回顧06-01 天蓋を司る




 目が覚めれば見慣れた天井──ではなく、黄金色の月が低い位置に垂れ下がっていた。私の鼻を、熟れた夏草のような匂いが突付く。無遠慮に広がった紺碧の空には、数多の星々が磔にされていて、一瞬、神話の世界に迷い込んだかのような錯覚にとらわれた。


 いっそ夢オチでも構わないか──そんな想いさえ頭を過ぎったけれど、右隣で眠りこけるアラタの寝顔が、私の意識を現実へと引き留める。


 ──このまま、その寝顔を呑気に眺めていよう。


 あたたかな気持ちと共に、そんな冗談を自分自身に仄めかしてから、上半身だけを起こして周囲を見渡してみた。膝丈にも満たない弱々しい雑草が、辺り一面に茂っている。何某なにがしかの草原のような場所に、私たちは横たわっているようだった。付近に視界を遮るものは無く、遠方に立ちはだかる深い森が、まるで切り絵の世界のように黒く張り付いて見えた。


 何とも言えない不気味さと共に、体の底冷えを自覚する。実際、夜風が肌に冷たかった。気温は確実に下がっている。この状況を考えれば、ぐずぐずしているわけにもいかないだろう。果たしてここはどこで、私たちは何故ここに居るのか。一刻も早く現状を把握しなくては。遠い森がおどろおどろしく私を急かす。


「アラタ、起きて──私たち、『烏丸返し』に遭い損ねてる」


 私はアラタの上体を揺すり起こした。アラタは一瞬だけ寝ぼけまなこの視線を彷徨わせたけれど、どうやらすぐに異状に気付いたらしい。


「ん? そんなバカな。展開が今までと違う……何でだ?」


 先ほどまでの頼もしさはどこへやら、アラタは首を傾げて考え込んでしまった。アラタに心当たりが無いとなると、私に頼る場所は無い。じっとしていても仕方がないし、まずは実況見分でもしてみようか。

 実況見分──だなんて大仰な言葉を使ってみたものの、ミステリー小説の真似事くらいしか出来そうにない私は、とにかく周囲を歩き回ってみる事にした。調査の基本は足から──幸いな事に、抜けてしまった腰も問題無く回復している。


 最初の印象通り、ここは草原の傍らだった。周囲を雑木林に囲まれた、広場のような場所である。円形に切り開かれた広場の中央は小高く盛り上がり、古代遺跡と思しき朽ち果てた石柱が随所に立ち並んでいた。


八景鏡塚はけかがみづか


 私はこの烏丸町において、唯一思い当たる地名を独りごちる。決して土地勘に優れているというわけではない。烏丸から出られない私たちだからこそ、候補地の数は元々多くないのだ。


 八景鏡塚は、この烏丸の南西の果てにある遺跡だ。その名前に『塚』を宿すこの場所が、大昔の墓だとか太古の古墳だとか──それはそれは様々な説を伝え聞いた事があるけれど、私にその真相は分からなかった。せめて最低限の素養があれば、『烏丸返し』との関連性も掴めたのかもしれない。烏丸の伝統に無頓着に生きてきたツケを、まさかこんな形で感じる事になるとは。


「うおー、すげー。星がやべー」


 元居た場所から、星空を見上げながらアラタが歩いてくる。『上を向いて歩こう』を地で行く無邪気な姿に、この胸を覆う危機感もどこかやわらごうというものだった。


「初めて来た。たぶんここって八景鏡塚よね」

「『烏丸返し』ならぬ『八景送り』ってとこか? しかしやべー、星がやべー」


 アラタの頭の中こそが本当にヤバいと思いながら、私は続ける。


「神無月だから見逃してくれるどころか、意味不明な展開になっちゃったね」

「うぐ。ごめんリサ。責任はひしひしと感じる。俺、良いとこ全く無いわ」


 心外にも、アラタは頭を抱えて苦悩の表情を浮かべた。「責めてるわけじゃないよ」と私は本心からフォローして、言外に「責められるべきは私」と付け加える。

 私こそ本当に、良いところが全く無い。刀を届け間違えるだけでは飽き足らず、爺じの元へ直行で謝罪にも戻らず、その上この逃走劇においても、自転車の重荷になったり腰を抜かしたりしているだけ。それこそ文字通りの「お荷物」だ。


