第9話 劇場ことば5 スポットライト

 十月の京都は、秋の観光客で賑わう。

 都座がある祇園界隈は、嵐山と並んで、建仁寺、八坂神社、知恩院、青蓮院、長楽寺、圓徳院、高台寺、清水寺などの有名社寺が密集しているので、ごった返す。

 それに交通の便がよい。

 京阪電車「祇園四条」、阪急電車「四条河原町」と云う二つの私鉄の駅から近いのだ。

 都座の正面玄関前は、待ち合わせのメッカとなっている。

 週末ともなれば、数多くの人が待っている。

 その膨大な数の通りすがりの人をそのまま、見ているのはもったいない。

 じゃあ誰でも、いつでも入れる、催しやろうとなった。題して、

「都座ミュージアム~今日からあなたも、スポットライトを浴びます~」

 入場料千円で、場内ロビー展示物見学、花道、舞台、盆、セリ、回り舞台を体験。

 最後に暗転の中で自分だけスポットライトを浴びる趣向だった。

 一つのツアーに六十人定員とした。

 客席にお客様を集めて、まず都座の歴史を解説。その後参加者は鳥屋口(とやぐち)(花道の付け根にある小部屋)から花道へ。それから本舞台へ。

 盆、セリの上下、回り舞台を体験した後、一人ずつスポットライトを浴びる体験をするのだ。

 このスポットライト体験コーナーが意外なほど、お客様に受けていた。

 様々なブログ、インスタグラム、フェイスブック、ツイッターに載り話題が拡散した。

「舞台の盆が回るのも、遊園地のメリーゴーランドのようで楽しかったけど、やはり一番の衝撃は、スポットライトよね」

「真っ暗闇からの、突然の光。とても目を開けていられなかった」

「役者って大変だよねえ。重い衣裳着て、稲妻のような光り浴びても微動だにせず、きっと目を開けてないといけないなんて」

「確か蹴田屋の鯛蔵は、二分は瞬きせずにいられると、自身のブログに書いてあった」

「役者は華やかな世界かと思ったけど、完全な肉体労働者よね」


「では、これから皆さんには、花道を通って本舞台へと移動したいと思います。皆さんお立ち下さい」

 客席での説明を終えると、由梨は先頭に立って歩き出す。

 普段は正面ロビーから鳥屋口へは、直接入る事は出来ない。しかし、ツアーの時間短縮のために、特別に鳥屋口の扉を開放していた。

「はい、じゃあ皆さん中へお入り下さい。と云っても全員入れませんので、他の人より一足早く中見たい人、早い者勝ちです。ずっと前へ進んで下さい」

 由梨は先導した。

 最初は、遠慮気味だった参加者も、我勝ちに急いだ。

「後ろの方は、後で必ずここ通りますから、今は私の説明だけ聞いといて下さいね」

 参加者は、小さく返事した。

「ここは、先程説明しました鳥屋口の中です。意外と狭いでしょう。ですので、鳥小屋の狭いところから、そう呼ばれてます。ここで役者さんは衣裳を着換えたりして花道の出を待ちます。皆さん、前方見て下さい。花道を隔てる幕があります。

 これを揚幕と云います。ここ見て下さい」

 と云って由梨は、揚幕の中央を指さした。

「切れ込み入ってますねえ。ここから舞台の進行を状況を見る事が出来るんです。切っ掛けでこの幕が開きます。どんな音がするか聞いてて下さい」

 由梨は両手で思いっきり、左へ引っ張る。

 チャリンと音を立てて、幕が開く。同時に花道の右端に埋め込み式で設置されているライトが点灯した。

 さらに花道を歩く参加者を照らすライトも同時についた。

「ええ音でしょう」

 にっこり微笑むと、参加者から小さな笑いが漏れた。さらに参加者がリラックスした瞬間でもあった。

 参加者は、由梨に先導されて舞台へと向かう。由梨は、花道際に立ち、参加者全員が舞台に入るのを見ていた。

 最後の一人は老婆で、杖をつきながら、ゆっくりと花道を歩いていた。

 途中何度も立ち止まり、ぐるりと劇場全体を眺め渡していた。

 少し由梨は、苛立ち焦っていた。一人の遅れは、ツアー全体の遅れにつながる。

 このツアーが本日ラストであれば、そんなに問題ではない。しかし、途中なので、このツアーが遅れると、後のツアー時間にも遅れが生じるのだ。

「お客様」

 ついに由梨は、声掛けした。

「はあ?」

「どうぞ舞台へ」

「ああごめんなさいね。つい昔を思い出して見とれていました」

 客はそれだけ云うと、杖をついて急いだ。

「ごめんなさいね」

 再び客は謝った。

「いえ。昔よく来られたんですか」

「ええ。この都座は、私の故郷でもあるんです」

「故郷ですか」

 客の真意がよく掴めないまま、由梨は(故郷)の言葉を繰り返していた。

「そう、故郷。どんなに世の中が変わっても、この故郷は変わらないで欲しいわ」

「先程説明しましたが、都座は、平成三年、二九年の二回改装しましたが、基本的な造りは、昭和四年建築のままです」

「変わってないわ」

「有難うございます」

 由梨は一礼した。

「変わったのは・・・」

 そこまで云って客は、次の言葉を呑み込んだ。

 その続きを聞きたかったが、次のコーナーが迫っていたので、会話を切り上げた。

 その後、六十人の参加者を三つのグループに分けた。

 奈落へ落ちるセリ組、上へ上がるセリ組、それを見守るグループ。

 それぞれの組で参加者は、由梨の想像以上にリアクションした。

 奈落へ落ちるセリでは、

「面白い」

「何があるの地下は」

 等と、興味深げだった。

「都座の奈落は、二メートル少しと大変浅いです。東京の歌舞伎座は十メートル以上ありますから、大変深いです」

 由梨は補足説明した。上へ上がるセリでは、

「どんどん上がります。約三メートル上がります。頭上見て下さい。いっぱい照明器具が吊ってあるでしょう。熱いですねえ」

 と説明した。

 また、舞台の盆を回す時には、

「この回り舞台。皆さんへりに立って下さい。動画で撮ると、面白いですよ」

 盆が、寸分違わず元の位置に戻ると、参加者から拍手喝采が巻き起こった。

(へえ、世間の人は、こんな事で驚くんだ)

 盆の正確な戻りに対しての参加者の驚きの声に、由梨自身が、大層驚いた。

 最後はメーンイベント。

 完全暗転の中で、参加者に一条のスポットライトが当たるコーナーだった。

 流れ作業でそれぞれスポットライトが当たる。

 多くの参加者は、暗闇から一転、スポットライト当たると、

「うへっ眩しい」

「すごい!」

 等と感嘆の声を上げた。

「皆さん、役者になった気分で。好きな台詞云ってもいいですよ」

 由梨はけしかけた。

 しかし、多くの参加者は、

「目、開けてられない」

 だった。

 最後はあのじっくりと場内を見ていた客だった。

 暗転となる。何かかたんと音がした。

 スポットライトが当たる。その瞬間だった。

「ああ、いとしの君よ!今、あなたはどうしている。今宵の月は、いつもにも増して光り輝いている。しかし、きみの輝きほどではない。一番この世で光り輝いているのは、きみだ」

