14話 消えた金時計 真実は白い森の中

「リョカン? リョカンって何?」


わたしは聞き慣れないその単語の意味を尋ねた。

私の名前はサキ。黒髪ツインテール、黒いブラウスに黒いキュロットスカート、黒いサイハイに黒いパンプスという、全身黒ずくめの13歳の少女だ。

隣に座っているうちの所長によれば、外見は「可愛いらしい」そうだ。

可愛い「らしい」ってなんだ、と軽く抵抗を覚えたが素直に褒め言葉だと思おう。

「旅館を存じない? これだから教養のない子供はイヤざます」

わたしはムっとしながら、テーブルを挟んで向かいに座る、初老の女性を見た。

群青のキモノに身を包んだ長身。白髪混じりの金髪の後頭部をカンザシでまとめている。目鼻立ちがはっきりしているが、つり目の周りには小じわが刻まれていて、疲れを感じさせる。

彼女は名をイゼットといい、ある依頼のためにこの『ヴォータン傭兵事務所』を訪れた。ここの所長は名をガムといい、わたしの雇い主だ。彼は長身筋肉質でウニのようなツンツンの髪型に三白眼の、二十代後半の男である。

「あなたのような知識がなくてうす汚い子供にでも、優しいわたくしが丁寧かつ上品に教示して差し上げるざます。耳をかっぽじってよく聞くざます」

その物言いには優しさも品性も感じられない。でもここで反抗的な態度を取って依頼人の機嫌を損ねても仕方がない。わたしも大人になったもんだ。

「和都の宿屋のことよ」

沈黙。

それだけ? 前振りが長過ぎない? 子供にもわかるように400文字以上で説明しろ。

和都の宿屋って言われてもピンと来ない。和都がどんなところか知らないし、そもそも宿屋なんか泊まったことがない。こちとら屋根がありさえすれば上等である。

世界を放浪してたイーダさんなら知ってるかもしれないけど、今ここにいない人のことを考えても仕方ない。

わたしが無反応なのを見て

「それで、どのようなご依頼で?」

とガムが彼女に問うた。

彼女はしばらく無言だったが、やがて

「お恥ずかしい話ざますが……」

と話し始めた。

彼女はクロノスの西地区で宿屋を経営している女将だ。和都のリョカンをコンセプトにした高級志向のものである。

経営は順調だったが、ここ近年は芳しくない。その上リョカンから金目のものが盗まれる事件が頻発している。

経営の再建に集中したいのに、コソ泥などに構っていられない。

そんなわけで足元の掃除から–––つまりは泥棒の捕獲をしてほしいということだった。

それって警察の仕事じゃないんですか?

とわたしが言うと

「子供が口を出すもんじゃないざます」

とにべもなかった。ガムは内緒話をするように、口元に手をかざしてわたしの耳元に

「サキ、大人には大人の事情ってもんがあるんだ。落ち目の高級旅館に泥棒が入ったって公になってみろ。立て直しがますます難しくなるだろ」

と言った。

「あーた、聞こえてますわよ。コソコソ話なら小声でなさいまし」

ガムの音量は普通だった。耳がキーンってする。

「これは失敬。で、被害内容はどんなもんで?」

それは腕時計、スーツ、着物、指輪やネックレスの宝飾類そして現金とのことだった。

「質屋で換金しやすそうなものばかりですね。ちなみに泥棒に心当たりはありますか?」

「それが、全くないざます。旅館の規模の割には従業員が少ないんで、仕事の隙を突かれて泥棒が入っていると思うざます」

「とすると、営業中に自由に動ける人間が警備するのが良さそうですね。サキ、出番だ。行ってきてくれ」

え? わたし?

「そんなうす汚い子供がうろついてたら、私の旅館の格が下がるざます」

言いたい放題だな。さすがに我慢ができそうにない。腰のサバイバルナイフのホルスターに手が伸びる。

「ご安心を。このサキは優秀な助手です。護衛はもちろん看護もできますし、格闘術の覚えもあります。夜目も利きますから、深夜の警備にもうってつけです。でかい私が出張ると、目立つんで泥棒も警戒して現れないかもしれません。いかがでしょう」

ガムの言葉に女将はしばらく思案する。

「……確かに一理あるざます。……あなたの案に乗るざます」

うぅ。振り上げた拳の下ろしどころを失ってしまった。ガムったら、普段はわたしを小間使いみたいに扱うくせに、客の前では調子いいんだから。今日の3時の紅茶はちょっといい茶葉使ってあげようかしら。

その後はわたしをリョカンに派遣する期間や待遇、依頼料など細かい話をし、女将は事務所を後にした。


◾︎◾︎◾︎


「今日から見習いで働くことになったサキです。よろしくお願いします」


リョカンに派遣されて初日の朝5時。広いロビーの真ん中で従業員達に向かって挨拶する。ロビーは約20メートル四方あり、天井高は3メートル程。天井にはシャンデリアが数台ぶら下がっており、眩しいくらいだ。

トラという動物が描かれた木製のツイタテや、陶器でできたタヌキなる動物の大きな置き物、壁にはカケジクと呼ばれる太い文字が書かれた紙などが配置されている。

そして中央には大理石の台座に置かれた高さ1メートル程の金時計。台座に打ち込まれた楔に鎖で繋がれている。金時計の周りにはガラスの枠。そして台座の周りには美術館で見るような支柱と縄で囲われていた。ずいぶん厳重な守りである。

このロビー、全体的にごちゃごちゃしてるなあ。それと、それぞれ置き物の上にうっすら埃がかかっているのも気になる。

そこに女将とその旦那、従業員が3人。他の従業員は、すでに持ち場についているそうだ。

ちなみに着替えはもう済ませている。

わたしが着ているキモノとズボンを組み合わせたような制服は『茶衣着ちゃいぎ』と

言うらしい。ちなみに模様は、女はピンク地に花柄で男は紺色の無地だ。

今朝、リョカンに着いてから女将に渡された。軽量で動きやすいため、仕事の邪魔にはなりそうにない。

「なんだこのちびっ子は? うちの仕事が勤まんのか?」

うねうねパーマで片目が隠れた男がいきなり因縁つけてきた。その目の下には濃い隈。両手をポケットに突っ込み、こちらを覗き込むようにして睨んでくる。ガラ悪っ。

そんな彼は背後から女将に頭をはたかれた。

「これ、ちゃんと挨拶なさい」

「……へえへえ。俺はソップだ。足ぃ引っ張んじゃねえぞ、ちびっ子」

渋々といった感じの挨拶だな。

「こぉら、ソップ。相手が子どもでもぞんざいに扱っちゃダメだぞぉ?」

今度はプリプリした女が現れた。

「あたしはサパーナ。36歳独身。夢は貴族と結婚すること〜」

派手なメイクの金髪ストレートの女だった。バラの甘い匂いが漂っている。香水きついな。

そしてその横に目を移すと、白髪混じりの角刈りで、三白眼の男と目が合った。

「……ケジノだ」

と、ぽつり。

そんだけ?

趣味とか好みまで紹介しろとは言わないけど、せめて挨拶くらいはあってもいいんじゃないか?

この3人を見ていると、ガムがまともな社会人に見えてくる。

いや、まともな社会人ってどんなのかは知らないけども。

少なくとも相手が子どもだからって見下すようなことはしないだろう。

そこで女将がパンパン、と手を叩き「挨拶が済んだなら仕事に掛かりなさいまし。サキはまずソップに付いて仕事を教えてもらうざます」

と促した。

わたしは「はい」と返事をする。

見上げるとソップは明らかにめんどくさそうな顔をしていた。やがて「しゃあねえなあ。ついてきな」と言ってロビーを後にする。彼に続くわたし。

ちなみに女将の旦那は終始無言でニコニコしているだけだった。

彼について気になったのは、ハッピがパツンパツンになるという、とんでもないマッチョで2メートル程の長身だということだ。


◾︎◾︎◾︎


「まずは風呂の掃除からだ」

あくびをしながら言うソップ。脱衣場の隅のロッカーからデッキブラシとタワシを取り出すと、わたしにタワシを渡した。扉を開け、浴場に出る。露天の岩風呂だ。10メートル四方の浴場は、高さ3メートルほどの板塀で囲われている。中央には直径5メートル程の岩風呂。お湯は既に抜かれていた。

「お前は風呂の中な」

とだけ言って、彼は浴場の石床にデッキブラシをかけ始めた。

わたしは岩風呂に入り込む。

うわ。ヌルヌルだ。

「うちの泉質はアルカリなんだ。こけないように気をつけろ」

アルカリって?

「よくは知らん。なんか肌にいいらしい」

知らんって、あなたここの従業員じゃないの?

「そんなこと知らなくても仕事はできるんだよ。オラ、余計な口利いてないで掃除しな」

言われて、浴槽にタワシをかける。

ヌルヌルがなかなか取れないな。

浴場の隅の水道から風呂桶に水を汲み、タワシをかけた場所にかける。

まだヌルヌルしていた。

再びタワシをかけ、水をかける。やっとマシになった。

ふと考える。この作業を浴槽全部にやるのは相当大変なのでは。体勢もしゃがみと中腰で足腰に負担がかかる。

見上げると、ソップがニヤニヤしながらこちらを見ている。

あいつ、大変な方の作業をこっちに押しつけたな。

そして彼は自分の作業を再開した。

……まあ、わたしは新人だから仕方ないか。まずは与えられた仕事をちゃんとしよう。


一時間後。わたしが浴槽の掃除を終えると、ソップは腰掛けに座って新聞を読んでいた。

作業、終わりましたけど。

すると彼は新聞に目を落としたまま

「ごくろうさん。……週末のレースは3番のゴールドタピオカが穴になりそうだな……」

と呟いた。

競馬新聞?

「ああ。これで一発逆転よ」

ていうか、終わってたんなら手伝ってくれても良かったんじゃ?

「俺の教育方針はスパルタなんでね。『鉄は熱するほど伸びる』ってよく言うだろ?」

自分に関しちゃずいぶんぬるいじゃない。

「ガキは黙って大人の言うこと聞いてりゃいいんだよ。オラ、終わったなら女風呂の掃除に行くぞ」

え、お風呂ってまだあるの?

