。


「誰でも分かりますよ。繰絡さんって、凄いところのお嬢さんなんですね」


 有り体に言えば、地元の名医の娘、というやつか。皮肉でも当てこすりでもなく、刀匠の孫娘の百倍くらいの価値があるのでは、と値踏みする。

 思えば繰絡さんからは、どことなく漂う気品を感じる。迷彩柄にその身を包んでさえいなければ、繰絡さんが良いとこ出のお嬢様だと言われても疑う要素は見当たらない。強いて挙げるならば、目の覚めるような金髪が世間的なお嬢様のイメージから離れているくらいだ。


「うーん……でも梨沙ちゃん、私は逆輸入ですからね。それに私には、家業を継ぐ気も、継げるだけの技術もありませんし」


 ミシャグジ様を縫合するその姿を見る限り、技術が無いと言うのはにわかには信じ難かったけれど、それよりも「逆輸入」というのが意味不明だ。


「繰絡さん、懲りずにまたもや質問です。逆輸入ってなんですか?」


 右手で挙手する私へ、繰絡さんは律儀にも「やれやれだぜ」のポースを間に挟んでから答える。


「そのままの意味ですよ。私は烏丸町で命を宿し、烏丸町の外に生まれ、そして烏丸町へと戻って来たのです──さて梨沙ちゃん、ここで話の分岐点ですよ。私の昔話は少々長くなります。ここで本題へと戻りますか? それとも続きを聞かれますか?」

「もちろん続きを聞かせてください」


 率直な興味と好奇心──そんなものに突き動かされて私は即答する。

 それに、これは何となくなのだけれど──私には繰絡さんの話を聞く義務があるように感じたのだ。烏丸町の存在を疎んじる私には、逆輸入を名乗る繰絡さんの昔話から、何かを学び取るべき義務があるように感じたのだ。


 繰絡さんは満足気に微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。そして、穏やかな口調で語り始める。子供を寝かしつける母親のように──「むかーしむかし」と、懐かしの日本昔ばなしでも読み上げるかのように。



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