 と叫んだ。仁王立ちで目をいっぱい大きく開けて両手を広げていた。

 杖は舞台に転がっていた。老婆は、先程までの杖をつく老婆から、スポットライトの光を浴びて、蘇り、生き返り、光り輝く別人に変身していた。

 舞台の明りが元に戻る。由梨ら多くの参加者は呆気に取られていた。

 しばらくして、参加者は拍手を始める。

 その拍手の音で、ようやく由梨は、客の足元に転がっている杖を拾い上げた。

 あの時のかたんと云う音は、杖が足元に転がった音だ。

「鳴滝弥生!」

 舞台袖から醍醐の声で大向こうがかかる。

「鳴滝さん」

 醍醐が拍手しながら舞台へ出て来た。

「お久しぶりです」

「思い出した」

 数人の年配の参加者が弥生を取り囲んだ。

「えっ皆さんこの方をご存じなんですか」

 改めて由梨は弥生を見た。

「きみは知らないと思うけど、鳴滝弥生と云えば、KSKの男役のトップスターだったんだ!」

「KSK?」

 由梨の知らない言葉が醍醐の口から次々と出て来る。

「そう一世を風靡した京都が生んだ最大のレビュー劇団、京都少女歌劇団。略して

 KSK。その劇団のトップスターですよ。伝説、レジェンド・スター鳴滝弥生!」

 醍醐は、幾らか興奮を抑えられず一気にまくし立てた。

「もうやめて下さいな」

 弥生は、元の杖をつく老婆に戻っていた。

「いやあ、今の台詞の抑揚!全然昔とそのままです」

 醍醐が云うと、弥生を取り囲んでいた参加者は一同にうなづいた。

 次のツアーの時間が迫っていたので、それぞれの思いは、ロビーで行われるように由梨は誘導した。

 由梨が一階東側のロビーに立っていると、弥生が展示物の写真を見に来ていた。

 戦前戦後、都座で上演された主な舞台写真、当時のパンフレットが展示されている。

 弥生はじっくりと時間をかけて一つ、一つ食い入るように眺めた。その後ろを醍醐ら往年の弥生ファンが続いた。

「どれもこれも、本当になつかしいわねえ」

 弥生は写真を見つめる。若かりし頃の自分だ。

「さっきは失礼しました」

 近づいて由梨は一礼した。

「何が?」

 弥生が聞き返した。

「せっかくじっくりと場内を見ていらっしゃるのに、せかしましたご無礼をお許し下さい」

「いえ、いいのよ。そりゃああなたのような若い人が、私を知らなくて当然よ」

「でもこうして場内の展示物の写真もあるのに、わからなかったのはすみません」

「何故全然わからなかったのか、当ててみましょうか。若い時と今では容姿が全然違うからでしょう」

 いきなり、こころの中に素手で奥深くまさぐられた感覚を覚えた。そして由梨はその場に立ち尽くした。

「いえ、とんでもない」

「無理しなくていいから。そりゃあ、ん十年経つと、人間はこうなりますよ。好き好んで老いるわけじゃないのよ」

「はい」

「ごめんなさいね。若いあなたに云っても、私のこころの奥底は理解して貰えないけど」

「僕は充分理解してます」

 横から醍醐が、笑みを顔に急速に作り上げて答えた。

「ああ男はいいわねえ。年とっても男のままだから」

 弥生はまじまじと醍醐の顔を観察するかのように、近づいて云った。

「弥生さんを理想の男像として、拝められて、多くの女性から慕われたじゃないですか」

 どこまでもフォローする醍醐だった。

「ああいやだ、いやだ。残酷過ぎる」

 弥生は、自分の若い時の写真の前で、膝から崩れ落ちた。

「弥生さん」

「嵐山さん、救急車だ」

「はい!」

 ワイヤレスシーバーで、緊急事態を案内係全員に報告した。

 案内所から美香が走って来た。

「救急車だ!」

 もう一度醍醐が叫んだ。

 すぐに救急車はやって来た。醍醐と由梨が乗り込んだ。救急車は京都御所病院へ向かった。

(ああ、ここは祖母の病院)

 一瞬あの大文字の送り火の一件を思い出していた。

(北山晴美は、元気にしているのだろうか)

 救急車の中で、すぐに弥生は気を取り直していた。

「大丈夫ですか」

 由梨と醍醐は、弥生を見つめた。

「ああもうこのまま死んだらよかったのに」

 深いため息をつきながら弥生は、つぶやく。

「何を云っているんですか」

 醍醐が少しほほ笑みながら云った。

 軽い目まいだった。念のために経過観察のために一晩泊まる事になった。


 翌日、弥生本人から都座に電話があり、お礼と退院した事を報告してきた。

 由梨は、菓子折りを持って弥生の家を訪ねた。

 京都御所の西側の閑静な住宅の一角にある、町家を改造したグループホームだった。

「もともと、ここは私の家だったの。家を提供する代わりに、このように皆で生活出来るようにしたの」

「へえそうなんですか」

 今は四人が入居している。昼間はヘルパーもやって来るそうだ。

 弥生の部屋は、十畳のリビング、八畳の寝室と六畳の和室、トイレ、風呂の2LDKだった。

 あと、食堂、サロン、談話室、図書室、茶室もあった。今、サロンで話している。

「年行くとね、怖いのよ誰も知られずに死ぬのがね。だからこうしたのよ」

「失礼ですけど、お歳おいくつですか」

「幾つに見える?」

 弥生は由梨の方に顔を向けた。

「さあ、七十歳ぐらいですか」

「あなたやはり都座の案内さんねえ。お世辞が上手いわねえ、有難う。八五歳の婆さんよ」

「全然見えないです」

「またまた、お口べっぴんやこと」

 弥生は髪を染めていなかった。シルバーのままだ。それが美しいのだ。姿勢もよい。これも長年レビューのせいか。

「KSKのお話聞かせて下さい」

「歴史は百年近くあるの。古都千年から見ると、まだまだ歴史は浅いけどね」

 弥生の話によると、戦後進駐軍占領時代、京都で生まれたレビューが一大盛況時代に突入した。

「京都の舞妓、芸妓の日本舞踊にレビューが合体した形は、アメリカ人に絶大な支持を受けたのよ」

 そこまで云って、弥生はアルバムを見せてくれた。

「これが祇園甲部歌舞練場での舞台。まだ進駐軍が占領してた頃よ」

 白黒写真で将校らと一緒に写っていた。弥生は男装だった。

「若い人にはわからないと思うけど、戦争に負けて、戦後日本は、進駐軍つまりアメリカ軍に占領されていたのよ」

「いつの事ですか」

「昭和二十年から昭和二十六年までね。京都は、東京や大阪と違って大規模な空襲がなかったから、街が焼けなかったの。それで、主な建物や劇場が進駐軍によって占領されて管理されてたの。

