第15話 女狐の偏執

 6月の曇り空の下、振興大学ザバル部は『龍起杯』予選前の最後の山、入れ替え戦を迎える。リーグ戦1位は確定しているためこの試合は『龍起杯』とは直接関係がない。ただ、最終的には予選に出る必要がない1部リーグの上位になることが目的なので、落とせない試合でもあった。

「今までで一番観客がいるな。こんな所でやるもの初めてだし」

 テレビ放映はまだされていないが噂が広まったのか、『ワールド』から見える範囲の観客席は満席だった。正規の競技場で試合をやるのが初めての陽介などは、珍しく興奮している。普段はあまりしない草のコンディション確認を必要以上にしていた。この様子なら入部試験でしたような奇策は無理だろうなと、貴文は苦笑した。

 一方、インターハイに出場した推薦組はアップでは普段通りの動きを見せる。『ワールド』で軽いランニングをしながら、観客席に手を振ったりしていた。今日試合をする競技場の観客動員数もそれなりだが、インターハイで使われた神宮競技場とは比べるべくもない。

「それにしても良くあんなテンションでいられるな」

 一人体操のイメージトレーニングをしている聡美を、陽介は羨ましそうに見た。聡美だけは誰に見られようが何を言われようが、全くひるむことがない。むしろ観客が多ければ多いほど生き生きしているようにさえ見える。

 ――そんな風に全員がそれぞれアップを初め、開始時間を待つ。

 貴文はベンチからその様子を眺めていた。

 時間が経つにつれ、陽介の緊張も収まりつつあるように見えた。青海大学戦まで期間が短いので体力的にはマイナスだが、この競技場での経験は大きい。いきなり大舞台では、あがるなという方が無理な話だ。


 そして試合開始時間の笛が鳴る。


 前の試合と違い、最初から振興大学は全力で戦った。貴文も『龍起杯』予選を見据えて、選手を出し惜しみしたりはしない。この日のスターティングメンバーをそのまま次の予選でも使うつもりだった。

 ただその一方で、負けてもいいとも思っていた。

 理由は洋子だ。

 この試合で彼女が何かしけてこないともかぎらない。もし相手大学のチームが買収され、意図的に怪我人を出そうものなら断固抗議し、元日本代表選手として使えるあらゆる手段を講じるつもりだった。最悪試合のボイコットさえも辞さない。

 幸いにも、今のところ審判のジャッジに不可解な点はなく、相手チームも特別ラフプレーが多いわけではない。貴文の目から見て多少荒い気もするが、それがチームスタイルなのだろう。追い詰められたチームにはよくある状況だ。

「あっ!?」

 それでもやはり怪我と無縁ではいられない。

 相手チームの足が松之助にかかり、松之助は大きく転がり足を押さえて蹲る。

「あのやろう!」

 広子が不穏な声を上げ、救急箱を持って松之助に駆け寄ろうとした。

 それを起き上がった松之助が手で制す。数回足踏みをした後、また走り出した。どうやら見た目ほど、たいした接触でもなかったらしい。ああして豪快に転げ回る方がえてして怪我の程度は低いものだ。

 貴文は経験上それが分かって動かなかったが、実際に走り出した松之助の姿を見てほっとする。やはり確証がないと安心は出来ない。

 それ以外は特に危険なシーンもなく、振興大学がリードして前半は終わった。

「とりあえず前半はまずまずだった。後半もこの感じで行け」

『はい!』

「それと尾崎はぶつけたところ見せろ」

「あ、はい」

 松之助はシューズとソックスを脱ぎ、ぶつけたあたりを貴文に見せた。

 ソックスにはわずかに血が滲んでいたが、疵は擦過傷程度で縫う必要もない。傷口から少し離れたあたりを触っても特に反応がないので、予想通りの軽傷だった。広子がすぐに絆創膏を貼り、その様子を見ながら貴文は考える。

(交代するほどの怪我じゃあないんだが……)

