第四部 この大地に生きる

回顧00-02 未来をもって償う。




 罪深き父親が、愛する愛息子に願った清浄明潔しょうじょうめいけつの春。薄桃色の桜が咲き乱れ、若々しい新緑が吹き荒れるそんな季節は、無事にミコトくんの身に訪れた。

 より正確に言えば、決して無事とは言えないミコトくんの小さな身体にも、他者と同様に一切合切の春が訪れたのだ。


 私はあの不思議な出来事の後、ミコトくんの近況のほとんどをアラタの口から聞いている。


 どうしてそんな事になっているのかという理由の一つとして、内灘さんとアラタがすっかり意気投合した事が挙げられる。『雨降って地固まる』というと、少し言葉が違うかもしれないけれど、あの二人は今では頻繁に連絡を取り合う仲となり、年の差を越えた友情を育んでいる。

 友情というか、それはやはり『悪友』という言葉を連想させるような関係なのだけれど、正直に言って、私はその関係に嫉妬しないわけでもない。


 実はあの日──つまりは全てが終わったあの日、私たちは揃いも揃って、火之来病院へと入院する事になった。救急搬送されたミコトくんと繰絡さんだけではなく、内灘さんもアラタも、ついでに私までもが入院を強いられる羽目になったのだ。


 意識不明のままのミコトくんと、全身裂傷だらけの繰絡さん。二人が集中治療室へと運び込まれると、付き添いの私たちはひとまず息をついた。安堵の溜め息というと不謹慎だけれど、少なくとも烏丸町で随一の医療機関である火之来病院へと搬送されたわけだから、安堵の溜め息に近い吐息を、惜しみ無く吐き出していたように思う。


 しかし、いざ冷静になってみると、全身のあちらこちらに妬けるような痛みと痒みを感じたのだ。部分的には痺れを感じる部位もあり、どうやらそれはアラタと内灘さんも同じようだった。


「おいおい、完全に凍傷じゃねーか!」


 と、内灘さんがおののきながら声を上げた。それがいつも通りの、周囲を憚らない声量であったためか、看護士さんの一人が私たちの元へと飛んできたのだ。

 看護士さんは、所々が赤く、あるいはほんのりと紫色に染まった私たちの手足を確認すると、必死の表情で応援を呼んだ。大急ぎ、かつ大慌てのその様子に、一抹の不安が胸を過ぎったのは回顧するまでもないだろう。


 こうして私たちは、凍傷と思しき手足の診断と、それに対しての適切な治療を受けるために、待合室の廊下から火之来病院の病室へと移されたのだ。つまりはその入院期間中に、同室にして隣り合わせのベッドだった内灘さんとアラタはすっかり意気投合したというわけである。


 これは後から聞かされた事だけれど、凍傷の症状というものは、冷えた箇所が温まってから発症するものらしい。更には、ただの冷え過ぎでしょと決して侮ることなかれ──重度の凍傷ともなると手足の切断が必要になる場合もあると教わり、生きた心地を失くした瞬間もあったくらいだ。


 幸いにも私たちは、比較的軽度の部類である『表在性凍傷』と診断され、一週間程度の入院にて退院する事が出来た。とは言っても、点滴だったり高気圧治療だったりと、様々な治療が適切に行われてこその結果だったと、火之来病院の評判のためにも語っておこう。


 刀匠の孫娘である私に、凍傷という憎らしい置き土産を残していったツクヨミ様。これはある意味で『この程度で赦されて良かった』と前向きに捉える事も出来たけれど、やはり私としては心中穏やかでない部分もある。あの妖艶な笑みと不敵な態度を思い浮かべては、「次に会ったら絶対に文句を言ってやろう」と、もはや見慣れてしまった天井を見て誓った夜もあった。