 都座か祇園甲部歌舞練場かどちらか進駐軍に接収されることになったのね。

 戦争末期、祇園甲部歌舞練場は爆弾造りで、客席がとっぱわれてて、大きな空間になってたの。視察に来た進駐軍幹部は、これを見て、(これならすぐにダンスホールに使える)って云って歌舞練場が接収されることに決まったの。

 だから、戦後すぐから数年間は都をどりは、祇園甲部歌舞練場じゃなくて、都座で行われることになったの」

 軍人にも娯楽が提供される事になった。

「KSKなら、日本舞踊も、洋物ミュージカルも両方出来るからいいじゃないかと云われてねえ」

「それで踊る事になったんですか」

「最初は戸惑いと、嬉しさが混在した複雑な気持ち」

「どうしてですか」

「私も他の人達も、大勢の外国人の前で踊るなんて生まれて初めてでしょう」

「そりゃあ緊張するでしょうねえ」

 由梨は弥生の話を聞いて深くうなづいた。

「そうじゃないのよ。これ話せば、今なら笑い話で済むかもしれないけどねえ。当時はアメリカ人の事を毛唐と云ってまるで怪物扱い。おまけに踊り終わったら、拉致されてアメリカに売り飛ばされるなんて噂が流れてねえ。

 公演前日は、それぞれの家で、最後の晩御飯だなんて、泣き泣き食事したものよ。

 確かに私らは、京都の花街の舞妓、芸妓を守るための身代り的存在だったのよ」

 話はまだまだ続く。

「ところが、ふたを開けたら全然違う。紳士的で熱心に見てくれて、おひねりもある。終わった後はパーティーよ。大きな分厚いステーキ大きさは、大人のわらじぐらいのもの、果物、アイスクリーム、そうそう、この時、生まれて初めてコカ・コーラ飲んだの。まだこの時は、日本に工場なんてないから、本場アメリカ直輸入のコカ・コーラ。何か今の味と違ってもっと濃くて、薬臭かった気がするわ。

 本当に豪華な食事だった。もう竜宮城へ迷い込んだ気分、夢の国へ彷徨い込んだ感じだった」

 目を瞑り弥生は、昔を思い出して堪能していた。

「それからどうなったんですか」

 次第に由梨は、弥生の青春ストーリーに引き込まれて行った。

「もう毎日引っ張りだこよ。歌舞練場、都座、映画館。さっきも云ったけど京都は町が焼けなかったので、映画館が残っていたわねえ。まだ戦後のどさくさで、映画がまだそんなにたくさん作られてなかったから、実演は大歓迎されたのよ。

 アメリカさんの生バンドとも共演した。今で云うところのコラボよね」

「へえ、すごい、すごい!」

「私達ダンサーはアメリカ人にモテモテ。その頃、ダンスホールで踊れる日本人ってほとんどいなかった。沢山のアメリカ人にプロポーズされた。中にはそのまま結婚してアメリカへ渡った人もいた」

「弥生さんは、どうしてアメリカへ行かなかったんですか」

「何故だと思う」

「さあわかりません。教えて下さい」

「アメリカよりもこの京都が好きだったからよ。京都は空襲で焼けなかったから、他の都市の住民よりも悲壮感は少なかったと思うわ」

「そりゃあそうですねえ」

「あと当時アメリカは確かに夢の国だったけど、そこへ行く勇気がなかったのも事実ねえ」

「アメリカへ渡った人達はどうなったんですか」

「戦争花嫁ね」

「戦争花嫁?」

 由梨が生まれて初めて耳にする単語だった。

「そう云うのよ。まさか焼け野原の日本がたった十九年で東京オリンピックを開催して東京、新大阪間新幹線を走らすなんて、誰も想像も出来なかった。

 あんな短期間に復興するなんて誰も思わなかった。だから復興した日本の姿を見て後悔した戦争花嫁もいたと思う。けど私から云わしたら、どちらの選択も間違っていないのよ」

 由梨にとって日本がアメリカと戦争した事や、戦後の話は、明治維新と並ぶくらい遠い過去の歴史の範疇に入る話だ。

「それでKSKは、どうなったんですか」

 やっと由梨は弥生の話を元に戻した。

「戦後段々世の中が落ち着いてきて、アメリカさんも帰ってしまうと、人気が落ちてねえ。京都の劇場をあちこち周ってやってたけど、ホームグランド持たないジプシー劇団は、遅かれ早かれ消滅してしまう運命だったのよ」