 時期が時期だ。

 この怪我が元で大怪我をしてしまったら目も当てられない。

「監督!」

「ん?」

「俺達が全力のプレーをするなら、監督も全力の采配をするべきです。ここで俺を交代するのは逃げじゃないんですか?」

「……!」

 貴文は雷に打たれたようなショックを受ける。

 確かに松之助の言うとおり、ここでの交代は逃げだ。そもそも負けても良いと考えるべき試合ではない。今までの消化試合とはわけが違うのだ。

 どうやら相手が洋子と決まった時点で、他ならぬ自分が一番嫌う逃げ腰になっていたようだ。

「……ッチ! 老いては子に従え、か」

「監督?」

「このまま続行だ。選手交代はせず、当初の予定通り行く」

「はい!」

 絆創膏を当てただけで、松之助は試合に復帰する。広子は少し心配そうな顔をしたが、貴文は不敵な笑顔で答えた。

 もちろん内心は平静とは到底呼べない状態だ。ああは言ったものの、怪我の心配が消えたわけではない。

 だが監督として、教え子に無様な姿だけは見せられない。自分でそう言った手前、なおさらだ。

 松之助の勇士でエンジンがかかったのか、チームは前半以上の猛烈な攻めを見せる。『たんたん草』は激しく削られ、『ライン』が相手陣内に何本も描かれる。あまりの気迫に相手チームは飲まれ、強引なプレーさえ見られなくなった。

 そして試合途中で相手がギブアップをし、予想以上に少ない疲労で試合を終えることができた。もし松之助を下げバランスを崩した状態だったら、試合が長引き、余計に怪我をしたかもしれない。この結果は貴文にとって最善とも呼べるものだった。

 そしてそれは出場した部員達も変わらない。

 

 ……ただ1人を除いては――。


「納得出来ませんわ!」


 『ワールド』に入った瞬間試合が終わってしまった聡美は、帰り道の電車の中でもずっと文句を言い続けるのだった……。


「……あ」

 常磐線が中川を越えた頃、不意に広子が声を上げた。

「どうしたんヒロ?」

「そういえば今日海青大学も試合あったのよ。しかも都合のいいことに、競技場の最寄り駅が途中にあるの。みんなで見に行かない? 試合が早く終わったから今なら後半に間に合うわ」

「えぇ……」

 聞いた沙織が本当に嫌そうな顔をする。それは他の部員も同様だった。誰も彼もせめて試合までは洋子と顔を合わせたくなかったのだ。

 その点に関しては広子も同じだ。

 だが、

「でも今まで青海大学に行ってスカウティングしてきたけど、部外者完全シャットアウトで一度も練習風景見られなかったの。これが試合前に偵察できる最後のチャンスなんだよ!」

 ――という切実な理由があった。

「そういうことなら仕方ない。お前ら降りるぞ」

『・・・・・・』

 監督命令は絶対だ。なにより一番会いたくないはずの人間からそう言われると、断ることはできない。


「それじゃあなるべくあのオバさんの目に付かないように静かにな」

『・・・・・・』

 電車を降りると貴文はまずそう言い、部員達は無言のまま競技場に歩いて行った。

 緊張の度合いでは、今日の試合よりはるかに上だ。


 そんな思いまでして競技場に言ったのだが――。


「……誰もいないじゃん」

「いませんね」

 現在試合をしているはずの競技場はもぬけの殻だった。

 貴文は広子を少し冷たい目で見る。

「いや、絶対今日試合でしたから!」

「となると、向こうもギブアップで早く試合が終わったのか?」

「と、とりあえず係の人に来てみます!」

 広子は『ワールド』を掃除していた従業員らしき初老の男性に話を聞きに行った。

 三言二言言葉を交わすと、頭を下げすぐに戻ってくる。

 あまりに急ぎすぎてこけたが、広子にとっても部員にとっても日常茶飯事だ。

「そもそも試合自体なかったみたいです」

「なんでだよ!?」

「あのおじさんは理由までは知らないみたいで……。とりあえずネットで検索してみますね」

 広子はスマートホンを流れるような動作で華麗に操る。選手としては三流以下でも、こういった能力は部員の誰も適わない。とにかく段違いに手先が器用だった。

「……あ、ありました。これが理由ですね。えっと、なになに、「当該試合の大学から土壌汚染の恐れがあると申告があり、調べた結果重度の汚染が判明し、『ワールド』の整備が改めて必要、と……」」

