自殺日和はいい天気

片手羽いえな

自殺日和はいい天気

 彼女の顔を初めて見たのは、彼女が死んでからだった。

 私はそのとき、身の振り方に大いに困ったものだった。




 私は今、人探しの張り紙探しに必死になっている。

 まだ高いはずの日は、分厚く重たそうな雲に覆われていて、その暖かさも光も、地上には満足に届かない。

 十一月の風は、冷たかった。

 しかし私は寒いとか、それどころの気分ではない。走り回って熱いということすらあまり意識に上ってこない。途中から周囲の景色も曖昧だ。

 ただただ、泣きそうで、胸が痛くてかなわなかった。

 殆ど無意識に動かされていた足が、止まろうとする意識について行けずに縺れて、私は派手に転んだ。

 一拍遅れて、私は私の目がガラスの向こう側の張り紙を捉えていたことに気がつく。

「よし、よし……」

 息の往来に忙しすぎて閉じる暇のない口から独り言を垂れ流して、私は膝や手のひら、顎の痛みを無視して立ち上がり、ドアにぶち当たりながらその建物に入る。すぐ右がガラス張りの部分だ。

 私は外側に表面を向けて貼られていた張り紙を乱暴に剥がした。

「これで……八枚……」

 確認のために口に出したところで、私は自分の息が上がりきっていることに気がついた。

「あらら」

 気づいてしまえばもうだめで、張り紙のあったガラス面に額をぶつけ、床には膝をぶつける。ずるずるとくずおれて、立ち上がることもままならなかった。

「お客様」という呼び掛けが悲鳴と共に聞こえたような気がしたが、私は意識を保っていられなくなった。

 意識が途切れるそのときに思い出したのは、彼女との他愛のないやりとりだった。




「わたし、透明人間になりたいですね」

 木漏れ日の暖かさの中、彼女の中音域の声が私の耳に入る。

「そう、ですか? 大変そうでしたけど」

 先程読み終えたばかりの本の内容を思い起こした私は声を返す。本の中で透明人間になってしまった男は、家にも帰れず食べ物も買えず、中途半端に気づかれて騒ぎになることを恐れて息を殺して過ごしていたのだ。

「うぅーん、そういうんじゃなくて……単純に、普段とか、目立つつもりがないときとか、あんまり認識されたくないなぁって」

 少し困った風に説明してくれた彼女に、私は見えもしないのに大きく頷いた。

「なるほど。そういう意味ならなんとなくわかります」

 私たちは背中合わせに小さく笑いあって、話を続けた。

 そういった時間が、私と彼女の関係のすべてだった。




 目を開けると、白い天井に木製の……クルクル回っている……何だっけ。目に入ったのはそれだったが、名前が思い出せない。そんなどうでもいい思考に捕らわれていると、知らない女性に顔を覗かれた。

「うわっ」

 驚いて我に返り、私は起き上がる。見覚えのない洒落た喫茶店だった。彩度の高い写真が何枚も飾られた白い壁に、木製のテーブルがいくつかとそれに対応する椅子があるだけの小さな店舗だ。

 私は壁に持たれた状態でブランケットを掛けられていた。

「あのー……?」

 声を掛けられて視線を横に向けると、先程の女性が困惑した顔でこちらを見ていた。この店の人だろうか。黒いTシャツにGパン、緑色のエプロンを身につけて茶色い長髪をゆるく巻いた若い女性だ。多分、浪人と休学をそれぞれ経験した大学生の私より年上だった。

「あ、はい」

 どう反応したらいいかわからなかったが、一先ず返事だけはしておく。

 そういえば私はよく知らない建物に入ってそのまま倒れたのだった。思い出して、慌てて頭を下げる。元より人と目を合わせるのは苦手だったが、今は更に顔を見られない。

「すみません」

「い、いえ、そんなこと……」

 反射的にこちらの非を否定した女性も、私も、他に何も言えず、膠着状態に陥る。他に客も従業員もいないため、BGMとして流されている自然環境音だけが虚しく流れる。

 私は少しでいいから休みたいという欲求と、ちょっとでもお詫びとお礼をしたい気持ちから、思い切って女性に言う。

「あの……とりあえず、おすすめの紅茶をください」

「は、はい、ではこちらの席へどうぞ」

 女性がわたわたと案内してくれた席に移動して、コートとブランケットを隣の椅子に置く。この場に留まる方が申し訳なかったのでは、と思えてきたが、後の祭りと諦めて紅茶を待つ。

 テーブルを見回すと、白い砂糖とコーヒーシュガーと紙ナプキンの他に、メニュースタンドが立っていた。見ると、メニューの他に、この店のSNSアカウントのIDが書いてある。私は携帯電話を取り出して、アクセスしてみることにした。

 この店のアカウントがあるSNSは、私にも馴染みがある。アカウントを取らなくても閲覧できるし、相手と『お友達』に……つまり、相互に繋がることをしなくても、一方的に情報を追うことが許されている開けたSNSだ。

 私は暇つぶしに、この店のアカウントで投稿された情報を閲覧する。内容としては、空の写真とポエムと今日のオススメと友達自慢が目立つ。

 しばらくすると、フレーバーティーが運ばれてきた。ブレンドに色々と工夫があるらしいが、花の香りだということしかわからなかった。

 私はフレーバーティーに砂糖を何杯か入れてかき混ぜ、慎重に息で冷ましてから口に入れる。子供舌かつ猫舌なのだ。

 果たしてそのフレーバーティーは…………味がわからなかった。香りは煩いくらい主張しているというのに、味覚には何も乗ってこない。砂糖の甘さすら感じることができなかった。

 意識していなかったが、私はそれなりに精神的ダメージを負っているようだ。

 何にせよ、温かいのは有難かった。

 ほうと息を吐きつつ、私はこれまで回った場所を思い出す。何度も引き返しながらしらみ潰しに見回って、町の西端から中央付近まで来ていた。この町の四分の一くらいは、何とか回れたはずだ。

 この町は西と北、東の一部を山に囲まれ、東側を大きな湖に塞がれた小さな町だ。背の高い建物が希少で田畑が多く、見晴らしがいいことが却って閉塞感を増している。

南側の隣町との境には大きな川が流れており、住人は皆、嫌でも町の内と外を意識して生きている。それは、大学進学を機に住み始め、まだ四、五年しか暮らしていない私も例外ではなかった。

 もしも隣町より遠くにも貼られていたらどうしよう。ふいに浮かんだ不安に、私は頭を抱える。この町すらまだ回りきれていないのに。一巡するだけで何週間も掛かるほど遠くまであったら、どうしよう。

