第16話 偉大なる獅子の戦場 前編
その日、試合開始直前から『ワールド』は緊張した空気に包まれた。
前の試合はそれなりの緊張で順当に終わったというのに、この試合はまるで殺し合いでもするかのような空気を伴っていた。
それも当然と言えるかもしれない。
観客は前の試合から帰らずにいて、両校のやりとり――何よりジョンソンと貴文を見ているのだから。
「まさかこんな事になるとはな……」
観客席から一部始終を見ていた福原学長は、その眉間に深い皺を刻む。
「は、あの内田貴文と岡田洋子がいてただの試合になるわけがないさ」
その隣には記念館の老婆が座っていた。
「あなたはこうなることが分かっていたと?」
「さて。あたしなんてただの受付のババアさ。ただ長く生きてる分、少しだけアンタらより物を知ってるに過ぎないよ」
「ご謙遜を。今まで散々内田君の世話を焼いてきたというのに」
「さあてね」
老婆はすっとぼけた調子で言った。
いつまで経ってもこの人には勝てないな、と福原学長は内心苦笑する。
「まあそんな死に損ないでも、この試合で2つ言えることがある」
「是非お聞きしたいですな」
「まず一つ目、ここでハナから『シッカリ』を使えないようじゃ勝負はついたも同然だね」
「どうやら第一段階はクリアーできたようですな」
競技場の電光掲示板にはすでにスターティングメンバーが発表されており、隆の名前もそこにしっかりとあった。
「第二に、あのライオンハート・ジョンソンを理解していないと、あの坊や達に勝ち目はないね」
「彼を?」
「ああそうさ。日本中を敵に回しあの男をね」
そう言って老婆は含み笑いをした……。
「まず言いたいことがある」
ひとまずベンチに戻って来た選手達に向かって、貴文は言った。
「これは振興と青海の試合であって、俺とジョンソンの試合じゃない」
『・・・・・・』
それで完全に落ち着くわけではないが、頭に血が上った部員達に冷水を浴びせる効果はあったようだ。部員達の表情が次第に落ち着いていく。
「だが言うまでもなく無視できる存在じゃない。もちろん選手として、な。だれかジョンソンについて詳しく知ってる奴はいるか?」
『・・・・・・』
誰も答えられなかった。
貴文は内心で「そりゃそうだろうな」と苦笑する。ここにいる教え子達はほとんどが、自分を慕って入学した連中だ。その自分を追い込んだ選手を、どうして詳しく調べるというのか。
それこそいつか倒そうという気持ちがない限り――。
「……ある程度なら」
「尾崎?」
最も憎んでいると思われた松之助がおずおずと手をあげた。
「ジョンソンは昔はとにかく自分本位のプレーでしたが、あれ以来司令塔として、チームを動かすプレーをするようになりました。明らかに内田選手の影響だと思われます」
あえて監督と言わなかったあたり、なるべく客観的に話そうとしているのだろう。春樹ほどでないにしても、松之助も感情的な方だ。そうでもしないとあふれ出る罵詈雑言が抑えられないのかもしれない。
貴文はその意を汲み、何も言わずに先を促した。
「おそらくこの試合も、ジョンソンが司令塔として全員を動かすでしょう。そのため、前の試合のような自滅はあり得ません。だからといって、三上1人だけの力でどうこうできるレベルの相手でもありません。数人でジョンソンを徹底的にマークし、残りで他の選手の猛攻を耐えて隙を見つけるしかないでしょうね。他の選手については大石の方が詳しいでしょうから、作戦は監督が考えて下さい」
「わかった。よく話してくれた」
「……はい」
松之助はゆっくりと返事をした。
「三上、聞いたとおりだ。とにかくお前はこの試合全力でジョンソンを封じる事だけ考えろ」
「はい!」
「それと今まで俺も細かい指示は出さなかったが、今日ははっきりと指示を出す。以前のお前たちには、俺が直接試合に参加していなければそれを実行する力は無かった。だが、今のお前たちにはその力がある。これからは俺も含めた総力戦だ。行くぞお前ら!」