「聞いた事ない理由だな。『たんたん草』を成長させるための薬剤が環境に悪い事はどこかで聞いたが……。とはいえシーズンオフには土ごと草植え替えてるんだから、そうそう問題なんて普通ないもんだろ?」

「それですよ。海外だとそこらへん適当みたいですけど、日本は厳しい基準があって、毎回試合前に検査して、特定の化学物質が一定以上検出されたらシーズン中でも『ワールド』が使えなくなるんです。まあ滅多にあることじゃないですけど」

「その滅多にないことが起こったわけか」

「はい……」

 広子は重々しい様子で頷く。

「これって偶然なのかな……」

「さすがに……」

 未央の呟きに隆は首を振った。

 その思いはその場にいる全員が同じだ。

「確かに体力面を考えれば予選前は一週間空いた方がいいが、普通ここまでするか……」

 その執念に貴文は何も言えなくなる。

「えっと、ど、どうしましょう……」

「どうしようもなにも、試合ないんだから帰るしか無いだろ。後お前ら本当に身の回りのことには注意しろよな! 特に恋愛関係!」

『・・・・・・』

 全員が無言で頷く。

 「いやお前は関係ないだろ」という翔に対する沙織のツッコミも、この時ばかりはいつものキレがなかった……。

「しかし、あっちがその気ならこっちにだって考えがあるぞ。見てろよあのババア……」

 貴文が物騒な笑みを浮かべる。


 部員達がその意味を理解するのは、それからしばらくの時が必要だった……。


 そして部員達の気の抜けない日々が続く。

 それはプライベートだけでなく練習中や授業中も同じだった。

 幸いにも試合当日まで明らかな妨害はなかったが、地味な嫌がらせは予想通り行われた。SNSや某大型掲示板を使った誹謗中傷や、美人局的な異性の接近など、数え上げると切りがない。しかも「用が出来た」と貴文が部を離れる機会も多くなった。

 ただ、部員達全員洋子のあまりのやり口を見ているため、今更その程度では動揺したりはしなかった。唯一翔だけは美人局に簡単に引っかかりそうになったが、そこはたまたま一緒にいた沙織が現実を見せて事なきを得た。


 そしてついに振興大学ザバル部員は、無事に決戦の日を迎える。


 その日は朝から晴天で暑かった。

 暦の上では6月だが、もう7月と言って良い時期でもある。

 それから『たんたん草』が暑さで枯れ始める夏を挟んで、秋からいよいよ『龍起杯』本戦が始まる。

 本来出場が確定している大学にとって、この時期は飛躍のための期間で、予選など他人事に過ぎない。だが出場が確定している大学の学生達も、この日は皆冷静ではいられなかった。

 そんな学生達の熱に神様も影響されたのか、今日は天気予報の上でも雲一つない快晴だった。

「ついに着たか……」

 真っ先に信濃町の駅を降り、ホームに立った翔が言った。

「いや、なんでお前がここでかっこつけるんだよ!?」

「え、ああ、もしかしたらどこかで見ているファンの子がいるかもしれないと思って……」

「お前あのババアの罠にかかりそうだったことといい、ホント女に弱いな」

 異性に全く興味が無い春樹は心底呆れた。そんな春樹の方に彼女がいるのだから皮肉な話である。

「でもついにここまで来ましたね。私、話を聞いたときは正直無理だと思ってました」

「奇遇だな、俺もだ」

 貴文と広子は最後に電車を降りる。

 準々決勝から試合は全て神宮にある新国立競技場で行われ、注目度も一気に上がる。中にはダイジェストではなく、最初から最後までテレビ放映される試合があるぐらいだった。

「まさかそれがうちの試合になるなんてな……」

「監督?」

「いや、久しぶりに試合がテレビ中継されるらしいんでちょっと、な」

 テレビ局から中継の打診を受けたのは、試合前日だった。打診と言っても、放映権は学ザが持っているので、実際は事後確認だ。「嫌だ」と言っても、「諦めて下さい」という答えしか返ってこない。