 しかも、私の目的は張り紙を見つけて手にすることではない。この世から消し去ることなのだ。

 手に入れたいだけならば、満足行く数集めればそれで終わりでいいだろう。たがこの場合、どこまで行けば済んだことになるのか、予測がつかない。私は、張り紙の枚数すら知らないのだ。

 その絶望的な状況は、ジッとしている場合ではないということでもある。私は考えるうちに居ても立っても居られなくなって、舌を火傷しそうになりながらなるべく急いでティーカップを空にした。もう行かなくては。

「ごちそうさまでした」

 挨拶と共にコートを着ながら伝票を持ってレジへと向かう。コートの外ポケットから財布を出して、千円札をカウンターに置いた。

「ありがとうございました。おつりは……」

 レジを手早く操作する女性の言葉と動作を、私は手を振って制する。財布をポケットに戻しながら、なるべくなんてことなさそうに言葉を付け足した。

「いえ、助けていただいたので。差額は、貰ってください。ささやかですが」

 噛まずに言えた達成感のままに勢いよく踵を返して、ドアノブに手を掛けたところで、私はそれに気づいた。

 剥がしたはずの張り紙が、元に戻っていた。

 私は血の気が引くのを感じながら、無心で張り紙を剥がして破って何度か破って、他の張り紙と共に内ポケットにねじ込む。自分が自分ではないように感じられるほど機械的に動いてしまっていた。店の女性が何か言っている声はしていたが、内容は聞こえなかった。

「何で貼り直すんですか」

 低く、強い声を他人事のように聞く。一応多分、自分の声だ。一メートルちょっとの距離まで駆け寄ってきた女性に対して言っていることもわかる。

 女性は怪訝そうな声でその質問に答える。

「何でって……人探しにって、頼まれたんですよ」

 そして女性の方からも質問か確認か詰問か、険のある声で問われる。

「あなたこそ、わざと剥がしたんですね?」

 私はまともに受け答えするか迷って、声が大きくなり過ぎないようにだけ気を遣って、一言で伝える。

「見つかりました」

「……え? でも見つかったら連絡……」

 あるはずでしょう? と、疑っているような迷っているような目が言う。

 私は怒りださないように背中を向けて、さっさと帰ってしまうことにする。何も言わないのも怖いということはわかっていて、かといって何を言っていいかわからず、ドアをくぐりながら、嘘の動機を口にした。

「その……個人情報なので。電話番号危ないので。片付けます」

 外に出ると私は少しの間全力疾走して一度店を離れる。離れて、罪もない街路樹に思い切り頭突きをした。

「ちっくしょう!」

 腹の底から怒鳴る。雀か何かが逃げて行く羽音が聞こえた。私自身すら、その声と感情を怖がっていた。

 私が回収している人探しの張り紙に印刷されているのは、主に彼女のこと。

 彼女の顔写真と、彼女の年齢・身長・その他特徴、行きそうな場所、好きなもの、彼女のきょうだいの携帯電話の番号、そして彼女を探すために作られたSNSアカウントが載せられていた。

 そのSNSは先程の店も持っていたアカウントだ。そして、アカウントはとっくに消されていた。

 あの女性に悪意がなかったことはわかっている。連絡を待っていたのであろうことも。善意の手を差し伸べて、張り紙をきちんと貼り直す程度には心配もして/せめて貼り直す前に自分で確認しろよ! 何でそんな中途半端なんだよお前の善意!

 理不尽ともいえる憤りに、言葉ではない何かを吠えて俯く。

 女性には『電話番号が貼りだされたままなのは危ない』といった趣旨のことを言ったが、本当は彼女のきょうだいの電話番号など知ったことではなかった。好きなだけイタ電でもエロ電話でも掛けられていたらいい。だけどどうして、自ら望んだ訳ではない彼女の情報が、いつまでも晒され続けなければいけないのだろう。

 私はフラフラとまた走り出して、そのうちにまた一枚、張り紙を回収する。

 写真の中の彼女は、笑っていた。一応。口角を上げる習慣のない人特有の、とてつもなく下手な笑顔だ。

「……ははっ」

 どんな感情によるものか不明瞭ながら、私は笑う。

 彼女がここまで笑顔の下手な人だということすら、私は知らずに終わるはずだったのに。




 私と彼女が出会ったのは、昨年の十二月、冷たい雨の日だった。

 私には一番好きな作家の新作の発売日は大学をサボる習慣があった。午前からその新作を購入し、いつも利用する書店の喫茶スペースで読んでから家に帰る。

 サボる理由も喫茶スペースで読む理由も単純。待てないからだ。私にとって大学というものが気軽に自主休講できる場だというのも大きい。

 その日は新作があまりにもいいもので、家に向かって歩いていても読み返したい気持ちが頭をもたげていた。傘を持っていない方の手で何度も鞄に入れた本の位置を確認してしまうくらいには落ち着かなかった。

 私はついに、雨にもかかわらず通り道にある公園に入っていく。入ったことはなかったが、通る度、屋根が見えていたのだ。

 その公園はさびれた雰囲気の遊具スペースと、同じくさびれた雰囲気のテニスコートもどきスペースに分かれていた。背の高いフェンスが境界を引いている。フェンスが途切れているのは右側で、左側は公園の端の、別のフェンスまで続いていた。

 スペースの境界を引くフェンスの、丁度真ん中辺りに背をつけて、それはあった。

 トタン屋根と、三方を囲む壁。写真で見た田舎のバス停のような、掘っ立て小屋を更に小さくしたようなものが建っていた。そしてその中にベンチがひとつ設置されている。

 目を凝らすと、フェンスの向こう側にも線対象に同じ小屋が建っているのが見えた。恐らくベンチも同じように設置されているのだろう。

 早速、フェンスのこちら側の小屋に駆け寄る。予想通り、ベンチのあるスペースは湿気ってこそいるが濡れてはいない。私はベンチの上に鞄と傘を放って、本を取り出すと今回の白眉だった下りのページを開く。目に入った文字だけで寒さが少し遠ざかった。

 あまりに素晴らしくて、思わず声に出して読む。雨音のカーテンに囲まれていることによる解放感が、私に少々の奇行を許した。

 すると背中側からガタッと何かがぶつかった音と衝撃がきた。

 まさか誰もいないだろうと思っていた私は恐る恐る声を掛けてみた。

「あ、あのぅ、誰かいるんですか?」

 幽霊は困る。苦手だ。狸や狐も困る。煙草を持っていないから追い払えず、化かされっぱなしになってしまう。生きている人だったらもっと困る。他のものよりもかなり怖いし、恥ずかしい。

