三線を弾く少女-2

「…………」

 俺が黙っていると、霧島は目を開けて言った。

「ごめん、つまんない話をした」

「いや、別にいいぞ」

 三線弾きの少女は、自らの相棒を裏返し、弦が貼ってある側を自分に向けると、弦と本体の隙間から小さななんとも言えない形状のパーツを抜き取った。

 それからそばのケースを開き、その三線を中にしまいこむと、片手で持っていたその小さなパーツも一緒にしまい、ケースを閉じて二か所の金具をパチンパチンと留めていく。

 留めながら、彼女はケースに向かって話しかけた。


「受験が、控えてるね」

「ん? ああ……そうだな」

 随分と話変わりしたものだ。

 まあ、高三が二人集まれば、受験の話になることは少なくない。とりわけ俺の場合は傍にあの松永がいるせいで、その度合いは七割増しだ。

「毛利くんは、大学行くの?」

「多分な」


 親も教師も塾の人間も、学年一位の俺を持ち上げ、国立のトップへ行かせようとしている。

 過去問も嫌というほどやったし、模試の判定も毎回悪くない。国立は難関私大のような奇問は出さず「シンプルに難しい」タイプだから、仮に今年の問題傾向が大きく変わったとしても培ってきた地力で問題なく解ける。体調不良や慢心など特別なことさえなければ、受かるだけなら今の学校で一位をキープし続けているより楽だとさえ思っている。

 しかしながら、さすがに最近は少し周囲の声が鬱陶しくもあった。

 そんな悩みを目の前の彼女に語ったところで嫌味にしかならないだろうから、黙っておくけれど。

 代わりに答えやすそうな質問を振ってみる。


「霧島は、行くとしたら音大とかか?」

 そう訊くと、彼女は首を横に振って。

「行かない。普通の大学を受ける」

「そっか……そんなにシャミ……いや、三線が巧いのにな」

 気を利かせて言ったつもりだったが、少女の顔は曇る。

 そして、意外な言葉を口にした。

「私が三線を弾くのは、遅くても夏が終わるまで」

「え……」

 そんなに巧い演奏をするのに、どうして――。

 俺がそう問おうとしたとき、逆に彼女からの問いが俺を遮る。

 綺麗な、小さく高く透明な声で。


「毛利くん、三線は好き?」


 頭一つ高い俺を見上げ、俺の目をじっと見つめて、彼女は再び問うていた。

(いや、それはどっちかというと俺がお前に聞いてみたいんだが……)

 俺が黙っていると、霧島は三線のケースを持ち上げて、通学鞄も肩にかけていた。

「よかったらまた明日も、聴きに来て」

 そして、雑踏の中に消えていく。




「ただいま」

「優ちゃん、あんた最近帰りが遅いじゃないの。どこで油売ってるの?」

 電車に乗って帰宅して早々、出てきた母親にきんきん声でそう詰め寄られる。

 俺はワイシャツを緩め、少し考えた。

(さて……路上で三線の演奏を聴いていたなんて言ったら、どう反応するのだろう)

 試してみたくもあったが、「そんなことしてちゃダメじゃない、受験生なんだから!」と、どうせ甲高い声を上げてやめさせようとするだけだ。

 だから、嘘をつく。


「松永と居残りで勉強してたから」

「そーお? それならいいけど」

 こういうときだけ、松永の名前は役に立つ。奴は俺の母親とも面識があり、自分が成績優秀であることを彼女にアピールしたうえで、自分以上に頭の良い毛利くんとお付き合いできて光栄です、なんて白々しくも言って大いに母から好感を買っていたからな。

 松永くんとなら――と母も思っているのだろう。彼女は話題を切り替えた。

「今日ももうちょっとしたら塾でしょう。もう夏休みも近いんだから、頑張りなさいよ。苦手は今のうちに潰しておくこと。それと……」

 いつものことだった。最後まで聞かず、俺は階段を上がって自室へと向かった。

 部屋の扉を閉め、鞄を放り投げ、服も着替えずベッドに横になり、天井を眺める。


 最近、不思議に思う。

 俺は中学生の頃まではそこまで勉強ができる人間ではなく、むしろサッカーに興じていたせいで成績の悪い体育会系だった。成績が悪いことを、親や教師から何遍も指摘され、嘆かれ、それでも勉強する気にはなれなかった。

 そこには、目上の言うことに敢えて背いてやろう、という中学生特有の反抗期であったとも、今では冷静に思える。

 そんな俺は夏の引退試合を前に足を怪我し、少し残念だったが他のサッカー部三年生より一足早く引退という形になり、それからは他にすることもなかったので勉強に打ち込み、今の県内トップの進学校に入学した。

 意図的ではないにせよ俺は、どちらかと言えば劣等生だった立場から、優等生へと転身を遂げたのだ。


 が、親が喜んだのは最初だけで、今では当時と同じような現象が繰り返されている気がする。

 何かにつけ俺の一挙手一投足を指摘し、文句をつける。

 それは昔と変わっていない、昔に戻ったような感じだった。

(俺はいったい、どこまで高みを目指せばいいんだ……?)