「当たり前だろ」

言って、浴場から出て行く彼。わたしも後について行く。

女湯の方の掃除も、床はソップでわたしは浴槽だった。

この大きな浴槽を洗うのに、タワシって不便だなあ。もっと大きいやつか、ヌルヌルを取る薬とかないかな。

一時間後、浴槽の掃除が終わった。

彼の方を見ると男湯の時と同様、腰掛けに座って競馬の予想をしていた。

あの、終わりましたけど。

「……次はサパーナのとこに行ってきな。この時間なら2階の客室の掃除してるはずさ」

と、新聞に眼を落としたまま彼は言った。

浴場を後にするわたしの背中に

「……ここで取り返さないと、借金が、うう……。

いや、俺は金時計の旅館で働いている。必ずツキは戻ってくる……」

というつぶやきが聞こえた。


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「はあい。それじゃ、床の雑巾掛けお願いね」

プリプリ女、もといサパーナの指示を受けて、床板の雑巾掛けを始める。

ソップの言った通り、彼女は2階にいた。客の宿泊していない部屋の清掃をしていたようだ。

わたしは初めて見る部屋の内装に驚いていた。

まず玄関を入ってすぐにスリッパを脱ぎ、階段のようなもの(アガリカマチというらしい)を一段上がると、ショウジという木枠に紙が貼り付けられた引き戸で部屋が仕切られている。

そして部屋はタタミという草で編まれた絨毯が敷き詰められており、壁にはカケジク(なんて書いてあるかは読めない。和都の文字らしい)が掛けられている。部屋の奥には小さな板場と窓。窓の外には、鬱蒼としたクロノスの西の森が広がっていた。

タタミに雑巾をかけようとすると

「ダメダメ! 畳は箒で!」

と叱られた。

「畳が水を吸っちゃうから雑巾かけちゃダメよ! これだから素人は」

ごめんなさい。

でも素人だからね?

彼女から箒を受け取り、畳を掃く。

「なかなか筋がいいじゃない」

事務所で毎日やってるからね。

でもこのタタミってやつ、厄介だな。草の間の埃が非常に取りづらい。

「埃はこれで取ってね」

爪楊枝を渡す彼女。

この無数の埃を取り去るのに爪楊枝って正気か?

部屋数を考えると徹夜しても終わらないことは容易に想像がつく。

「目立ったやつだけでいいよ。適当にね」

その言葉にホッとするが、それはそれで後味が悪い。K型ゆえにだろうか。

血液型といえばエウァ、もといあのゆるふわ女を思い出して不愉快な気分になる。

いや、そんなこと思い出してる場合じゃない。さっさと掃除しないと。

と、そこでさっきの温泉のことを思い出す。

ここの温泉はアルカリ性らしいですけど、どう肌にいいんですか?

すると、彼女の目がキラッと光った。

「お肌がスベスベになるのよ!」

そんだけ?

子どもにもわかりやすいように400文字以上で

「pH値が8.5以上の場合はアルカリ性単純温泉に分類されるの。炭酸水素塩泉も、そのほとんどがアルカリ性の性質を持ってるわ。

アルカリ泉は、皮脂を溶かして角質層を柔らかくして、お肌をつるつるにする働きがあるの。だから「美人の湯」や「美肌の湯」って呼ばれてるわ。酸性泉に比べて、お肌への刺激が弱いことも特徴よ」

あ、あの……

「対してpH値が6以下の温泉は、酸性の温泉に分類されるわ。ピリピリするような湯ざわりが特徴よ。殺菌効果があって、水虫なんかの皮膚病に効果があると言われてるわ。

さらに、肌表面の古い角質を落とすピーリング効果があることでも知られてるの。古い角質が落ちることで、肌の生まれ変わりが活発になるから、女の子に嬉しい美肌効果も期待できるわ。

ただし、お肌への刺激が強いので入浴後は真水で身体をしっかり洗い流してね」

止まんないなあ。リクエストしたとはいえ、こんなにペラペラ喋られるとは。

なんでそんなに詳しいんですか?

「元々キャバやってたからねえ。お肌の手入れはお手のものよ?

それに男が最終的に求めるものって顔より肌だから」

そ、そうなんですか?

「美人は3日で飽きる、っていうか慣れちゃうのよね。身近になると。高嶺の花の時が一番輝いて見えるものなのよ。そうなると毎日触れ合う肌の方が……ねえ?」

ねえ? と言われても。そんなのわたしには全然想像できないが。

ガムならば理解できるだろうか。所長はスケベだからなあ。

「それでも綺麗な肌を維持するのは大変でさ。化粧品にかかるお金がいくらあっても足りやしない。でも、いつか貴族のイケメンに見初めてもらうためには、出費を惜しんでる場合じゃないわ」

果たしてこんな状態のリョカンに貴族が来るのだろうか。

「よし、お肌のために今から温泉入っちゃおう。サキも一緒に」

え、それってサボりでは。

「だいじょーぶ。ここは金時計の旅館よ? 少しくらい大目に見てもらえるって。それに店員専用の温泉があるから、見つかりやしないわ」

いや、やめときましょう。わたしはいち早く仕事を覚えたいんで。

「ちぇー。マジメだなあ。最近の若い子はみんなそうなの?」

まあ、たぶん。

「ふぅん。まあ、ぼちぼちやろーか」

どうも彼女はマイペースというか、のんびりしてるな。雑巾で窓拭きに取り掛かる彼女。

わたしは喋りつつもタタミの埃取りをしていたが、隙間が多すぎるためかあまり進んでいなかった。

全客室の掃除を終えたのは昼休み挟んで、3時を過ぎた頃だった。


◾︎◾︎◾︎


夕刻になってから一組、また一組と客のチェックインが始まった。

その様子はポツリポツリといった感じで、なるほど繁盛している感じはない。

そして宵となり、夕食の配膳が始まった。

配膳係は無口無愛想男のケジノである。

調理室で夕食の乗った四角い盆を受け取り、客室まで運ぶ作業だ。

しかし、このケジノの動きは緩慢ったらない。ナメクジの方がまだ速いんじゃないかってくらいだ。

料理は冷めるし、全ての客に配膳するのに時間がかかりすぎる。

宿泊客が両手で数えても余るくらいとはいえ、ひどい仕事ぶりだ。

結局1時間ほどかかって完了した。

「……ごくろうさん」

と彼は言い、ロビーで煙草を吸い始めた。

あの、さっきの配膳、ちょっと時間をかけ過ぎでは?

お客さんもイライラしていたようですし。

煙をくゆらせ、味を噛み締めるように目を閉じている。

「なあに。ここは金時計の旅館だ。少しくらい遅くったって、問題ない。

……おい、そこの灰皿」

彼が向かいのベンチに置かれているガラスの大振りな灰皿を指差す。取れってこと?

ちょっと立てば届く距離なのに、しょうがないなあ。

わたしが灰皿を手渡す瞬間。

彼の腕が眼前で閃いた。

目をぱちくりさせて、彼の手を見る。

そこにはわたしが懐にしまっていた手鏡が握られていた。

「上等なもん持ってんな、へへ」

それは身だしなみに気を遣え、ということでガムがわたしに買ってくれた、銀製のものだった。デイジーさんと一緒に色々な店を回って選んでくれたらしい。

わたしは考えるより先に


      か え せ


と彼に詰め寄り、腰から抜いたサバイバルナイフを彼の首筋にピタリと当てていた。

「……お、おう」

言葉に詰まり、恐る恐る手鏡を返す彼。

受け取って数秒。わたしはハッとして。

……いっけなーい! この手鏡、彼氏から貰ったものだからついつい手が出ちゃったー! もーう、ケジノさんったらオイタはダメですよー。ぷんぷん!

ちなみにこれは手品用のナイフですからねー。最近練習してるんでー。てへ。

鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとする彼。

……ふう。なんとか誤魔化せたようだ。彼は何事もなかったかのように、再び煙草を吸い始めた。

端から見れば、可愛い女の子がおじさんにじゃれているようにしか見えなかっただろう。

わたしがコソ泥を捕まえるためにリョカンに潜入しているのがバレるのはまずいからね。女将は泥棒は外の人間の犯行だと思っているが、必ずしもそうとは限らない。勘付かれれば捜査がやりづらくなる。

もっともこれはガムの受け売りだが。

しかし、さっきのケジノの動きは何だったんだ。配膳時の緩慢な動きからは想像もできない速さだった。

なので、直接聞いてみることにした。

なんですか、今の動き?

「まあ、なんだ……おれの生まれたウチは貧乏でな。その日食べていくのがやっとだった。生活の足しになればと子供の頃からスリをやってたんだ。するといつの間にか達人の域に達していた。クロノスのスリ業界では一二を争ったもんだ」

そんな業界あってたまるか。

「……おれには近所にサンガっていう幼馴染がいてな。そいつん家も貧乏で、一緒にスリを働いてた。どっちが多くスれるかよく競い合ったよ。

『いつかでっかいスリをやってやるんだ』って目を輝かせてな。

だがある日、そいつはヤクの取引を終えて、大金を持ったギャングからスろうとして、下手こいて捕まって、それっきりさ。……馬鹿野郎が、くそ」

さらっと、とんでもない過去を暴露するな。悔しそうに涙ぐんでるけど、その幼馴染の自業自得だからね?

「仕事に就いてからはやめたんだが、金目の物のにおい? っつーのを嗅ぐと、つい手が出ちまうんだ。

……悪かった」

わかるかわからないかくらいに頭を下げる彼。

二度目は頸動脈斬っちゃうから、絶対しないでね?

煙草を灰皿に押し付けると、彼は立ち上がりロビーを去った。

取り残されるわたし。

あれ、次の仕事は?

すると

「やあ、調子はどうかな?」

受付の方からニコニコ顔の旦那が近寄った。

背が高いうえにマッチョだから威圧感がすごいな。壁を目の前にしてるみたい。

調子、ねえ。一日仕事をしてみて感じたことは、ずばり非効率だということだ。

浴場の掃除、畳掃除、配膳。どれも力ずくだった印象が強い。

しかし13歳といえど、わたしだって社会人だ。

そのまま言うわけにもいくまい。ここはやんわりと伝えよう。

はい、なんというか非効率ですね。

その言葉に旦那は目をぱちくりさせている。

どうやら失敗したようだ。『なんというか』って言葉は万能だと言っていたのは確かデイジーさんだったか。後で覚えてろ。

あの、ごめんなさい。

わたしは頭を下げる。

「ははは、とても素直だね。でもその通りだ」

怒らないんですか?

「本当のことを言われて怒るのは、どうもね。

それに僕もずっと感じていたことだ」

そうなんですか? なら、なんで変えないんですか?

「情けないことにね、僕は入婿で、女将に頭が上がらないんだ。

先代の旦那、女将の父親には大変世話になったもんで、僕の役割は女将を補助することなんだ。女将は昔からのやり方にこだわりを持っててね。『真心は手作業でこそ伝わるものなんだ』と。従業員が大勢いた時代ならともかく、現状では厳しいものがあると思う」

ちなみに女将の父親って、どんな人ですか?