『はい!』
全員の返事のあと、貴文は宣言通り一人一人に細かい指示を出した。
それを聞いている内に、部員達は貴文がどれほど口を出したかったのか知る。
「監督!」
「おわ、なんだ国府田、キモイぞお前!」
いきなり泣き出した翔に貴文は思いきりひく。
「とりあえずお前はあんまり前に出すぎるな。お前の悪人顔が目立っても碌なことは無い。ファンじゃなくアンチが増えるだけだ」
「最後までひどいっす……」
「とにかく今日はこれで行く。ベンチの三人も試合中自分達は無関係だと思うなよ!」
『はい!』
「監督、せっかくだから最後ぐらい一言言ってよ!」
「そうだな……」
沙織の言葉に貴文は顎に手を当てる。
「……勝つぞ、俺のために、お前らのために、俺達のために!」
『おお!!!!!!!!!!!!!!!!!』
7人が弾けるようにベンチから飛び出す。
それから数分後、戦いを知らせる笛が、神宮の雲一つない空に響いた。
「・・・・・・!」
「大石、出過ぎだ」
「すみません!」
ベンチを飛び出し、『ワールド』に足を踏み出しかけた広子を貴文が止める。
ただ、興奮していたのは貴文も同じで、広子が動かなければ自分が動いていたかもしれない。
そんなベンチとは対照的に、静かな立ち上がりだった。
試合開始と同時に隆はジョンソンに密着し、普段はサイドに大きく開いている春樹と秋雄も、中央寄りでジョンソンと他の選手との連携を妨げようプレーしている。0トップである分守備重視になり、自然沙織の『芸術点』に頼る割合も増えていった。
「ジョンソンに目だった動きは無い……というより動けないみたいだな。英語でまくし立てて指示を出しているようだが、ほとんど伝わってない。あの状況じゃいずれ混乱が生まれるかもしれんな」
「さすが三上君ですね」
「正直俺もアイツがあそこまでやるとは思ってなかった」
「俺が鍛えたんだ、当然だろ」
陽介の言葉に、貴文は自信満々に答える。
「でも、やっぱり今のままってわけにもいかないですね」
「ああ……」
ジョンソンは抑えている。
だが青海大学はジョンソンだけでは無い。急造チームで連携に難があるとは言え、ほとんどが高校時代トッププレーヤーだ。広子の話では、母体となったチームの選手は今はベンチにもいないらしい。
松之助の予想通りジョンソンを抑えている分他がフリーになり、怒濤のごとく振興大学に攻め立てる。
それをグリーンが中心となってなんとか踏ん張っている。
もし完璧に統率が取れた攻めができていたら、早くも勝負はついていただろう。ひょっとしたら、あの口の軽い選手が言ってた今日追い出された選手というのが、元の司令塔だったのかもしれない。尤も、ジョンソンがいれば、本来の司令塔がいようがいまいが関係ないと貴文は思っていたが。
攻めながらも『実得点』が取れないことに、次第に青海大学の選手達は苛立ち始める。
一方、攻められっぱなしの振興大学には焦りはほとんど見られない。
これは誰もが予想していた展開だ。0トップの時点で、押されない方がおかしいとさえ思っていた。
ただそうと分かっていても、見ているだけの貴文は冷静になれず、試合をしている選手達の方が冷静で、ベンチの方が焦っているという本来とは全く逆の構図が生まれた。
「――っと!」
春樹はジョンソンに注意を払う一方で、脇を通り過ぎ『ライン』を引こうとした青海の『左ライト』を止める。今までのように風邪で具合が悪いどころか妙に肌つやが良い。それでも感情にまかせて攻めることはなく、むしろ秋雄の方が積極的に攻める姿勢を見せているぐらいだ。
この2人が中央寄りで身体を張ってるため、ジョンソンは未だ決定機を作れない。
「おらぁ!」