 もちろん、目指す義理などない。俺は親の子であっても、親のロボットではないはずだ。

 それでも、少し考えてみる。


 中学の頃の俺は劣等生で、親や教師に勉強しなさいと言われた。

 勉強して進学校に入ったら、親に一位を取りなさいと言われた。

 一位を取ったら、親や教師に国立のトップに入りなさいと言われた。

 では、もし俺が国立のトップに入れたとしたら、次に周囲は何と言うのだろう。

(首席で卒業しろ、か、年収一千万の仕事につけ、か、政治家になれ、か、世界に羽ばたけ、か……)

 なら、もし仮に、できるできないは別として国立トップの大学を首席で卒業し年収一千万の仕事を手に入れ政治家になり――政治家をしながら仕事はできないが――世界に羽ばたくことができたとしたら。

「次、宇宙に行けとか言われたりしないだろうな……」


 考えるだけで空恐ろしくなる。

 だが、これまでのことを考えると、ありえないとも限らない。

 それが、一番恐ろしい。

「親や教師って……そういうもんか……? 納得や妥協って、ないものなのか……?」

 考えているとポケットの携帯が振動した。ディスプレイを見ると、メール着信。送り主の名を見て、ただでさえ沈み気味だった俺の気持ちが余計落ち込む。

「松永……少しは空気読め……」

 いない相手にそう言っても無益だが、言わずにいられない。

 俺は送られてきたメールも見ずに、着信があっても振動さえしないサイレントマナーモードに携帯の設定を切り替えた。これで今日はこれ以上送られてくる奴のメールに『気がつかなくて』済む。塾から帰って復習をした後、寝る前にでもまとめてメールを削除しよう。


(アドレス変えても、聞き出そうとしてしつこいし……こうするのが一番、精神的に楽だよな……)

 返信がなくても健気にメールを送ってくる松永だが、俺に言わせれば変態ストーカーと紙一重だ。そろそろ訴えても勝てるのではないかと思えてくる。

 そんなとき、朝出かける前にセットしておいた目覚ましが机上で鳴った。

「やばっ……もう塾の時間か……」

 三線の演奏を聴いていたこともあって時間がタイトになっていたことにいまさら気づいた。ろくに休んでもいられない。

 俺はアラームを止め、制服のまま塾のテキストをそろえて鞄に突っ込むと階段を下り、バナナを一本だけ食べてから家を出て自転車に跨った。




 基礎英文解釈、ハイレベル私大英語、長文読解と英語漬けの三コマが終わり、自転車を押しながら塾の仲間たちとともにセンター試験の話をしつつ駅へ向かう。

 塾から見て俺の家は駅を越えた先にあるので、高架線の駅を特に何の感慨もなくくぐろうとして――。

 そこでふと、ギュイイイン、と甲高い音が聞こえた。

「なんだ、ギターの路上ライブか?」

 塾の仲間の一人が間延びした声を上げると、もう一人が「キーボードもいるな」と会話の流れを意識したレシーブでもって返す。

 俺はというと、内心で舌打ちをしていた。


(あんなの、うるさいだけだ)

 酷く耳障りなギターの音にいらついてくると、その近くにたかっている人間たちまで鬱陶しいと思えるようになってくる。

 なぜあんな演奏に、導かれるのかと――。

 石でも投げてやろうかと思ってそこらを探したが、そう都合よく落ちてもいない。落ち着いて考えてみる。ああ、きっと受験のせいで精神が参っているから、そんなことを考えるようになるのだろう、と。

 半ば強引に結論にたどり着いた俺は押していた自転車に跨り、力強くペダルを踏んでその場から去った。

 後ろから俺の名を呼ぶ声が小さく聞こえたが、放っておく。

 あんなギターの音をあれ以上聞いていたら、俺の記憶に残っているあの音色が霞む。

 懐かしくて優しい、彼女の三線の音色が――。




「好きなんだ」

「えっ……!?」

 翌日、三線弾きの少女である霧島瑠那と三度目に会った際、彼女は出会い頭に俺に向けて言い放った。

(き、霧島が俺を……?)