「現役時代はとても厳しい人だったよ。旅館のことを一番に考えてた。

昼間、君に仕事を教えた3人も先代が雇ったんだ。町で暴れてたことろを拾ってきた、って言ってたかな」

3人とも荒んでそうだもんなあ。

「みんなでこの小さな旅館を国一番に成長させてやるぞ、って意気込んでてね。

大きな夢を持ってた。まあ、体格は僕より小さいけどね」

大体の人はそうでしょうよ。

先代の旦那さんは今はどうしていらっしゃるんですか?

「以前、仕事中に大きな怪我をしてね。本人は『まだやれる』って言ってたんだけど、とても働ける体じゃなかったんで引退してもらったんだ。

そこから僕が引き継いたんだ」

あら、それは、まあ……。

「気を使わせてしまってすまないね。でも、いざやってみると旅館の経営って難しくてね。『和都の空気の中、贅沢な時間を過ごす』をキャッチコピーに流行したが、今はこの有様だ。だけど、諦めないで頑張ってるんだ」

はは、と苦笑する旦那。

ところで、あの金時計は?

ロビーの中央を指差す。

「ああ、あれはね。国が三つ星と認めたホテルに与えられるものなんだ。

20年ほど前だったかな。この旅館が一番賑わってた時だ。あの時は良かったなあ。こちらが温かい気持ちを持ってお客さんを迎えて、お客さんはこちらのサービスに皆笑顔で過ごして。あの頃の賑わいをぜひ取り戻したいと思ってるんだがね」

それにしては、従業員のやる気が、ね。

「はは、耳が痛いね。でも、きっと皆やる気を取り戻してくれる。

 こんな金時計なんかなくても、きっと」

遠い目をして語る旦那にわたしは違和感を覚える。

それがなんなのかはよくわからなかったが。

「……さあ。そろそろお客さんが夕食を食べ終わる頃だ。調理場に行って皆と膳を下げに行ってくれるかな?」

はい、と返事をしてわたしは調理場に向かった。

ちなみに膳を下げる時もケジノと一緒だったが、さっきと同様だらだら下げたため、1時間ほどかかってしまった。


◾︎◾︎◾︎


1日の仕事が終わった。

従業員の居室に行き、就寝の準備を進める。サパーナと相部屋だった。

食事、入浴を終え、就寝するためオシイレから布団を出し、敷く。

メイクを落とした顔はまるで別人のようだった。

「〜〜あ〜、今日も疲れた……」

もぞもぞと布団に潜り込む彼女。

彼女がそういうのは無理もなかった。

一日中動きっぱなし。休憩は昼食事の数十分のみ。作業はひたすら手、手、手である。

少人数で毎日こんなことを繰り返せば疲弊するのは無理もない。

なんとかこの労働環境を楽な方に変えられないものか……。

って、そうじゃない。わたしの仕事は泥棒を捕まえることだ。リョカンの業務に精を出してどうする。

……っていうか、明らかに従業員が怪しくない?

ソップはギャンブルで借金。

サパーナは化粧品で多額の出費。

ケジノは元スリ師で金目のものに目がない。

動機としては十分だ。

明日からはこの3人を観察してみよう。何か粗が出るかもしれない。

「ねえねえ、サキは好きな男の子とかいるの?」

え、急に何?

「旅館で布団の中ですることって言ったら、恋バナでしょ?」

そんな習慣は知らない。っていうかリョカンで寝ること自体が初めてだ。

しかも今日初めて会ったひとに話すようなことではないような。

「いいからお姉さんに教えてみ? 恋愛レベルアップのアドバイスしたげるからさ」

傭兵派遣事務所なんて剣呑な職場でまともな出会いなんてない。同年代の男の知り合いなんて、絵描きのラーロくらいなもんだ。

彼、元気にしてるかな?

「お、その顔は少なからず好意を持ってる男子がいると見た」

布団ごとこちらに寄ってくる彼女。一体化してるの?

好きっていうか、ちょっとの間一緒に過ごしてた男の子がいて。

「一緒に何やってたの?」

筋トレ。 

「プラトニックかつストイック!」

で、その子は絵を描くのが得意で、わたしをクロッキーしてたわ。絵のことはよくわからないけど、とても綺麗な線だったわ。迷いがない、ずばりここ、って感じの。絵を描いてる時の真剣な表情は素敵だったわ。

「いい雰囲気じゃない」

ニマニマしながら彼女が言った。

10キロ走り込みでゲロゲロ吐いた後でも?

「休めよ描いてないで」

這ってでも描きたいものは描くような子だったわ。

「だった?」

遠くに行っちゃった。画家の工房に入るって。

「なら良かった。死んだのかと思った」

ほっといたら飲まず食わずで描いて、餓死しそうではあるけど。

「本当に絵が好きなんだね。誰の工房に入ったの?」

なんだっけ。確かロータスなんとかって。

「あのヘタレ絵描きか!」

……なんで急に怒ってるの?

「一回モデルになったことあるのよ。スケッチが終わった後に『こいつは将来売れる』と思って誘ったのよ」

さ、誘う?

「そしたら『君の体は魅力的だが、君との行為には興味がない』ってほざいたのよ。ふざけんなよ。あたしが外見にいくらつぎ込んでると思ってるんだ」

へ、へえー。

「こんだけ売れっ子になるってわかってたら、無理矢理にでも押し倒しとくんだったわ」

彼のことが好きだったの?

「顔がまあまあ良かったからいいかな、って。付き合ってみれば、いいとこのひとつやふたつはあるでしょ」

めちゃくちゃ打算じゃない。

「見逃して後悔するよりマシよ。もしダメだったら別れればいいんだし」

不誠実じゃない?

「もともと恋愛なんて曖昧なもんよー? 両思いだから付き合ってみたら上手くいかなかったり、逆に凸凹コンビが上手くいったり。でもま、体の相性がいいのが一番よ。だから色々な男と付き合ってみるのがおすすめよ」

わたしにはまだ早いです……。

「ウブだねー。まあ、あなたくらいの歳なら無理ないか。そうだ、話を聞かせてくれたお礼にいいものをあげよう」

彼女は布団から出て、彼女の鞄から何かを取り出した。

手渡されたものは手のひらに収まるくらいの小瓶だった。中に透明な液体が入っている。

「ここの温泉から抽出した化粧水よ。朝晩つけるだけで、もちもち肌を保てるわ」

試しに手の甲に塗ってみる。すると、化粧水はすうっとなじみ、肌がすべすべになった。

え、すごいこれ。

「へへー。お姉さんは美容に関してはプロ顔負けよ? あ、でもあたしから貰ったっていうのは内緒にしててね。勝手に作ったのがバレたら女将さんに怒られちゃうから」

それって密ぞ……。

「現物支給よ。セルフの」

真顔でいう彼女。これ以上突っ込むのはやめた方が良さそうだ。

「じゃあ、明日も早いからおやすみー」

彼女は布団にくるまってしまった。

しばらくすると寝息が聞こえてきた。

寝入るの早っ。

でも、ここの仕事はそれだけ激務だというのは間違いない。

夜も更けたことだし、わたしも寝よう。


◾︎◾︎◾︎


翌朝早朝。支度をしてロビーに向かうと、女将に食材の買い出しを頼まれた。

普段買い出しをしている調理師が腹痛で寝込んでいるそうだ。

目利きとかできないよ?

とはいえ手が空けられるのはわたしのみなので、文句も言ってられない。

荷台の部分が木製のリヤカーとともに、セントラルの市場に到着する。大きな倉庫のような石造りの建物だ。周囲に鉄柵を張り巡らし、外界とは遮断されている。リョカンの割り符を入口の男性係員に見せ、中に入る。

市場の中は早朝から大勢の業者でごった返しており、野菜、果物、魚、肉、乾物などが売買されている。

人をかき分けながら歩を進めると肉問屋の前に見知った人がいた。

ホラウさん?

声をかけると、初老の白髪おさげでメイド服の女性が振り向いた。

「あら? サキ様。こんなところで奇遇ですね」

彼女はクロノスの名門グロピウス家のメイド長だ。以前エウァを訪ねた時に世話になっており、それからも料理のレシピを教えてもらったりと

、ちょこちょこ会っている。

今、リョカンに派遣されてて。買い出しを頼まれてるの。っていうか、『サキ様』ってやめてくれない? なんだかくすぐったいわ。

「サキ様はお嬢様の大切なご友人です。粗相があってはグロピウス家の名折れでございますれば」

うーん。わたしはそこまでエウァのことが好きではないのだが。向こうが絡んでくるから、しかたなく相手をしているようなものだ。

もうちょっとくだけた呼び方にしてくれないかしら。

「では、『さきちゃま』ではいかがでしょう?」

心の距離の詰め方がおかしいのよ。

「ふふ。冗談でございます」

冗談言うんだ。ところで、ホラウさんも買い出し?

「ええ、屋敷でお出しする食事の材料を1週間分ほど」

お屋敷でってなると、大量じゃないの?

「はい。ですので、十数人のメイドを連れてきて、皆で手分けしております」

それなら市場はピッタリよね。

こっちは1人だけど、ちゃんと買い物できるか不安になってきたわ。

「おひとりで? それは大変でございましょう。お邪魔でなければお付き合いしましょうか?」

え、いいの? そっちの買い物があるんじゃないの?

「私はお目付けのようなものでして。部下のメイド達は優秀ですので、問題無く買い出しを済ませますわ。さあ、参りましょう」

わたしはこの上ない味方を得たと思い、一緒に買い出しを始めた。


◾︎◾︎◾︎


……と、いうわけなのよ。ホラウさんはどう思う?

昨日のリョカンでの従業員の仕事振りを説明してみた。ちなみに泥棒のことは伏せてある。余計な心配をかけるわけにはいかないし。

「なんというか、非効率でごさいますね」

メイド長も『なんというか』って言った!