 ややあって、女性のか細い声が返ってきた。

「います。……あの、同じ本、を、持って。ここにいます」

 訥々と語られた事実に私は思わず振り返る。汚れた壁が見えるだけだったがそんなことは気にならなかった。私は怖さも恥ずかしさも感じずに、会話を続けようと試みる。

「この本、というか、作家のファンですか?」

「……やっぱり、あなたも?」

 やや興奮気味の私の声に、壁越しの声もやや弾んで応える。

 こうして同じ作家が好きな、そして同じようにひどくコミュニケーションが苦手な私と彼女は出会った。

 その日以来、私の習慣は少し変わった。あの作家の新作を読み終えると、すぐにその公園を目指すようになったのだ。

 彼女はいつも先に来ていて、帰るのも私より後だった。必然、私は彼女の顔を見たことがなかった。

 ただ、メモ書きを残すという方法で連絡先だけは交換していた。風邪や用事で来られないときに連絡するためだ。待ち合わせていた訳ではないが、来なければきっと心配すると考える程度には、いつも同じ場所で話していたのだ。

 私たちはあまり私生活の話をしなかった。私と彼女の時間のほとんどは小説や作家の話で満たされていたし、ぽつりぽつりと零すことも、具体性の薄い内容が中心だったからだ。

 作家は二、三ヶ月に一度は本を出し、二ヶ月に一度刊行される雑誌に必ず短編小説を載せる速筆家だった。お陰で私と彼女も、平均して月に一、二回は公園で話をしていた。

 私と彼女はなかなかに馬が合っていたように思う。少なくとも私は、彼女との時間に流れる空気を、心地よいと感じていた。顔を合わせず壁越しに話をするというのも、『合って』いたんだと思う。

 その距離感を大切にすると同時に、私はこっそり、彼女と直接会ってみたいなどと思っていた。

 そのうち。もっと仲良くなれたら。一回だけでも。と。




 ついぞ一度も直接会わなかったはずの彼女の顔を、私はもう覚えてしまっていた。

 頭を振って、私はまた走り出す。正直体力の温存を考えても歩きの方がいいと思うのだが、気が急いて結局走ってしまうのだった。

 フラフラしながらもしばらく走り、張り紙をもう一枚見つけたらところで、私は自分の体の限界を悟った。先程のように意識を失ったわけではないが、足がやたらと縺れる上に何故か腕が上がらない。何度か張り紙をはがそうと手を伸ばしてもみたが、如何せん途中で腕が下りてしまうのだ。

 私は仕方なく、休業中の蕎麦屋の壁に歯を立てて、口で張り紙を齧り取る。ご丁寧にA4のクリアファイルで保護されていたそれが口の端を傷つけてくれるが、気にしないことにした。幸い張り紙を固定していたのは四隅に貼られた紙製ガムテープだったので、それほど時間を掛けずに剥がすことができた。

 地面に落ちた張り紙を拾い上げる。しかし、どうしたものか。これまで剥がした物は畳んで(一枚は破いて)コートの内ポケットに入れてあるのだが……指に力が入らないため、接着剤で隙間を固めてあるクリアファイルから取り出すことができない。

 私はクリアファイルに入った張り紙を脇に挟むと、携帯電話を取り出す。それから、のろのろとしか動かない指で何とかGPSと地図を呼び出し、現在地を確認した。少なくとも、この状態の私が徒歩で帰宅するのは無理がある場所だった。

 公共交通機関にも期待できない。何故なら田舎だからだ。駅は遠すぎるし、バスは出ている便が少なすぎる。

 辺りの地図を見ると、それなりに歩けば漫画喫茶とビジネスホテルがある。歩けない距離ではない。他に何もなければ、頑張ってそこまで行ったのだろう。

 ただ、すぐ近くにはラブホテルがあった。抵抗がない訳ではないが背に腹を変える苦労に比べれば些細なもので、私は一番近いそこに入ることにした。

 足を引きずって入ると、無人のロビーは暖房が効いていて内装も案外常識的で、居心地は悪くなさそうだった。スタッフではなく機械による案内で、適当に安い部屋を選ぶ。人に会わなくて済むシステムが有難い。

 私は部屋に入り、枕元で発見した充電器に携帯電話を挿すと、服を脱ぎ散らかしてベッドに潜り込んだ。明日はさぞ財布が痛むことだろうと思うと今から胃が痛くなり、寝付くまでは少し時間が掛かりそうだった。

 眠りの淵に落ちようとする時間……いつも人生の後悔が浮かんでは消える苦痛の時に、私は彼女の友人のことを思い出す。




 人探しの張り紙に気づいた日のことだった。今から一週間と少し前だ。

 載っていた写真に見覚えは一切なかったが、そこに書かれた失踪人の好きなものには覚えがあった。というか、よく見たら連絡が取れなくなった日付にも心当たりがあった。

 どう考えても、彼女だった。

 顔の他、ずっとお互い語らなかった年齢・身長・学校などを一方的に知ってしまった後ろめたさに、私は凍りついたように立ち尽くす。とはいえいつまでもそうしている訳にもいかない。

 次に私は、身の振り方を考えてみた。どうしたらいいんだろう。どうもしない方がいいんだろうか。ただただ、これは……困る。どうしよう。

 そうして突っ立っていると、いつのまにか横に来ていた小柄な人に袖を引かれる。はたと気づいて注意を向けると、どうやらイヤホンと音楽の向こうからずっと声を掛けられていたようだ。見たところ私より少し年下の、多分女子大生だった。女の子なのは確かだ。

 シニカルブルーにしばしの別れを告げてイヤホンを仕舞うと、一時的に黙っていた女の子が改めて口を開く。

「あの、どれくらい聞こえてましたか?」

「全然、です」

 私は返事はするものの、向き合うのも怖いのでろくすっぽ相手を見ないでいる。ちらっと確認した限り、赤いニット帽を被った、整ったボブヘアーの子だ。多分。

「この人を見掛けていたら教えてください。この子、あたしの友達で、行方不明なんです。ここにも書いてあるんですけどカラオケとか動物園とか好きな子で……えっと、そういうとこででも、どこででも、見てませんか」

 女の子は言いながら私にぐいぐい迫って来る。いい匂いがするからやめてほしい。くしゃみも出そうだ。

「えぇっと……」

 私は言葉に詰まる。この子が求めているような情報を、私は持っていないだろう。それに、私はこの子の味方じゃない。

「ちょっとしたことでいいんです」

 縋った藁がそのまま引っこ抜けそうな勢いで頭を下げる小さな女の子を前に、喉を詰まらせたような気分に陥る。敵に回り続けることを難しくさせる態度だ。

 しかし私は立場を変えない。口ごもりながら、何とか他人事かつそれらしい意見を絞り出す。

「あの、二十歳はもう一応、大人ですし、あまりその……騒ぎ立てると可哀想だって、見方も……」

 すると少女は勢いよく顔を上げて、涙目で、必死に言う。

「遺書が…………あって。あまり言いふらすことではないんですが。でも、し、死んじゃうかも……」

 涙を溢すまいと言葉を留めた女の子が顔を伏せる。本当の赤の他人だったら、ここで何と言うべきなのだろうか。全くわからない。

 女の子が顔を上げないのをいいことに、私は少し考える。こういった行動により彼女が得るかもしれないメリットとは何だろう。あるとしたら何だろうか。私はなるべく急いで検討する。なければこのまま逃げてしまおう。