 しかしそんな誓いも、すぐに別の悩みに覆い隠されてしまう。


 それはもちろん、ミコトくんの事だ。

 憂鬱な切り出しをしておいてなんだけれど、実は私たちの中で一番軽傷だったのはミコトくんだった。私たちの誰よりも早く回復し、誰よりも早く院内を駆け回れるようになったミコトくん。時には彼の可愛らしい声が、私の病室にまで響いてきた事だってあり、私はその度に安堵の微笑みを浮かべたものだ。


 しかしその微笑みは、あくまでもミコトくんの肉体が無事だったという事実に対してのみに向けられたものだ。要するにそれは、ミコトくんのすべてが無事ではなかったという意味合いになる。

 肉体的な意味では軽傷であっても、精神的な意味において──あるいは内面的な意味において、ミコトくんには傷痕が残った。


 意識を取り戻したミコトくんは、あの事件前後の記憶を失っていた。いや、その表現さえも正確ではなくて──ミコトくんは事件前後の記憶と合わせて、お母さんに関する記憶を丸ごと失っていたのだ。

 悟りの少年を誰よりも愛し、誰よりも愛し損ねては自害してしまった母親の存在を。

 残された夫を狂わせ、息子の身に降り掛かる厄災の元凶となってしまった母親の存在を。

 ミコトくんはそっくりそのまま、一つ残らず忘れてしまった。


 そしてそれはつまり、私とアラタの事も忘れてしまったという事だ。だから私たちは、院内を駆け回るミコトくんの噂を耳にしながらも、ただの一度たりとて、その愛苦しい姿を見ていない。私やアラタをきっかけにして、記憶の混乱を引き起こす可能性が否めない以上、今は顔を合わせるべきではないというのが、ミコトくんを担当するお医者様の判断だったからだ。


 退院後の私は、自然に内灘さんと疎遠になった。それは何も不思議な事ではない。水主祀りが行われる前と何ら変わらない日常が、私の周りではただ流れていくだけだったのだから。


 浅葱色の死に装束を纏った爺じとの、退屈で普遍的な生活。クラスメイトたちとの間に感じる、薄いくせに壊れる事のない絶対の壁。毎日その壁を軽々と飛び越えてくる、図々しくも安らぎに満ちたアラタとの付き合い。安穏の日々の隙間から襲いかかる、屶鋼の冠が私に与える憂鬱。


 私を囲むものは、ただの一つも変わらなかった。

 良くも悪くも、何一つとして変わることはなかった。


 ミコトくんの近況は、先述のようにアラタが教えてくれた。あるいは繰絡さんが──全身に痛々しい手術痕を残す事になってしまった繰絡さんが、電話越しに伝えてくれた。


 いつだったか、繰絡さんに「会いたい」と申し出た頃がある。あれは冬の初め頃か、あるいは中頃だったように記憶している。私の申し出は、とても端的にあっさりと断られた。予想外の対応に戸惑う私に、繰絡さんは言ったのだ。「こんな身体になってしまって、人前に出るのが恥ずかしいのですよ」と。


 それは嘘だと、直感的に思った。


 繰絡さんは、私に傷痕を見せる事を恐れたのではない。傷痕を見せる事で、私に責任を感じさせる事を恐れたのだ。その責任感が、私を呪う事を恐れたのだ。

 そして繰絡さんはこうも言った。「私だけが罰を受けないわけにはいかないのですよ」と。「えへへ」と微笑みながら、「私の罰は全然軽い方ですよ」と。「だって先生に至っては、もっと酷い罰が与えられたのですから」と。


 腐乱した最愛の人を──死ぬ事さえも赦されなかった最愛の伴侶を、自らの手で葬る事になった内灘さん。手にした石で殴り掛かる際の鬼気迫る表情を、私は一生忘れる事は出来ないだろう。


 そんなふうに、アラタや繰絡さんがミコトくんの話をしてくれている瞬間だけ──あるいはツクヨミ様が残した傷跡と向かいあっている間だけ、私はあの一連の出来事が夢や幻ではなかったのだと感じる事が出来た。