やっぱ万能なのかしら。

「万能?」

いや、こっちの話。

「経営が傾いて、従業員のやる気が削がれているのでしょうね。黒乃洲邸といえば3ツ星を取ったホテルだったはずです」

そんなに有名なんだ。

「雑誌でも取り上げられてましたからね。富裕層への積極的な売り込みと丁寧なサービスで人気を博したと聞きました。……しかし、人気を維持するというのは難しいものでございます。落ちる時は一気に、というのは世の常ですから。さきちゃまの話を聞きますと、代替わりをきっかけに経営が悪化したようですね」

なんでだろう? あと、しれっとさきちゃまって言ってるな。

「憶測にはなりますが、先代には強力なリーダーシップがあったのでしょう。皆がついて行きたくなるような。後継ぎには求心力が足りなかったのかもしれませんね」

引き継ぐって、難しいのね。

「しかし必死に取り組めば、その背中に人はついて来るものです。行動というのは、口で説明するより人を動かしますから」

そんなものなのかしら。

「そして伝統とは変え難いものです。頭では変化させねばと分かっていてもなかなかできない。時間の積み重ね、いわば歴史というのは強固なものですから」

なんとなくそれはわかる。この国だって、誰かが言い始めた貴族っていう身分がずっとあるのも、子どもの扱いがひどいのも同じように思う。

「それでは、さきちゃまにひとつ知恵を授けましょう。

それは……と説明を始めるホラウさん。

彼女に教えてもらったことを、わたしはリョカンで試してみることにした。


◾︎◾︎◾︎


買い出しを終えてリョカンに戻ると、青白い顔をした調理師がリヤカーの食材を受け取った。人手が足りないため、腹痛くらいでは休めないそうだ。ちなみに買ってきた食材についてはすごく褒められた。

ホラウさんの目利きなんだけどなあ、と思いつつも、グロピウス家とのつながりをバラすこともないかと思い黙っていた。

そして朝の仕事に移る。

まずはソップについて浴場の清掃だ。

昨日と同じく、彼から浴槽の中の掃除を指示された。わたしはホラウさんのアドバイスで、市場で仕入れた『あるもの』を懐にしまっていた紙袋からばらまいた。

ぱあっと白い粉が舞い、浴槽に降りかかる。

「おまっ、何やってんだ!」

うろたえる彼を尻目に、二度、三度繰り返す。

浴槽は白い粉まみれになった。

これはクエン酸よ。

振り返り、彼に言う。

「く、くえんさん?」

柑橘類から抽出される成分で、アルカリを中和できるの。これで掃除が楽になるわ。

「そんな勝手なこと……」

まあ、見てなさいな。

しばらく待ってから、タワシで浴槽をこする。すると、ヌルヌルがどんどん落ちていく。

ホラウさんに言われた通りやってみたけど、びっくりだわ。

タワシで全体をこすりつつ、水で流していくと、ものの15分ほどで浴槽の掃除は完了した。

あれ、ソップさん。まだ浴室の掃除終わってないの?

「あ? 文句あるか?」

じゃあ、手伝うわね。

「お、おう」

戸惑う彼の隣で、浴室の清掃を始める。

2人でやるとやっぱ早い。続く女風呂の清掃も同様にした。すると浴場の清掃作業は昨日の半分以下の時間で完了した。

「あーあ、時間余っちまったな。今日は新聞読むヒマなかったぜ」

女風呂の脱衣場にて、尻とズボンに挟んでいた競馬新聞を取り出す彼。

それ貰っていきますね。

その新聞をひったくるようにして奪う。

「お、おい、何するんだ?」

客室の掃除に行ってきまーす。

脱衣場に彼を残して2階へと向かう。


◾︎◾︎◾︎


2階の空き客室に入ると、昨日と同様にサパーナが窓にはたきをかけていた。こちらに気づいたようだ

「あれ? 今朝は早いね?」

畳の掃除はこれから?

「うん。これから取り掛かろうと思ってたとこよ」

ちょうど良かった。

わたしはバケツの水に、ソップから奪った競馬新聞を軽く浸した。

それを絞って水気を切り、ビリビリと破く。そしてそれを畳みの上にばら撒く。

「ちょっとサキ、何やってんの!」

彼女の抗議を無視し、畳に箒をかける。その際に新聞の破片を巻き込むようにする。

すると、みるみるうちに畳の間に詰まっていた埃が払われていった。

「え、なんで? すごーい!」

後ろで彼女が驚いている。

濡れた新聞に埃が吸着されているのだ。

これもホラウさんのアドバイス通り。

みるみる綺麗になっていくタタミを見るのは爽快だった。全部掃き終えると、タタミが綺麗なツヤを放っている。

「これは気持ちいいねえ。サキすごいじゃん!」

そ、そうかな?

褒められると素直に嬉しい。

「あたしにもやらせて」

新聞を破って畳にばら撒く彼女。後から箒をかける。埃がきれいに取れる。

「うーん、爽快!」

彼女は嬉しそうだ。

「よし、この調子でじゃんじゃんやっちゃおう」

調子が出始めたわたし達は、次々と空き部屋の掃除を済ませた。

この仕事も昨日の半分程度の時間で終わった。


◾︎◾︎◾︎


夕刻。ケジノについて夕食の配膳を始める。

彼は食事の乗った盆を持ち、昨日と同じくノロノロと廊下を歩いている。

わたしはすいっ、と彼の前に出た。そして摺り足で歩き、彼を置いていく勢いで進む。そして振り返り、ケジノさん、遅いんじゃない? と嘲笑った。

すると彼は

「……馬鹿にするなよガキが……!」

と言って、盆をバーのホール係のように持ち方を変え、ズンズンとわたしとの距離を詰めてきた。

うわ、速っ!

わたしも負けじとスピードを上げる。

すると、あっという間に客室に着いた。

彼は息を整え、コンコンと扉をノックする。

「……失礼します。お食事をお持ちしました」

ドアを開けると、昨日と同じ40代の女性客に出迎えられた。

「あら、今日は早いじゃない。さ、中に持ってきて頂戴」

ケジノに続いて部屋の中に入る。

中央のテーブルに料理の乗った盆を置く。

部屋の入り口近くで三つ指をついて

「ごゆっくりどうぞ」

と言い、退出しようとする。

「少しお待ちになりなさい」

お客が鞄の中から何かを取り出す。

それは2枚の封筒だった。

「これは少ないけどチップよ。ご苦労様」

わたしとケジノは一枚ずつ受け取り

『ありがとうございます』

と言い、部屋を出た。

全ての配膳を終え、ロビーへ戻る途中。ケジノはさっき貰ったチップを眺めてニヤニヤしていた。

「これがあるからやめられねえ。ちなみに新入りは先輩に半分渡すのが決ま」

わたしが腰のサバイバルナイフに手をかけると

「いやなんでもない早々にチップもらえて良かったな」

と早口で言った。

っていうか、ケジノさん機敏に動けるのに、昨日はなんでゆっくりだったの?

「頑張ってやっても、給料変わんねんだよ。どうせ客も少ないしな。

時間余っても、余分に別の仕事させられるしよ」

ふうん。つまんないこと言うんですね。

「……なんだと?」

能力がもったいないって言ってんですよ。

正直、昨日手鏡をスられた時には驚いた。警戒していなかったとはいえ、一瞬で懐に侵入を許したのだ。もしケジノがナイフを持っていたらわたしの喉は切り裂かれていただろう。

だが、きっと彼のやる気を挫く出来事が過去にあったのだろう。

しかしここで新入りに「やる気を出せ」なんて言われても「うるせえバカ」と返ってくるのが関の山だろう。

「さっき挑発してきたのはわざとか」

あれ、バレました?

彼の昔話を聞いて、負けず嫌いな性格をしてると思ったから、挑発してみたが案の定だった。

「見くびるな。こちとらずっと人の仕草や機嫌観察しながら生きてきたんだ。

お前の素性を深くは詮索せん。しかしお前がなんの使命感持って仕事してるのかは知らんが、無駄だからやめとけ。

……まあ、こいつについては、ありがとよ」

と言って、彼はチップの封筒をヒラヒラと振った。


◾︎◾︎◾︎


夕食の配膳の回収の時間まで時間が空いたので、窃盗に関する怪しい人間がいないか館内を巡回することにした。

ロビーから続く通路の一番離れた部屋の扉が少し開いている。

扉の装飾からして客室ではないようだ。

気になって覗いてみると、人の気配がした。

「……誰かいんのか?」

しわがれた男の声。気付かれたようだ。

「用事か? 入んな」

促されるままに部屋に入る。

こじんまりした、四畳半の部屋の中央に、1人の老人がいた。

ちなみに部屋の広さに『畳』を使うのはサパーナに教えてもらった。

部屋の床は客室と同じようにタタミが

敷いてあった。

ちゃぶ台のそばで、おじいさんが座布団に座っている。

「ん? 見ない顔だな。……ああ、娘が最近雇ったって言ってた嬢ちゃんだな? サキっつったか?」

名前、覚えてるの?

「こちとら客商売よ。しかも宿屋営んでるんなら、客の顔は一度で覚えラァな」

さっき娘が、って言ってたけど、あなたは旦那さんが言ってた先代の旦那さん?

「ああ。今は隠居で悠々自適よ……と言いたいとこだが、どうも客足が芳しくねえんで心配だ」

そう言えば、大怪我して引退したって。

「これがなかなか治りが遅くてな。まだ勤めたかったが、引っ込むことにした」

そこで、先代の旦那がわたしを手招きする。

「そんなとこに立ってないでこっちに来い。茶と菓子くらいは出してやる」

わたしがちゃぶ台に着くと、先代の旦那は部屋の隅の机から、湯飲みと急須の乗った盆を持ってきた。

湯呑みに茶が淹れられ、小皿に乗った黒くて四角い艶のある小さな何かと一緒に寄越される。

なんだろうこの四角くて黒いの。

「羊羹は初めてか?」

ヨウカンっていうの?

「ああ。甘いぞ」

つまんで頬張る。

あっ、まーーーーーい!

なにこれ信じられない今まで食べたどんなお菓子より甘い。でも美味しい。

ねっとりとした歯触りと舌触り。

顔が綻んじゃう。

「和都の伝統的な菓子だ。美味いか」

ええ、とっても。

お茶も香ばしくていい香り。

少し苦いが、紅茶とはまた違った風味だ。

こんなものがこの世にあったとは。

「はは。いい顔しやがる」

ところであなたのお名前は?

「オレぁホザってんだ」

ホザさんはずっとここにいるの?

「ああ。だいたいここにいる。やることっていえば新聞読むくらいだ。退屈でいけねえ」

競馬新聞、ではないのね。

「競馬? ああ、ソップのことか。あの野郎まだギャンブルから足洗ってねえのか」

ずっとなの?

「あいつはここに来る前、ギャンブルで全財産スッちまったんだ。見かねてオレがここに雇ったんだ。忙しくしてりゃ、ギャンブルなんかする暇ないだろうってな。狙い通りよく働いたよ。風呂なんていつもピカピカだったからな」

嘘でしょ? 人に仕事放り投げて競馬新聞読み耽ってる彼が?

「サパーナもケジノも似たようなもんだ。サパーナは見てくれに金かけ過ぎてその日暮らし、ケジノはチンピラからサイフをスるのを失敗してタコ殴りに遭ったのよ」

それも見かねて連れてきたの?

