第7話 劇場ことば4 口番と追っかけ

 都座は、十二月の顔見世歌舞伎興行が、世間一般に知れ渡っているので、歌舞伎を年中行われているイメージが圧倒的に強い。

 どんな観光ガイドブックを見ても、都座のページは、歌舞伎の舞台写真や、十二月の顔見世の時の劇場正面に掲げられる役者の名前が書かれたまねき看板等の写真が掲載されている。

 しかし年間を通じて歌舞伎公演が行われるのは、顔見世を入れて多くて三か月か四か月くらいだ。

 東京歌舞伎座なら、年中歌舞伎だが、そこが大きく違うところだ。

 八月は夏休み特別企画「ジョニーズコンサート」

 今大人気のアイドルグループで、初の都座公演である。

 キャパ(収容人員)が千人しか入らない都座で公演をやるのは、かなり採算が悪い。ドームコンサートなら一回で五万人集められる。

「京都の伝統の劇場でやりたい」

 ジョニーズ事務所の九条社長の強い希望で実現した。

 また、変わらないのが毎月八日の月次祭(つきなみさい)だ。

 これは都座の屋上に設置されているお社に、お参りする行事だ。

 近くの八坂神社から神主を呼んで、その月の興行の大入りと舞台安全を祈願するものだ。

 通常今出川支配人、衣笠副支配人、業務の醍醐の三人が参列する。

 この月次祭に、九条が、

「うちのメンバーのリーダー下鴨大地も参加させたい」

 と云い出した。

 月参りのために、楽屋口番の貴船陽子の指導のもと、由梨ら案内係も準備に追われた。

 お社にお供えする供物、つまりお酒、野菜の購入に始まり、屋上の掃除があった。

 都座のある鴨川沿いは景観風致地区に指定され、高さ制限があり、都座より高いビルはない。

 マスコミ関係者を特定してこの下鴨のお参りを写真に撮らせて宣伝すると云うのも九条社長のアイデア。

 すでにチケットは、全期間ファンクラブで完売していた。

 競争率は二百倍。五千円のチケットがネット上で五十万円で取引されていた。

 準備、片付けが終わる。

 案内係が、美香と由梨、和美だけになった時に、今出川支配人らが九条社長を連れてやって来た。

「君らは」

 由梨らを見て九条が云った。

「うちの案内係で、月参りの準備をやってました」

 衣笠副支配人が説明した。

「じゃあこの際、案内さんも参加したら」

 と云った。

「ラッキー」

 和美が小さくピースサインした。

 その時、屋上のへりの向こう側、つまり何もない所から、スパイダーマンのようによじ登って、ぬっと清掃主任の烏丸が顔を出したので、由梨らは驚いた。

「どうしたんんですか、烏丸さん」

「いやあ鳩除けネットを張っていたんです」

「鳩除けネットですか」

 由梨は繰り返した。

「そうです。最新鋭のネットです。かなり丈夫です」

「例え、人が落ちても破れないんですか」

「さあどうやろう。でも私がこの手で確認したところでは、落ちない、破れないと思います」

「まあここから人が落ちるはずがありませんものね」

「さあどうでしょうかねえ。想定外の事が起きるのが劇場ですから」

「まあ烏丸さん、驚かせないで下さい」

「でもきっと都座の劇場の神様が、助けて下さいますよ」

 由梨らは、身体を乗り出して、屋上のへりから下を見た。

 緑色のネットが夏の風で揺れている。

 向かい側の鴨川の川面には、白いきらめく夏の光が幾つも乱反射していた。

 岸辺では、鮎釣りの人の姿が見受けられた。

「見て下さい。壁面左右に鉄の梯子が設置されています。もし火事などで屋上から下へ避難する時は、この鉄梯子を利用します」

「それも想定外を見越しての処置ですね」

「はい。でも劇場はやはり神様が守りますよ。特にこの都座はね」

「だったら、きちんとこころ深くお参りしないとね」

「はい。私も後方で参列します」

 と云って烏丸は、後方へ行く。

 八坂神社の宮司が祝詞(のりと)を上げ始める。由梨らも最後尾で見守る。

 初めてまじかで下鴨を見た。

 身長は百八十センチ近くあり、かなり細い。

 髪の毛は天然なのか、やや茶色がかっていた。

 顔色は八月だと云うのに、白い。化粧してるかのようだ。口紅は塗っているように見られた。三十分ばかしで終わった。再び撤収が始まる。

 片付けを終えて由梨らが案内所に戻り、月参りに下鴨と一緒に参列した事を云うと、他の案内係からは、

「ずるい!」

 と云われた。

「残っててよかった」

 和美は云った。

「私も見たかった」

 口々に不満が出た。

「今から二階席で見ますよ」

 美香の声で、案内係は移動した。

 案内係は、毎月次の公演のゲネプロ(通し稽古)を二階客席で見る。

 醍醐がやって来た。

「ジョニーズ事務所からのお達しで、稽古を見る人はこれをつけてくれと」

「何ですか」

 美香が尋ねた。

「向こうが用意したワッペンや」

「何でこんな事するんですか」

「東京で実際にあった話なんだがね」

 醍醐が話し始めた。

 一般の熱狂的ファンが、どこでどう入手したのか、案内係の制服を着て楽屋まで入って来たようや」

「何それ!」

「うそー」

「怖い!」

「それってやばくない?」

 案内係が口々に云った。

 ワッペンに通し番号がふられていた。

 醍醐は一人ずつ手渡しながら、案内係の名前とワッペンの番号が書かれたメモを作成した。

「これをジョニーズ事務所に提出するんや」

「徹底してますね」

「ああ、スタッフに渡す台本も全て番号がふってあって、もしネットで出回る事があってもわかるそうや」

 明日から二週間の公演である。

 コンサート形式だが、せっかくの都座で公演するんだからと、途中で芝居を入れて、花道も使用していた。

 翌日公演が始まる。

 通常の公演と違うのは、ご来場のお客様の荷物チェックだった。

 カメラ、ビデオはお預かりした。

 スマホなどの携帯電話はよかったので、ザルチェックと呼ばれていた。

 コンサートで使用する団扇の大きさも決まっていた。

 かなり大きなものは、やはり他のお客様の迷惑になるので、お預かりしていた。

 一晩徹夜で作った特製の団扇を没収されて泣き出す客もいた。

 まず手荷物検査で積極的にデジカメを差し出す客は、怪しい。

「これは、おとりなんよねえ」

 美香が云っていた。

「つまり、もう一台あるって事ですね」

 と由梨は聞いた。

「そう。それも巧妙な手口でね」

 からの菓子箱の中にカメラを仕込んでいるのだ。

 幾ら手荷物検査を実施しても、盗撮はなくならない。その映像がユーチューブなどで公開されている。もし盗撮が見つかれば、カメラ没収とジョニーズ会員永久追放が待ち受けている。