「残念ですね」

「私も五十歳まで頑張ったけど、それが限度。引退したわあ。これが都座での引退コンサートよ」

 今度はカラー写真を見せてくれた。男装の麗人が舞台中央で一人歌っている。

 光り輝いている。

「こ、これ、本当に五十歳なんですか!全然見えない!」

「じゃあ幾つに見える」

「ズバリ三十歳です」

「あなた、お上手ねえ、嘘でも嬉しい」

「嘘なんかじゃありません。本当です」

 そこまで話すと弥生は、ぷっつりと話すのをやめた。

 グループホームに静かな時間が戻った。

「ごめんなさいね。私ばかりが話してしまってね」

「いえ、貴重なお話有難うございます」

 由梨は帰る事にした。

「またいつでも来て下さい」

「本当ですか、本当に来てもいいんですか」

 由梨は念押しした。

「私も昔話出来て嬉しいのよ。もうグループホームにいる人間は、もう同じ話を聞きあきたって顔でしょう」

 玄関口に見送りに来た同僚の顔を見ながら弥生は笑った。

「もう耳にタコ出来てます」

「ほらねえ」

「有難うございます」

 由梨は都座に戻り、今出川、衣笠、醍醐に報告した。

「都座でのラスト引退コンサート、私は見ましたよ」

 胸を張って醍醐が云うと

「実は僕も見ました」

 衣笠が小さく手を上げて云った。

「残念ながら、私は見てない」

 今出川が羨ましそうに云った。

「その引退公演のラスト、カーテンコール一時間続いたのを覚えてます」

「ラストは、楽屋に戻らず、そのまま劇場正面から出て行ってねえ」

「当時、この前の四条通りは市電走ってましたが、鳴滝弥生を一目見ようと押し寄せた群衆で市電が立ち止まって大変でした」

「歌い終わってそのまま劇場正面から出て行く演出を初めてやったのは、弥生さんが初めてなんですね」

「そうとも。世間では青春歌謡の船本一夫が最初だと云ってるけどあれは間違い。鳴滝弥生です」

 再び醍醐は胸を張って答えた。

 翌日朝礼後、由梨と和美は美香に呼ばれた。

「もうすぐですね」

 美香が二人に云ったが、由梨も和美も一体何の事か皆目見当つかなかった。

「チーフの誕生日ですか」

 だしぬけに和美が答えた。

「えっ、そうだったんですか」

「幾つになるんですか」

「違うわよ」

 そう云って美香は小さくほほ笑んだ。

「ほらっあなた達が都座に入った時の事を思い出して下さい」

 美香にそこまで云われても、気づかない由梨だった。

「あっ試験!」

 最初に気づいたのは和美だった。

 和美の言葉で由梨もようやく気付いた。

「十二月に行われる都座案内係検定試験の事ですね」

「そう。不合格になってもくびにはしませんから安心してね」

「わかりました」

「それで三級の過去十年間の問題、二人のスマホのメールに送っておいたから」

「はい」

「頑張って勉強してね」

「合格したら、何かご褒美出るんですか」

「はい出ますよ」

「何、何、焼き肉ですか」

 和美はくいついた。

「さあ何でしょうか。お楽しみに」

 さらりと美香は、かわした。

 舞台体験ツアーは、おおむね好評だった。

 ロビーでは馬、籠、舟に実際に乗って写真を撮るコーナーが人気を博した。

 追加施設見学として、楽屋が見学出来た。

 実際に役者が使用していると想定して、入り口に暖簾を掛けて、中は化粧鏡を設置。その両脇には、楽屋見舞いでよく見られるランの鉢植えを置いた。

「こちらが、役者さんの楽屋です。一日の大半をここで過ごします」

 と由梨は説明した。

 見学者のほとんどは、スマホ、デジカメで撮っていた。

 各人のつぶやき、口コミで人気が広まり、始まって一週間もしない内に毎回大賑わいとなった。

 数日後、休日の日、たまたま由梨は、寺町商店街を歩く弥生を見かけた。

「弥生さん!」

「まあ嵐山さん、お久しぶり」

 弥生の案内で二人は、喫茶店に入る。

 チェーン店ではなく、京都に昔からある、老舗で店内はクラシックが流れていた。

「その後、お変わりないですか」

 まず由梨は、ありきたりの質問した。

「もうこの年になると変化のない毎日よ」

「変化は自分で作り出すものでしょう」

 云った瞬間、由梨は少し云い過ぎたと後悔した。

 激怒して弥生が席を立ちあがるのを想像した。

 しかし、弥生はにっこりほほ笑んでからこう云った。

「あなたのような若い人なら、幾らでも自分で変化起こせるでしょうけど、私のような棺桶に片足突っ込んだ婆さんはねえ、もうじたばたせずに、じっと穏やかに静かにお迎えが来るのを待つ方がいいのよ」

 それだけ云うと弥生は、一口コーヒーを飲んだ。

 由梨も聞き終わると同じ様にコーヒーに手をやった。

「確かに変化を自分で見つけるのは大変だと思います。現に私は、今変化が出来ていません」

「あなたと私の大きな決定的な違いが何かわかる?」

 突然、抽象的な質問が弥生から発せられたので、すぐに返答出来なかった。

 由梨の返事を待つ間、弥生は目を閉じて店内に流れるクラシック音楽に身を任せた。

「わかりません」

「おやおやもう白旗ですか」

「じらさないで、教えて下さい」

 由梨はぺこりと頭を下げた。

「ヒント。私にはほとんどなくて、あなたには膨大にあるもの」

「膨大?」

「そう膨大」

「お金でもないしなあ」

 と由梨はつぶやいた。

「お金あれば、最高ね!」

 けらけらと由梨が大笑いした。

「本当にお願いしますから教えて下さい」

 由梨はテーブルに額がごつんと当たるぐらいに、頭を下げた。

「わかったわ。それはねえ、時間」

「時間?」

 再び由梨は弥生の言葉を繰り返した。

「そう時間。あなたは何も焦る事ないのよ。じっくり構えていけばいいのよ。だって五十年後も生きているはずだから。私はあと数年。いや数か月かもしれないわねえ」

 そう云って弥生は、視線を店内の窓のステンドグラスにやるのを由梨は見た。


 翌日、由梨は案内所で一人過去問を見ていた。

「勉強してますね」

 頭上から急に今出川の声がしたので、びくっと由梨は身体を震わした。

「すみません」

「いやこちらこそ、お勉強の邪魔をさせてごめんね」

「とんでもないです支配人」

「十二月の案内検定試験まで、あと二か月ですもんね、焦る気持ちはよくわかります」

「はあ」

「でも焦りは禁物ですぞ。やはりこの都座にいる間は、目の前のお客様に対応して下さい」

 やんわりと説教されたので、余計にこころに響いた。

「はい、支配人すみませんでした」

「いやいや、そんなに頭を下げないで下さい」

「はい」

 客席の扉が開いて、一人の客が案内所に近寄って来た。

「あのう、ちょっとお伺いしたいんですけど」

「はい、何でしょうか」

「何なりとお申し付けください」

 と今出川が答えた。

「今日は、舞台体験ツアー楽しませてくれて有難うございます」

 客は由梨らに対して深々とお辞儀した。

 頭が真っ白で、顔に深々と刻まれた皺が、そのまま人生の片鱗を浮かべ上がらせていた。

(七十歳前後だろうか)と由梨は思った。

「いえこちらこそ、ご来場有難うございました」

「今日はこの後、舞台で何か催しあるんですか」

 と客は尋ねた。

「すみません。今月は舞台はお客様の体験ツアーだけで、催し物はないんです」

「申し訳ございません」

 今出川は、由梨の言葉に続いて深々と頭を下げた。

「ああそうですか。そうやろなあ。舞台使うてたら何も出来しまへんもんなあ」

「そうなんです」

「けど最終回のあとやったら、何か出来しまへんのか」

「はい、その予定がなくて申し訳ございません」

「そらそうやろなあ。今更、大物役者呼んで何か出来るわけないもんなあ。しょうもない事云うてすんまへん。もう私も今年八十五歳になりますねん。冥土の土産に何かええ、ちょっとしたもん見られたらなあと思いましてねえ。