 一応、なくはなさそうだった。

 まず、死んでいたらともかく中途半端に生きて困っていたとしたら、見つけた方がいいだろう。次に、死んでいたとしても、遺体は早めに見つけた方がいいかもしれない。ずっと見つからないならまだしもひどい有様になってから見つかるのは……彼女の死後に関する価値観は聞いたことがなかったが、多分よろしくないだろう。捜索でお金と労力が無駄に使われるのだって……少なくとも私だったら嫌だ。

 彼女のことを考える。私の考え方と想像力を精一杯伸ばして拡げて、彼女の脳髄に肉薄しようとする。

 早く見つかった方がいいんじゃないか、という結論が出る。何にせよ、張り紙なんてずっと貼られ続けていたら嫌だろう。早く見つかって早く撤去されればそれがいいと思う。

「ここに書いてある作家……」

「え?」

 女の子は顔を上げる。ずっと沈黙していたせいもあるだろうが、そもそも何故よりによって『好きなもの』の欄に言及するのかわからないだろう。私はどちらかといえば、何故よりによってそんな欄を作ったのだと責めたいところなのだが。

「ほら、この作家です」

 私は指を差して繰り返す。目の前の女の子はピンと来ていないようだが、私も彼女もこの作家のことは人生を賭けて好きだったのだ。関連する場所、というのは充分考えられる。

「この作家が好きなら、東の湖は、探してもいいかもしれません。モチーフになっていたことがあるので」

 私は他人事の純粋な親切心のように偽って、その情報を伝える。少女は最初ぽかんとしていたが、はたと気づいてメモを取っていた。

 このときの私が何をしたかったのかは、実際ははっきりとはわからない。早く見つかった方がいいと考える理由をいくつか掲げてはいたが、どれも本心ではなかった気がするのだ。

 それに、私が与えた情報は役に立たなかった。

 東の湖で遺体が上がればそれなりの騒ぎになるはずだが、そんな話は一度も聞かなかった。




 いつの間に寝ていたのだろう。眠った気はしなかったが、時計を見るとしっかり時間が経っていた。時間制のホテルなのでチェックアウト時間も何もないようだが、それにしたって寝すぎた。

 私はこれ以上の滞在で上乗せされる金額を考えて早く出て行こうとしたが、両脚のふくらはぎが同時に攣ったことでそれを断念する。痛みのあまり声も出ない状態が五分は続いた。

 痛みが収まると、風呂に湯を張り、その間に水を飲んだ。『攣る』という状態は水分不足と深く関わっているという話を、どこかで聞いたことがある。

 湯が溜まると私は湯船に浸かり、足をストレッチをしたり揉みほぐしたりする。顎や額、口の端を含めて傷や打撲だらけで、やたらとしみた。

 洗うのも拭くのもさっさと終わらせて髪をいい加減に乾かしながら携帯電話を確認すると、アルバイト先の店長からメッセージが届いていた。体調を崩してしばらく休むという私の嘘に対する見舞いのメッセージだ。

 私は罪悪感を飲み込んで、お礼のメッセージだけを返す。張り紙の回収に走る私の姿を目撃されたら台無しだが、今は考えないことにした。

 結局、私がホテルを出たのは昼前だった。出るときには、財布にかなり多めに入れておいたはずの中身を殆ど失った。

 日は昇り切る直前だが、空気はとても冷たい。ホテルの入り口で立ち止まっているわけにもいかず、私はなんとなしに足を踏み出した。

 と、まだ湿り気が隠れていた髪を風に煽られて、私は少し弱気になる。

 私がすべきことではない。わかっている。余計な首を突っ込んでいるだけなのだ。三日前に起こした行動すら正しいかどうか自信がないくらいだ。




 三日前の朝、あの小柄な女の子が喪服でとぼとぼ歩いているのを見掛けて、私は大体のことを察した。

 女の子を見掛けたのは大通り(といっても片側二車線だ)の向こう側だったため、私はつい様子を見てしまった。

 女の子と、その友人らしき男女数人。女の子たちは大通り沿いに張った張り紙を剥がしながら帰っているようだった。大方、葬儀やそれに準ずる何かで彼女と対面するまで結果を認められなかったといったところだろう。

 私は目の前で剥がされた一枚の張り紙に、ほっと息を吐いた。もう町にべたべたと張り出された彼女の欠片は、残らずなくなっていくのだろうと。

 そこでふと、インターネット上にSNSのアカウントがあったことを思い出す。すぐに消すべきものだとは思うが、下手に『すべて消す』というのも悪手だということを私は知っていた。

 書いた内容はすべて消した方がいい。だが、アカウントまで消してしまうと、面倒なことになる可能性があった。

 今回人探しに用いられたSNSで推奨される情報の拡散方法は、SNS固有の機能であり、情報元が消えると勝手に取り消されるようになっている。しかし悪目立ちでも望んでいるのか、わざわざスクリーンショットを撮って自分のページに掲載する人もいるのだ。そういった人たちに削除を要請するとき、アカウントが残っていた方がスムーズだろう。

 私は携帯電話から検索してSNSのアカウントを表示する。幸か不幸か、まだ何も消えていなかった。

 開いたついでに少しスクロールしてみると、かなりの数の著名人のアカウントに情報の拡散をお願いするメッセージを送っていた。

「…………」

 緊急(少なくとも彼らにとっては)だったとはいえ勝手な振る舞いに肝が冷えるような、彼女の写真も情報もそのままであることにひどく苛立つような……そして、私が関与する余地が残っていることに歓喜してしまいそうな、厄介な感情の震えが起こる。

 私はなるべく冷静に、なるべく事務的に、なるべく何も知らなそうに、そのSNSアカウント宛てのメッセージを打ち込む。

『大変そうですね。もし見つかったらSNSに載せたりした情報は消した方がいいですが、アカウントは残して、そこから拡散してくれた方にコンタクトを取れるようにした方がいいかもしれません。情報が残ってしまってはその後大変だと思うので。差し出がましいことを言ってすみません。載せたものの一括削除のやり方は……』

 一括削除のやり方くらい既知かもしれなかったが、人探しの大義名分があるとはいえ易々と他者の情報と顔写真をインターネットで公開するような人々のことだ。知らない可能性が高かった。