「でもある程度の、抑止力になるから」

 九条社長の云い分だった。

 手荷物検査で、労力がいるが、その代わり彼女らは、いちいち席に案内する必要がなかった。

 何故か時間に余裕があるのに、席まで走り出す。

 そして、すぐに都座限定グッズ販売まで走り出す。

 東側ロビーに特設売り場を設けていた。

 一番売れるのが都座特製パンフレットだった。

 由梨も販売に駆り出されていた。来る客、来る客が、口を揃えたように、

「三部下さい」

 と云う。

「何故三部なのですか」

 疑問が生じて由梨は客に聞いた。

「一つは完全保存版。後の二部は切り抜き用で、表裏切り抜きがあるから、二部いるの」

 客は親切に教えてくれた。

「なるほどね」

 ファンの熱い思いを垣間見た気がした。

 コンサートが始まる。

 最初から立ち上がる。

 しかし途中で芝居が始まると一斉に座る。

 音楽が始まると再び立つ。

 これも正確にまるで稽古したかのように、全員揃っているのだ。

「何でこれって揃っているんかなあ」

「ファンクラブのお達しらしいよ」

 和美が教えてくれた。

 あの祇園祭の屛風飾りで見かけた蛸蔵の一件以来、由梨は和美とは一定の距離を置くようになった。

 何だか気まづくて自分から離れていた。

 大音響の中、千人の客が総立ちとなり、歓声を上げる。

 その光景を由梨は、後方の客席から見ているが、自分だけ一人取り残されてた疎外感を感じた。

 激しいリズム、激しい動作。

 口パク(歌はテープで実際には歌っていない事)

 ネット上では、公然の事として容認されている。

(口パクで何が悪い)

(あんな激しい踊りをしながら、歌えるわけないだろう)

 ファンも認めているのだ。

(今の私のこころも口パクかもしれない)と由梨は思った。

 自分が今、自分の口から話す。

 しかし、こころは、どこか違うところを彷徨っているようなものだ。離脱している。それが耐えられなくてロビーに出てしゃがみこんだ。

「大丈夫、嵐山さん」

 すぐに美香が案内所から走って来た。

 和美がドアを開けて走って来た。

 自分が具合悪くて、心配して和美はやって来たのだと由梨は思った。

 しかし、違っていた。

「チーフ、お客様が倒れています」

「すぐ行きます」

「私も行きます」

 ふらふらと立ち上がる由梨。

「あなたはここにいなさい」

 いつになくきつい命令口調だ。

 数分後、ファンの一人を、美香、和美の二人が両側を抱えて出て来た。

 美香が救急車を呼ぶ声が由梨に入って来た。

「嵐山さん、控室で休んできたら」

「いえ、もう大丈夫です」

「じゃあ中に入らず、案内所につめて」

「わかりました」

 救急車が到着した。

 隊員は、

「過呼吸症候群やね」

 由梨の前で、女の子はけいれんを起こしている。

「ビニール袋ありますか」

 隊員が美香に聞いた。

「コンビニ袋でもいいですか」

「ええそれで結構です」

 美香が一枚渡すと、隊員は女の子の口元に被せた。

「必要以上に酸素を取り込んでいるんで、こうして二酸化炭素を取り入れてやるんです。はい、ゆっくりと深呼吸して」

 隊員は、背中を摩る。けいれんが徐々に収まる。

「コンサート会場でよく起きる事例です」

 女の子は、冷静さを取り戻した。

「じゃあ、救急車乗りますか」

「それだけは、いや!」

 かたくなに拒否した。

「何かあったらあかんから、念のために乗る?」

 柔らかく美香が聞く。

「ジョニーズの下鴨君、見られないんやったら、死ぬ!」

 と突如、大きく泣き叫んで絶叫した。

「死んだら見られへんやろう」

 笑いながら隊員は云った。

 釣られて由梨も笑って反応した。

 折衷案として、客席後方で見る。具合が悪くなったら出る。と云う事で、救急車には乗らなかった。

「どうもすみません。お騒がせしました」

 美香が云って、頭を下げ、由梨も同じ仕草をした。

 当の女の子は、すでに気持ちはドアの向こうのステージに行っていた。その証拠に視線はずっとドアの方だ。

「いえ、よくなったよかったです。まあカラはよくありますから、気にしないで下さい」

 隊員は、悪びれた様子をまったく見せなかった。

 由梨は、余程

「代わりに私乗せて下さい」

 と何度も云おうとした。

 でもそれは、いくら何でも無茶だ。

「代わりに嵐山さん、乗る?」

 まるで、由梨のこころの中を見透かしたかのような美香の言葉に、ぞくっとした。

「いえ、大丈夫です、チーフ」

 手を顔の前で激しく振って否定した。

「どうしはったんですか」

「ええ、ちょっとめまいがしたかなあ」

 美香が代わりに答えた。

「慣れない大音響の中にいて、気分悪くするスタッフもいるみたいです」

「そうなんですか」

「百キンで売ってる耳栓してみるといいですよ」

 的確なアドバイスを残して、隊員は、去って行った。

 美香に連れられて、女の子は再びドアを開けて中に入った。

 気を取り直して、由梨は初日二回目、夜の部を見守る。

 ラスト近くは、案内所で美香を待機していた。

 今回の公演では、遠方からスーツケース持参で来る客がいる。それを案内所で預かる。

 終演後引き取りに来る客が殺到するので、最低二人はいるのだ。

 二人は、ドアの向こうから聞こえる音楽を聴いていた。

「蛸蔵さん、何で和美と一緒やったんかなあ」

 美香が口火を切る。

「あっ、チーフ誤解しないで下さい」

 慌てて由梨は弁解した。

「私、何も思ってないですから」

「蛸蔵さんから、メールか電話来たの」

「無視無視ですから」

 へらへらと笑った。じっと見つめる美香。

(美香には、本心を見られれているかも)少しドギマギした。

 醍醐が衣笠副支配人とやって来た。

「困ったなあ」

「どうしたんですか」

 由梨は尋ねた。

「出待ちのファンが、半端じゃない数でね」

 衣笠副支配人が云う。

 由梨と美香は、正面玄関をドアの中から見た。

 すでにぎっしり、窓に張り付くヤモリのように、ドアに身体を密着させたファンがこちらを見ていた。

「何ですか、これは」

「三回目の公演があるみたいやねえ」

 悠長な声で美香が反応した。

「楽屋口の方はさらに酷い事になっててねえ」

 醍醐が懐から携帯パッドを取り出して、起動させた。館内の監視カメラと連動していた。

 画面には、楽屋口を取り囲むファンの姿が映し出された。

 楽屋口の川端通りの歩道は、出待ちファンの人々で一般通行出来ない、完全に封鎖されていた。

「いやあ、ここもいっぱいだねえ」

 ひと際大きな陽気な声がロビーに広がる。全員が声の主を注視した。九条社長だ。

「関西の、いや京都のファンは熱いねえ」

 九条の声は、醍醐らと対照的に、この出待ち騒動をどこか楽しんでいるような、はしゃぎ気味の声だった。

「九条社長どうしますか」

 衣笠の声は幾分硬かった。

「さっき僕は、連中を正面玄関から出せと云ったよねえ」

「四条通りに面していて、祇園に近いこの都座は、待ち合わせのスポットでもあるんです」

「確かに多いなあ」

「万の悪い事に、今日は土曜日です」

「だからこの人混みなんだ」

「結論から申し上げます。この状態で今見ている千人のお客様が出たら出待ちは、さらに増えます。その中をジョニーズが出て来たら、もうパニック、一般市民を巻き添えにした事故が起きます」