 何せ年金暮らしやよってに、都座の芝居、一万五千円しますやろう。とても手が出へん」

 そこまで喋ると客は立ち去った。

「八十五歳かあ」

 客の後姿を見送りながら今出川がつぶやいた。

「確かにあのお客様の云う通りですねえ。せっかく都座に来て、舞台で何もやらないのは、もったいないですよね」

「確かにね」

「でも支配人、今更役者や歌手を呼ぶのは無理ですねえ」

「ああ大物役者や歌手は土台無理。どこかにいないかなあ、無名でもない。そこそこ名前が知れてる人で、あの八十五歳のお客様を魅了させる芸能人が」

「支配人、今、最後の言葉何て云いましたか」

 由梨は詰問した。

「だ、だから八五歳のお客様を満足させる芸能人です」

 あまりにも由梨の迫力にたじたじの今出川だった。

「います!支配人!」

 由梨は絶叫した。

「どこに!」

 今出川も同様に叫んでいた。


 弥生の家の玄関で、身体を半分に折り曲げて、息をぜいぜいする由梨を見た弥生は、

「まあまあ、そんなに急いでどうしたんでおますか。都座でも燃えたんどすか、まあお入りやす」

「はい」

 息も絶え絶えに、由梨はそれだけ云うのが精一杯だった。

 客間で冷たいお茶を出されて、それを一気に飲み干すと、ようやく由梨は落ち着いた。

「燃えているんは都座じゃなくて、弥生さん、あなた自身です」

 と由梨は声高々に宣言した。

「ちょっと何云うてるか、ようわかりませんけど」

 はんありと落ち着いた弥生の声だった。

「すみません、順序だてて云います。今月、弥生さんリサイタルやりましょう」

「どこで」

「もちろん都座です」

「でも都座は、確か今月は、舞台体験ツアーでお客様を舞台にあげてるでしょう」

「そうです。舞台体験ツアーを早めに終わらせて、その後、弥生さんのリサイタルやるんです」

「あなた、冗談はやめて下さい」

「いえ、冗談ではなくて本気です。すでに支配人の許可が下りてます」

「あのねえ、私は八五歳の婆さんなの。誰が見に来ると云うのですか」

「弥生さんは、世間一般の八五歳じゃないですよ。KSKの男役のトップスターだったんですよ」

 由梨は身を乗り出して、弥生の両肩を揺さぶった。

「それはもう過去のお話」

 やんわりと弥生は、由梨の手を払いのけた。

「その過去がずっと人々のこころの片隅に残っているんですよ」

「その過去はきれいなままで残した方がいいの。現実の今の、私の八五歳の姿を見て、誰が喜ぶと思っているの」

「それはやってみないと、わからないでしょう」

 由梨はしつこく食い下がった。

「世の中にはやらなくても、結果がわかるものがあるの」

「この前お会いした時、私云いましたよね、変化は自分で作るものだと」

「ええお聞きしました。その時私も云いましたよね、年寄りは静かにただ、お迎えが来るのを待つべきだと」

 負けじと弥生も云い返した。

「そんな概念誰が決めたんですか」

「さあ・・・昔からあるの」

「私も弥生さんも今を生きているのよ。だったら今の概念を作りましょうよ」

「どうぞ、あなた一人でお作りなさい」

 ぴしゃりと弥生は云った。どこまでも平行線を辿る二人だった。


 都座に戻った由梨は、応接間で報告した。

 今出川、衣笠、醍醐がいた。

 由梨の報告を受けて今出川がつぶやいた。

「でもまあ最初から、はいわかりましたと率直に返事が貰えると思ってませんから」

 由梨は自分の意見を述べた。

 弥生さんのラストコンサート御覧になったお二方にお聞きしますが、もし仮に都座で今月、弥生さんのコンサートやったら、お客様の入りはどうですか」

「今月ですか」

 衣笠が応接間のカレンダーに目をやる。

「何回やるんですか」

 醍醐が尋ねた。

「もちろん、一夜限りです」

 今出川が答えた。

「今は、フェイスブック、ブログ、ツイッターなどのソーシャルメディアが発達してます。うまくやれば満杯出来ますよ」

 醍醐がにやりと薄笑いを浮かべて返事した。

「その自信はどこにあるんですか」

「そりゃあファンにとったら、見てみたいはずですよ。あの伝説のKSKのスター鳴滝弥生が出るんですから」

 自身を持って今度は衣笠が答えた。

「老いぼれてもですか」

「ええもちろん。その老いぼれが見たいんですよ」

 力強く醍醐が云う。

「生の歌声聴けるのは、かなりのインパクトありますよ、歌の力です」

 衣笠が細かく説明した。

「わかりました。じゃあ明日から我々で彼女を説得に行きましょう」

 語気を強め、奮い立たせる今出川の声だった。


 翌日、由梨と今出川の二人が弥生のグループホームを訪ねた。

「都座の舞台に出るお話でしたら、お帰り下さい」

 出鼻をくじく弥生の言葉を受けて今出川は云った。

「いえ、今日は別の用件で来ました」

 即座に今出川が答えたので、由梨は、

(あれっ、その用件のはずでしたよね)と思った。

 由梨は今出川の顔を見た。片目をつぶって笑った。

「ではお入り下さい」

 由梨と今出川は応接間に通された。

「で、今日は何の用ですか」

「まずはこれを見てください」

 今出川は、パソコンをテーブルの上に置いて素早く起動させた。

「都座で行われた、弥生さんの引退コンサートです」

「よく残っていましたね」

「今と違って、ビデオがそんなに普及してない時代ですもんねえ」

 食い入るように見つめる弥生。

「一体どこで見つけたんですか」

 小声で由梨は聞いた。

「うちの醍醐が持っていたビデオテープをディスクに焼き直しました」

「よく残ってましたね」

 もう一度同じ言葉をつぶやく。

 画面は五十歳の弥生の引退公演を映し出していた。

 とても五十歳とは思えぬ躍動感、瞬発力の身体のしなやかさ。足の速さ。お尻を振り振り、両手を回転させ、舞台を縦横無尽に駆け抜けながら、息切れせずに歌い、踊り切っていた。

 三人は、ただじっと画面に吸い寄せられた。約五十分で終わる。

「人間は何で老いるのかなあ」

 見終わった弥生は、深いため息をついて云った。

「万物、全て老いて消滅なり」

 今出川が棒読みで答えた。

「ああもうこれ以上老いたくない」

「けど時間と老いは待ったなしです」

「支配人はえらい冷たいんですね」

「それが真実です」

「ああ、いやだいやだ」

 弥生は、両手で頭を抱えた。

「今の一瞬を、記録してみてはどうですか」

「したいわよ、毎日でも。でも都座の舞台で演じる、歌うとなると話は違って来る。こんな私の今のぶざまな姿は見せられない」

「ですから、そうでない姿を見せてくれませんか。我々は出来る限りあなたをサポートしますから」

「本当に私出来るのかしら」

 弥生のこころに初めて、小さなろうそくの光のたなびきの揺れを由梨は感じた。

「出来ます」

 きっぱりと由梨は、弥生を凝視しながら宣言する。

「八五歳の死にかけでも」

 弥生は念押しした。

「ええ、死にかけでも!」

 大声で由梨だけ叫んだ。

「嵐山さん」

 今出川が軽く咳払いしてたしなめた。

「すみません」

「弥生さん一人じゃないですよ。私達がついてますから」

「本当に出来るの」

 弥生はもう一度、今出川、由梨の顔を交互に見ながら尋ねた。

「出来ます、我々が一緒です」

 今出川が後押しした。

「でも舞台は私一人でしょう」

「舞台袖で、我々がいつもいます。それに一夜限りです」

「一回でいいのね」

「はい」

「でもお金かかるんでしょう」

「お金の事は心配いりません。切符も全部こちらで売りますから」

「弥生さんやりましょうよ」

 由梨は弥生の手を取った。

「やりましょう」

 その上から今出川の分厚い手が重なった。

 それは、三人の思いが初めて通じた瞬間でもあった。


 今出川を始めとする都座事務所の動きは早かった。

 その日の内に、都座フェイスブックが、

「緊急告知!!

 あの伝説のKSKが帰って来た!!

 あの鳴滝弥生が帰って来た!!」

 と題してアップ!