 一括削除をすると誰か宛のメッセージも消えてしまうが、そこはアカウントを追いかけるための機能があるので大丈夫だろうと踏んでいた。内容は消しても、追いかける・追いかけられるの機能は消えない。

 しばらくして確認すると、SNSアカウントは残ったまま、載せられていた情報だけ全削除されていた。返信不要としておいたので私への返事はないが、友人が後処理を引き継いだらしく、スクリーンショットや転載をしているアカウントに少しずつ削除を要請しているようだった。

 私はそれですべてが終わったと思った。少し余計なことをしてしまったが、それでも、これで大団円だと。




 私は大きく溜め息を吐いた。まだ何も終わっていないのだ。

 こうして張り紙を集めて回っているように、彼らがきちんと片付けたのはSNSアカウントだけだったのだ。いや、剥がしている現場を見た以上、貼って回った全員が後片付けをしなかったなどと言う気はない。だが、剥がしていた人たちもきっと、自分が貼った分や目についた分を剥がしていただけだったのだろう。

 結局、全部剥がして回るような人間はいなかったわけだ。

「これはないだろ……」

 想いを言葉にすると、冷えて弱気になりつつあった体のどこかで熱が滾る。私の原動力は、所詮自分勝手な怒りでしかないのだろう。少しでも彼女に関わっていたいという身勝手な願いも、やはりどこかにあるのかもしれない。しかし同時に『余計なことだろうが知ったことか。やるべきことをやらないよりはいいだろう!』と、心のどこかが吠えている。

 私は、今度は意志を固く足を踏み出した。まだ探していないエリアをはっきりと頭に浮かべて、そこを目指す。結局また、走っていた。




 残っている張り紙を初めて見たときは、幻覚でも見たのかと思った。だが、張り紙は物理的に存在していたし、善意から携帯電話のカメラで撮影しようとする青年まで実在していた。うっかり掴みかかりそうになったくらいだ(勿論、実際には手を出さなかった)。

 私はまず、急いで張り紙の番号に電話をした。まだ残っていることを伝えようとしたのだ。

 しかし電話に出た男は「張り紙を見たんですが」以降のことはろくに聞かずに「もういいんです」とだけ言って電話を切ってしまった。もう一度電話を掛けると、今度は出なかった。元気がないことはよくわかった。よくわかったが……。

 手に持ったままの携帯電話で、私はSNSのアカウントから連絡を取ろうと、アカウントのIDを入力する。そこには『消えたアカウント』を示す画像が表示されただけだった。

 私はやり場のない憤りのままに乱暴に張り紙を剥がして、自分の家に帰る。実は通学途中だったが、このまま大学に向かう気にはなれなかった。

 そして家までの数百メートルの間に、張り紙を剥がして回ることを決めていた。家には荷物を置いて靴を履きかえるためだけに帰ったようなものだった。

 昨日の午前の出来事だった。



 気づけば日常を二日潰しているのだなぁと、足を進めたまま自覚する。

 昨日の授業は全て休んでいるし、今日と明日も授業に出る気はない。週三日のアルバイトも一週間丸々休みをいただいている。

 自分のためにもならない。いつまでもそんなことを続ける訳にはいかない。そんなことは分かっている。それでもこの小さな田舎町を一周し切るまでは、止まれない気がした。

 一周、か。

 口の中で呟いて私は自嘲する。昨日まではどこにあろうと探し出して滅する気でいたというのに。自分の怒りや情熱は、所詮その程度なのか。しかしキリがいいのは確かだった。

 そう、一周だ。それだけ終えたら日常に戻ろう。あとは張り紙探しをするにしても、空いている時間でいい。

 決意を新たにして、私は顔を上げる。回っていないのはあと、東と南だけだ。田畑が多く張り紙が貼れる場所が限られているお陰で、ひとつの町を回ろうとしている割には時間が掛かっていない。下手したら今日中に回りきれるんじゃないかとすら思う。

 どんなに進み続けても、空腹感は覚えなかった。ただ喉が渇くだけだ。味覚がおかしくなっているくらいだから、そんなものなのかもしれない。

 狭すぎて物理的に一方通行になっている(どちらからも通れるが、譲り合わないと通れない)道路をいくつも駆けて、張り紙禁止の電柱に半分だけ残っていた張り紙を回収する。もう半分は近くの水路に引っかかっていた。ジーンズとスニーカーを濡らして肩のどこかを傷めながら無理矢理拾う。水性インクのくせして微妙に字が読めるところが腹立たしい。

 私は回収したそれを眺めて、自然、苦い顔になる。手間が掛かったせいもあるが、残っている張り紙のある場所にも、思うところがあるのだ。

 残っている張り紙は全て、許可を取りようのない場所や、頼み込まれて折れた人々の家や店に貼ってあった。

 それだけなりふり構わず行動した人ほど、遺体という結果に心折れたのかもしれない。あるいは、必死だからといって社会のルールを破り手当たり次第に他人に縋るクズほど後片付けもできないのかもしれない。

 どちらにせよ、多分、一定以上の思い入れを持っていた人間のせいで彼女は晒し者のままなのだ。

 私は感情の昂りで乱れを増した息を整えて、また進み始める。まだ東の方も回りきっていないというのに、夕暮れが迫ってきている。

 先程ホームセンターの前を通り掛かったとき、懐中電灯を買っておけばよかった。コンビニの前を通ったときでもよかった。

 後悔している間にも日が落ちた。けれど私はすぐに、懐中電灯は買ってもあまり意味がなかったのだと気づく。一度は携帯電話のライト機能で照らしてみたのだが、太陽光と比べると視界が狭くなるため、効率が著しく悪くなるのだ。

 ここからは湖も近い。下手したら張り紙探しに支障が出るだけでなく、私が湖に落ちそうだ。

 冷静な頭がそう判断してからもなかなか止まれなかった私を止めたのは、やはり私の体だった。右ふくらはぎの筋肉が、時折別の生き物のように波打つようになってきたのだ。痛みはなかったが、逆に不気味で気が滅入る。流石の私も続行しようとは思えなかった。

 私は足を引きずって、見覚えのない道を戻って行く。頭の中と携帯電話それぞれの地図とその上での位置、それから張り紙の有無しか見ずにただただ道路を走っていたせいで、景色など全く見ていなかったのだ。

 幸い家の方角は何となくわかっていたし、携帯電話の地図機能も有能だ。家まで迷うことはなさそうだった。

 普段はどれだけやめようとしても自制できない寄り道を一切せず、休憩すらせずに、私は一日ぶりの我が家に帰り着く。貧乏学生が多い単身者向けの集合住宅にエレベーターなどという贅沢な設備はないため、自分の足で四階まで上がった。