「だからやめろと」

「そう云う事です」

「でもねえ、それがまた人気のステップになるんだなあ。きっとそのうちの何人かがツイッター、フェイスブック、ブログに取り上げて、ユーチューブに画像アップするだろう。それがまた人気に火をつけるんだよ」

 勝ち誇ったかのように、九条社長がひとり、大笑いした。

「でも事故が起きれば、公演は中止になりますよ」

 その笑いに水さす感じで衣笠副支配人が冷たく云い放った。

「何それ!私に対する脅しかね、衣笠さん」

 九条と衣笠副支配人が向かい合った。

「じゃあ代案を出したまえ」

「代案ですか」

 とここまで云って、衣笠副支配人が言葉を詰まらせた。

「正面玄関もダメ!楽屋口もダメ!だったらジョニーズはどこから出すんですか!」

 九条社長が吠えた。

「地下事務所から出すというのはどうでしょうか」

 一つ醍醐が提案した。都座の地下事務所は、京阪電車祇園四条駅と直結している。

 地下事務と云うが、実際は半地下である。

「すみません、地下事務所前も人が溢れていますねえ」

 醍醐がパッドの画面を切り替えながら答えた。

 画面が切り替わり、地下事務所前になる。地下階段の往来を妨げる人数だ。

「こっちもダメみたいですねえ」

「まさに八方ふさがりってこの事か」

 この時、清掃の烏丸が、ちらっとこちらを見てすぐにゴミ袋を持って降りて行った。由梨はそこで、はっと気づいた。

「あのう、よろしいでしょうか」

 恐る恐る由梨は云った。

「何だね」

 衣笠副支配人が睨んだ。

「都座のゴミ搬出口から出すのは、どうでしょうか」

「そうかあ、その手があったか」

 醍醐が思わず手を叩いた。

「でもアイドルをゴミ搬出口から出すのは、どうかと思いますよ、ねえ九条社長」

 さっきの対立が嘘のように、衣笠副支配人が九条社長に同意を求めた。

「いや、面白い発想だな、嵐山さん。愉快愉快」

 九条社長は、由梨の胸のプレートを見ながら云った。

「でしょう」

 由梨は胸を張った。完全復活していた。

「どうせやるんだったら、作業員の恰好させて、堂々とゴミを背負って出て来てゴミ収集車に乗り込ますんだ。本物のゴミ収集車走らせてね」

 満面の笑みを浮かべて九条がアイデアを披露した。

「でもゴミ収集車は、助手席しか空いてないです。ジョニーズのメンバーは五人でしょう、後の四人は車に乗れません」

 どこまでも沈着冷静な衣笠副支配人だった。

「一番人気の下鴨だけ乗せればいいよ」

「じゃあ後の四人は」

「同じ作業員の恰好させてタクシーに乗せればいい」

「しかし、都座のゴミ搬出口は、大和大路と云って北行きの一方通行でゴミ収集車は一時停車出来ても、タクシーは無理です」

 冷静な分析を続ける衣笠副支配人だった。

「じゃあ四条通りまで歩かせよう。歩いても知れてるだろう、何メートルぐらい」

 九条が聞いた。

「おそらく十メートルもないはずです」

 パッド画面をグーグルマップに切り替え、スクロールしながら醍醐が答えた。

「じゃあすぐに、ゴミ収集車の用意。それと作業員の制服の用意」

「ゴミ収集車の手配して来ます」

 醍醐が走って地下事務所へ向かった。

「作業員の制服なら、今取り揃え出来ます」

 今まで黙って柱の陰で聞いていた烏丸がひょっこり顔を覗かせた。

「烏丸さん、聞いていたんですか」

 由梨が叫んだ。

「すみません、ちょっと気になったもんですから」

「よし作戦は決まった!都座脱出作戦決行だ!助手席には、嵐山さんも乗ってよ」

 力強く九条が宣言した。

「でも助手席は、一人しか乗れません」

「なあに、小柄な君なら大丈夫。ホテルで作業服の回収もあるし」

「じゃあ後ろからタクシーで追いかけましょう」

「いいや、一緒のほうがいい。その方がごまかせられる」

 九条は、どこまでも下鴨と由梨の同乗を願った。

 衣笠は、マネージャーと一緒ならどうかとしつこく食い下がったが却下された。

 終演前、烏丸の手配した清掃作業服に着替えた由梨は、烏丸と二人で機関室で待った。

 すでに烏丸が作ったダミーのゴミ袋も用意された。

「人気アイドルも大変ですね」

 烏丸が云う。

 ここは機関室なので、機械の音がうるさくて、コンサートの音楽は、ほとんど聞こえなかった。

「私もそう思います」

「今日はここから抜け出せますが、明日からどうするんでしょうねえ」

 ぼそっと烏丸がつぶやいた。

「確かにそう。事務所の人達は、今日の事ばかりで、明日の事なんか、一言も云ってませんでした」

「明日は明日の風が吹くと行きますか」

「それもそうねえ」

 ネットの急速な発達でリアルタイムで、情報が流れた。

 ツイッターやブログ、フェイスブックには楽屋口、地下事務所前、劇場正面玄関前にそれぞれ出待ちのファンが詰めかけて、各々の場所から情報を発信して共有していた。張り込み刑事顔負けのネットワークである。

(本日初日。ジョニーズは楽屋口から出て来るか)

(混乱避けて、地下事務所から京阪電車で移動するんじゃないの)

(ジョニーズ見たさにおけいはんも、走る!)

(ジョニーズが京阪電車乗れば、余計混乱招くんじゃないの)

(正々堂々、ラスト音楽歌いながら、劇場正面から出て行く)

(そのネタ、船本一夫歌手がやりました)

(出て来ない)

(じゃあ、どこで寝泊まり?)

(楽屋でずっと寝てる)

(まさかあ!)