その分マークが薄くなり、守備ラインを抜けてきた他の選手には、翔が完璧に『フラット』にする。最初の頃のように、無駄に前に出て目立とうとはしない。完全に自分の役割を務めあげていた。ただ、同じように縁の下の力持ち的なプレーをしているにもかかわらず、何かする度に黄色い歓声が上がるグリーンには納得いかないようだったが。
「国府田殿今日はキレキレでござるな!」
「いやみか!」
「――と、無駄話してないでこっちも手伝ってよね!」
ただ守り、攻めるだけの男達とは違い、沙織は1
審判団の様子を見た限り、今回はしっかりと『芸術点』はカウントされている。相手の『マネ』も攻める形で『芸術点』をあげようとしているが、連携が取れずかなり空回りしていた。ジョンソンがいる以上『芸術点』を重視する必要はないので、公平なジャッジなら『芸術点』は大きく上回るだろう。
貴文も次第に焦りが薄れ、安心感が芽生えてくる。
選手達は発足直後の明皇戦から格段に進歩していた。今試合をしたら、勝てないまでも惨敗はありえない。
しかしただ1人、どうしてもプレーが気になる選手がいた。
「やっぱり尾崎君の動きがぎこちないですね」
「ああ、ジョンソンを意識するなというのが無理な話なんだろうな」
隆が密着マークし、春樹と秋雄の兄弟でほぼ完全に封じ込んでいるというのに、視線は常にジョンソンに注がれている。そのため、『スターリー』がおらず最前線にいるというのに、相手の弱点が突けず、攻撃の起点として全く機能していない。松之助がこれでは、青海は攻める続け、振興は守り続けるだけだ。
「いくら何でも今のままじゃまずいな……」
今のところ守備が崩壊する兆しは見られないが、疲労度にはかなり差が出ている。戦前からそうなることは予想していたが、その速さは予想を超えていた。
「尾崎前だけ見ろ!」
先ほどから喉が枯れるほど叫んでいるのだが、松之助に指示が通じているようには見えない。完全に頭に血が上っている。もし松之助のかわりになる選手がベンチにいたら、絶対に交代していただろう。
前半が終わるまで、長い休憩は取れない。
それまでこのまま一方的に攻められるしかないのか。
――そう貴文が思い始めた頃、突然ジョンソンが審判にジェスチャーをする。幸いにも審判は英語が分かっていたようで、すぐに反応した。
何を話しているか聞こえなかったが、貴文はおそらく執拗なマークの抗議だろうと思った。もちろん抗議されるような反則など一切犯しておらず、もしその通りだったら完全な言いがかりだ。
しかし、そのあと審判が向かったのはプレーに全く関与していない沙織のところだった。
審判は呆然としている沙織の足元にいきなり跪くと、すぐに試合を一時中断させる。
貴文はすぐに審判の元に駆け寄った。
「何があったんです?」
「ジョンソン選手が彼女が脚を怪我していると。ひょっとしたら『とげとげ草』があるかもしれません」
「近藤が!?」
貴文も慌てて沙織の足元を見る。
確かに審判――ジョンソンの言うとおり、沙織の靴下は血で滲んでいた。本人が痛がる素振りをしていたら貴文も気付いただろうが、沙織自身集中していたせいか全くそんな態度は見せなかった。
『とげとげ草』があるにせよないにせよ、怪我をしているのだから治療の必要があり、そのための時間はルールの上でしっかり取られる。
貴文はこれ幸いと治療を広子に任せて、松之助に詰め寄る。
「おいてめえ!」
あまり大声を出すと、審判に注意をされるので胸ぐらをつかみながら耳元で囁いた。
「監督……」
「お前何してるの分かってんのか!?」
「・・・・・・」
「あれか? お前はジョンソンのファンか?」
「そ、そんなわけ――」
「じゃあ仕事しろ! お前だけが『ワールド』で唯一何の仕事もしてねえんだよ!」
「――!」
松之助は思わず硬直する。その顔はこわばっているが、目は捨てられた子犬のようであった。完全に道を見失っている迷子の子犬だ。
貴文はあからさまなため息を吐く。
とても口だけで分かるようには思えない。
もしこれで負けるとしたら、洋子の狙い通りだ。貴文の腸も煮えくりかえる。