 そんな私は、薄情で、冷酷で、無情な人間なのだろうか。

 もしかしなくても、きっとそうなのだろう。

 私は、烏丸町の人々から批難されるに相応しい人間だ。愚かさだけを積み重ねて、生きる価値があるのかさえも怪しい薄っぺらい人間なのだ。


 けれど、けれど一つだけ言わせて欲しい。


 私はミコトくんの話を聞く時、対岸の火事を眺めるような気持ちになった事は一度もない。屶鋼の歴史を聞く時のような──屶鋼の責任と向かい合う時のような、対岸の火事のような気持ちになった事は一度たりとてないのだ。


 ミコトくんの存在は、私の胸の奥深くに確かな燈火ともしびを灯している。あの山道と参道を足して二で割ったような山道を、仄かだけれど照らし続けていた石灯籠のように、私の心に明かりを灯している。


 私はいつか、責任を果たすのだ。本当の意味で、もう一度ミコトくんと向かい合うのだ。その未来を思うだけで、私はこの胸の憂鬱のすべてを払う事が出来た。無責任にも、不謹慎ながらも、それを支えに息をする事が出来た。




 そして、春。

 清浄明潔の春。

 春の訪れが、私に決意を与えた。

 こんな私にも、ほんの少しの勇気を与えた。



 私は今、アラタに教えてもらった内灘さんの携帯を鳴らしている。

 出て欲しいという願いと、出ないで欲しいという願いとが、ちょうど半々くらいで混ざり合っていた。


「はい、内灘だが」


 太く短い、端的な受け答え。随分と久しぶりに聞く雄々しい声に、私は今一度自分を奮いたたせた。


「あの、私です。屶鋼梨沙です」

「……ああ、アラタくんが教えたのか。俺みたいなヤツの連絡先なんか、知らずに済むならその方が良いといつか言ったと思うが。揃いも揃って物好きなんだな」


 不機嫌とまではいかなくても、内灘さんの態度が距離を感じさせる。しかしそれは、意図して演じられた拒絶のように思えた。そう、いつかの繰絡さんのような──。


「……ミコトくんのご入学、おめでとうございます。それもアラタから聞きました」

「どうも。しかしそれについては、俺が感謝を述べるよ。ミコトに今が在るのは、すべて君たちが居てくれたおかげだからな」

「それなら、私に今が在るのも内灘さんのおかげですね」


 これは厳密に言えば嘘だ。内灘さんが最初から何もしなければ、そもそも何も起こっていなかったのだから。けれど、内灘さんが何もしなければ、私は無かった。それは真実。


「で、内灘さん。おめでたいついでにお願いがあります──もうそろそろ、私の払うべき代償を教えて欲しいんですけど」

「あん? 馬鹿を言うな。俺はそれを請求出来る立場にないよ」


 内灘さんは、心の底からひっくり返ったような素っ頓狂な声を上げて、私の耳朶を攻めた。私が支払うべき代償について切り出す事が、ここまで予想外だなんて私の方こそ予想外だ。


「言ってください。契約は契約だし、約束は約束です」

「参ったな……。梨沙ちゃん、絶対に損するぜその性格」

「百も承知です」


 私がどんなふうに変わっても、私の本質はきっと変わらない。天邪鬼で七面倒で、そのくせ変に拘りを捨てられない屶鋼梨沙とは、一生付き合っていくしかない。


「ったく。分かったよ、じゃあ、一回だけデートしてくれよ。俺も犯罪者にはなりたくないからな、アラタくんも同伴で良いぜ。そうしよう」

「何ですかそれ。全然納得がいきません」

「そっちこそ何だ。代償なんてこっちが決める事だろうが」


 私と内灘さんが、共に不服を示した。おそらくこのままでは埒が明かず、私の電話代だけが跳ね上がっていくのだろう。

 だから私は、自分から切り出す事にする。この春が与えてくれた、一握りの勇気を奮わせながら。


「決めている代償が──最初から決めていた代償が、あるんじゃないですか?」

「……おいおい。梨沙ちゃんも隅に置けねーな」

「やっぱり」

「良いだろう、当ててみろよ。実を言うと、アラタくんは既に言い当てたぜ」

「やっぱり!」


 色々な事があったけれど、私は今だって思っている。「アラタは私に嘘をついたりはしない」と。けれどアラタは、隠し事をするのがとても下手くそだ。その姿が愛しくて、私はあえて訊いたりはしないけれど、大凡そんなやり取りをしたのだろうと踏んでいた。