(いや、ありうるかも)

 ネット上では、出待ちファンのだべりで大盛り上がりしていた。

 さらに都座の劇場構造をネットで出しているサイトまであった。

「やばいなあ」

 と由梨はつぶやいた。

 今の所、ゴミ搬出口に気づいたファンはいないようだ。しかしこれも時間の問題と見られた。

「お待たせえ」

 醍醐がやって来た。

「大型で、三人なら悠々と座れるそうだよ」

「じゃあ他のメンバーさん座りますか」

「その必要はない」

 後ろから九条がすでに作業服に着替えてやって来た。

「九条社長、その恰好は」

「似合うかね」

「はあ、まあそのう」

 由梨は言葉を濁した。

 続いて今出川支配人、衣笠副支配人も顔を揃えた。皆作業服だった。

「どうしたんですか、皆さんお揃いで」

「だってゴミ搬出口から背広来た人間がぞろぞろ出て来るのも変だろう。私の提案だよ」

 九条が笑った。他の者もそれに続いて笑うが引きつっていた。

 ゴミ搬出口の道路、大和大路と四条通りが交わるところの信号は、待ち時間は五十秒だった。ゴミを出すタイミングを遅くしてもせいぜい一分だ。

「出来るだけ早くしよう」

 やがてコンサートを済ませたジョニーズが、やって来た。

 汗だくの上に作業服だからさらに汗を噴き出す。

「嵐山さん、超可愛い」

 下鴨が必要以上に叫んだ。

「下鴨の彼女?」

「そう俺の彼女」

 笑いながら下鴨が軽く肩を組んだ。

 瞬間、由梨の身体がびくっと震えた。

 例えギャグにしても、今をときめく、人気絶頂のアイドルから、肩を組まれたのは、やはりどきっとする。もしこんな所をファンに見つかればリンチだろう。

 九条は作業服姿の彼らを盛んにカメラに撮っていた。

「社長、ネットに出さないでよ」

「いや、出すかも」

「やめて!超やばい!」

「ダサい!社長それだけはやめて!」

 九条社長の(アイドルうら・おもて)は、人気のブログだった。英語に堪能な九条は英語バージョンも併設していた。そのため、世界から毎日一億ものアクセスがあった。一枚もアイドルの写真は載せていないのにだ。

 ただ、下鴨が食べ残したカップ麺と題したコラムを掲載すると、翌日全国のコンビニから、その麺が売り切れてなくなる。外国ではアマゾンで注文が殺到する。

 強力な威力を発揮する。

「お待たせしました。まもなくゴミ収集車来ます」

醍醐が片手にワイヤレスレシーバーを持ち、表の様子を映し出すパッドの画面を見ていた。

 ゆっくりと鉄の観音扉を開ける。

 ゴミ収集車が止まる。目の前の信号が赤になる。ジョニーズの面々が出る。

 由梨と下鴨が助手席に座る。

 他のメンバーは、今出川、衣笠に守られながら、四条通りに停車中のワゴン車目がけて走り出す。

 信号が青に変わる。

 ゆっくりとゴミ収集車が走り出す。直進!

「明日からこのネタ使えないよ」

 下鴨も同じ事を云った。

 ふと見ると四条通りの劇場正面から、こちらに走って来るファンが見えた。

「逃げも隠れもせずに、堂々と出たらどうですか」

 率直な感想を述べた。

「嵐山さん、醒めてるねえ」

「そうですか」

「ひょっとして、ジョニーズはお嫌いですか。いやアイドルが嫌いなのかなあ」

 じろっと下鴨がほほ笑みながら睨んだ。

「嫌いでも好きでもありません」

「そうだよねえ。劇場の案内係が、毎月変わる出し物のタレントや役者を好きになっていたら、身体が持ちませんよね」

 由梨は、一瞬蛸蔵の姿が思い浮かんだが、

「ええそんなもんです」

 あやふやな答えを出した。

「結局さあ、こんなにまいたところで、俺の泊まるホテルを知ってるファンがいてさあ、そいつも同じ期間、泊まってやがるの」

「もうファンじゃなくて、ストーカーですね」

「ホテル側も、客だから出て行ってくれと云えないしねえ」

「ホテルで、彼女らは何をしているんですか」

「さあ。俺達の姿を廊下で見張ってるくせに、鉢合わせしたら、慌てて自分の部屋に逃げ込むんだぜ」

「きっと驚いたんでしょうねえ」

 ゴミ収集車は、北上して三条通りに出て、東へ進む。

「まださあ、正面きってさあ、ジョニーズの大ファンです。サインして下さいって云われる方がいいと思うよ」

「それもそうですねえ」

「デビューしたての頃だったかなあ」

 下鴨が、前方に視線を移しながら話し始めた。

 ある地方会館の楽屋の事だった。

 メンバーと談笑してたら、片隅のロッカーの下から、液体が流れ出したそうだ。

「臭い!水じゃない、これはおしっこだ」

 とメンバーの一人が叫んだ。

 そして勢いよくロッカー開けたら、中から顔面蒼白の少女が出て来た。

「その時は、全員腰抜かして、叫んだよ」

「もうオカルトの世界ですね」

「すぐに警備員読んでさあ、引き渡したけど、俺達に会いたくて清掃業者の制服盗んで、前の日からロッカーに隠れてたらしいよ」

「伝説のロッカー少女ね」

「あああれには驚いたよ」

ゴミ収集車は、蹴上にあるホテルの正面に横付けされた。

 ホテルの玄関前に居合わせた他の客は、高級ホテルに不釣り合いなゴミ収集車が止まったので、怪訝な顔つきで、こちらを見ていた。

 玄関のホテルマンは、事前に知らせられていたので、笑顔で迎えてくれた。

 おそらく、彼らにとっても、ゴミ収集車から降りる客を出迎えたのは初めであったに違いない。外国人観光客は写真を撮っていた。

 メンバーはロビーの片隅で作業服を脱いだ。

 由梨はそれらを預かった。

「今日はお疲れ様でした」

「嵐山さんもお疲れ」

 下鴨らは部屋へ行った。

 由梨は作業服を大きな紙袋に入れた。

 タクシーには乗らず、地下鉄で帰ろうとした。歩道を歩いている時だった。

 突然、後ろから来た女が、由梨の持っていた紙袋をひったくろうとした。

 咄嗟に、身体をねじって、それを阻止しようとした。女は中の作業服を一組だけ盗ると走り出した。

「何すんのよ」

 女は、由梨の身体を突いて逃げた。

「待てええ」と云って待つ間抜けな泥棒はいない。


 都座に戻り、醍醐と今出川には報告した。

「怪我がなくてよかったです」

 と今出川が云った。

「被害届出しますか」

 醍醐が聞いた。

「そうですねえ、出しましょう」

 由梨は、醍醐と近くの縄手交番へ行く。

 この一連の作業で、もう十一時近くまでなってしまった。

(もうへとへと)