「ああ。人間暇になるとろくなことしないからな。言って聞かせるより働かせるのがいいんだ。

サパーナは部屋の隅々まで綺麗に掃除するし、ケジノの配膳は目を見張る速さだった」

確かに塞いでたりすると、もやもや余計なこと考えちゃう。体を動かしてると、無心になれるもんね。

でも、その3人がキビキビ働いてるとこは想像できない。

「……全部あの金時計が変えちまったんだ」

金時計? ロビーに置いてるやつ?

「ああ。もらった時は確かに嬉しかった。これまでの苦労が報われたってな。だがあれがゴールじゃない。客に贅沢にくつろいでもらって、活力を取り戻してもらう。これが本分よ。

……だが、みんな慢心しちまったんだ。金時計を賜ったこの旅館は偉いんだ、ってな。そっから接客がなおざりになっちまった」

直そうとはしなかったの?

「もちろんやったさ。だが評判のおかげで客が倍増してた。そいつに従業員の増員が追いつかなかったんだ。1人あたりの仕事が増えてみんな過労さ。そんな折に、オレはしゃかりきになって体を壊しちまってこの体たらくさ」

しばらく休業するわけにはいかなかったの?

「休めば客はすぐ他に行っちまう。営業し続けることに意味があるのさ。……まあ、今思えばそれが間違いだったんだろうな。判断を誤ったオレの責任だ」

遠い目をするホザ。きっとありし日の旅館の賑わいを思い出しているのだろう。

「みんながこの旅館の本分さえ思い出してくれれば、きっと蘇る。それに婿はやればできる奴なんだ」

女将は嫌みだし、従業員はやる気がないし、旦那はマッチョだしでいいとこのないリョカンだけど、ホザさんのこんな表情を見せられたら何もしないわけにはいかないじゃない。

ヨウカンの恩もあるしね。

ホザさん、わたしこのリョカンが活気を取り戻せるよう頑張るわ。新入りが何をって思うかもしれないけど。

「ああ、好きにやってみろ」

え? いいの?

「お前はいい目をしてる。凝り固まった伝統を変えられるのは、きっとお前みたいな新入りさ」


◾︎◾︎◾︎


翌日、体調の戻らない調理人に代わって再び市場で買い出しをすることになった。

昨日と同じように市場の建物に入る。うーん。どうしたもんか。

今日はホラウさんがいないから、本当に指示されたものを適当に買うしかない。

渡されたメモに目を落とす。野菜に肉に魚……って、大雑把すぎるでしょ。普段のおつかいだって、野菜の種類くらい指定してるわ。

野菜から手をつけようと、賑わう通りの先に目をやると、見覚えのある人物がいた。

長身の金髪ポニーテールに褐色の肌の女性。

服装は白いTシャツとカーキ色のカーゴパンツだ。簡素な格好でも様になるなあ。彼女は野菜の卸売り人と話をしているようだ。

おーい、イーダさん。

呼び掛けると、彼女はこちらを振り向く。わたしが近寄ると

「お、サキやんやん」

と言った。

何してるの?

「見ての通り買い付けや……って、それはこっちのセリフや。サキやんこそこんなとこで何しとるん?」 

わたしが事情を説明する。

「そら難儀やな。よっしゃ、ウチが野菜の目利きをしたるわ」

え、いいの?

「かまへん。ウチの修行にもなるしな。マリオーニにも筋がええって褒められとんねん」

マリオーニって確か、イーダさんの婚約者だったっけ。つい最近奴隷売買人にハメられそうになったところを助けてもらったって。

例のデートの後、ウチの事務所に報告に来た時に、右腕を包帯で吊っていたが。

もう手はいいの?

「ツバつけとったら3日で治ったわ」

ツバをつけてもウソはつくなよ。あの状態は完全に複雑骨折だったじゃん。

適切な処置しても完治に1ヶ月はかかるわ。

「さすが。裏家業の人間は騙せんか」

え。わたしイーダさんに暗殺者してたって言ったことないんだけど。怖っ。

「冗談や。ほな行こか。ええ野菜選んだるわ」

冗談? それはどっちのことだろう?


◾︎◾︎◾︎


「ふうん。頑張ってんねんな」

リョカンの内情をイーダさんに説明すると、そんな感想が返ってきた。ちなみに窃盗事件のことは言ってない。

傾いたリョカンを立て直すためにはいくつもの課題が山積みだ。

「でも、短期のバイトみたいなもんやろ? サキやんがそこまで頑張らんでもええんちゃう?」

ヨウカンの恩があるので。

「食いもんに対する義理が堅すぎるやろ。あっ、羊羹だけにか」

ヨウカンはそこまで硬くない。

「頑張るんはええことや。サキやんに触発されて他の人間もやる気出すかもしれん」

だといいんだけど。

「しかし和都の旅館か。何遍か泊まったことあるけど、クロノスのんとは全然雰囲気違うやんなあ。調度は最低限、夜は行灯でぼやっと暗めで。そういう簡素を極めた美をワビサビって言うそうや」

え? 全然違うんだけど。

ロビーはやたら置き物が置かれてるし、天井からはシャンデリアがぶら下がってて夜でもギンギラなんだけど。

「嘘やん。それパチモンやで」

言って、イーダさんはカーゴパンツのポケットからメモ帳と鉛筆を取り出した。そしてシャカシャカとメモ帳に何やら描き始める。しばらく後。

「できた。これが旅館や」

差し出された紙を見ると、なにかの建物の内装が描かれていた。

ってか、うまっ!

それは薄い灯りに照らされた、木材で作られた広い部屋。キモノを着た人がカウンターの向こうに立っている。これはリョカンのロビーの絵か。異国情緒あふれる、とでも言うのだろうか。確かに黒乃洲邸のロビーとは大違いである。

というより、あんな短時間でここまで精密な描写ができるもんなの?

「こっちが客間」

はやっ!

追加で渡されたメモ用紙に目を落とす。客間が描かれたそれは、黒乃洲邸のものとそう変わらない。

フスマにタタミ、ショウジがある。

ん? イーダさん、これ何?

わたしがメモ用紙のまんなか辺りを指差すと

「これは床の間や。神さんのおわすスペースや。掛軸貼っつけたりもするんや」

と付け加えた。

じゃなくて、この二本の細い棒。トコノマなるスペースの、背の低い物干し竿みたいなのに掛けられてるやつ。

「んん。それは刀や。和都の剣でな、刀身を反らすことで人を斬りやすくしとるんや」

この、カタナっていうやつ、前どっかで見たことが……。あぁ、あの目つきの悪い丸メガネの医者の部屋にあったやつだ。まだ生きてるかな。別れる時、煙みたいに消えてたから、元々いなかったのかもしれないけど。

「欲しいんか? 武器マニアとして」

誰が武器マニアだ。暗器が好きなだけだ。不意打ちできるところがポイントが高い。

わたしみたいなか弱い少女にはピッタリの武器だ。そして、わたしをちょいちょい戦闘狂扱いするな。

……話が逸れた。

客間も薄暗いのね。

「せやな。最初は陰気臭う思ったけど、時間が経つと不思議と落ち着くんや。静寂の中に自分を見出す、みたいな」

夜眠れない時に寂しくなるのと同じ?

「んー。暗闇の中でも優しく包まれとるような、そんな感じや」

よくわかんない。

「こればっかりは行ってみんとな」

実感は湧かなかったが、実際のリョカンと黒乃洲邸の雰囲気が違うことはわかった。

イーダさん。和都のこと、もっと教えてくれる?

「ええで。ちょうどサボりたい思てたとこや。マリオには内緒やで」

それは良くないのでは。

「恩人が恩人の世話してた言うたら、あいつも何も言われへん」

恩人? 誰のことだろう。

「息抜きも必要や。長生きするためにはな」

死に急いだウチが言うのもなんやけどな、と彼女。

そうして、彼女はわたしに和都の人々、文化、町並みなどを語り始めた。


◾︎◾︎◾︎


3日後。旅館が大改装された。

ロビーは総ヒノキ造りで、アンドンが薄く全体を照らしている。シャンデリアと置物は全て撤去された。金時計だけは中央に鎮座したままではあるが。客間はタタミが新調され、障子には和都のシンボルであるサクラを象ったピンクの色紙が織り込まれている。

通路にもアンドンが点々と設置され、周囲を優しく照らしている。

イーダさんのイラストを元に、ホザさんに改装案を提案した。サブコンセプトは『静けさと優しさに包まれたなら。ワビサビ』です、と。

するとこの有様だった。女将が号令を出し、腕利きの職人が10人ほど押しかけ、あっという間に改装作業が終わった。しかもその間、営業を止めなくても良いよう配慮された施工だった。

これはホザさんの人徳なのだろうか。

旅館のリニューアルの広告を大々的に打った後、ロビーでホザさんが全従業員の前で

「こんで旅館の蓄えはすっからかんだ。居場所を守りたけりゃ、死ぬ気で働けお前ら」

と檄を飛ばした。

皆一瞬「え、マジで?」みたいな顔をしていた。わたしは平静を装っていたが、内心は脂汗ものだった。わたしの一言でこんなことに。

ふと、若旦那を見やると、彼は浮かない顔をしていた。まあ、経営のことを考えると心配にもなるよね。

ガム、わたしはここに骨を埋めるよ。

今までお世話になりました。

なんて言ってる場合じゃない。

わたしは働いた。朝から晩まで、馬車馬のように。他の従業員も必死だった。

客が来た日はもちろん。来ない日だろうと、いつ客が来ても気持ち良く過ごしてもらうために最善を尽くした。

ソップ、サパーナ、ケジノも同様だった。

するとその成果があったのか、2週間ほどしたらぽつぽつと客足が増え始めた。

お客さんの口コミが広がり、さらに客が増えていった。

それ事態は歓迎すべきことなのだが、従業員の疲労は日に日に深刻なものとなっていった。

浴室の掃除中にソップが「ゴールドゲッチューに3000ドルク……」と倒れ、客室の掃除中にサパーナが「わたしの王子様はどこ……」と倒れ、配膳中にケジノが「サンガ……今、会いに行くぜ……」と倒れた。

そうなると、彼らの仕事はわたしに回ってくるわけで。

3日経ち、配膳の後、ロビーに戻ってくると眩暈がした。

毎日走り込みして体力には自信あったんだけどなあ……。

意識が薄れ、床に倒れる。

その前に、誰かに体を支えられ

「大丈夫かい?」

と声を掛けられた。

目を開くと、壮年の男性がいた。

さらにその後ろには十数人の男女。

わたしの背後から

「遅えぞ。やっと来てくれやがったか」

という声。振り向くと、ホザさんがいた。

この人達は?