このまま貴文が八方塞がりかと思ったとき、予想外の人間が2人に近づいた。
「おい!」
『――!』
振り向いた先にいた人間は、貴文にとっても意外な人間だった。
「ぼ、僕をなめてんのか!」
「三上……」
普段温厚で、未央同様誰も怒ったことのない隆が、虚勢とも思える様子で松之助に詰め寄る。松之助より身長はかなり高いが、残念ながら見下ろすだけで貴文のような迫力はない。それでも隆がここまですることに驚き、貴文でさえも何も言えなくなった。
「き、君は僕じゃ『シッカリ』を完璧に務められないと思ってるのか!? だかそんなにジョンソンさんばかり見てるのか!?」
「え、あ、別にそう言うわけじゃ……」
「だったら君がすれば良い!」
『・・・・・・』
松之助も貴文も黙り込む。
ただし、2人が黙ったのは全く違う理由からだった。
松之助は何も言い返すことができなかったから。
一方の貴文は――。
「いいなそれ」
「え?」
「いや、三上の言うことももっともだ。お前がジョンソンばかり見てるのは、心の底で三上が頼りないと思っているからだろう。それに今のお前の変わりなら三上でも充分務まるしな」
「――!」
松之助は絶句する。
「ポジション変更だ。三上は『前バック』、尾崎は『シッカリ』をやれ」
「そんな無茶――」
「はい」
松之助の反論を隆の返事がかき消す。
「言ったはずだ。今までは指示を出さなかったが、この試合は全力で指揮をを取ると。命令違反は認めない」
「う……あ……」
「お前は『シッカリ』を務めてどれほど三上が努力していたのか理解しろ。それと三上」
「は、はい!」
「やっぱりお前が俺が今まで合った中で1番の『シッカリ』だよ」
「……はい!」
そして『アジールタイム』の終了のが審判から知らせられる。
結局沙織の怪我は接触によるもので、『アジールタイム』中に『とげとげ草』は見つからなかった。
ただ、
「……ちょっと厳しそうですね」
「うっわ……プレーしてる間は全然気付かなかったけど結構血ぃ出とるやん……」
沙織の怪我は思った以上に重かった。
こうなってはどうしようもない。
貴文は審判に交代を申請しようとしたが、それを沙織が止める。
「近藤……」
「まだ全力出し切ってないです。せめて納得出来るところで交代させてください」
「近藤さん、軽い怪我じゃないんですよ!?」
治療の一部始終を見ていた聡美が、元から白い顔を更に白くしながら言った。
しかし沙織は首を振る。
「ここで引いたらお嬢に顔向けできへんわ。人を使う『マネ』が人に迷惑かけたまま退場なんて、冗談でも笑えん。なによりあたしはチームの一員なんやから」
「近藤さん……」
「分かった、そこまでいうなら今は代えん。だがプレーが落ちたらすぐに代えるからそのつもりでいろ」
「ありがと監督」
沙織はベンチから立ち上がる。
靴下は変えたそばから赤くなった。
本来なら絶対に代えるべき場面だ。だがここで代えれば、せっかく自覚を持った沙織と、より深い精神的な隔たりができてしまう。身体の傷は治るまではっきり分かるが、心の傷は治るかさえ分からない。少人数のチームでそれだけは避けたかった。
それでも指導者なら選手の健康を考える場面だ。これで貴文のように引退に追い込まれるほどの怪我を負っては、保護者にも申し訳が立たない。
(指導者失格だな)
貴文は未だ選手の気持ちを重視する自分を、心の中で嘲った。
『ワールド』に戻った沙織は、まず松之助の元に近づいた。
「地味メガネもなんか言ってたけど、アンタ1人で試合してる気なんじゃない?」
「え、あ……」
「言っとくけど腹立ってんのは、アンタだけじゃないんだから。あたしだってできればアイツを殺してやりたいわ」
「……お前の口からそういうセリフが出るとは思わなかった」
「小学校の頃、わざわざ告白しに東京まで行ったのよ、切れないはずないでしょ。監督気付いてないし、一生言う気もないけど。て言うか言ったらお前も殺す」