 長い一日が終わる。

 そして、長い公演の始まりでもあった。

 翌日、出勤前四条大橋から都座を見た由梨は、自分の目を疑った。

 都座の周囲の歩道は、ジョニーズ入り待ちファンに占拠され、さらに溢れた人が車道にまで出て来た。

 地下事務所前も人垣で中々、中へ入れない。

「お早うございます」

 警備員に挨拶した。

「大変な事になってますね」

「まもなく、本社から応援の者が駈けつけます」

 縄手交番から警察官がやって来る情報を由梨は、朝礼の時に醍醐から聞いた。

「今月のお客様は、普段に比べて非常に年齢が低いです。ですが、お客様はお客様です」

 とここまで云って醍醐は由梨ら案内係を見渡した。

「ですので、最新の注意をはらって下さい」

 醍醐は朝礼を済ませると、楽屋口へ行った。

「早速、昨日動画がアップされたみたい」

 和美が云った。

「やはり手荷物検査って無意味かも」

 珍しく美香が弱音をはく。

「チーフ、朝から案内係の勤労意欲を失くすような発言やめて下さい」

 勢い込むように由梨は云った。

「ごめんねえ、本当は私、手荷物検査好きやないのよ」

「好きな人っていませんよ」

 和美と由梨は同時に云った。


 今日は開演の五分前を知らせるブザーが、定刻時間を過ぎても鳴らなかった。

 十分過ぎる。十五分過ぎる。ぼちぼち案内所に、

「何かあったんですか」

 と数人が問い合わせて来た。

「いえ何も。もうすぐ始まりますから、お席にお戻り下さい」

 満面の笑みを浮かべて美香が対応した。

 醍醐と衣笠が珍しく走って案内所にやって来た。

「どうしたんですか」

 まず和美が声かけした。

「今から、放送してくれるかなあ」

 衣笠が厳しい顔を向けた。

「じゃあ嵐山さん、お願い」

 今月から、由梨は場内放送の仕事も任されるようになった。

「これ原稿です」

 由梨は幾分緊張しながら、間違えないよう一字一句目で追いながら放送を始めた。

「お客様にご案内申し上げます。只今劇場設備の不具合が発生しました。もうしばらくお待ち下さい」

 醍醐の指示で、客席内のドアは、開放のままとなった。

「劇場設備って何?」

 由梨は、マイクのスイッチがオフになってるのを確認してから、一人つぶやいた。

 内線電話鳴る。

「美香です。嵐山さん、放送室出てもいいよ。また放送の時は、連絡するから」

 放送室を出て、案内所前へ行く。

「嵐山さん、ちょっと」

 醍醐と衣笠が由梨の両側について、地下事務所に連行して行った。

 応接間のドアを閉めてすぐに、

「実はメンバーの一人、下鴨がまだ都座に来てないんです」

 衣笠が単刀直入に説明した。

「本当ですか」

「ああ携帯へ電話しても出ないんだ」

「ホテルから皆で劇場入りしてるんじゃないですか」

 由梨は素朴な疑問が口をついた。

「今日に限って、一旦ロビーに顔を見せたけど、忘れ物を取りに行くと云ってねえ。その時、マネージャーも一緒について行こうとしたら大丈夫って云われて。ホテルの正面で待っていても中々来ないので、部屋へ見に行ったら誰もいなかったそうだ。

「つまり確信的に雲隠れしたって事ですねえ」

 由梨は分析した。

「そうだ。で、嵐山さんに質問なんですけど、昨日一緒に、ゴミ収集車に乗った時に、彼、何か云わなかったかなあ」

「何でもいいんだ」

 ゆっくりと由梨は、脳裡の中で振り返る。

「どんな話題、話したかなあ」

「追っかけの話とか、コンサート会場の楽屋のロッカーに隠れていたファンの話とか」

「やっぱりそうかあ」

「やっぱりって?」

「いやあマネージャーも追っかけに拉致されたんじゃないかとえらく心配しててねえ」

「九条社長は何か云ってましたか」

「ホテルと周囲をくまなく探せと云って来ました」

「私の不注意で、清掃作業服も盗まれましたからね」

 深いため息を由梨はついた。

「その点も九条社長は気にしてた」

 由梨と同じ様に二人は、ため息をついた。

「もしこのまま下鴨さんが来なければ、公演は中止ですか」

 核心を突く質問を由梨はした。

「他のメンバーがいるので、中止はしないだろうな」

 とまず醍醐が云う。

「チケットには、諸般の事情によりメンバー変更ありますと書いてますから」

 沈着冷静な衣笠だった。

 応接間のドアがノックされて今出川が顔を覗かせた。

「九条社長が今、頭取部屋にいて、今後の対応をしたいと」

 衣笠と醍醐はぴょんと弾けたように立ち上がると応接間を出て行った。

 その光景を由梨は、立ったまま傍観していた。

「嵐山さんも行って下さい」

 今出川が促した。

「私みたいな案内係が行ってもいいんですか」

 今出川が無言で頷いた。

「ああ、嵐山さん」

「はい」

「日本語は正確に使いましょう。(案内係が)じゃなくて、(案内係だからこそ)ですよ」

 と云って今出川が微笑んだ。

 頭取部屋とは、楽屋口の入ってすぐの所にある、六畳くらいの畳の部屋である。

 歌舞伎公演の時は、ここに頭取と云う役者行政を司る役目の人間が、休みなく詰めている。

 由梨が駆けつけると、すでに九条が二人に、

「もうお客様を待たせるのも、ここらが限界だろう」

 と云っているのが耳に入る。

 由梨はスマホを取り出して、時刻を確認した。

 すでに定刻よりも三十分押していた(過ぎていた)。

「あと、五分待ちましょう」

 思わず由梨は叫んだ。

 九条が顔を上げて由梨を見た。

「ああ嵐山さん、いたんですね」

「はい」

「五分待つ根拠は」

「下鴨君が、連絡もなしに来ないはずはありません」

「まるで走れメロスの世界ですね」

 にっこりと九条は、笑みを浮かべた。

「じゃあ待ちましょう」

 無言が由梨らを支配する。

 楽屋モニターから、何回目かの機械設備の不具合を知らせる場内放送が流れていた。

 九条が腕時計に視線を走らす。

「五分経ちました」

「はい」

「いいですね」

 九条が由梨に念押しした。

「はい」

 由梨がうつむいて返事した。

 九条が立ち上がり、頭取部屋を出ようとした。その時だった。

 楽屋口の扉を開けて、楽屋口番の貴船陽子が駆け込んで来た。

「下鴨さん、来られました」

 のそっと下鴨が皆の前に姿を見せた。少し顔色が蒼白だった。

「よかった」

 九条が下鴨を抱きしめた。

「すみません・・・」

 下鴨が嗚咽し始めた。

「今、僕は・・・。九条社長を裏切ろうと」

「もう何も云うな!さあ着替えて舞台だ!」

 九条がぽんぽんと力強く肩を叩いた。

「さあ嵐山さん、場内放送です!」

 振り返り、九条が宣言した。

「その内容は」

「もちろん、(お待たせしました。まもなく開演でございます)だ」

「はい」

 放送室へ走りながら由梨は思った。

(何故下鴨が遅れたのか)

(何故その事を、九条社長は云わなかったのか)

 二つの疑問が、脳裡で渦巻いていた。


 早速楽屋口でたむろするファンの一人が、ツイッターでつぶやく。

(下鴨大遅刻!本日開演四十分遅れる!)