 とはいえ、振興大学としては断る理由も無い。学生スポーツは勝敗も大事だが、それ以上に宣伝が重要だ。とくにスポーツで志願者を増やそうとしている大学はなおさらで、テレビ中継の与える影響は計り知れない。

 また、テレビが介在すれば、洋子も卑怯なプレーや手段は取りづらくなる。ダーティーなやり口は、彼女のバックにいる会社にもダメージを与えるのだ。女王様のような彼女とて、なんでもできるわけではない。

 おそらくテレビ中継のお膳立てをしたのは、福原学長だろう。あの老いぼれは普段何もしていないように見えて、その実裏ではしっかりと布石を打っている。敵に回すと怖いが、味方にすればこれほど頼れる大将もいない。

 振興大学一行が関係者口から入ろうとすると、そばで待機していたマスコミ関係者達が一斉にシャッターを切る。

 その数は10人を下らなかった。いくら『龍起杯』予選準々決勝とは言え、異例とも言える取材陣の数である。そのシャッターのほとんどは選手ではなく、貴文に向けられていた。

「やっぱり監督の影響力はすごいですね!」

「なんか売れない歌手が、昔1発だけ当てた曲で地方巡りしてるみたいな感じがして素直に喜べん……」

 松之助の賞賛もあまりいい気はしない。

 同じようにいい気がしない人間が教え子にも一人。


「キャーグリーンくーん!」

「尾崎君こっち向いてー!」

「沙織ちゃんかわいー!」

「丸山さん素敵ー!」


 取材陣の注目は貴文に集まっていたが、ファンの声援は貴文より選手達に集まっていた。ファンは同年代が多く、選手の方がより親近感が持てるのだろう。選手達はまるで芸能人になったかのように、ただ歩いているだけで黄色い声援が浴びせられる。マスコミによる取材も解禁していたので、それなりに選手達の顔も知れ渡っていた。

 特に前述の4人は特に人気が高かった。最近は練習まで見に来るファンも増えている。振興大学は青海大学と違って非公開練習はしていないので、見ようと思えば誰でも見られた。マスコミに露出するまでは地元のザバルファンや、暇になった主婦ぐらいしか練習を見に来なかったが、今は部外者の方が多いぐらいだ。


 それにも拘わらず。


「なんで俺にはファンがいないんだ……」

 一際身長が大きく見つけやすい存在でありながら、どんな女性も翔には声をかけなかった。それどころか、視線が合おうものならすぐに逸らされる。

「ひでえ……」

「ひどいのはお前の顔だ! 必死すぎるわ!」

 沙織にバシバシ肩を叩かれる。実際翔の目は彼女を見つけようと終始血走り、チームメイトでも距離を置きたくなるほどだった。

 最終的に選手控え室のロッカーに到着したときは、松之助とグリーンはかなりのプレゼントを受け取り、他の部員達も何かしら貰っていた。完全に手ぶらなのは翔だけだ。あまりに哀れに思った沙織から、荷物係として花束は受け取っていたが。