「私こそ、良いところが全く無いよ。アラタは私のどこが──良いの?」


 どこが好きなの? と直球で聞けない自分がやっぱり憎らしく、陰鬱な気持ちばかりが湧き上がった。頭上に煌めく満天の星空が、意気地の無い私を見下ろしている。


「顔とおっぱいとひねくれた性格。あれ? これさっきも言わなかったっけか」


 何の打算も無く率直に答えられるアラタを、私は心底羨ましいと思う──心の底から、強い人だと思い慕う。それに比べて私は。


「アラタ、私はさ──あんたにムカついてる。私の知らないところで、こんなに危ない事してたってわけでしょ?」


 弱さも狡さも、優しさへとすり替えた。私が懸念しているのは、アラタが危ない目に遭う事じゃない。


「だってよー、もしも烏丸から出られたら、リサが喜ぶと思ったんだよ」


 悪怯れる様子もなく、アラタがあっけらかんと答えた。私に向けられているその優しさを、私は素直に喜ぼう。この上無いくらい、思いきり思い上がろう。アラタが彼氏で居てくれる事を、何よりも誇りに思おう。けれど、だけども──。


「自分一人で大人にならないでよ。私を……置いてかないで」


 言葉にした途端、私の視界が滲み出した。これは一体、どうしたことだろう。予想だにしない涙の意味が、自分でもまったく解らない。せきを切ったように、私の奥底から溢れ出したこの感情は──この感傷は、一体何だ?

 アラタがその目を真ん丸にして私を見ている。私自身が理解出来ない複雑な私を、驚愕の表情を浮かべて呆気に取られている。今度こそ本当に嫌われたかもしれない。そう考えたら、私の視界が更に激しく滲んだ。


「リサ、悪いけど意味不明だわ。初めから言ってんだろ? 烏丸から出られたら、リサが喜ぶと思ったんだって」


 呆れたような口調が私を貫いた。うん、意味不明で構わない。私にだって、意味不明なのだから──だから、だからせめて、嫌わないでいてほしい。


「だからさ、置いてくわけないじゃん。そんなの、一緒に行くに決まってんだろ?」


 今度は私が目を丸くする番だった。寄り添うようなその声は、今まで聞いたどんなアラタの声よりも、優しさに満ち溢れていた。アラタの両腕が私を包み、私は安息の中で声を殺して咽び泣く。


 私は知っている。私がアラタに深く依存している事を。その存在に、何度も救われている事を。烏丸の伝統よりも当たり前に、烏丸のしきたりよりも当然に、アラタは私と向かい合ってくれる。

 理解も無く、そして理由さえも無く──それでも真正面から私を見てくれるアラタに、私は深く恋をしている。

 すべてが他事ほかごとだと思った。私の境遇も、屶鋼の将来も、烏丸の行方も──何もかもすべて、他事だと思えた。私が欲しいものは、今私の目の前にあって、私の成りたいものが、今私を抱きしめてくれている。


 ──こんな時間だけが、永遠に続けばいいのに。


 生まれて初めて、私は永遠を願った。思えば私は、「時間」というものを憎んでいたように思う。自分勝手で押し付けがましく、自分本位に蓄積する「時間」という存在を、その圧倒的で暴力的な力を、私はずっと疎んでいたのだ。


 そして、かりそめの永遠を奪うように、現実はただ流れていく。


「イチャついてるとこ悪いんだけどよー、俺様の大切な子分を十三匹も殺っちゃったのって、お前らで間違いねーか?」


 この耳に飛び込んできた濁声だくせいは、邪悪に満ちていた。夢の終わりに相応しい、混濁を思わせる灰色の声。

 本能が瞬時に察知する──それは、人間の声じゃない。


 それは、人外の声だ。


 私とアラタは、身を寄せ合ったままで同時に振り向いた。すると少しだけ小高く盛り上がった場所から、私たち二人を見下ろすようにして──虫けらでも見下すようにして、禍々しい姿形をした化け物が、仁王立ちで構えていた。その姿は、一言で言って蛇──白蛇の化け物。


 化け物の体表は、濁った乳白色に覆われていた。乾燥しすぎた粘土のように、痛々しくあちらこちらがひび割れている。眼球の台座が蛙のように飛び出し、そこに添えられたエメラルドグリーンが、ぎろりと私たちを窺っていた。それは、爬虫類を思わせる捕食者の瞳だった。


 頭部から胴体までは一緒くたに繋がっていて、首と呼ぶべき部位は無い。私たちと同じく四肢が揃っているものの、その手足の先はモミジ状で、水生生物の水掻きのようだ。

 引き締まった腹部には、申し訳程度の面積で赤い反物たんものが巻かれている。艶やかな牡丹の描かれた立派な反物が、人工物である事は誰の目にも明らかだった。そういえば今しがた、この化け物は私たちと同じ言葉で語りかけてきた。つまりこの化け物にとって、私たちとの接触は『未知との遭遇』ではないという事か。