 一斉に返信が来る。

(一体何があったの)

(都座は、機械設備の故障とか白々しい嘘の場内放送流していたけど)

(もうファンは知ってるけどね)

(ああ、例のあれ?)

(多分あれでしょう)

(またあれかあ)

 由梨がスマホで確認したのは、幕間(まくあい)である。

 開演中は、携帯電話抑止装置が作動するので、スマホは場内では受信出来ないのだ。

(あれって何よ!)

 スマホの画面見ながら、由梨はひとり、こころの中で叫んでいた。

 コンサートの真ん中で、下鴨のギターの弾き語りがあった。

 通常なら、(俺たちは仲間)と云う曲の途中から、他の仲間の歌声が入る曲を歌っている。しかし、今日は違っていた。(孤独の叫び)だった。


 ♬  どんなに幸せの 日々が続いても

   どんなに喜びの  時が続いても

   僕のたましいは  ぽっかりあいたまま

   僕のこころは   空遠く行き過ぎたまま

   帰って来たね   戻って来たね

   その一言が云いたくて

   その一言を聞きたくて

   今は、ずっとずっと

   君の事を思い続ける

   ゆく年の時間が  僕を取り囲む

   ああきみに会いたい

 ♬ ああきみを抱きたい


 この歌は口パクではなかった。

 その証拠に、下鴨の泣きながらの熱唱で、時折歌詞が擦れたりした。

(下鴨君が泣いている)と由梨は思った。

 客席内は、静寂の薄い膜が人々を優しく包み込みいたわり続けた。

 音楽の力が、人々のこころの琴線に触れ、昇華する瞬間でもあった。

 客席のあちこちで、ファンは、下鴨と一心同体となり、同じ様に涙を出していた。

 コンサートが終わり、一階客席前で由梨はお見送りをしていた。

 お客様の見終わった感想が耳に入る。

「今日の下鴨君の(孤独の叫び)よかった」

「そうもう鳥肌もの。私も何十回とあの曲聞いて来たけど、今日が最高によかった。何かあったのかなあ」

「大遅刻と関係あるかも」

「えっそうなの」

「実はねえ・・・」

 思わず後ろをついて行き、その言葉の後半を聞きたかった。

 しかし、その暇はない。

 昼の部が四十分遅れで開演したため、夜の部の開場時間が迫っていた。

 終演後の物販の購入とお手洗いの使用を禁止した。

 一分でも早く開場するためである。夜の部の開場は、二十分遅れである。

「夜の部の手荷物検査は、簡略でおねがいします」

 美香の声が無線シーバーでイヤホン通して入って来る。

「それしたら、また盗撮増えますよ」

 和美の言葉も、

「仕方ないわねえ」

 と美香が云う。

 一般芝居の開場は、一つの扉を開けて左右に係員がいてチケットの半券をもぎる。

 今月は手荷物検査で時間を取るために、三か所の扉を開けて対応した。

 鞄を開けて貰い、中を見るが、ほとんど目視だけだった。

 早い対応に、お客様も

「早っ!」

 と口走って驚いていた。

「こんなんやったら、やめたらええのに」

 と捨て台詞も聞こえた。


 夜の部の演奏と演奏の間に、メンバーによるトークショーがある。

 この台本のないやり取りもファンが好きなコーナーでもあった。

「夜の部の開場が遅れたのも、実は昼の部の始まりが、かなり遅れましたせいで」

「劇場設備の故障だったそうで」

 客席からじわじわと笑いの波が立つ。

「何がおかしんですか」

「そうですよ。機械の故障です」

「決して下鴨君の故障ではないです」

 と云った途端、はっと口を塞ぐメンバー。

「あーあ云っちゃった」

「皆さんツイッターなんかで、つぶやいたりしないで下さい」

「そう。皆つぶやくんだから」

「じゃあ気を取り直して、もう一曲」


 八月の京都の最大の行事と云えば、八月十六日の「大文字の送り火」である。

 これは祭りではなくて、ご先祖様の魂の鎮魂歌、お見送りでもある。

 よく大阪人を始め、他府県の人は「大文字焼き」と云うがそれは間違いである。

 もし京都人の前で云えば、

「京都にそんな焼き物のお菓子はおへん」

 と皮肉たっぷりに返事が来る。

 起源はいまだにはっきりとしない。それが京都の歴史の奥深さを物語っていた。

 午後八時。

 東山に(大)文字の明りが灯され、続いて(妙)(法)(左大文字)(船形)(鳥居形)と続く。

「今年の大文字まで、何とか生きながらえて来たなあ。けど来年の大文字はもう見られへんなあ」

「そんな弱気な事云わんといて」

 由梨は、祖母の君代の言葉を戒めた。

 ここは、京都御所の東側にある御所病院の六階の個室。

 千代は胃がんで余命六か月と診断されていたが、すでに半年は過ぎて十か月になろうとしていた。

 由梨は休日の昼間、祖母の見舞いに病院を訪れた。

 今日は一週間に一度ある休演日だった。

 商業演劇の場合、休演日はほとんどないが、今月のジョニーズ公演はあった。

 個室の広さは十畳くらいあり、ベッドの脇に応接セットがある。

 窓ガラスは下までの吐き出しようで、くっきりと「大」の文字が新緑の山肌に浮かび上がっていた。

「ほんまにここからは、大文字がよう見えるわあ」

 由梨は窓越しに見つめた。

 大文字は、出町柳の賀茂大橋周辺が、観覧スポットとして有名だが、昨今はあまりにも、観光客が押し寄せるために京都人からは、敬遠される傾向にある。

 由梨は今まで、もっぱら御所の中から見て来た。

「都座の仕事は、どうええ」

 君代が聞く。

「うん、何とかやってるよ」

 これまた抽象的な答え方だと由梨は云った後、後悔した。

「人は老いるけど、都座も基本的には変わってないなあ」

 君代は、若い時、都座で案内係として働いていたそうだ。

「平成三年と二十九年に改装したけど、外観、内装は昭和四年当時のままやて劇場の人が云うてはった」

「この移り変わりの激しい世の中で、昔からちっとも変わらないものがこの世にあるのを見ると、人のこころはほっとするもんなんや。まあ若いあんたには、わからんと思うけど」

「わからん。けどちょっとだけわかる」

「ちょっとだけわかって貰えただけでも嬉しい。しやから歌舞伎は人気あるんや」

 由梨の脳裏で、歌舞伎=鯛蔵、蛸蔵がスパークのように閃いた。

 祇園祭の宵々山で、蛸蔵が和美とデートしてたのを目撃してから、かたくなに拒否の姿勢を貫いていた。

 何度かメールが来たが、徹底的に無視を決め込んでいたら、そのうちに、メールも来なくなった。


 そして八月十六日。大文字送り火の当日。

 都座はこの日も二回公演。

 ジョニーズファンの若い人にとって、大文字の送り火は関係ないのかもしれない。

 ただ、劇場側はやはり、大文字の点火時刻(午後八時)に配慮してか、いつもより一時間早く終演させる。京の街は、午後八時の時報と共に、街のネオンサインが一斉に消灯される。