 私は部屋に入ると、まずドアを閉めて鍵をかけた。出掛けるときにドアが半開きだったことの反省を含めて、しっかりと外界との繋がりを断つ。

 私の部屋の匂いだ。私の匂いだけがする空間に、私が帰ってきた。

 当たり前だが、私にとっては重要なことだった。一気に気が緩んで、涙がボロボロと流れ落ちる。涙を拭うのも服を脱ぐのも面倒で、私は靴だけ脱いで万年床に飛び込んだ。

 その夜、私は眠る体力すら足りないせいなのか、何度も目を覚ますことになる。




 動けない暗闇で思い出すのは、また彼女とのことだった。

「いくつくらいまで生きたい、とかってあります?」

 あの作家の新作のあとがきにあった『二百歳になってもまだ物足りないと思う』という下りの話をしていると、彼女はそんなことを訊いてきた。

 普段の私なら考え込んで無難な答えを言うのだが、相手が彼女なのですらすらと人生設計を口にする。彼女には嘘を吐く必要がないからだ。

「私は大学を出て、奨学金を返し終えたら死のうと思ってます。繰り上げ返納で三十五歳までには終わらせたいですね」

「奨学金とかあるとそういう枷ができちゃうんですね」

 しみじみ返す彼女に、私は笑って付け足す。

「でも大学でやってることは楽しいですし、その間にやりたいことも色々あるので丁度いいかなって思ってますよ」

 すると彼女はつられたように笑って言う。

「わたしも、この作家の本はなるべく沢山読みたいし、見たいものも、したいこともあるけど……長生きしたくない気持ち優先、かなぁって、考えてます」

「長生きしてもつらそうですよね」

「ね」

 風が木を揺らして、擦れ合った葉が一斉に鳴る。私と彼女の笑い声をその中に包み隠してくれるようだった。

 晴れた午後は優しく、暖かく。死ぬならこんな日がいいと、ふたりして口々に願った。


 私も彼女も、自分の影のようにぴたり着いて来る生きづらさを背負って日々をやり過ごしていた。私は彼女の、彼女は私の人生の具体的なエピソードや地位をあまりよく知らない。だが普通に生きていたら理解し合う機会を得ることすら困難だったあやふやな想いについては、少しは分かり合えていると信じていた。

 私は今も、信じている。




 布団から出てまずしたことはゴミ出しだった。

 私は最初、燃えるゴミの回収車が家の前に到着した音で飛び起きた。すっかり忘れていたため大慌てだった。

 ゴミ袋を、口も縛らずに引っ掴んで階段を転げ降りる。そして回収作業が進んでいる目の前で、コートの内ポケットに入っていた張り紙を袋に突っ込んでいい加減に縛った。

「お願いします!」

 勢いそのままに頼むと、回収業者のひとりである長身の青年は爽やかに返事をしてひょいとゴミを持ち上げる。重たかったゴミ袋は如何にも軽そうに扱われ、ひどく生臭い回収車に放り込まれた。

 回収車の機械が回転して、私が出したゴミ袋も押し潰しながら飲み込んでいく。半透明のビニールの内側で、昨日の午前まで吊るしていたてるてる坊主が潰れてちぎれるのが見えた。

 私はひとつ伸びをすると、急いで部屋に戻り、顔を洗って着替えを済ませる。

 実は擦り傷も打撲も痛い盛りで歩くのも辛い。だが、じっとしていると心が焦燥感に押されすぎてひしゃげてしまいそうだった。まだ東側が少しと、南側が残っているのだ。

 出掛けにポストを覗くと、広告に紛れて私と彼女が好きな作家からの葉書が届いていた。この間もファンレターを送ったから、その返事だろう。返事といってもサインだけだが、律儀なものだ。

 普段の私なら大喜びで家に戻り、大切にファイルに仕舞うことだろう。しかし私はひとつ息を吐いて、葉書をポストに戻す。今だけは、葉書を優先しないことにしたのだ。

 習慣で駐輪場に寄りそうになって、途中で自転車が故障したままだと思い出す。引き返して、私はまた、自分の足で走り出した。昨日見た地点まではそれほど注意して回りを見る必要もない。ただ、急ぐのだ。

 元の場所に着くと、そこから少し東に寄って湖をなぞる。船着き場がそれなりに賑わっているのを見て、私は初めて今日が日曜日であることに気がついた。

 色とりどりの色褪せたテントと古びたボート、ちょっとした出店が、それなりの数の人々を捌いている。

 私は人の多さに少々胃にクるものを感じながら、張り紙の有無を確認して動き回る。それから意を決して、ボートや出店の人たちに張り紙のことを訊く。クレープ屋のアルバイトが、自発的にSNSを確認して処分したことを教えてくれた。

 知らない人に次々話し掛けて気疲れしたにも関わらず、私の気持ちは少しだけ軽くなる。捨てたもんじゃないと思えたのだ。

 そのまま進んで湖のふちをなぞり終えると、今度は町の南側を探し回る。自分で西側、東側と分けていたエリアを探していたときも思ったが、南に寄れば寄るほど、張り紙は減っていった。

 彼女を探していた人たちは山の方へ向かった可能性が高いと踏んでいたのだろう。もしかしたら、目撃情報でもあったのかもしれない。

 私は田畑と民家とコンビニとスーパーと駅とショッピングモールと宿泊施設と温泉と漫画喫茶とカラオケと本屋と学校と駄菓子屋と空き地と廃墟とファミレスと団地その他諸々の横や隙間をどんどん往って、まだ明るい午後、私は町の南端の川べりをなぞり終える。

 昨日一昨日よりも回りの風景に注意が払えるようになったためか、色々なものがあるのが見えた。色々な人が暮らしているのだとわかった。

 私は南端と呼べるラインに何もなかったことを確認し終えた途端、走れなくなった。歩くことすらあやしい。幸い川のすぐ近くだったため、河原に降りる石段の途中に座り込んだ。

 最後にコンビニに寄って飲み物を口に入れたのはいつだったろうか。

 喉が渇いて今にも貼りつきそうなことに気がついた途端、唐突に空腹感も覚える。

 少しの逡巡の後、私は『もう充分休んだ』と言い聞かせて立ち上がる。今立ったら太腿が攣るのはわかっていたが、どちらかといえば口に入れる物の方が切迫していた。

 案の定太腿が、そしておまけのように足の裏と肩が攣ったが、私は近くのコンビニまで歩く。そして不審者として怪しまれながらもスポーツドリンクと肉まんを購入し、駐車場で一気に摂取した。いきなりで息も胃袋も苦しかったが、それ以上に感じるものがある。

 それを何かに向けて表明しなくてはいけない気になって、私は感想を口にした。

「美味しい。とても美味しい。大変美味しい」

 相応しい表現が思いつかなくて、なんだかめちゃくちゃ雑に褒めているような言葉になってしまった。これでも本心だった。私の精神、というか感覚は、ある程度回復してきているのだろう。味覚が歓喜に踊る。