「ただし、チャンスは一回だ。一度で言い当てられなければ、今回の契約はクーリングオフ。そもそも俺は、俺の力で梨沙ちゃんを守れなかったんだからな、無効にさせてもらうぜ」

「内灘さんの力なんて、最初からアテにしていませんでしたよ」

「ったく、どの口がそんな──」「──『俺の息子と友達になってくれ』」


 電話の向こうで絶句する内灘さんの姿が、まざまざと脳裏に浮かんだ。


「内灘さん、もう一度言いますよ。『』──内灘さんが私に与えようとしていた代償は、これ以外に思い浮かびません」

「……降参だ。一字一句正解だよ。ったく、カンニングとか勘弁しろよ」

「それは心外ですね。私がカンニングなんてする人間じゃないのは、ご存知かと思っていました」

「がはは、冗談だよ。悪かった。アラタくんだって、そんな事をする人間じゃねーよ」


 豪快な笑い声の後で、内灘さんが困ったように言った。おそらくは今、五分刈りの頭を掻き毟っているに違いない。


「というわけで、返答をください」

「受諾するのか否か、返答するのはそっちだろうよ」

「私は受け入れますよ、喜んで受け入れます」

「……やれやれ、飛んだ好き者だね」


 その言葉は、今の私にとって最大級の賛辞だ。


「ですから、許可を下さい。私がミコトくんと面会する許可を、保護者である内灘さんに頂きたいと思います。何があっても、この先に何があろうとも、ミコトくんの父親はあなたなのですから」

「……宗一郎さんは良い孫娘に恵まれたな」

「その発言、年寄りくさいですよ」


 私の軽口を「がはは」と笑い飛ばしてから、内灘さんは言う。


「わかったよ、好きにしろよ。少しずつではあるが母親の話はしてある。勿論、差し障りの無い範囲でだが」

「ありがとうございます」

「いや、むしろこちらからお願いするよ。本当によろしく頼むわ」

「はい、任せてください」


 こうして、クラスの中で孤立したままの私にも、ついに友達が出来る運びとなった。ぴかぴかの一年生と向かい合う女子高生の姿は、痛々しくも薄ら寒いものがあるけれど。


「しかしよ梨沙ちゃん。ミコトとどうやって知り合うのが良いんだろうな? 生活の中であまりにも接点がねーよ。何らかの演出が必要ならば、俺もアラタくんも協力を惜しまないが……」

「演出なんて要りません。私に任せてください」

「そいつは頼もしい事だが……まぁどうするのか聞かせてくれよ」


 実を言うとその部分については、私も考えたのだ。頭の中であれこれを思い描き、女子高生の私が小学一年生に出会うとしたら──ミコトくんに声を掛けるとしたら、一体どんな流れが自然なのかと。

 しかし結論から言うと、どれも不自然なのだ。不自然どころか、様々なシミュレーションを頭に浮かべた私が、必死でミコトくんに声を掛けている姿を想像すると、それだけで背筋に薄ら寒いものが走るのだ。


 だから。


 だから私は出会う。私はただ、ミコトくんに出会うだけだ。

 神様を喰らった少年に、私は普通に出会って、普通に話し掛けるのだ。


「極めて自然に声を掛けます。場所はたぶん、烏丸町のどこにでもある畦道です」

「……ふぅん。で、何て?」

「──『ねぇ君、こんなところで何してるの?』って」


 私がそう打ち明けると、「思いっきり人さらいみたいじゃねーか」と、内灘さんが豪快に笑った。





                                                ──── 完




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烏丸回顧録 ~リサとアラタの閉じられた世界~ 五色ヶ原たしぎ @goshiki-tashigi

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