 事件の第一報は、口番(楽屋口にいる楽屋係り。あと4階にも詰所がある)の貴船陽子からの内線電話だった。

 由梨ら案内係は、終礼を済ませて、タイムカードを打つために、地下の事務所に降りていた。

 電話を取ったのは、醍醐だった。

「はい、業務」

 しばらく黙って聞いていた醍醐は、

「わかった。すぐに行く」

 と云って電話を切った。

「何かあったんですか」

 すぐに由梨は聞いた。

「不審者が屋上にいるらしい」

「不審者?どう云う事ですか」

「理由はあと」

 醍醐のあとを、由梨、美香が追う。

 エレベーターで四階屋上へ向かう。

「口番がいるのに、何で不審者が入ったんですか」

「私に聞いてもわからん。直接口番に聞き給え」

 エレベーターの扉が開くと口番の陽子がぬっと顔を向けて来たので、一同は思わずのけ反った。

「たまたま、私お手洗いで口番をアルバイトの子に代わって貰ったんです。そしたら、都座の清掃作業服を来た女の人が、(お早うございます)と挨拶して入って来たんです。てっきりバイト君は、その清掃作業服を信用して中へ入れたんです」

 自分の身の潔白を宣言するために、早口で陽子は、一気に話し出した。

「私が盗まれた作業服です」

 瞬時に、由梨は、蹴上の下鴨の見送りでのホテルの帰りのひったくりを思い出していた。

「わかった、わかった。で、その不審者はどこにいる」

「あちらに」

 陽子は屋上のお社の向こう側を指さした。

 由梨らは、同時に陽子の指先を目で追う。

 屋上のへりにうずくまる女を確認した。

「もしもし、お客様どうなさいましたか」

 醍醐が云いながら一歩前へ進んだ。

「来ないで!これ以上私に近づくと、ここから飛び降りるわよ」

 その言葉に醍醐はもちろん、由梨も美香も引き下がった。

 エレベーターの扉が開き、今出川と九条社長が顔を出した。

 ちらっと不審者の顔を見ると、今出川は再びエレベーターで降りた。

「危ないねえお嬢さん」

 再び醍醐が声をかけたが、不審者の少女はうつむいたまま無言だった。

「鴨川は絶えず流れているなあ。止まることなく。人も同じ。どんな事があっても、自分でピリオドは、ないと思うよ」

 今度は九条社長が声をかけた。

「九条社長さんですね」

「私を知っているのは光栄ですね」

「下鴨くんに会わせて下さい」

「わかった」

 あっさり了承したので、由梨は(あれっ)と思った。

 九条がエレベーターに向かうのと、エレベーターから下鴨が出て来るのが同時だった。

「僕はここにいるよ、北山晴美さん」

「えっ知り合いなんですか」

 少し小声で遠慮気味に由梨は聞いた。

「晴美さんは、ジョニーズの大ファンなんだ」

「正確にはジョニーズの下鴨くんです」

 晴美は自ら訂正の発言をした。

「彼女は、にわかファンじゃなくて、彼らが売れる前からの根っからの追っかけファンなんだ。ジョニーズファンなら彼女の存在は誰でも知ってる。当然ながら私も知ってる」

 九条が補足説明した。

「あのう大ファンと今回の飛び降りとどう関係するんですか」

「まだ飛び降りていません。あんた、言葉に気を付けてね」

 美香が由梨の袖を引っ張った。

「すみません」

「いや私にもわからん。大好きなファンのコンサート見て万々歳じゃないのかね」

 九条が皆のこころのうちを代弁するかのように発言した。

「私、下鴨君が羨ましかった。売れない時からずっと応援してて大きくなればなるほど、最初は嬉しかった。けどある日思ったの」

「何をですか」

 恐る恐る由梨は聞いた。

「一体私は何をやっているんだろうって。周りを見渡せばファンは私より若い子ばかり。私はどんどん年を取るし、何も成長してない。下鴨君は頑張って今の地位があるけど、私には何もないと」

「晴美さん、あの時、円山公園の長楽館で話したよね」

「はい。私のために下鴨君を遅刻させてしまいました。ごめんなさい」

「そう云う事だったのか」

「僕は云ったよね。僕だって強くないし君が思っているほど、成長してない」

「私から見た下鴨君は立派だよ。何も卑下する事なんかないよ」

「成長してないから、人間やめるとは性急し過ぎだろう」

 九条がじっと晴美を見つめた。

「私もそう思います。そりゃあ毎日生きていたら、もう嫌になっちゃうって思う事、多々あります。でもその度に、飛び降りていたら何回飛び降りなきゃあならないの」

「あのうまだ飛び降りていません。それに一回飛び降りたらそれで終わりですけど」

 再び由梨は、美香から前よりも強く、腕を引っ張られた。

「晴美と話した後、僕はもう都座に行くのが嫌になってねえ。行くのをやめようと決めたんだ」

「道理で。私とのお話だけなら、あんなに遅れるはずがなかったもんね。下鴨君、あれからどこをうろうろしてたの」

 この質問は由梨も九条も一番聞きたかった事だ。

「僕は、僕は円山公園を彷徨(さまよ)って、偶然坂本龍馬の銅像にぶち当たったんだ。坂本龍馬は、志半ばで無念の死を遂げた。もっと生きたかったはずなのに。そこで思ったんだ。僕は歌でファンを勇気づけようとね」