「負担かけてすまなかったな。

こいつらはここの元従業員さ。声かけて戻ってきてもらった」

「これでもすっ飛んで来たんですよ?」

「ああ。わかってらあな」

と、ホザさん。一拍置いて

「あんときはすまなかった。オレの至らなさで迷惑かけた」

と頭を下げた。

そういえば、以前繁忙期にホザさんが大怪我した影響で従業員が次々と辞めていったと言ってたな。

「頭を上げてくださいよ。旦那。私たちもバツが悪かったんです。旦那を見捨てるような形になってしまって。ここにいるみんなは、今からでもあなたに罪滅ぼしがしたいと思って来たんですから」

「よせやい、辛気臭え」

へへ、と笑うホザさん。

「よぅし! お前ら、しっかり働け!」

『はい!』

全員が元気よく返事した。


◾︎◾︎◾︎


「しかしずいぶん様変わりしましたね。旦那」

と、わたしを抱えてくれた男の人がロビーをぐるりと眺めて言った。彼はミハタといい、以前は従業員の中では古参だったらしい。年は五十半ばだ。

彼の他にはわたしとホザさん。他のみんなは各持ち場へと散っていった。

「あぁ、サキの発案だ。いい感じだろ」

紹介され、わたしはドキッとした。わわわわたしはアイデアは出しましたがゴーサインを出したのはホザさんと女将なんです。

「和都に行ったことはないんでわかんないですが、いいですね。落ち着きます」

と言われ、わたしはホッとした。

そして、他の従業員の大多数も同様の感想だった。

正直、イーダさんのイラストを元にした生兵法なので不安だったが、評判はいいようで安心した。


◾︎◾︎◾︎


「お前のせいでよぉ、競馬予想する時間がなくなっちまったよ。馬券外しまくりだよ」

と、浴場を掃除中にソップが愚痴ってきた。日に日に客が増え、仕事も増えたため最近は競馬新聞を読む姿を見ていない。

元々そんな当たってなかったでしょ?

「う、なんで知ってんだよ」

目元がずっと険しかったのよ。ひもじい思いをしてるとあんな目つきになるのよ。

「見てんじゃねえよ」

じゃあどうやって仕事を覚えるのよ。

「それは、あれだ。雰囲気で」

ふわっとした指示を出すな。そんなんでまともに予想なんてできるのかしら?

「ふふん。俺には最後の手がある」

最後の手とは?

「サイコロだ」

予想の仕方まで博打じゃないのよ。ギャンブル向いてないんじゃない?

「向いてる向いてないじゃない。当たった瞬間の高揚感がたまらないんだ」

あなたはまず、頭の中からギャンブルの五文字を清掃したら?

「人の趣味を否定するなよ。お前にだってあるだろ? 趣味のひとつやふたつ」

趣味。言われてみれば、なんだろう。タピオカミルクティーは好きだけど、それは好物だしな……。

強いて言うなら、トレーニングかしら。あと、素振り。

「ストイック過ぎるわ。他にないのかよ。本読んだり、スポーツしたりとか」

うーん。ないなあ。

「人の趣味にダメ出しする前に、自分の趣味を見つけるんだな。人生が豊かになるぜ?」

懐は寂しくなりそうだが。

「まあ、久々に仕事が忙しいのも悪くねえ。ギャンブルできなくて金も貯まるしな」

それは良かったわね。

「貯めた金で、またでっかく当ててやるのさ」

懲りないなあ。


◾︎◾︎◾︎


「サキのせいで、化粧する時間がなくなったんだけど、どうしてくれるのよ」

あれ? でもスッピンじゃないですよね?

客室の清掃中に、サパーナが食ってかかってきた。

「最低限だっつの。客の前に出るのにスッピンじゃまずいでしょ。

わたしが言ってるのは貴族の男を落とすための勝負メイクよ」

あのギラギラしたやつですか?

「ギラギラとはなんだ。キラキラって言え。ギタギタにするぞ」

メイクに何時間かけてるんですか?

「2時間よ」

朝3時に起きてるの? 目の下の隈がメイクでも隠れないのは寝不足のせいじゃないですか。

「努力は惜しまない主義なの」

努力の方向が間違ってるような。っていうより、今の化粧の具合の方がいいですよ? 前のは濃すぎて正直、素顔に辿り着くまでどんだけ剥がせばいいんだろうって思いましたもん。

それで目の隈が取れれば健康的なキラキラメイクになりますよ。

「スッピンでも健康的でキラキラしてるガキに言われたって説得力ないんだよ」

やっぱ無理があったか。でも、この旅館の激務を考えると、一分でも多く寝て欲しいのが正直な感想だ。

こうなったら……。

あの、サパーナお姉さん?

「なによ」

好きな男子を落とす方法を教えて欲しいんですけど、今夜時間取ってもらっても?

「サキ。わたしを誰だと思ってんのよ。歩く恋愛事典と呼ばれたわたしこと、サパーナ・メメが恋愛相談を断るわけないでしょ。夜通しでも任せなさい」

どん、と胸を叩く彼女。

よし。後は相談の時、飲み物に睡眠薬を混ぜるだけだ。


◾︎◾︎◾︎


「お前のせいでサボって煙草吸う時間がなくなったじゃねえか。どうしてくれる」

配膳後、ロビーでケジノになじられた。

これだけ堂々とサボるって言われるといっそ清々しいもんである。

ロビー、もとい館内は禁煙になったんですよ? 子連れのお客さんも積極的に呼び込むことになったので。

「なに? じゃあ俺はどこで煙草を吸ったらいいんだ」

旅館の裏を出て、百メートルほど歩いたところにあるアズマヤです。

「行って帰るだけで手間じゃねえか。雨の日は更に億劫だしよ」

女将が提案してましたよ。

「あのババアめ。余計なことを」

喫煙者が禁煙に成功した場合は結構な額の報奨金出すとも言ってましたけど。

「神様仏様女将様。タバコなんて吸うのは人間のクズだ。煙草はやめだ。おれはしょうきにもどった」

懐から革製の煙草入れを取り出し、近くのゴミ箱に放り込む彼。

プライドで動かない人間はお金で動かすっていうのは本当だったんだな。

「次の配膳行くぞ。ついて来い」

はい、と返事をして彼について行く。

ふと振り返ると、若旦那がロビー中央の金時計を見ていた。その顔はどこか思い詰めているように見えた。


◾︎◾︎◾︎


深夜。窃盗犯の件を女将に報告しに行くために、1階の女将の部屋に向かう。


特に報告するものはないのだが。

朝早く起きて、浴場の清掃、客室の清掃、朝食の配膳をする。昼休憩をはさんで昼食の膳の回収して、館内の清掃、脱衣場の清掃、夕食の配膳、夕食の膳の回収、客室の布団敷きなどなど。それに時々食材の買い出しも頼まれる。

一日中働いているため調査する暇がない。それにわたしが来てから窃盗事件は一度も起こっていないので、調べる糸口が掴めていないのも事実である。

さて、どう報告したものか……。

程なくして女将の部屋の前に着き、扉をノックしようとした。

しかし扉は少し手前に開いており、中から灯りが漏れている。

閉め忘れかしらん、と思ったが

「入ります」と声をかけてから扉を引き、中に入る。

すると部屋の左側、クロゼットの前に、うつ伏せで女将が倒れていた。

女将さん!?

わたしはそばに膝をつき、女将の容体を確認する。後頭部に血が滲んでいるが、息はあった。しかし意識はないようで、呼びかけには答えなかった。

改めて部屋を見渡すと、クロゼットや抽斗ひきだしが所々開かれ、荒らされている。フローリングにはそこらから落下したのか、服や時計などの宝飾品が散乱していた。

窃盗だけじゃなくて、今度は強盗?

その時。

部屋の外からガシャン、とガラスが割れるような音がした。

ロビーあたりからだな。

今、人を呼んできますからと女将に言い、部屋を飛び出る。

走ってロビーに着くと、金時計を囲っていたガラスが割れていた。

そして金時計も無くなっていた。

金時計と台座を繋いでいた鎖は切断されていた。鎖の断面は捩じ切ったようにガタガタだった。

あんな太い鎖をどうやって。

床に目をやると。血のような染みが台座から玄関を通り、外に向かって続いている。

「おい、今のは何の音だ?」

ロビーにソップがやってきた。

女将が部屋で倒れてるんで、手当お願いします!

とだけ言い残し、わたしはロビーから飛び出した。ソップの非難めいた叫びが聞こえたが、聞こえないふりをした。


◾︎◾︎◾︎


血の跡を追っていくと、リョカンの敷地の外、クロノスの西の森に入った。

虫や鳥の鳴き声が響く。

森は当然暗いのだが、月明かりのおかげでなんとか森をかき分けて歩ける。

旅館で窃盗を働き、女将を襲い、金時計を持ち去った犯人は誰なのか。

窃盗犯に関してはお金に困ってる従業員が怪しい。女将を襲ったのは?

彼女は背後から一撃されていた。部屋の中での犯行と考えると、親しい人間だろうか。部屋を訪ねた際、隙を見て後頭部に打撃を加えた、みたいな。

ホザさんは過去の怪我が元で動きづらいから、まず除外してもいいだろう。次に、先日戻ってきた元従業員達。窃盗の線は薄そうだし、金時計も単独では重量的に無理だろう。全員で運べば何とかなる、か? しかし鎖はどうなる。鋭利な刃物で切断したならわかるが、引きちぎられたような跡だった。そんな怪力の持ち主は彼らの中にいそうにはなかった。

それはソップ、サパーナ、ケジノにしても同じだろう。なんならサパーナは真っ先に除外してもいい。睡眠薬のおかげで熟睡中だからだ。

窃盗は、女将の自作自演ということはないだろうか。……何の得があって? 宝飾品や現金が窃盗に遭ったところで世間の同情は集められない。そして金時計が持ち去られた時、女将はわたしの目の前で倒れていた。

……これらを総合して考えると、窃盗犯はソップ、サパーナ、ケジノの中の誰か。金時計は若旦那が持ち去った。

これに違いない。鎖は怪力で引きちぎった。はい事件解決。

っていう具合だったら探偵なんかいらないな。犯人探しの依頼を出すまでもなく、女将が解決してただろう。

あれこれ考えながら森を進んでいると、金時計を抱えて倒れている若旦那を見つけた。


◾︎◾︎◾︎


若旦那!? 大丈夫ですか?

若旦那に駆け寄り、容体を確認する。こめかみから血を流しており、意識がない。不意打ちを食らったような感じだ。

そして金時計を抱えてるってことは、犯人はやはり若旦那だったのだろうか?