 都座での記者会見日程も決まった。

 公演日は今月の舞台体験ツアー最終日。午後四時一回公演。

 早刷りチラシもその日に作られた。

 翌日ショーの構成会議が、弥生出席の中で行われた。

 前半がトークと歌。後半が一人芝居と歌。

「へえ、弥生さんってこんなにヒット曲があるんだ」

 スマホで公開された曲名を見ながら由梨は思った。

 ネット社会のいいところは、情報伝達の早さとその膨大な量を一般市民に幅広く提供する事だった。

 情報公開したその日の内に、個人サイトで鳴滝弥生に関するものが無数立ち上がり、ユーチューブで映像が数百アップされた。

「鳴滝弥生」でヤフー、グーグル検索すると数千もの項目が出て来た。

 夜のNHKニュースが報じると民法各局が追随した。

 さらに朝、昼のワイドショーが取り上げ人気は拡散した。


 鳴滝弥生のヒット曲は多数あるが、「愛の輝き」「輝く二人」「二人の誓い」の三部シリーズは取り分けて大ヒット曲である。

 ユーチューブの映像が流れているのは、ほとんどこれら三曲だった。

 都座の電話は鳴りっぱなしとなる。電話応対に案内係も駆り出された。

 切符の販売は、現場の混乱を回避するために、ネット予約のみとして、電話予約、窓口発売を取りやめた。

 ネット予約開始後、十分で完売した。

 記者会見には、マスコミ、新聞雑誌など三百社が殺到した。

 本来都座ロビーで行われる予定だったが、あまりにも多いので急遽、都座の舞台、客席を使用した。

 壇上には真ん中に鳴滝弥生。その両側に今出川、衣笠が座っていた。

「まずは一言、ご挨拶をお願いします」

「ええ、皆さんこんなに大勢お越しくださいまして誠にありがとうございます」

 カメラのフラッシュが一斉に炸裂した。左右、後方の数十台のビデオカメラが作動し始める。

 ハンドマイク持つ手が震えているのが、客席後方で見つめる由梨にも伝わった。

「まず初めにお聞きしますが、何故復活されるのか、その経緯をお願いします」

「それはですねえ」

 弥生は包み隠さず、一連の流れを説明した。その後、今出川が補足説明した。

「私も鳴滝弥生ファンでありまして、舞台体験ツアーに来られたのも、何かの縁と思いまして、復活コンサートを急遽企画しました」

 淀みなく流れる説明だった。

「コンサートはお一人ですか」

「今のところ」

「ではサプライズゲストなんてあるんですか」

「さあどうでしょう。もうこの年ですから、ゲスト呼ぼうにも皆さん死んでますから」

 あっさり、明るく「死んでますから」と弥生が云ったので、客席は明るい笑いに包まれた。

「私、この都座だからやれると思うんです」

「と云いますと?」

 弥生は、客席の大天井の真ん中にある、大きな球形の照明器具を見つめながら云った。

「この都座には、劇場の神様がおられるのよ。その神様が優しくにこやかに寄り添ってくれるから出来るのよ」

 弥生の言葉に誘われて、客席にいた記者大半が、大天井を見上げた。

 カメラクルーも一斉にビデオカメラのレンズを大天井に向けた。

「劇場の神様かあ」

 由梨も同じ様に大天井を見上げながらつぶやいた。

 通し稽古は非公開で行われた。

 醍醐の話では、これは弥生からのたっての希望だったと云う。

「どうして非公開だったんですか」

「お金を出して見に来るお客様がいるのに、前もって一部分にせよ、舞台の映像がテレビに流れて、ただで見せるのは失礼。そう云ったとか」

「恰好いい。あの婆さん中々やるじゃん」

 和美が云った。

「あの人は婆さんなんかじゃない」

 周囲が驚くほど、ぴしゃりと由梨は云い放った。

「確かにな。あんな背筋がピンとした八五歳は、世間にはおれへんなあ」

 通し稽古は、案内係は見られなかった。見ていたのは劇場関係者数人だけだった。

 切符は発売と同時に売り切れ。世間は追加公演を望んだが、弥生は断ったそうだ。


 鳴滝弥生復活コンサート公演当日。この日は舞台体験ツアー千秋楽でもあった。

 昨日より、準備を含めて、ツアー回数を二回減らした。

 夕方四時開演に間に合わせる事が出来た。

 時間の関係で、ロビーの展示物はそのままにされる事になった。

 都座前は、花束やプレゼントの品物を持つ大勢のKSKファンで埋まった。

「お待たせしました。只今より開場します」

 表玄関を開けて、由梨と和美は一礼して切符の半券をもぎる作業を開始した。

 少し年を召しているが、どこか普通人とは違う雰囲気を醸し出す客が大勢いた。

 車椅子の客が介添えなしで来た。

「こちら正面玄関は、階段がありますから、川端通りのスロープをご案内します」

 由梨はもぎり(切符の半券を切る事)を中断して車椅子を押して、四条通りから川端通りへ向かう。

「弥生ちゃんが、復活コンサートやると云うから、東京から来たのよ」

「お知り合いですか」

「KSKの同期。親友。腐れ縁」

「まあそうだったんですか」

「あっ弥生ちゃんの楽屋に行ってくれるかしら」

 車椅子を押して、由梨がスロープを上がろうとした時に客は云った。

「わかりました」

 車椅子をバックして楽屋口に向かう。都座の楽屋口は、段差がある。

 楽屋口係りの貴船陽子に声を掛けると、愛想よく協力して車椅子を一緒に担いで中に引き込んでくれた。

 弥生の楽屋は三階だった。

 丁度、その部屋は八月のジョニーズコンサートの時に、屋上から飛び降り自殺しようとして助けるために使用した楽屋だった。

(あの追っかけしようとした北山晴美さんは、今頃どうしているのだろうか)

 一瞬あの時の光景が、脳裡をかすめた。

 もう遠い昔の出来事だと思ったが、まだ二か月前の事なのだ。

 劇場勤務していると、時間間隔が麻痺して来るのを如実に感じる由梨だった。

「失礼します」

 暖簾をかき分けて、由梨は車椅子を部屋の中に入れた。

「弥生!」

「えっ、宝ヶ池香織!」

 化粧前で、顔の拵え(こしらえ)していた弥生は、くるりと顔を向けてすぐに反応した。

「冥土の土産に、東京から駈けつけました」

 香織は長さ三〇センチほどのステッキを鞄から取り出すと、

「えいっ」

 と掛け声かけて一振りした。

 するとそのステッキは、一メートル以上の長さに伸びた。

「香織、それ魔法の杖よねえ」

 笑いながら弥生が云った。

「ええ魔法使いのばばあです」

 由梨が楽屋を出ようとすると、

「あなたここにいて頂戴」

「あっでも色々とお二人でお話したい事があるんじゃないかと思いまして」

「何も秘密にする話なんてないわよ」

 弥生が弁解した。

「あらそうかしら。あの進駐軍の兵隊さんのラブロマンス」

「まあまあ昔の事よく覚えているわねえ」

「最近の事はすぐ忘れるけど、昔の事はよく覚えているわよ」

「そんなラブロマンスあたんですか」

 由梨は尋ねた。

「もう弥生ちゃんは、年齢偽ってKSKに入ったばかし。祇園甲部の歌舞練場での公演で、進駐軍の兵隊さんから、絶大な支持受けたのよ」

「その中でも、イチジョウジが熱心だったわねえ」

 まるで他人事のように、弥生が答えた。

「ジョウジどうしているのかしら」

「そりゃあもう死んでるでしょう」

「でしょうねえ」

 二人とも、言葉は尻すぼみだった。

 再び由梨は車椅子を押して三階楽屋から、今度はエレベーターで一階へ。

 そのまま押して客席へ案内した。客席番号は五列一五番だった。

「良いお席ですねえ、よく取れましたねえ」

「孫が京都に住んでましてね。ウエノで取ってくれたんです」

(京都の孫がどうして東京の上野でチケット取るのか)