「……ツンデ」
「それ以上言っても殺す」
幸いと言うべきか、貴文には松之助と沙織の話は全く聞こえず、耳に届いたのは、試合開始を告げる笛だけだった。
再開された試合はすぐに動く。
それも当然だ、本職でない松之助が『シッカリ』としてジョンソンのマークに当たっているのだから。
この変更を貴文から聞かされたとき、2人を除く他の選手達は唖然としたが、それでも試合が始まれば、皆自分達の仕事を始めた。
混乱したのはむしろ青海大学の方である。
完璧に抑えていた『シッカリ』を変更したことで、振興大学の手が読めなくなり、一時フォーメーションが乱れる。
それを隆は見逃さなかった。
「おりゃあ!!!」
『ワールド』に不格好な『ライン』が引かれる。間髪置かずに『トレイン』が進み、思わぬ形で振興大学が先制した。
「おっしゃあ!!!!!!!!!!!!」
いつもは物静かな隆がここぞとばかりに吠える。
ベンチの未央も広子と手を合わせて飛び跳ねた。
「……よし」
貴文も静かにガッツポーズをとる。
一瞬、貴文はポジションを元に戻したい誘惑にかられた。このまま抑えれば勝つことができる、と――。
だが、これで試合は決まったわけではない。まだ4分の1をようやく過ぎただけだ。ここで松之助が気付かなければ、チームそのものが瓦解する恐れがある。たとえ逆転されても、このポジションはまだ続けなければならなかった。
「・・・・・・」
振興ベンチを見ていたジョンソンと貴文の目が合う。
ジョンソンの目は笑っていた。
それが何故なのか、この時の貴文には理解出来なかった。
それからジョンソンはチームメイトの学生達に指示を出した。その指示は今までと違いたどたどしいながらも日本語で、貴文を驚かせる。
少なくとも貴文の知るジョンソンは日本語などしゃべれず、そもそも覚える気も無さそうだった。かつてワールドカップの会見でも、アメリカが最強の国だと豪語し、日本について学ものは何一つないと断言していた。
変われば変わるものだなと貴文が他人事のように思っている間にも、試合は再開する。
ジョンソンの日本語はかなり危うかったため大声で話し、その内容は貴文にも伝わった。同時にベンチで通訳を使わないことに腹を立てている洋子の姿も見えた。
指示を要約すると、「自分に攻撃を集中しサポートしてくれ」というものだった。
どうやら松之助が『シッカリ』として劣っているとすぐに見抜いたらしい。
試合再開と同時に青海の選手達がジョンソンの周りに集まり、そのサポートをしていく。そのおかげで守備をしていたグリーン達に余裕ができたが、松之助は『前バック』にいた頃と違い、逡巡する余裕さえ消え失せていた。
反則すれすれでマークしているというのに、ジョンソンの身体に触れることさえできない。不甲斐ない松之助のサポートに他の選手が集まっても、ジョンソンの前進を一歩も止めることはできなかった。
松之助は助けを求めるように、前線を振り返る。
しかし、『前バック』にあがった隆は一向に下がろうとはしなかった。ジョンソンより、相手の守備陣を注意深く観察している。そんな隆に対して貴文は戻れと言わず、ただ松之助が翻弄されるのを見ている。
そしてその時は訪れた。
「YEEEEEEEEEEES!!!」
ジョンソンが隆とは比較にならないほど美しい『ライン』を引き、『ラピッド』を促す。
隆の初『実得点』は、その数十秒後には帳消しにどころかマイナスにされた。
松之助は隆に詰め寄る。
「いくら何でも俺じゃあ無理だ! 交代してくれ!」
「……監督はまだ指示してない。このままだよ」
「でもこのままじゃ負けるだろ!」
「そうなるかは尾崎君次第だ」
隆は冷たく言い放つと、元のポジションへと戻っていく。
松之助は絶望に押しつぶされた顔をした。
それでも試合は進む。
火がついたジョンソンの怒濤の攻めで、振興大学は何本もの『ライン』を引かれる。翔は集中砲火を浴び、グロッキー寸前だったがそれでもなんとか踏みとどまっていた。