「それで戻ったんだな。有難う」

 しんみりとした口調で九条は下鴨を見た。

「あなたの歌って、いつからそんなに高尚なものになったの」

「僕は歌でしか皆のこころの中に入れない」

「違う!歌で全てが解決出来るなんて傲慢過ぎる」

 晴美は立ち上がり、へりに片足を乗せた。

 へりの高さは腰よりも低く誰でも簡単に越えられるものだ。

「待ってくれ、僕の歌を聞いてくれ」

 下鴨がアカペラで歌い出す。

 もちろん、この場に居合わせた者は、初めての下鴨のアカペラだった。


   ♬ 二人の歩み ♬

 二人が歩んだ道

 二人が語り合う

 ともに歩む はずだったのに

 振り返ると きみはいない

 あれから  どれぐらいの

 時間が   経ったのだろう

 四季の   うつろい

 花の    いのち

 今でも   今でも

 僕は    きみを忘れない

 僕はきみを ずっとずっと

 愛してる  愛してる


 歌い終わると、自然と拍手が起こる。

「有難う。最後に下鴨君の歌が聞けてよかったわ」

 晴美も拍手した後、そう呟いた。

「じゃあ皆さんさようなら」

 まるで近くの家へ帰るかのように、へりに立つとふっと空中へ足を投げ出してさっと視界から消えた。

「ああ、晴美さん!」

「晴美!」

 由梨らはへりに駆け寄り下を見た。川端通りの歩道にも、車道にも晴美の姿はなかった。すぐ一つ下の階に貼られた、鳩除けネットにかかっていた。

「ねえ、丈夫でしょう」

 清掃主任の烏丸がよじ登って来て云った。

 由梨の視界にあと二人の男が視界に入った。今出川と百万遍だった。

「百万遍さん、落とさないで下さい」

「おお任せとけ。しやけど大きな鳩やのう」

「鳩じゃあありません」

 網の中で晴美はもがきながら云った。

 由梨らはすぐに一階下の楽屋に走った。晴美は網から出されて楽屋の部屋にいた。

「今出川支配人有難うございます」

 と由梨が云うと、

「ナイス!良い機転でした」

 九条はほめたたえた。

 さすがに晴美は顔が青ざめていて、身体を小刻みに震わせていた。

「鳩対策が、こんな場面で生きるなんて」

 烏丸は、自分の言葉に酔っていた。

「今月のお祓い、この屋上でやった時の烏丸主任の言葉を思い出してね。丁度出会った大道具の百万遍さんにも、力を合わせて貰ったんだ」

 改めて今出川が説明した。

「晴美さんの命を助けるリレーが、実を結んだ」

 九条は涙ぐんだ。

「何があったか知らんけど、若いのに死ぬなんて考えたらあかんで」

 それだけ云うと、百万遍はその場を後にした。

「お帰り晴美さん」

 まず由梨が声をかけた。

「生きていて有難う」

 次に下鴨が、握手しようとした。

 晴美はするりと身体をひねってそれを避けた。

「晴美さん・・・」

「ほっといて下さい」

「下鴨がせっかく手を差し出そうとしているのに」

 九条の声が震えていた。

「もう寄ってたかっての善意の押し売りはごめん。うんざり」

「僕は押し売りなんかじゃない」

 初めて下鴨が、声を荒げた。

「もうこんな奴は相手にするな」

「社長、でも」

「いいから。もう帰ろう」

 その時だった。由梨のスマホにメールが入る。

 一読してすぐに、

「晴美さん、ちょっとついて来て」

 由梨はぐいっと手を引っ張る。

「痛い!どこ連れて行くの」

「チーフ、ちょっと晴美さんをお借りします」

「どこ行くの」

 美香は心配そうな眼差しで由梨を見つめた。

「祖母の病院です。チーフも来て下さい」

「行きなさい」

 醍醐が後押しした。

 由梨らは都座の前からタクシーに乗った。

「御所病院までお願いします。出来るだけ早く」

「はい。ほんまは川端通りを北へ上がったらええねんけど、今夜は大文字の送り火やから、もう三条の手前から停滞してるから、ちょっと遠回りになるけど烏丸通り、上がりますわあ」

「はいお願いします」

「お客さんら、これから大文字見にいかはるの」

「いえ、御所病院へ見舞いに」

「そうでしたな。えらいすんまへん」

 その後車中で、由梨、美香、晴美の三人は一言も言葉を発しなかった。

 晴美は護送される容疑者のように、真ん中に座らされて、終始うつむいていた。

 その重苦しい雰囲気をバックミラー越しにいち早く察した運転手は、それから、一切喋らず運転に専念した。

 タクシーは烏丸通りから、丸太町通りに入ってすぐに、停滞に遭遇した。

「あきまへん。動きまへん」

 運転手はあきらめ顔でこちらに振り向く。

「降ります!」

 由梨は叫んだ。

「その方がええかも。何せ大文字の送り火やさかい」

 刻一刻と点火の時刻、午後八時が迫って来た。歩道を歩く人の数も秒単位でわいてくるみたいだ。

「はい」

 由梨は、晴美の手を引っ張り走り出した。

「子供じゃないんだから、手を持たなくても大丈夫です」

 晴美が顔を上げて云った。

「こうでもしないと、逃げるでしょう」

「逃げない」

 すると美香も晴美の手をつないで走り出した。

 いつもは、おしとやかな美香の素振りからは、想像出来ない健脚ぶりに由梨は、幾分意外な一面を見た気がした。

「チーフって、陸上競技部だったんですか」

「そう、長距離の」

「知りませんでした」

「私って、嵐山さんが知らない、もっとすごい一面を持ってるかも」

「えっ、どう云う事ですか」

「あっ、何でもないから」

 慌てて美香は、云い繕った。

 それからお互い無言で走り抜けて御所病院に着いた。すぐに祖母の病室に向かう。引き戸を開けると由梨の両親、姉、医者、看護婦がいた。

 医者が由梨らの到着を見て穏やかに云った。

「どうやら、間に合いましたね」

「おばあちゃんは」

「まだ大丈夫ですよ」

 やさしく看護婦が声をかけた。

「さあ、まもなくです。手を取ってあげて下さい」

 医者に促されて、由梨ら家族は、手を握りしめていた。

「おばあちゃん」

「おばあちゃん」

 由梨の母が、激しく身体を揺する。

 千代は小さく口を開く。

「有難うねえ」

「おばあちゃん」

「もっと・・・生きたかった」

 それまでかすかに息をしていたのに、最後はこの世の名残りのように、大きく息を吸って、息絶えた。

「午後八時ご臨終です」

 医者は、脈拍と心臓を診察して云った。

 窓から「大」の字の火床が着火され、煙と炎が立ち上がるのが見えた。

「送り火始まりましたね」

 看護婦の言葉に、一同は視線を窓に映し出される、大文字の送り火に向けた。

「きっと君代さんも、あの送り火に誘導されて、旅立ちされたと思いますよ」

「おばあちゃんは、もっと生きたかったはずや」

 由梨は叫んだ。

「私の命、差し上げたかった」

 続いて晴美が叫んだ。

「由梨、この人誰?」

 少し戸惑い気味に母親が由梨に聞いた。

「うちの親友や」

「おおきに、おおきにええ」

「送り火終わるまで、おばあちゃんとここで一緒におっていいですか」

 由梨は医者に聞いた。

「いいですよ」

 医者は快諾した。

 しばらく一同は、大文字を眺めた。

 漆黒の闇に、オレンジ色の「大」の文字が炎に揺られて浮かぶ。

 確かに魂の道しるべのようだ。

「さあ皆さん、帰りますよ」

 天上界からの誘導のようだ。

「嵐山さん」

 目に涙をためた晴美が口を開く。

「何?」

「おばあちゃんは、私の身代わりで死にはったんや」

「いや違うよ」

「どうしてですか」

「正確にはあんたを生かすために、旅立ちしはったんや」

「それを身代わりと云うんでしょう」

「しやから違うて」

「もう、そんな事どうでもよろしおす。お二人とも、黙ってなはれ」

 母が口を挟んだ。

 由梨と晴美は顔を見合わせてお互いに苦笑した。

 この時、由梨は、晴美と初めてこころが通じ合ったと感じた。



























    












































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