 一瞬由梨はの脳裏は、パニック状態に陥った。

 しかし、次の瞬間、

(ウエノ・・・ウエブ、つまりインターネットで取った)と理解出来た。

 開演時間が迫り、続々と客が押し寄せる。

 同時にチケットを取れなかったファンが、劇場前へ集まって来た。

 この光景を確か二か月前のジョニーズコンサートでも見たと由梨は悟る。

 しかしその熱気、パワーはこちらの方が数倍上だった。

 若い方がパワーが上のはずだ。しかし現実は正反対だった。

(何故だろう)

 答えが見いだせないまま、鳴滝弥生の復活コンサートの開演を迎えようとしていた。

 もぎり業務を終えた由梨は、案内所前に美香といた。一本の内線電話が鳴る。

「はい案内所です」

 美香が取る。

 由梨は、電話の声を聴く美香の顔が急速に曇るのがはっきりした。

「どうしたんですか、チーフ」

「スッポン下で待機していた弥生さんが、急に体調不良を訴えて」

 由梨は、美香の最後の言葉は聞かずにもう走り出していた。

(大丈夫、落ち着け!)

 由梨のこころの叫びは、弥生に対してのものでもあり、自分自身を落ち着ける呪文でもあった。

(スッポン)とは、花道に設置されたセリで、下から上がるものだ。

 由梨が駈けつけると、弥生の周りには今出川、衣笠、醍醐らを始め多数の劇場関係者が取り巻いていた。その人垣をかき分けて由梨は弥生に近づいた。

「大丈夫だから」

 由梨は云った。

 弥生はうっすら目を開けた。

 やや遅れて美香がAEDを持って駈けつけた。

「救急車呼びますから」

 今出川はそう云って、美香に目配せした。

「待って」

 か細い声で弥生が反応した。

「それだけはやめて」

 と言葉を続けた。

「無理しないで下さい」

 由梨は弥生の耳元で囁いた。

「無理するわよ」

 弥生の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。

「宝ヶ池香織が云ってたでしょう。今夜のコンサートを冥土の土産にするって」

「はい、云ってました」

「だから、私、先に死ねないのよ」

 弥生はゆっくりと顔を由梨に向けた。

「ええ、わかってますとも」

「だから、救急車は呼ばないでね、約束よ」

「約束します」

 由梨は弥生の手を握りしめた。

「私も聞きたいです。弥生さんの愛の歌の三部作」

「わかってるわよ」

 ゆっくりと弥生は復調した。

 弥生の体調を考えて、打ち合わせの構成を大幅に変更して、トーク、歌中心で所要時間を短縮する措置が取られた。予定よりも二十分遅れで開演した。

 ゆっくりと客席の明りが落ちて、漆黒の闇に場内が包まれた。

 スッポンから弥生が上がって来た。

 一条のスポットライトが投射され、弥生を包み込み、闇に浮かべさせた。

「皆さん今晩は。鳴滝弥生です」

 拍手の風が、弥生の頬を、顔を身体を通り抜け、場内を覆った。

「この都座にあるスッポンは、普通は人間ではない、妖怪や幽霊が出て来るらしいです。けど、私は幽霊じゃありませんよ、もう少しでそうなりかけました」

 弥生は、率直に開演が遅れた経緯を説明した。

「だから、私、この最後まで歌い終えるまで生きてますから、どうか皆さんも生きていて下さい」

「死ぬまで生きてるよ!」

 三階の大向こう(一番奥の席)から、声援の野次が飛ぶ。

「そりゃあ皆死ぬまで生きてるわよ」

 場内が笑いに包まれた。

「どうか皆さん、自分の隣りの人、動かなくなったら息してるか確認して下さいよ」

 再び場内を笑いが覆う。

「死ぬときは一緒!」

 三階席には元気な応援団がいるようだ。こういう場を和ます野次は大いに結構だと由梨は思った。

「まあ集団で死ぬのだけは、おやめください」

 次第に弥生と客席との即興ジャズセッションのような会話のやり取りで、弥生も観衆も次第に落ち着いて来た。

 決して饒舌でない弥生の語り。それが逆に真実を余計に膨らませた。

(今、八五歳の弥生がいる)

(あの若かった弥生にも、自分と同じように、加齢と老いをまとった一人に人間がいる)

 そう由梨は思った。観客もそう思ったはずだ。

「では次は、私の好きな曲歌います。愛の歌三部作と呼ばれているものです。まずは愛の輝きから」

「待ってました!」

「弥生!」

「弥生ちゃーん」

 再び熱心な三階席の大向こうから掛け声がかかり、客席のあちこちで口笛が鳴った。

 ~~~~ 愛の輝き ~~~~

 ♬

 あなたと    話すとき

 あなたの    声を聴く時

 あなたの    姿を見た時

 私は大きな   幸せに包まれた

 今宵二人で   歌を歌いましょう

 それは愛の輝き 愛の輝き

 その歌声は   遠く地の果てまで

 届くわ     きっと届くわ

 必ず届くでしょう

 ♬


 弥生の歌声は、一瞬にして都座の場内を感動の世界へと導いた。

 今まで由梨は、よく(歌の力)と使いふるされたフレーズを耳にした。

 しかし、それがどんなものかよくわかっていなかった。今は理解出来る。

 弥生の歌声は、由梨のこころの奥底を逡巡と漂い、感動のオーラを作り続けた。

 客席は静まり返る。皆酔っていた。とても八五歳の声とは思えない。

 こうして目を閉じて聞いていると、まるで恥じらう少女のようだ。

 肉体は老いるが、声は努力次第で老いないのかもしれない。

 客席ですすり泣きが聞こえる。きっと昔を思い出しているのだろうか。

 それとも弥生の歌声と共に、各自の人生のフラッシュバックが始まっていたのだろうか。

 客席後方で、由梨は舞台を注視していた。いつまた倒れるかもしれない。

 その緊張感が、客席にも伝わっていたのかもしれない。

 先程の笑いを含んだ野次のやり取りとは、正反対の感動の世界を完璧なままに、わずかな時間で弥生は、自分の声だけで、構築していたのだ。

(これが本当の家だ)

(これが、弥生さんの生きざまなんだ)

(これが歌の力なんだ)

 改めて思い知らされた。

 歌い終えた弥生に場内から、拍手が鳴りやまなかった。

 拍手が収まるまで、弥生はじっと場内を見渡していた。

 一階席、二階席、三階席。

「では二曲め、輝く二人です」


 ~~~~ 輝く二人 ~~~~

 ♬

 世の中で  輝くものは、なあに?