 少しだけ、釈然としない。

 悲しさや寂しさ、やるせなさは、膨らみすぎると苦しい。だが、思ったより早めにしぼまれても、それはそれで胸がすかすかしていけない。

 こういうとき私は、悲しくないことが悲しい。今の私は、美味しくて寂しくて悲しいのだ。

 私はひとつ大きなため息を吐いて、気を紛らわすつもりで携帯電話を取り出した。見るとスケジュール機能の通知が着いていたので、詳細画面を開いてみる。

「あははっ」

 思わず道端で笑ってしまった。あの作家の新作の発売日が明日だと表示されていたからだ。

 もう、すっかり忘れていた。よくない。楽しいことを忘れてしまうのはよくない。

 私は涙を飲み干すように口角を上げて、なるべく前向きな気持ちを取り戻そうとしてみる。明日はいつも通り午前にあの作家の新作を買って読もう。いつも通り、あの公園に行こう。

 そう決めるとなんだか楽しくなってきて、引きずるようにしかならない足取りも軽い物だと錯覚できる。いや、実際軽いのだ。私の頭の中では。

 発売日の前日というのはこうでなくてはいけない。




 そういえば私は一度、彼女に肉まんを奢ってもらったことがあった。まだ寒い春の日、あの作家の新作が発売された日のことだ。

「肉まん、冷めちゃってました?」

「いいえ、あったかいです」

 大嘘だった。

 その日、いつも通りあの公園を訪れた私がまず目にしたのは、普段自分が座っているベンチの上にこんもり巻かれた膝かけだった。取り払うと、そこには肉まんがひとつ。

 私が立てる音に気づいた彼女の第一声が、先程の言葉だった。

「急に、どうしたんですか?」

 もしかして、と期待するものはあった。ただ自分から言って違ったら恥ずかしいので言わずに、理由を問う。

「次の本は自分の誕生日プレゼントにするって言ってたので……お祝いです。肉まん」

 期待していた答えが彼女から返ってきて、私は簡単に浮足立つ。

「ありがとうございます。膝かけそっちに回しますか?」

「大丈夫です。今日は要らなそうなので。置いといてくれれば」

「わかりました。寒くなったら言ってくださいね」

 声だけは平静を装っていたが、私は冷えた肉まんと手で頬を冷やしながら会話していた。すぐに赤面する上に頬や首にのぼってきた熱で痒くなるのだ。

 私は照れ隠しも含めて、誕生日に関連した話題を上げる。各巻の年齢の表記とその時期から誕生日を推測できそうなヒロインのことだ。

 今思えば誕生日に関連して彼女の誕生日を聞くこともできた。けれど、私が張り紙から彼女のことを色々と知ってしまう以上、ひとつくらい私の方だけが知られていることがあるのは、よかったのかもしれない。




 翌朝、いつも通り、私は二度寝を済ませて家を出る。歩きにくい分いつもより遅れ気味に書店に到着し、品出し中のおやじさんに声を掛けて、目当ての本を買う。公民館のような内装の古びた書店は、今日も過不足ない。

「傷だらけだねぇ」

 白髪の目立つ丸眼鏡のおやじさんが、本をレジに通しながらそんなことを言う。

「ちょっと色々……」

 でへへと答えると、おやじさんは軽く目を細めてメニューを差し出す。

「紅茶とパンのセットも一緒に、でよかったかな」

「あ、今日は紅茶だけで」

 習慣は習慣でも、金欠は金欠だった。私はおやじさんに本と紅茶の代金を手渡す。ここの喫茶は前払い制なので、本の代金と一緒に払ってしまえるのが便利だ。

 私はいつも通り、買ったばかりの本を持って喫茶スペースに向かう。

 色の暗い木材と薄緑に塗られた壁の喫茶スペースは、書店スペースと比べれば日当たりはいいが、読書の邪魔にならないようコントロールされている。入口近くの席の少年も勉強が捗っていそうだ。

 この喫茶コーナーはほぼ道楽でやっているという。だから長居しても特に困らないんだよと、おやじさんは言っていた。

 私は隅の席を選び、本を読む準備を整える。上着を脱いだり、本を手元に置いたりだ。いつものことだが、こういうときの私は落ち着きがない。

 少しすると、おやじさんのお孫さんが紅茶を運んでくれた。この人は本当に無愛想で、私のような人見知りに対しては尚一層そっけない。決して目を合わせずに、丁寧な手つきでサーブしてすっと去っていく。きっとおやじさんに似て優しい人なのだろうと、勝手に思っている。

 私はティーカップの紅茶に砂糖とミルクを入れて混ぜて、早速本を開く。あとがきを読んで、序盤を読んでもいまいち乗りきれなかったので途中のページを覗いて雰囲気を掴んでからもう一度序盤に戻る。それからやっと少し紅茶を口に含んだ。

 最初は本の内容に集中しきれないのも、集中しだすと他に何もできないのもいつも通りに、私は最後の数分間トイレを我慢しながらその一冊を読み終える。

 満たされた。自分の心が躍動することが、生きていく慰めであり、残り僅かな幸福のひとつとなっていた。これがあるからこの作家は好きなのだ。意外な展開・コメディ・グロテスクな描写に魅力がない訳ではないが、心に直接触れてくれるような文章が一番気に入っている。

 私はトイレを借りた後すぐ店を出て、足早にあの公園へと向かう。急ぐことに何ら意味はないと知っていても、私の足はやはりせっかちだ。きっと、道中を楽しめない性質なのだろう。

 いや、偶には楽しむ努力をするのも必要だろうか。私は思い直し、意識して歩調を緩めて高く薄い水色の空を見上げる。しかしそれも長く続けることはできなかった。首がひどく痛むのだ。

 今は、周囲の景色に求めるものも特にない。だから私は半月ほど前のことを思い返す。




 半月ほど前、彼女と私にとっての最後の日は、晴れても降ってもおかしくない微妙な天気だった。

 あの作家の新作短編の話が一段落すると、彼女は季節の話題にでも移るように、ごく自然に切り出す。

「実は、大事にしていたことがまたひとつ、だめになってしまいまして……」

 声の大きさも話し方も普段と変わらないのに、少しでも風が吹いたら飛ばされてしまいそうだと思った。私は冷や水を浴びせられた気分になりながらも、なるべく普通に相槌を打つ。