 元プロである貴文は、このあたりはリベラルなので受け取るなとは言わない。なにより叱りつけることによって、試合前のチームの空気を悪くしたくなかった。

 実際、部員達は芸能人のように扱われ浮かれてはいるものの、それで緊張も解け、テンションも上がっている。チーム状況としては悪くない。

 そんな中で貴文はスターティングメンバーを発表した。

「『フラッター』国府田」

「押忍!」

「『フロント後』小見川」

「心得たでござる」

「『左ライト』本宮」

「はい」

「『右レフト』小野」

「うっしゃあ!」

「『マネ』近藤」

「へーい」

「『前バック』尾崎」

「はい」

「そして……『シッカリ』三上」

「は……『シッカリ』!?」

 『シッカリ』で名前を呼ばれたことに、隆は唖然とする。

 てっきり今まで通り、陽介が出場して、自分は控えだと思っていた。なによりこれまでの試合で、『シッカリ』での出場は一度もない。リーグ戦の消化試合でさえ、使われることはなかった。それがぶっつけ本番で指名されるとは、夢にも思わなかった。それにこれでは貴文の嫌う0トップだ。

 隆が絶対に無いと思った理由はそれだけでは無い。

「その……僕はそもそも誰をマークすれば良いんですか?」

 『シッカリ』は相手チームに中心選手がいてこそ成り立つポジションである。前の試合を観た限り、青海大学には中心選手がいない。0トップで、各々がそれぞれの意志でプレーしているようだった。

「確かに今の青海にはマークするべき人間はいない。だが、あのオバさんは絶対に何か仕掛けてくる。俺はそれを確信している。それから対応してたんじゃ間に合わないし、交代枠の無駄だ。大方あの思い込みの強いオバさんのこと、お前は『シッカリ』を卒業したと思ってるさ。そこが俺達の最大の武器でもある。お前は日本一の『シッカリ』だよ。なんせ俺が直々に鍛えたんだからな」

「監督……」

 隆の『シッカリ』の練習はいつも貴文が務めていた。『シッカリ』がマークする相手は必然的に『スターリー』が圧倒的に多く、貴文は『スターリー』がされて嫌なこと、自分がされて相手を殺したくなるようなことを徹底的にたたき込んだ。その結果本当に殺されることになっても本望だろうと言ったときは、隆から本気でひかれた。貴文は隆のサブポジション習得以上の熱意で、隆を『シッカリ』として育てていたのである。

 そこまでしながら実戦で使わなかったのは、まさにこの日のためだった。

 ……と今の貴文は思っている。

「もし青海のスタメンが前の試合通りなら、『コンダクター』としてプレーし、前半だけで小森と交代する。小森も控えになったからって気落ちしたり、油断するな。前半はあのババアの出方を窺い、隙を見せたときに全力でぶっ込む。場合によっては丸山と一緒に入れることもあるから覚悟しておけ!」

『はい!』

 3人は力強く返事をした。

 スターティングメンバーを発表すると、それを書いた用紙を審判に提出し、試合開始の笛を待つ。それまでは相手がどんなメンバーで来るか、お互い分からない。もちろん提出後に変えることは、急病といったような医師の診断書が必要になるほどのアクシデントでなければ不可能だ。

 貴文は自ら用紙を持って行き、審判に渡そうとした。この作業は監督がしなければいけないと決まっているわけではなかったが、青海も洋子が提出し、期せずして監督同士が顔を合わせることになった。

「実は今まで黙っていたんだけど、この日のために素晴らしいザバリストを用意したの」

「でしょうね」

 貴文の予想通りの展開だった。あの洋子が誰でも1人だけ使っていいというとんでもルールを活用しないわけがない。おそらく実業団のトップレベルの選手でも招聘したのだろう。はもうシーズンに入っているので、呼ぶことはできない。

 だが、その予想に関しては完全に悪い意味で裏切られた。

「今更隠す必要もないから紹介するわ。ミスタージョンソンよ」


It is a pleasure to see you after such a long time!.」


「・・・・・・」


 貴文は差し出された手を反射的に握り返そうとしたが、それすらできず全身が硬直した。


 ライオンハート・ジョンソン――。

 国内プロどころか、世界一といわれているアメリカのリーグのトップ『スターリー』である。現在リーグが組合のストで休止していると聞いたが、まさか日本の、それも学生の試合に参加するとは夢に思わなかった。