 唖然とする俺に、霧島はもう一言。

「三線が、好きなんだ」

 そして目を細めて、にこーっ、と笑う。


「ああ、そっちか……」

「えっ?」

「いや、なんでもない。好きだぞ、三線」

 恥ずかしい勘違いを悟られないよう、平静を装って俺は答えた。

 心から嬉しそうな笑顔を見せた、三線少女。

 それはおそらく、自分が三線を好きだから、同じように三線を好きな者を見ると嬉しくなる、と言った心情の表れだろう。


(そんないい笑顔をされたら、やっぱり勘違いしたくもなるもんだろ……)

 沖縄出身だと言っていた彼女は、その笑顔にはどことなく南国の日差しを想像させる物がある。儚げな表情も、今は明るい。

(い、いかんいかん、なにを惑わされているんだ俺は! 俺が好きなのは三線であって、別にこの女が好きじゃないんだから……)

 そう自分に言い聞かせ、それでもちらりと彼女を――顔を見るとまた惑わされそうだったから少し下を――見た。そしてつい、目に入ったそれに反応する。


(うわっ……なんだよあの盛り具合……! まさに南国果実じゃないか……沖縄の日差しを燦々さんさんと浴びて育っちゃいました、ってやつか?)

 いや、これは不可抗力だ。俺も男なのだから、誰もそんな俺を責められないだろう。

 が、彼女は俺の不純な視線に気づいたのか、うつむきがちな俺の顔を覗き込んで聞いてくる。

「どうしたの?」

「い、いや、なんでもない。好きだぞ、三線」

「それ、二回目」

「あ、ああ。すごく好きだから二回言ってみた。なんならもう一度言うぞ」

 動揺を必死に隠した俺がそう言うと、霧島はくすくすと笑った。

 まあ、うまく誤魔化せたようでなによりだ。


「それはそうと、今日は私服だな」

 その話題はそこそこに、俺は目の前の彼女にそう振ってみた。そう、先の南国果実の初めての発見も、今までの彼女が体のラインの目立ちにくい学生服を着ていたからなのだ。

「今日はテストだったから、早く終わった。だから家に帰って着替えて、ここまでやってきた」

「なるほどな」


 ちなみに俺のところではテストはもう少し先だ。高校によっては六月の終わりからテスト、その後にすぐ夏休みという学校もあり、霧島もそれに準じるようなところに在籍しているのだろう。

「毛利くんが来てくれたから、さっそく弾こうかな」

「なんだ、俺を待ってたのか?」

 意外に思って訊いてみると、こくりと頷く三線弾きの少女。

「別に俺を待たなくても、弾いてたっていいじゃないか」

「そうなんだけど」


 霧島は曖昧に笑うと、そばのベンチに腰掛け、ケースを開いて三線を引っ張り出した。

 ケースの中に入っていた、昨日見たあの小さくて妙な形のパーツも取り出し、弦と本体との間にセットしている。それは何か意味のあるパーツなのだろうか。

 そしておもむろに構えて、三本の弦を軽く弾くと、てん、てん、てん――と聴き慣れた彼女の三線の音が響く。

「ん……? ズレてきたかな……」

 が、どうも納得のいかない表情の三線弾き。

 三線をいったん体から離し、弦を見つめている。音がズレているらしい。


「俺には全然分からなかったけどな」

「たいしたズレじゃないから大丈夫」

 そう言って彼女は、三線の先端部分にくっついているあの三つのかんざしのような部分を握ると、ぐい、とひねった。ひねって、また弦をはじき、またひねる。それの繰り返し。

「調弦か?」

「そんな感じ。私たちは、チンダミ、っていう」

 霧島瑠那は俺のほうを見ずに答えた。

 この場合の『私たち』とは、三線を弾く人たち、ということでいいのだろうか。


 とにかく三線弾きの彼女は、真面目な顔で調弦ことチンダミを続けていた。

 そう言えばギターなどではチューナーなどの器具を用いて調子を合わせるらしいが、三線においてはそういったものは存在しないのだろうか。

 ということは、調弦には他の音をどこかから持ってきてそれに合わせるか、己の勘を頼りに音を調整するしかないわけだ。

 今の彼女は明らかに後者だ。他の音を用いずに、自力で音を整えている。


(こいつ、何年くらい三線を弾いてるんだろう)

 自分で音を調整できるなんて、相当幼いころから練習を重ねていたのだろうか。

 俺が考えていると、彼女はいつの間にか調弦を終えたようで満足げに頷いている。

「うん、これでよし……」

 そして改めてベンチに深く腰かけ、あの懐かしくも優しい音色を奏で始めた。

 次第に人が集まり、ため息が漏れ、なおも演奏は続いていく――。

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