「そうなんですか」

 小学校の友達が転校したり、昔の趣味の友達が趣味を辞めて何かに専念したりする直前に感じたのと同じ、寂しさの予感が胸を内側から圧迫していた。

 彼女は飲み物でも飲んでいたのか、気持ち良さそうにぷぁーと大きく息を吐いて、晴れやかに宣言する。

「明日死のうと思います。今日、読めたお話もすてきでしたし、丁度よかったです」

 私は半月くらい後に続編が出るシリーズのことを言おうか一瞬迷って、やめる。

 他者の大きな決断に口を出せるほど私はえらくないし、何より、私は止める立場ではない。どちらかといえば、死に際する気持ちを理解できる側に立っているのだ。私が彼女のためにできることは、決まっていた。

 冷えた空気を吸い込んで、伝わるようにと、選んだ言葉を声に渡す。

「好きだと思える人がひとりいなくなるのは寂しいですが、あなたにとってよりよい過程と結果だと、いいです。そういう風であるように望んでいます」

 まるで洋書を日本語に訳したようなぎこちない言葉になってしまったが、これが今の私の精一杯だった。しばしの無言、無闇に言葉を付け足してしまいたくなるのを我慢していると、そっと、彼女が言う。

「ありがとうございます。……えっと、嬉しいです。あなたも、よりよい過程と結果を。……どうか」

 祈りの声だと思った。だから私も心の中で『どうか』と呟く。恥ずかしげなことを言っているとか、考えているとか、そういうことは露とも思わなかった。

 どれくらいそうしていただろうか。急に強い風が吹いて、私は帰宅を意識する。そのためか、或いは単に心細くなったのか、ついわがままを言ってしまう。

「あの……最後に、握手、してもらってもいいですか」

 言いながらひどく赤面しているのが、自分でよくわかった。彼女は何も言わない。私は最後の最後に困らせてしまったと焦り、発言を撤回しようと口を開く。

「いいですよ。ちょっと待ってください」

 先に言葉を発したのは彼女の方だった。私は上手く「はい」を言えたのか不明瞭なまま、彼女を待つ。ややあって、何やらごそごそしていた彼女の声が届く。

「今日はわたしが先に帰るので……その、目を瞑っていてもらっていいですか?」

「了解です」

 短く返しながら、私は無意味に座り直す。ずっと顔を合わせずに過ごしてきた私と彼女らしい取り決めに、少しのむず痒さを覚えたのだ。

 最後まで直接会えなくて残念な気持ちもあったが、それよりも自分たちらしさがあることが嬉しかった。

「……あ、でもそれだとわたしの方は一方的に顔を見ちゃいますね」

 瞼を下ろす直前にそう言われて、私はつい笑ってしまう。

「お互い間が抜けていますね」

「ええ、本当に」

 くすくす笑いを交わしながら、私は首に巻いてあったマフラーを見る。長さも幅もそこそこあるので、これでいいだろう。

「じゃあ私は顔にマフラーを巻いておきますよ。マフラーマンです」

「なるほど」

 些細な悪戯に走るときのような気持ちで、私はマフラーを頭に巻きなおす。この際、首が寒いのは我慢する。途中でコートがボロボロなのがバレると気づいたが、今更別の案を考えるのも面倒だったので諦めた。

「もういいかい」

 彼女がおどけるので、巻き終えた私も、くぐもった声で便乗する。

「もういいよ」

 心臓が高く鳴るのを悟られやしないか、今の私はおかしくないか(いや、おかしいのだが)考えているうちに、彼女の足音が私の前で止まる。

 私は探り探りに、手を差し出した。

 冷えきった私の手に、負けじと冷えきった彼女の手が重なる。ふたつの手と手は、ゆるく握られ、数秒掛けて少しだけ握力を増す。

「……冷え性なんですね」

 彼女がぽつりと言う。

「一緒ですね」

 私が言う。

 その会話を合図としたように、するりと手を離した。

「それでは、お気をつけて」

「はい、そちらも」

 いつもと変わらないやりとりを、私たちは別れの挨拶にした。いつもとの違いは、自分が遠ざかっていく側か、足音を見送る側かということくらいだ。彼女は何故か歌を口ずさみながら去って行く。初めて聴く歌だが、いい歌だと思った。

 私はしばらく、顔にマフラーを巻いたまま惚けていた。

 いつになれば別れの実感に辿り着けるのか、わからないままで。




 思い返し終えてもう少し辛抱して歩いて、私はあの公園に辿り着く。相変わらず、人がいない。親もこんな人気のないところで子供を遊ばせるのは嫌だろう。そのうち潰されることは、想像に難くない。

 私は落ち葉を踏んだり蹴ったりして、自分の定位置に座る。

 見渡せば、紅かった落ち葉もすっかり茶色く乾ききって、管理の行き届いていないこの公園を汚く染めている。でも、これくらいがいいと思えた。あまり綺麗だと気が落ち着かない。

「こんにちは。今日のもすごくよかったですね」

 一応声を掛けて、でも返事はなくて。携帯電話を見ても、連絡なんかなくて。私は彼女が話してくれた意志が遂げられたのだということを確認して、ほっとした。

 何せ寂しくて仕方がないのだ。今彼女が現れたら、私はきっと引き留めてしまう。それじゃあ、台無しだ。

 今日はもう帰ろうか、まだ座っていようか。私はわざとらしく腕組みをして、しばらく悩むふりをする。

 体のあちこちの痛みにかまけて、まだここにいることを選んだ。実際膝関節と脚の付け根ががくがくする上に足の裏と鎖骨の辺りが滅茶苦茶痛いので、これくらいはなすりつけてもいいだろう。

 私は別れの日のように惚けて、今日の本のお気に入りのページを開くことすらしない。無理をした体だから、これも仕方がない。

 息を吐いて、二十枚以上集めた張り紙に思いを馳せる。これでもまだ、町に、外に、どこかに残ってしまっているだろうか。彼女を探すために作られたSNSアカウントのキャッシュやログが完全に消えるときは来るのだろうか。できれば早く全て無くなってほしい。こんな形で彼女が残っているのは、私がすごく嫌だ。

 私はこれからしばらくは、彼女のことばかり考えてしまうだろう。張り紙もまだちょこちょこと回収するだろうし、SNSのアカウントから流れ出したデータも、下手に残るくらいなら自分で消して回る気がする。

 そしていつかあっさり、彼女のことを考えなくなっているのだろう。それならば、考えてしまう間に小説や日記に書き留めるのもいいかもしれない。

 ふと、今日は昨日までの数日間より余程あたたかいことに気づく。彼女が言っていた『明日』もこんな風に、暖かく、空気が澄み渡った晴れの日だった。

 私は無意識に開いていた口を閉じて、ついでに目も瞑った。目を閉じた暗闇に、願い事を浮かべる。


 今日は死ぬのにいい日だ。いつか私が死ぬ日も、こんな天気がいい。

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自殺日和はいい天気 片手羽いえな @jenadoe

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