第一楽章 三線を弾く少女

三線を弾く少女-1

 帰りのホームルームが終わっても、俺は机に両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せたまま微動だにしなかった。

「よう、帰ろうぜ」

 うるさいクラスメイトで自称俺の親友の松永が声をかけても、気づくのにしばらく時間がかかったほどだ。

 俺は今日一日中、ほとんどこの姿勢のままで、昨日のことを思い返していた――。




 その少女は周りの視線が嫌なのか、目を閉じたまま三味線を弾いていた。

 けれど彼女のその表情は、とても穏やかで、楽しそうで。

 素人目にも、三味線が好きだから弾いている、という感じがした。

 俺は周囲の人間に交じって、彼女の三味線の音にしばし聴き惚れていた。

 ゆっくり歩くような緩やかなテンポ。

 懐かしく、優しく、どこか物悲しさも思わせる音色――。


 巧いな、と思う。

 どの辺が巧いのか、俺は楽器についてはからっきしなので分からないが、とにかく綺麗な音色で人の心に何かを語りかけてくる。

 それはきっと、音を扱う人として優れている証拠だと思ったのだ。


 しばらくして音が止まり、それから彼女は目を開いて座ったまま軽く頭を下げた。今日はこれでおしまい、というように。

 何人かは拍手し、何人かはもう用は済んだとばかりに立ち去っていく。

 俺は彼女の演奏が終わっても、その場に立ち尽くしていた。

 あまりに感慨深くて、今の演奏はなにか日常からかけ離れた、ありふれたものではない特別なものだったのではないかと思えるほどに。

 そんな、傍で聴いていた俺を奇妙に思ったのか彼女はふいと顔を上げ、俺のことを見つめてこう訊いた。


「…………三線さんしんは……好き?」


 何を言われたのか分からなくて、俺はつい訊き返してしまった。

「さん……しん……?」

「そう、三線」

 そんな俺に、彼女はもう一度繰り返した。

 今度は、その楽器を撫でながら。

 そこでなんとなくわかった。

 この楽器は、三線というのだと。


「三味線だと思ってた」

「似てるけど、違う」

 俺が言うとその女の子は、ゆるゆると首を振って否定する。

「三線」

「……サンシン……」

 俺が繰り返すと、その少女はこくんと頷く。


 彼女は口数が少なかった。

 必要なことしか口に出さないが、その喉から発せられる声には透明感があり、俺の気持ちをなだめるかのよう。

 いま彼女が零した「サンシン」という響きにも、どこかそんな優しさが込められていて。

 それに軽い陶酔さえ覚えていると、彼女はもう一度先の問いを繰り返す。

「三線、好き?」

 俺は戸惑った。彼女に、何と答えればいいのだろう。


「……なんというか、今日初めてその楽器の音を聞いたばっかで、好きとも嫌いとも……」

 正直に答えてみたら、サンシン弾きの女の子は少しだけ落ち込んだように見えた。

「そうだよね……」

「いや、その、なんか悪……」

「……じゃあ」

 俺が言い切る前に、少女はうつむきがちな顔を上げて。


「明日も、ここで演奏する。だから、よかったらまた聴きに来て」

 そう言って彼女は今度こそサンシンをケースにしまい、ひょいと肩にかけて立ち上がる。

 それから踵を返し、雑踏の中に消えていった。

 というより、駅へ向かって行ったわけで、俺と行く先は同じなのだが。

(変な女の子だな……)

 どうしてか俺は、しばらくそこに立ち尽くしたまま動けなかった。

 やがて無意識に口に出たのは、彼女の透明な声で紡がれたその楽器の名前。

「……サンシン、か……」




「ああ、分かった。さてはお前、昨日の三味線女のことが気になってんだろ? いやー、あれはけっこう意外だったからな。おまけにちょっと可愛いし」

 松永の声が、回想していた俺を現実へと引き戻す。

「だとしたら?」

「お前がそういうことに現を抜かさないか心配でな」

 松永はひょろっちい体を反らして言い放つ。

「俺とお前はこの学校のツートップで、二年と少しやってきたじゃないか。この時期にお前がそんなことでギア落としてみろ、ツートップの一角が崩れてしまうだろ。それに、俺はお前と同じ大学に行きたい。行ってそこでも勝負したいしな。お前だけ志望校がワンランク下がったりしたら、生涯のライバルである俺はどうすればいいんだよ」


 何かと思えば実にくだらない理由だ。

 この異常なまでに俺に執着する松永という男は、学業の成績でのみ頭の良し悪しを図る根本的にズレた男だ。そしてその基準のみで自分より劣る人間を見下し、自分より優れる俺には尻尾を振ってまとわりついてくる。俺はそんな、痩せ犬のような低俗な奴と仲良くしていたくはない。

 俺まで器の小さい人間だと誤解されそうで、まあ世間の風当たりなど知ったことではないが、それでもできれば俺は静かに高校を卒業したいのだ。

 俺は黙って立ち上がり、鞄を肩にかけて教室から出る。


「おい、待てよ毛利」

 頼んでもないのに追いかけてくる松永。

そんな男に、俺は振り向いて言ってやった。

「ついてくるな。俺はお前のことが嫌いだ」

「俺は好きだぜ」

 聞いちゃいない。

 このやりとりは初めてやったものではなく、むしろ三日に一回は「俺はお前のことが嫌いだ」と言っているのに、返答は同じ。


(はあ……どうしたもんかね……)