しかし限界がある。
おそらく全力でないとは言え、アメリカ代表の『スターリー』の実力は文字通り桁違いで、完璧に防いでいると思いこんでいる振興大学守備陣のわずかな穴を、いとも容易くにつく。
増え続ける失点。
まだ前半だというのに、守備の要である翔とグリーンは肩で息をしていた。
「監督!」
松之助は悲痛な叫びを上げる。
ここで負けたら、貴文にこんな指揮をさせた自分の責任であることは、松之助にも分かっていた。これなら交代させられた方が未だマシだとも思った。自分の不甲斐なさで惨敗するなど耐えられなかった。
そう叫び声に込めても、貴文は全く動かなかった。
そしてまた振興大学は失点する。
『実得点』の上では、クリティカル・ゲームと言っていいほどだった。
拷問を受け続けているような気持ちの松之助の横を、『トレイン』を進めたジョンソンが通り過ぎる。
そのとき、ジョンソンはたどたどしいながらはっきりとした日本語で言った。
「キミ ヨイTEAMMATE イル トテモ シアワセ」
「え……?」
呆然とする松之助。
何故この場面でこんな事を言うのか、全く理解出来なかった。
困惑したままの松之助を残したまま、すぐに試合は始まろうとする。
松之助は答えを求めるかのように、貴文を見た。
すると貴文は視線を『ワールド』とは違う方向に向けていた。
松之助が視線を追うと、そこには審判団が――。
「え……あ……まさか!?」
松之助はそれに気付き、笛が鳴る前に慌てて彼女の元に駆け寄る。
「近藤!?」
「ようやく気付いたわねこのボケナス」
翔やグリーン以上に疲労し、顔色も青くしている沙織は、ニヒルに笑った。
「お前そんなに『芸術点』を……」
「気付いてないのはアンタだけよ。最後ぐらいはよく見なさいよ」
沙織は松之助を追い払い、ポジションに着く。
そして笛は鳴った。
青海大学はジョンソンを中心に、振興大学を攻め立てる。
振興大学は変わらず防戦一方だ。
だがその形は、ただ無様にやられているだけではない。ジョンソンに引かれた『ライン』によって、振興陣地には見事な『アマリリス』が描かれていたのだ。
小学生でも知っている常識だが、『芸術点』は攻めているときにつくものではない。守備には守備の芸術がある。松之助が『シッカリ』になったことでもはや完璧な守備は不可能と判断した沙織は、独自の判断で『芸術点』重視の戦略に切り替えたのである。もし『実得点』にこだわり続けていたら貴文から指示を出すつもりであったが、沙織は自らその答えにたどり着いた。
守備における『芸術点』は、『マネ』や『コンダクター』が担う役割が大きく、負担もかかる割には目立たず、滑稽にさえ見えることもある。それは沙織が最も嫌うプレーであるはずだった。
それでも沙織はただ勝つためにその道を選んだ。
勝ちたいと言いながら実際は何もできず、何もしなかった松之助を横目に見ながら。
「……まさか!?」
――そう、隆が全く松之助をフォローしなかったのはこれが原因でもあった。守備の『芸術点』は、全員が下がって守備をしては成立しないのだ。
なにも『シッカリ』の重要さを理解させるための嫌がらせ的プレーなどではなかった。
「俺は……くそっ!」
「・・・・・・!」
強引な体当たり。
明らかな反則であったが、それで松之助は初めて『ラピッド』寸前のジョンソンを止めた。そしてそれは松之助だけのプレーではなく、そのお膳立てをしたチームメイト達による贈り物でもあった。
ようやく松之助はそれを理解することができた。
幸いにも『HJ』までは指示されず、後日反省文で留め、前半も終わる。
松之助の改心はチームを更に一歩先へと進めた。
だがその代償は決して安くはなかった……。
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