それか、犯人から金時計を奪い返した後に襲われた?

動揺して、心臓の鼓動が早くなる。

その音がうるさい。

……いや、これは、周りの音が消えている?

先ほどまで聞こえていた、虫や鳥の鳴き声が聞こえない。

この感じは、以前経験したことがある。ざわざわと、肌がひりつくこの感覚は。


「でていけ」


右のこめかみに衝撃–––

が直撃する直前に体を前に倒してかわす。

振り返ると、白い少女が右足を振り上げた姿勢で立っていた。

誰だ?

彼女から距離を取り、観察する。

身長はわたしと同じ140センチくらい。全身黒のピッチリした革のツナギ。腰まで届く白いロングヘア。前髪は一直線に、眉の上で切り揃えられている。青白い肌。そして何より印象的だったのは紅い双眸だった。

そこの男の人を襲ったのは、あなた?

彼女はやや時間をおいてから

「かってに、にわにはいってきた。じゃま。だからけった」

と答えた。どうやら確定のようだ。

彼女がゆらりと揺れたかと思うと

「おまえも、じゃま」

白い少女が一瞬でかき消え背後を取られていた。

「でていけ」

右脇腹への衝撃–––

を咄嗟に右腕で防ぎ、背後に回し蹴りを放つ。

が、軸足が滑って転倒する。

そういえば履いてるの草履だった。

当然、蹴りはかわされる。

しかし、今ので確信した。

白い少女は、彼にそっくりだ。

独律戦争ラグナレクのイザヤ・ホーリスノウ。

以前、街の路地裏で中年男性の首を締め上げていた、細身長身で白髪の青年。

そして目の前の少女の髪の色も白いし、もしかしたら彼の妹なのかしら。気配を全く感じさせずに接近する特性。

うちを訪ねるときは扉のベルを鳴らすくらいして欲しいものである。

ちょっと待ってよ。わたしはあなたと戦うつもりはないわ。若旦那を連れて帰るから、少し時間をちょうだい。

「うるさい。でていけ」

直後。左側頭部に蹴りが迫る。すんでのところでかわし、再び距離を取る。

聞く耳を持ってないな。仕方ない。

わたしは草履、そして茶衣着ちゃいぎの下を脱いで地面に放り出す。動きの邪魔になるからだ。

懐から、矢尻に極細のワイヤーを取り付けた暗器『アンカーウィップ』を取り出した。

はたから見れば茶衣着ちゃいぎの上だけ着て、パンツ丸出しで武器を持っている可愛い女の子である。半裸になることに抵抗があるが、背に腹は変えられない。パンツの色は、ここで言う必要もないだろう。

わたしは白い少女に宣言する。


10回目に飛ばしたアンカーウィップがあなたを捉えるわ。


言い終わるか終わらないかのタイミングで、一本目のアンカーウィップを放つ。

「ざれごと」

簡単にかわす白い少女。アンカーウィップは空を切り、そのまま木に突き刺さる。反動が手に伝わる。

彼女が距離を詰め、わたしの右脇腹に蹴りを放つ。もろに食らう。

〜〜〜っ!

夜目は利く方だが、彼女がどこを通って移動したのかがさっぱり見えない。

これは速さがどうのという次元の話じゃないな。数瞬だけ世界から消える術、とでも言わないと説明がつかない。

そして体格差がないとはいえ、蹴りが直撃するのは痛い。

彼女を振り払うように、2本目のアンカーウィップを放つ。これも空振り。木に突き立った。

再び彼女の蹴りを左脇腹に受ける。そして彼女はわたしと距離を取る。典型的なヒット&アウェイだな。

3本目のアンカーウィップを放つ。空振り。木に突き立つ。蹴りを右太腿に食らう。

4本、5本、6本、7本、8本、9本と繰り返す。

わたしの体にはいい感じに青あざが増えていった。

白い少女はやれやれといった感じで

「たいくつ。もうおわりにする」

とため息を吐いた。

まあ、そう言わずもう少し付き合って、よ!

10本目のアンカーウィップを放つ。

彼女の姿がかき消える。

直後、左の薬指に手応えが返ってきた。

左斜め後ろに回し蹴りを放つ。

白い少女の頭にクリーンヒットした。そのまま地面めがけて叩きつける。

枯れ葉の絨毯に突っ伏する彼女。衝撃で枯れ葉がふわっと舞い上がった。

「……いたい。どうして……」

お尻を突き出し、地面に顔を埋めたまま彼女が呟く。

あなたがわたしの張ったワイヤーに掛かったからよ。

アンカーウィップを相手に投擲するように見せて、八方にワイヤーを張る。ワイヤーの根元はわたしの十指に括り付けておく。相手がワイヤーにかかった時、振動が返ってきた指で相手の方向を特定する。

種明かしすればこんなもんである。

師匠はこの技を『クモ』と呼んでいた。そのまんまである。

「……ずるい」

そんなことないでしょ……って、ああ、10回目で捕らえるって言ったこと?

そんなの適当に決まってるでしょ。運が良ければ2回目でいけるのよ。

っていうか正面にいたのに、次の瞬間には背後に迫ってる方がずるいでしょうよ。どんな手品よ。

「……せいのうって、かあさんが」

性能? 母さん? 何のこと?

「そうだ、かあさん、わたし、まだ、まけて、ない」

体を起こそうとする彼女。まだやる気だろうか。話通じそうにないし、落とすか。

彼女にヘッドロックをかけようとした時。

「お前の負けだよ、アリカ。退きな」

背後から女性の声。振り向くと、妙齢の女性が腕を組んで立っていた。

ベリーショートの白髪に眼鏡を掛けている。カーディガンにフレアスカート。肩には網の目の荒いケープを羽織っている。

アリカ? 白い少女の名前だろうか。

「かあさん」

アリカと呼ばれた少女が眼鏡の女性に呼びかける。そして立ち上がり、彼女の脚に縋りついた。

母さん? 若くない? 見た感じ二十代前半なんだけど。

「娘が迷惑かけたね。私はオリガ。この子の母親だ」

どうも。わたしはサキといいます。ヴォータン傭兵事務所で助手をやってます。お困り事があれば、ぜひご用命ください。にこり。

じゃなくて。つい営業スマイルが出てしまった。

「これは丁寧に、どうも」

オリガ、さん? こんな夜中にこんなとこで何をしてるの?

「それはそちらにも言えたことだと思うけどね。パンツ一丁で」

パンツ一丁じゃない。ちゃんと上は着ている。

「まあ、散歩さ」

こんな時間に?

「娘は見ての通り、肌が弱いんだ。太陽を浴びると火傷みたいになっちゃうんだよ。だからさ」

そういう事情があったのか。でも、敷地に入ったからっていきなり襲ってくるのはやりすぎじゃない?

「こないだ空き巣に入られてさあ。ちっちゃい子が大好きな全身ハリガネみたいな変態っぽいやつ。親としちゃ心配だろ?

だから不審人物は排除しろって言っておいたんだ」

ずいぶんと犯人像が具体的だな。

わたしは地面に倒れている若旦那を見下ろす。あいかわらずムキムキテカテカだ。

……なら襲われても仕方ないか。

おや、若旦那が小さく唸っている。もうすぐ意識を取り戻しそうだ。

ひとついいかしら?

「なんだい?」

その子、アリカの移動方法。わたしを襲ってくる瞬間、んだけど、あれ、何? 本人は性能だって言ってたけど。

「かけっこが得意とか、ボールを遠くまで投げるのが得意とかあるだろ? それと一緒で、この子は存在感を消すのが得意なんだ」

それらって同列に並べられるもんなの? (以前の)職業柄気配を消すのは得意だけど、存在感を消すって?

何が違うんだろう。イザヤも同じ性能を持っている、ということだろうか。

いま考えてもわからないな。

邪魔したわね、帰らせてもらうわ。

「その前に、ひとついいかい?」

なに?

「サキちゃんのさっきの技。ワイヤーを張り巡らすやつ。あれ、どこで?」

『クモ』のこと? 地下洞窟の宝箱に入ってた、って言おうかしらと思ったけどやめた。

師匠に習ったのよ。

「……ふ、ははっ。あいつが人に技を教えるなんてね。長生きはするもんだ」

笑いだすオリガさん。長生きしてるってほど歳とってないでしょ。どうしたの?

「いやいや、こっちの話。その師匠は元気かい?」

まあ、元気にやってるんじゃない?

いつも腹ペコに悩まされてたけど。だいぶ前に破門されたから、今どうなってるかは知らないわ。

「何があってそんな技を身につけるようになったかは聞かないけど、センスあるよ。またこの子と遊んでやってよ」

アリカの頭に手をぽん、と置く彼女。

さっきみたいなのじゃなくて、縄跳びあたりなら、ね。

軽口を叩くのが精一杯だ。

わたしは倒れている若旦那を叩き起こし、リョカンに向かった。


◾︎◾︎◾︎


「また、皆が慢心するのが怖かったんだ……」


森の中、リョカンへと向かう途中。金時計を左肩に担ぎながら、若旦那がつぶやいた。ちなみにわたしの服装は元に戻っている。パンツ一丁で若旦那に迫る痴女になるつもりはなかった。

ところでその金時計100キロくらいはあるよね。なんで歩く速さが変わらないの?

心の中でそう思って、慢心? と若旦那に尋ねる。

「昔は心のこもった接客で、何度も訪ねる客が多かったんだ。宿とその客という立場だけど、まるで親戚付き合いのような関係だった。でも今は旅館の名前と豪華な施設があるだけ。三つ星認定を受けてから従業員は接客に手を抜くようになってしまった。こんな物があるから悪いんだ」

金時計をちら、と見る若旦那。

それ、どうするつもりだったんですか?

「……森の中に捨てるつもりだった」

それで他のみんなは納得するんですか?

「……」

若旦那は答えない。

思い詰めてこんなことになっちゃったけど、基本的にはいい人なんだよね。

女将には頭が上がらないんだけど、誰よりもリョカンの立て直しを考えていたのだろう。

でも、言わないと伝わらないですよ?

「そうだね。みんなを信じて、正面からぶつかってみるよ」

正面からぶつかるとみんな死んじゃいそうだけど……。

「僕が怪我したのも、神様からの警告だったのかもしれないね」

いや、それは単なる不運かと。他人の敷地内に入っただけで、少女に足蹴にされて気絶させられるなんて誰が予想できるだろうか。

でも、女将に対して暴力を振るうのはやりすぎじゃないですか?