 階段を下り、昇降口で靴を履き替え外に出る。

 空は曇っていたが、真夏が近い。蒸し暑さは変わらなかった。

 昨日のあの少女は最後にこう言った。

 ――明日も、演奏する――。

(行ってみるか……)

 どのみち駅前広場での演奏なのだから、俺の意思に関係なくそこまでは行くわけだが。




 また、あの音色が聞こえる。

 駅に着く少し前から耳をくすぐる、昨日とは違う曲。

 それでもやはり、懐かしい音色。

 俺は思った。

 曲が懐かしいのではない。

 彼女のサンシンの奏でる音、それが懐かしいのだと。




「よう」

 演奏が終わり、聴衆が散っていくのを見計らって俺は彼女に声をかけた。

 サンシン弾きの少女は、つい、と顔を上げて応える。

「……聴いてくれて、ありがとう」

「ああ、聴きに来てって言われたしな」

 よく見ないと分からないくらいの角度で、サンシンの少女はぺこりと頭を傾けた。

(そういえば、俺はまだこいつの名前すら聞いてないな)

 気になったので、早速訊いてみた。

「なあお前、名前は?」

「……人に名前を聞くときは、まず自分から名乗る」


 出鼻をくじかれた。

 おとなしそうな子だと思ったのだが、なかなかどうして度胸があるというか。

 が、確かにもっともだ。

「俺は毛利。毛利優佑もうりゆうすけだ」

「私、霧島……きりしまるな。瑠璃のルに、那覇のナで、瑠那」

 俺が名乗ったら、彼女もすぐに教えてくれた。霧島瑠那きりしまるな、か。

 制服は俺の学校の物とは違う。というより俺の高校は男子校なので、彼女が女子という時点で俺の高校ではないのだけれども。

 襟の部分と袖口の部分だけ、紺ではないけれどそれに近いくらいの濃さの青で彩られ、残りの布地は純白のセーラー服を身に纏っていた。知らない高校の服だ。


「よろしく……」

「あ、ああ、よろしくな」

 その霧島瑠那にぺこりと頭を下げられる。別に何をどうよろしくするわけでもないというのに。

 俺はもう一つ訊きたいことがあったので、それも訊いてみる。

「ところで、お前っていくつだ?」

「…………」

 すると霧島瑠那はきょとんとして俺を凝視して、五秒後。


「毛利さんは、女性に歳を訊く……」

 抑揚のない声で言いやがった。

「ああ、悪い……言い方を変えよう、お前って何年生だ?」

「……高三」

「なんだ、俺と一緒か」

「そうなんだ」

 彼女は喋っている途中でも表情をあまり大きく動かさなかった。

 無口、というわけではなく、感情表現が苦手なのかそれとも出さないようにしているのかのどちらかだと思う。


「毛利でいいぞ。タメだろ」

「ため?」

 首をかしげて、不思議そうな顔をするサンシン弾き。

「……この場合は同じ学年ってことだ」

「ものしり」

 知らない人間のほうが少ないと思うのだが。

 どうもこの少女は見た目、そして持っている楽器と相まってどこか浮世離れしている感じがする。

(ほんと、若い子には向かなそうな楽器だよな)


 俺は霧島が未だ携えている、その弦楽器を見つめた。

 丸っこい、ギターで言うならボディの部分に、爬虫類を思わせる皮が張られている。一つ一つの鱗が大きく、厚みもあってなかなか上等そうだ。

「これ、本物の皮か?」

 すると演奏者は頷き、答えた。

「ニシキヘビの皮。本物。蛇の皮を使ってることから、内地では蛇皮線じゃびせんっていう俗称もある。人によってはこの言い方を嫌うけど」

(……内地?)

 言い方に引っかかりがあった。

 まるで自分は、『内地』ではない場所の住人のように――。

 そもそも『内地』とはどこを差すのかすら、俺には分からず。


「質問ばっかで悪いけど……霧島って、どこの出身なんだ?」

「……沖縄」

 聞いてみたら霧島はすぐに答えたが、一方で俺は少しびっくりした。

 別に目の前の彼女の出身地がどこであろうと構いはしないのだが、随分遠いところから来ているものだ。

 沖縄など、俺は行ったこともないし歴史の授業でちょっと聞いたくらいで、身近な感じはしない。その分、彼女が沖縄出身だと分かって驚いたわけだ。

 まるで異国からの来訪者のような――。


「でも、今住んでる東京に移ったのが七歳の時だったから、沖縄でのことはあんまり覚えてないし、あっちの言葉もよく知らない。だから、もうすっかり内地の人間。やまとんちゅ、って言うんだっけ?」

 最後に疑問で締める彼女に、俺は答えを知らなかったので「そっか」としか答えられなかった。

 それから霧島は目を閉じて、何かに浸るような顔をして――。

「三線を弾くとね」

 静かに、ゆっくり、彼女は言葉を紡いだ――。


「沖縄の記憶が、戻ってくる気がする。でも、戻ってこない。あくまで『気がする』だけ……でも、いつか思い出せるなら、って思って、私は今日も、三線を弾いてる」

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