 そしてジョンソンは貴文にとって、1流プレーヤーであるだけではない――。

「うわー、すげー人。これインハイの決勝より人がいるんじゃ……」

 一番早く着替えた松之助が『ワールド』に現れる。

 自然と貴文を視線で追い、そのすぐ前にいたジョンソンにも気付いた。

「え、なんで外人……ライオンハート・ジョンソン!!!」

 松之助のヒトミが一瞬にして敵意に染まる。

 それは行動にも表れ、松之助は本当にジョンソンに殴りかかろうとしていた。

 それを貴文が力尽くで止める。

 しかしそれで松之助の怒りが収まるわけでもない。

「ファック! テメーどの面下げて日本に来やがった! この人殺し!」

「落ち着け、彼は今日選手としてきたんだ。手を出せば反則負けになる」

「・・・・・・」

 ジョンソンにも最初の暴言は理解出来ただろうが、それでも何も言わなかった。

 貴文にしても松之助は止めても、暴言に対する謝罪はなかった。

 この男に対しては、あまりに多くの感情が渦巻きすぎている。


 自分を引退に追いやる大怪我を負わせた、このライオンハート・ジョンソンには。


 ジョンソンは当時売り出し中の若手で、決勝まで『打点王』争いをしていた。その一方で若々しさから荒いプレーも多く、反省文も何枚も書かされていた。決勝ではそんなジョンソンの荒さを見抜いた貴文に翻弄され、孤立し、ついに悲劇が起こった。

「お前があんなことしなければ! どう見たって間に合わなかっただろ!」

「アレは同じ『ワールド』に立った人間にしか分からないことだ。お前が横から口を挟むな」

「・・・・・・!」

 松之助の身体から力が抜ける。

 そこでようやく貴文も松之助から手を離した。

 そして、差し出されたままだったジョンソンの手を、何とも言えない表情でようやく握り返す。

「あら、てっきりその場で殴りつけるかと思っていたのに」

「私があなたの年甲斐もなく醜い厚化粧を殴ることはあっても、彼を殴ることはありませんよ」

「なんですって!?」

「2人とも落ち着いて!」

 審判が一触即発の貴文と洋子の間に割って入る。握手も自然と離していた。

 騒ぎを聞きつけ両校の選手が『ワールド』に現れ、ジョンソンの姿を認めた振興大学部員のほとんどが絶句した。

「何が起こったのでござるか? あの黒人の選手はそんなに有名でござるか?」

「現アメリカ代表『スターリー』で監督を引退に追い込んだ人間さ。絶対に間に合わないタイミングで監督を後ろから追いかけて、思い切り背中を蹴りつけたんだ。それで監督は背骨をやって即引退。もし当たり所が悪ければ、そのまま死んでたって話もあるぐらい悪質なプレーだった。たとえそれが原因でアメリカチームが崩壊し日本がワールドカップを優勝できたとしても、絶対に許されるプレーじゃない。この俺でもあまり冷静ではいられないね」

 グリーンの問いかけに、秋雄は今まで見たことがないほど冷たい声で答えた。

「なんかすまんな」

「先輩……」

 生来の口の軽さから内部以上を漏らしまくっていた青海大学の選手が、春樹に近づき謝る。

「正直あの人見たときはオレらも全員びびったわ。青海にだって当然のように内田さん尊敬してる奴もいるからな。前の試合スタメンで出て、今日の試合ベンチ外になったヤツなんていきなり「人殺し!」やったで」

「そりゃチームメイト人殺し扱いするヤツは試合には出せないっすね」

 相手チームなら問題ないけど、と春樹は心の中で付け加える。

「まあでもあの人もめっちゃ反省してるし、ホンマモンのクズだったらトッププロになんてなれるわけないんや。オレらにしても、せっかくの試合を恨み辛みで戦いたくなしな。あのババアはホンマにしゃーないけど、ていうか殺されてもなんも文句言わんけど、そこだけは分かってくれんか?」

「先輩……」

「そんじゃ、良い試合にしようや」


 様々人間の様々な思惑を乗せ、振興大学にとっての最後の大一番は始まった……。

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