 たくさん  たくさん あります

 太陽の光  月の光 街角の光

 でもね   でもね もっと光り輝くもの

 それはね  それはね

 二人の愛  輝く二人

 その輝きは そのまぶしさは

 太陽にも  負けない

 月にも   街角にも負けない

 あなたも  知っている

 輝く    二人

 輝く    二人

 ♬

 今度はアップテンポの曲だった。場内から手拍子が起きる。

 今まで舞台中央でじっと一歩も動かずにいた弥生が、花道に向かった。花道七・三で立ち止まる。

 花道を挟んだ両側の客席からは、弥生との握手を求める無数の手が伸びた。

「客席前へ行って!」

 ワイヤレスレシーバーから美香の指示が飛んだ。

「はい!」

 由梨は客席通路を走る。多数の客が花道に殺到していた。

「お客様、おやめください」

「握手して何が悪い」

「弥生、こっち向いて」

「弥生ちゃん、こっち、こっち」

 弥生が歌ってても、客は握手を求めた。

 群集心理は、恐ろしいもので寄ってたかって、弥生の手を引っ張る。

 その多数の力で、弥生は花道から客席に落ちようとした。

「あっ、危ない!」

 由梨を始め多数の観客が、同じ言葉を叫んだ。

 弥生は、よろけてまさに客席にダイブしようとした。

 その時だった。

 一人の年老いた外人が、倒れて来た弥生を全身で受け止めた。

「弥生!ドンマイ!」

 と叫んでいた。


 休憩をはさみ、再び幕が開く。

 舞台中央には弥生と今出川が座っていた。二人の間に二人分の席が空いていた。

「皆さん第一部如何でしたか」

 満面の笑みを浮かべて今出川が聞いた。

 場内から拍手の雪崩が起こった。

「有難うございます。私、第二部の司会進行役の都座の支配人の今出川と申します。よろしくお願いいたします」

 再び場内は拍手が巻き起こった。

「さて弥生さん、第一部完走した今の感想を一言」

 今出川がにこやかに弥生に視線を送る。

「もうねえ支配人、今も息も絶え絶えなんです」

「頑張って!」

 間髪入れず、客席から応援の野次が飛ぶ。

「頑張っているわよ」

 さらりと弥生は、野次を打ち返した。

 場内から笑いが昇り立つ。

 この一連の光景を由梨は上手袖で見ていた。

 由梨の隣りにはさっき楽屋に案内した宝ヶ池香織、そしてさきほど、花道からの弥生のダイビングを受け止めた外人の二人がスタンバイしていた。

 この先導役を云い渡されたのは、ほんの三十分前だった。

「さて弥生さん、ここでスペシャルゲストをお呼びしてます」

「誰ですか」

「さあ誰でしょう、この方です。どうぞ」

 力強く今出川が上手を指さす。

 由梨は先頭に立ち歩き出す。続いて宝ヶ池香織、外人。

 三人は舞台中央へ進んだ。そこまで案内すると由梨は再び上手袖に引っ込んだ。

「で、この方誰だかわかりますか」

「ひょっとして同期の宝ヶ池香織さん?」

「弥生、お久しぶり」

 二人はさっき楽屋で会ったのに、まるで初対面の如く、深く抱き合った。

「何年振りですか」

「もう年月忘れた」

「元気?生きてたの」

「しぶとく生きてます!」

「死んでたら、会えないですもんね」

 今出川が、コギャグを挟むが弥生も香織も、全く理解していなかった。

「さてその隣りの外国人の方、誰だかわかりますか」

「さっき、花道際で私を受け止めてくれた人でしょう」

 弥生は呟いた。

「あなたの天然ボケ、久し振りに聞いたわ」

 香織は苦笑した。

「えっどう云う事なのよ香織」

「まだわからないの」

「わからない。教えて」

 そこで香織は外人に目配せした。

「本当に久しぶりです」

 外人は弥生に近づいた。

「誰ですか?」

「イチジョウジです」

「嘘?本当?」

「本当です」

「あなた幾つなの」

「まだ九十歳です」

 場内から笑いが生まれる。

「このジョウジさんは、戦後祇園甲部歌舞練場で弥生さんの歌、踊りを熱心に見てファンになった進駐軍兵士さんだったんです。皆さん暖かい拍手を」

 と云って今出川が率先して拍手を始めた。

 その拍手に誘われて、場内にも拍手の花が満開となった。

「ではここで弥生さん、香織さんのお二人に、あの愛の三部作の一つである、誓いの二人を歌って戴きましょう」

「もうこの曲は、皆さんご存知の通り、三部作の中で一番ヒットした曲です。皆さんもご一緒に歌いましょうよ」

 と香織が場内の観客を扇動した。

 場内から大きな拍手が舞台にいる人達に降り注いだ。


 ~~~~ 誓いの二人 ~~~~

 ♬

 まだ手がかじかむ 寒い夜

 街角の占いの店で 出会った

 その夜お互い   恋人に振られて

 やけ酒をあおる  運命の出会い

 雪が降る     思い出が振る

 何気ない指の感触が 熱い

 やがて      春が来る

 そして運命の出会い

 二人は誓う

 二人は思う

 やっと出会った

 やっと気づいた

 永遠の誓い

 ずっと幸せにいようねと

 誓う 誓う 誓う

 二人だった

 ♬


 二人は歌いながら今度は客席に降りた。

 いつしか客席も大合唱を初めていた。

 舞台袖でじっと見つめていた由梨は思った。

(私達世代があの年になった時、果たしてあんなに大合唱出来る歌があるのだろうか)

(今の歌は、一部のファンだけのもので万人を巻き込む感動歌は存在しない)


 カーテンコールは、二十回に及んだ。

「もうこれが最後。でないと死にます」

 これが決めの言葉でやっとカーテンコールは終わった。

 上手袖に引き上げて来た弥生は、由梨に抱きかかえられた。

「お疲れ様でした」

「嵐山さん有難う」

「いえこちらこそ弥生さん、たくさんの感動を有難うございます」

 由梨は深々とお辞儀した。

「何よ、他人行儀みたい」

「私、歌を聞いて感動したの初めてなんです」

「弥生さん、よかったねえ」

 イチジョウジが云った。

「有難うございます。イチジョウジさん。で、質問があります。皆さんに」

 意を決して由梨は発言した。

「何ですか」

「ジョウジと云うのは名前だとわかります。そのイチと云うのは、どう云う意味ですか」

「それはねえ、当時歌舞練場にいた進駐軍でジョウジと云うのが三人いたの」

「そのうち、一番私たちのお気に入りが、このイチジョウジだったわけ」

 代わる代わる弥生と香織が説明した。

「イチバン!ジョウジ!」

 と云ってジョウジは右手を高々と突き上げた。

 その光景を。由梨は茫然と見つめていた。



























































































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