「あの、それは……事故なんだ」

若旦那の言い分はこうだった。

先刻、女将の部屋で、宿の運営のことで口論になった。話を打ち切って部屋を出ようとした女将の肩を掴もうとしたら、はずみで突き飛ばしてしまった。女将はクロゼットで後頭部を打ち、気絶した。

パニックになった若旦那は、金時計を持ち出して逃亡した。

以上である。

それで金時計のぶっとい鎖を捻じ切るなんて、火事場の馬鹿力にも程があるでしょ。

ちゃんと謝って、やり直してくださいね。わたし、このリョカン結構好きなので。

「ああ。約束するよ」

握手しようと右手を差し出す若旦那。手の骨を折られそうなので断った。


◾︎◾︎◾︎


「なんて馬鹿なことをやらかしたんざますの!」

リョカンに帰ってきての、若旦那の謝罪を受けた女将が怒鳴った。リョカン全体が揺れたんじゃないかと思った。

女将は頭に包帯を巻いている。

場所はロビー。立ち会っているソップ、サパーナ、ケジノもびくりとした。ホザさんもいるが、落ち着いて様子を見守っているようだ。

ちなみにオリガさんとアリカのことは伏せてある。若旦那のこめかみの怪我は、転んだ時に岩にぶつけたことにした。彼はアリカの襲撃には全く気付いていない様子だった。

ちなみにサパーナはすごく眠そうである。なんかごめん。

「ごめんよ。こんな騒ぎを起こして。しかも金時計を傷付けてしまって……」

若旦那は何度も何度も頭を下げていた。

「そんなことを怒ってるんじゃないざます!」

えっ、という顔の若旦那。

「あなたが怪我をしていることざます! 頭と、それから手も!」

ほんとだ。よく見ると右手のげんこつの辺りに無数の切り傷がある。おそらく金時計の囲いのガラスを割った時にできたものだろう。

「大事なひとがそんな怪我をして! わたくし平気じゃいられないざます……!」

女将が若旦那にひし、と抱きつく。

あらら。尻に敷いてるように見えたけど、本当は大事に思ってたんだ。見た目だけじゃわかんないものね。

「お前……」

優しく抱き返す若旦那。

いい場面だなあ。深夜でさえなければ。そろそろ眠気が限界だ。気付いてないと思うけど、わたしだって怪我人だ。全身打撲でじんじんする。

「本当に馬鹿なひとざます。金時計なんてどうでもいいのに。この際、盗んだ時計や宝石も返してくださいまし」

「……盗んだ時計や宝石? 何のことだい?」

「あなたがやったんじゃなくて?」

「知らない」

本当に何も知らない風な若旦那に、女将は困惑顔だ。

それも無理はない。わたしの推理によると、犯人はわたしの教育係のうちの1人なのだから。

「あのう、すんません」

ソップがおずおずと声を上げた。

「女将の部屋から時計盗んだの、俺です」

「な、なんですって!?」

信じられない、と言わんばかりの表情の女将。

ソップだったか……。なんでそんな馬鹿なことを。まあ、予想はついてるけど。

「競馬の軍資金がなかったんで、つい……」

そんなことだろうと思ったわよ。おそらく生活費にまで手を出していたクチだろう。

しかしこれで窃盗犯も判明したし、一件落着だ。めでたしめでたし。

「あのう……」

おずおずとサパーナ。

「女将の部屋から、宝石盗ったの、あたしです」

えっ?

「あの、実は……女将の部屋の財布を盗ったのは俺です」

と、ケジノ。

えっ、えっ?

「新作の化粧品が欲しかったんで、つい……」

「部屋の外から財布の匂いがしたんで、つい……」

サパーナはともかくケジノの理由はおかしいでしょ。

「なんてことざます……」

よろよろとくずおれる女将。若旦那が寄り添った。

まさか身内の犯行だとは思っていなかったんだろう。依頼をするときも、外部の犯行を信じて疑ってなかったみたいだったし。

わたしもびっくりだ。

こういうのって、普通犯人は1人じゃないの? 

部屋も散らかって荒れてたし、強盗犯の仕業かと思ってました。

「……あれは、わたくし、片付けるのが苦手なんざます……」

心労のところ申し訳ありません。

「ソップ、サパーナ、ケジノ。……しかしなぜ、いま白状しようと思ったんだい?」

若旦那が聞く。するとソップがわたしをちらりと見て

「こんなチビがあくせく働いてるのに、俺が負けるわけにはいかない、と思いまして。でも、盗みを働いたことに、けじめつけないと胸張って働けないなと……」

と言った。

「あたしも、旅館に活気が戻ってきて忙しくなったけど、お客に感謝されると『また頑張ろう』って思えるようになって。でも、宝石盗ったこと黙ったままなのは気分が悪いなって……」

サパーナがうなだれる。

「おれも、いくら頑張って働いても報われないと思ってました。そのチビとせっせと働いて客の喜ぶ顔を見てるうちに、昔はもっと未来のために働いてたな、というのを思い出しまして。客に喜びを提供する側の手が汚れてちゃイカンと思ったので……」

ケジノもしゅんとしている。

『すいませんでした』

三人が深々と頭を下げる。

若旦那は

「君たち……。いいんだ。自分の過ちを認め、反省したなら。また、明日から一緒に働こう」

と言った。

「いいや。ダメだ。お前らクビだ」

ホザさんがピシャリと言い放つ。

ビクっ、と震えるソップ、サパーナ、ケジノ。

「お義父さん……。彼らも反省しているようだし、今回だけは許してあげませんか」

「粗相を働いた人間がのうのうと働いてちゃ、他に示しがつかねえだろうが! ケジメが必要なんだよ」

「……」

黙る若旦那。

確かに、不問に伏すことはできるだろうが『悪事を働いても許される』という前例になりかねない。

「せめてもの情けで、今日一晩はいさせてやるが、明日の朝には荷物まとめて出て行け! 拾ってやった恩を仇で返しやがって。どこにでも行っちまえ!」

ホザさんの怒鳴り声に、空気がピリつく。ソップ、ケジノは何も言えず、サパーナは涙を流していた。

「お義父さん、そこまで言わなくても……」

と、若旦那がホザさん宥めようとした。

しばらくして

『……短い間でしたが、お世話に張りました……』と3人が頭を下げて、ロビーを後にする。

「おい、ダルトン!」

そばにいる若旦那に、大声でホザさん。

「これから忙しくなるからって、来週から従業員募集するんだったな!?」

「え、ええ」

「枠、3以上用意しとけよ!」

「……!」

「こんな風変わりな宿で働こうってぇ奴らだ。きっと馬鹿野郎に違いねぇから、根性叩き直してやんなきゃなんねえ!」

「はい……、必ず!」

「これでゴタゴタは終わりだな?

明日も朝から仕事なんだ、もう寝ろお前ら!」

ホザさんの一言で、この場はお開きとなった。ロビーを去るソップ、サパーナ、ケジノの背中は、心なしシャッキリして見えた。


◾︎◾︎◾︎


従業員の部屋。隣の布団でサパーナが寝息を立てている。

「いたた……」

全身の青あざが痛む。

窃盗犯が分かったのはいいけど、あの森の中にいた人達は何だったんだろう。

アリカという白い少女。その母親を名乗るオリガさん。

見た目から言って、母親っていうのは怪しいよなあ。姉妹の間違いじゃないだろうか。

彼女は庭に侵入した人間は排除する、っ言ってた。

リョカンの敷地に接しているあの森は、国有であり、のはずなのだ。

そんなところを『庭』って言っている時点で怪しさ120パーセントだ。

そしてイザヤと同じような特性を持つアリカ。きっと何か関係があるに違いない。

師匠のことも知ってるふうだったな。

師匠に聞けば何かわかるかもしれないけど、こっちから頭を下げるのもシャクだから、やんない。

労働のち戦闘。疲労は限界だ。

あれこれ考えてると、眠くなってきた……。


◾︎◾︎◾︎


「これであーたの仕事は終わりざます」


早朝。仕事をしようと身支度を整えて、ロビーに出ると女将に呼び止められた。昨日あんなことがあったのに、身なりをきっちり整えているのはさすがである。

え、終わりって。今日も仕入れから始めるんじゃ?

「何言ってるざます。窃盗犯が判明したんだから、あーたはお役御免ざます」

そうだった。館内に発生する窃盗犯の確保がわたしの仕事だった。今日は自分で目で目利きして、いい肉を仕入れようと思っていたのに。

「あーたも大概仕事熱心ざますわね」

困ったように、ふぅ、とため息をつく女将。

そういえば、金時計はどうしたんですか? ロビーに見当たりませんけど。

「あれは国に返還するざます。主人が『怠慢につながる』と言ったことも一理あるざます。金時計は心に置いておくざます」

なんだか素敵ですね、それ。

「お父様が旅館の改装に、あーたの意見を取り入れるって言った時にはどうなるかと思ったけど、結果、うまくいきそうざます。感謝ざますわ」

わたしに一礼する女将。

なんか照れるな。ほんとに事務所に依頼に来た人と同一人物?

「お父様もの怪我もだいぶ良くなって、歩くぐらいなら問題もなくなったざます。これから黒乃洲邸は盛り返すざます」

良かった。ホザさん、動けるようになったんだ。

「本来ならあーたに金一封差しあげたいところだけど、改装と求人で出費がかさんで、まったく余裕がないざます。ごめんなさい」

いえ、そんな。

改装のアイデアはイーダさんの受け売りだし、ホザさんの口添えがあったから実現しただけで、わたしは大したことはしてないと思う。

「その謙虚な姿勢、侘び寂びざますね」

いうほどわたしはワビサビを理解してないからね?

「今度、あーたの事務所の所長を連れて来なさいな。今回の謝礼がわりに、黒乃洲邸のロイヤルスイートに招待してあげるざます」

にこり、と女将が笑う。

そういえば、女将の笑顔初めて見た。

歳を重ねた、素敵な表情だった。

おもてなしの心って、こういうのかな。

と、そこにロビー奥の通路から、それぞれ大きな荷物を持った3人の人影が現れた。

「おいおい、話は聞かせてもらったぜ? 俺に黙って出てく気かよ。礼くらい言わせろよな」

と、ソップ。

「サキには働く喜びをもっかい教えてもらったよ。ありがとう」

と、サパーナ。

「お前、将来ここで働けよな。そん時は俺が配膳の極意を授けてやるから」

と、ケジノ。

「あーたらはクビになったばかりざましょ。そういうことは採用されてから言うざます」

女将のツッコミに一同が笑う。

女将が

「今度あーたがお客としてきた時には、最高のもてなしで迎えるざますわ」

と言った。

きっと来ます。所長を連れて。

その時は、時間を忘れて楽しませてもらいますね。


–––– 消えた金時計 真実は白い森の中 完––––

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