第10話 幕間5 着到盤作り

 京都で冬の風物詩と云えば二つある。

 一つは四条大橋に飛来するユリカモメ。別名都鳥とも呼ばれている白い鳥だ。

 そして二つ目は都座で行われる「吉例顔見世歌舞伎興行」である。

 この歌舞伎興行は、京都市民にとっては、単なる芝居ではなくて生活の一部。常識の一部なのだ。だから芝居に興味がない人でも今年は誰が出るのか。有名な出し物とかは知っている。

「顔見世」は俳句の世界でも、冬の季語として定着している。

 顔見世は、祇園祭と同じく一か月にわたる祭りなのだ。その準備期間を含めると二か月は、ゆうに越える。

 毎年九月の下旬、まだ残暑が厳しい折に、演目が発表される。

 由梨も今年の演目は、都新聞で知った。

「鯛蔵さん出はるんやあ」

 居間でつぶやいた。

「若いのに、えらい出世や」

「そらあ蹴田屋のぼんぼんやから」

 由梨の母が答えた。

(すると蛸蔵さんも来る)

 心中穏やかならぬ、一陣の風がこころの中で巻き起こった。

(ちょっと嫌だなあ)

 と思いつつ、一方で会いたいと云う、相反する矛盾したこころの葛藤が芽生えていた。

 京都の人にとって顔見世は、単なる一か月の歌舞伎興行ではなかった。

 昔は顔見世を見るために、毎月積み立てをしていたらしい。今も昔も切符代は高い。さらに顔見世を見るために新しい着物、帯、下駄なども買いそろえるのである。

 京都人はケチだと云われるが、ハレの舞台には、お金を惜しまない。

 顔見世を見るために晴着をこさえる。

 そんな人が、昔は仰山いたが、今ではほとんど晴着を着る人は少なくなった。

 由梨は、美香から顔見世に関して様々な知識を貰った。

 顔見世は十一月三十日初日を迎えるまでに、様々な行事や雑事が控えていた。

 その中でも、まねき書きは多くのマスコミ関係者を呼んで宣伝にもなった。

 まねきとは劇場正面の上に掲げられる、高さ約百八十センチの長方形の桧の板で勘亭流と云う特殊な字体で役者の名前が書かれる。

 まねき上げの行事は十一月二十五日である。

 もう一つある。梵天(ぼんてん)造りである。

 梵天とは、劇場正面のてっぺん上部の櫓幕(やぐらまく)の両側に掲げられる二つの竹と紙で出来たものである。

 梵天には、劇場の神様が降臨されると云われている。

 太い竹の先に、和紙で三角錐の筒を作り、それを押し込んで行く。最終的には先がタンポポの花のようになる。その作業は地下の機関室で行われる。


 由梨は案内控室のゴミを捨てようと機関室に向かった。

 この通路は、ジョニーズ公演の時(7話参照)下鴨君と一緒に通った所だ。あれ以来ジョニーズの活躍と人気はさらに高まった。

 梵天造りをやっている横で百万遍が黙々と何やら作業をしていた。

「百万遍さん、何をしているんですか」

「みてわからんか。顔見世に備えて新しい着到盤をこさえているんや」

 着到盤とは、楽屋口の頭取部屋の前に置かれる役者の出勤簿のようなものだ。

 木で出来ていて、達筆な墨文字で役者の名前が書かれている。

 役者の名前の上には、穴が空いている。楽屋入りした役者は、小豆色の着到棒をその穴に刺すのだ。帰る時は、穴から着到棒を外す。

 それを見て頭取は、役者の楽屋入りを確認するのだ。

 百万遍は、カンナで薄く表面を削り、新品同様のものとする。一枚の桧の着到盤は高価なものなので、削る事で再利用するのだ。まねき板も同様である。

 頭取が劇場入りすると、この新しい着到盤に墨文字で役者の名前を書いて行く。

 右端はには「當ル〇〇歳顔見世狂言」と書かれる。〇〇には、来年の干支の名前が書かれる。左端には「千穐萬歳大入叶」と書かれる。

 一番下には、鳴り物の人の名前も書かれる。

「これ作るとなあ、さばきくれるんや」

「さばきって何ですか」

「嵐山さん、あんた劇場勤めの案内さんやのにさばきも知らんのか」

「すみません」

「都座に入って何年や」

「今年の四月です」

「へえまだ一年経ってないんか。わしはもうあんた二年ぐらいおると思うてた」

「で、さばきの意味教えて下さい」

「まあ祝儀の一種でな。本来の業務とは違う事をした人に対してのもの」

「有難うございます。勉強になりました」

「そうやろう。年寄りと話したら勉強になるんや」

「ところで奥さんはその後どうですか」

 百万遍の奥さんは軽い認知症を患っている。

 七月の四条エリ公演(5話参照)では、プレゼントコーナーの時に、

「私がファン第一号!」

 と叫んだ。

「四条エリ公演見て、あいつ元気でよってなあ」

「そりゃあよかったですねえ」

「ああ。まあ一時の事や。次第に病状は進むらしいんや」

 百万遍は真面目な顔を由梨に投げかけた。

「百万遍さん、暗いのは駄目ですよ」

 由梨はわざとらしく大きな声を上げた。

「そうやったなあ」

「来月のクリスマスプレゼントは、もう考えているんですか」

「さあそれやがな。毎年それで悩むんや。あんたは彼氏に何を贈るんや」

「彼氏なんかいません」

「まだ若いのに、そりゃあ寂しいなあ」

「寂しくなんかないです」

 と即座に否定した由梨だったが、内心は寂しさとそれを否定するせめぎあいが、葛藤していた。








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