 そして、尾。一メートル以上はあろうかという長い長い尻尾が、空中でくるりと折り畳まれていた。私はその形から、リットルの記号を連想する。アルファベット『L』の走り書き、リットルの記号と同じ形のこの長い尾こそが、化け物全体に「蛇」という印象を決定的に植え付けているのは間違いない。


 最後に、刺又さすまた。その化け物は、巨大な刺又を右手に携えていた。鋭利に研ぎ澄まされた先端が不気味に輝いている。持ち手の部分には、縦書きで刻まれた『FEEL SO GOD』の文字。もしかすると『GOOD』の誤植かもしれないけれど、それを今この場で指摘すべきで無い事は、最早考えるまでもなかった。


「リサ、これは大変だ。泥人形の親玉が出てきた──って事は、神様か?」

「神様──なんじゃない? そもそも『GOD』って書いてあるし!」


 目の前の禍々しい化け物を前にして、どこか緊張感の足りない台詞をアラタが吐き出し、私も思わず突っ込みを入れてしまった。確かに、どことなくコミカルな感じは否めない。花魁のような反物のセンスとか、持て余された尻尾の長さとか、刺又の彫り込まれた誤植が疑わしいスペルとか──けれど言うまでもなく、今私たちが置かれているこの状況が、最大級の危機である事は疑いようもない。


「おいおいおいおい。シカトかよお前ら。神様からの質問を無視するとは、罰当たりにも程があんだろ。俺様の大切な子分を十三匹も殺っちゃったのは、お前らで間違いないか? って、聞いてんだろーが!」


 神様を自称する白蛇の化け物が激昂し、大地が震えた。これは決して比喩的な表現ではなく、化け物の濁声に、その咆哮に──この広場全体が共振し、物理的に震えたのだ。

 少しも隠そうとしない明確で明白な敵意と、隠す必要性の無い冷酷で冷血な殺意。死神の鎌を首元にあてがわれたかのように、この身体が恐怖に硬直していく。


「殺っちゃったのは、俺だ。十三匹全部、俺がやった。十三匹目は相打ちだけどな。見事なメガンテだったぜ」


 堂々と答えるアラタに、怯んだ様子は見受けられない。メガンテなんて俗な単語を、こんな状況で平然と使えてしまう彼は間違いなく大物だ。

 アラタはそっと私の身体を引き離し、自分の身の陰へと置いた。私は腰こそ抜けていないものの、化け物が放つその殺気に、全身の強張りを拭えずにいる。


「そうかお前か。お前が殺ったんだな? んんっ? てかお前、前科者ぜんかもんじゃねーか。子分からの報告で見覚えがあるぞ」

「ああ、俺は今までに三回『烏丸返し』に遭った事がある。そういった意味じゃ、懲りない悪党なのかもしれねー」


 何故か誇らしげに胸を張るアラタが、言葉を繋げる。


「なぁ神様、聞いていいか? どうして俺たちは今、『烏丸返し』じゃなくて『八景送り』に遭ってるんだ?」


 肝っ玉が座っているのか、それともただ単に無神経なだけなのか──アラタは目の前の化け物と対等に会話を交わしていた。自称神様と人間が会話をするその横で、私は息を潜めて成り行きを見守る小者に過ぎなかった。


「げははは、そんなの簡単だろ。考えるまでもねーだろ。理由なんて一つしかねーよ。んなもん、今宵が水主祀りだったからだ。俺様は、未成年にしか手が出せねー。要するに、大人共が夜更かししてる今宵に限っては、家に『返す』リスクがデカすぎたってわけよ」


 化け物は邪険な態度ながらも、その理由を懇切丁寧に答えてくれた。アラタは私の横でふむふむと頷きながら、「未成年にしか手が出せねーって変態みたいだな」と独りごちる。

 未成年にしか手が出せない化け物。大人の目撃者を避ける自称神様。根本的な理由こそ不明なれど、『烏丸返し』という物理的現象を引き起こしている張本人が今、私たちの目の前に居る──顕現されている。


「そっか、神様と言えどもルールがあるんだな。神様でも色んなもんに縛られちまってるんだったら、この烏丸や、隣に居るリサと変わらないな」

「ああん? 何だお前。テメーが今置かれてる状況を考えて物を言えよ? この俺様が、この道祖神どうそじんミシャグジ様が、お前ら下等生物と同じだと言いたいのか?」


 道祖神ミシャグジ──そう名乗った神様が、アラタへゆらりと刺又を向けた。




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