第26話 序章5の2 兵隊

 荷支度を終えた安藤は、寄宿舎の方へ向かった。

 寄宿舎に着くと既に宮崎の姿があった。

 彼の後ろに見える廊下では、立ち並ぶ個室の扉が揃ったように開け放たれており、中からドタドタだのガチャガチャといった物音がする。


「これはこれは安藤中尉、やはりいらっしゃいましたか。」


 安藤に気付いた宮崎はそう声をかけた。


「もちろんだよ宮崎君。これも一つの楽しみだからね。」


「僕も同感です。」


 と、2人は子供っぽい笑みを浮かべた。

 そして、それぞれ開け放たれた個室に入っていき、


「どうだ、お前達。何か分からないことや困ったことは無いか。」


 部屋の整理や準備をしている候補者に声をかけ、また、部屋の中を見回す。

 そこで、部屋に備えられた机の上に置かれた写真立てに目が行った。


「ふむ、これは君と君の恋人さんかな?」


 その中には少し照れたような、しかし幸せそうな二人の姿があった。


「はい、僕の大切な人であります。

 今は、自由に会うことは出来ませんが、週に3度ほど手紙をしたためて互いに連絡取り合っております。」


 と候補生が嬉しそうに話した。


「ははあ、いいね若いというのは。俺と俺の妻も若い頃には、こんなことをしたよ。」


「何をおっしゃいますか、安藤教官も十分にお若いではありませんか。」


 そうして、安藤は彼としばらくの間、楽し気に語り合った。


 安藤と宮崎はこれを目当てに、見回りに来た。

 大切な写真、お気に入りの書物、持参した日本刀、手作りの小物など、何かしらのものを候補生達は故郷から持ち込むことが多かった。

 そして、それにまつわる話を聞いたり、話の種にすることが二人の楽しみの一つだったのだ。

 そうして二人は、部屋から部屋へと移って行っては、様々な話で盛り上がっていた。

 最早、手伝いに来たのか、邪魔しに来たのか分からなくなっていた。

 しかしそれでも、彼らは楽しそうに語り合っていた。


 そんなこんなで時間は瞬く間に過ぎて行き、昼食の時間となった。

 すると今度は、安藤が候補者達から質問攻めにされる番となった。

 主には、秩父宮の下にいた頃の話について捲し立てられたが、中には安藤の妻のことなど少々下世話なことも聞かれた。


「おいおい、そんなに俺ばかりに質問するな。じゃないと、宮崎助教殿が寂しくて拗ねてしまうぞ。」


 などと冗談を言いつつも、彼らの問いに対して一つ一つ丁寧に答えていった。

 そうして昼食の一時も賑やかに楽しく、あっという間に過ぎて行った。


    ※


「それでは、そろそろ舎外演習へ向かうことにする。

 本日の目的地は松蔭しょういん神社じんじゃである。

 俺が牽引けんいんを務める故、皆遅れることの無いに。」


 午後一番目の体操を終え、皆は聯隊れんたい兵舎へいしゃの入り口前に整列していた。


「全体、進めッ!」


 安藤の掛け声に合わせ、16人は高らかに軍靴の音を鳴らして足を出す。

 その音は、一人の乱れも無く全員の足音がピッタリと揃っていた。

 先頭に安藤、最後尾に宮崎。

 18名の隊列は松蔭神社を目指して出発した。

 往きは、青山墓地、上通り、渋谷駅、駒場、下北沢、若林、松蔭神社の順路を採った。


「墓地内はなるべく足音を鳴らさぬように。」


 安藤の号令とともに、その軍靴の音が静まる。だが、行進速度は全く落ちることは無い。

 その結果、彼らの行進は、ひどくちぐはぐなものとなった。

 すれ違う人々は皆、思わず二度見する。

 まるで滑るように、音も無く隊列は進んでいく。


 坂道を下り、高架下をくぐり、駒場へと至る。

 左方には騎兵きへい第一だいいち聯隊れんたい兵舎と近衛このえ輜重兵しじゅうへい大隊だいたい兵舎、右方には帝國大学農学部校舎が見えて来た。


「兵科は異なれども、共に天皇陛下の皇軍であることに変わりは無い。

 他の同志に負けぬよう、おのおのより一層力を込め行進せよ。」


「「「はい!」」」


 掛け声に合わせ、その行進は更に力強くなった。

 一糸乱れぬ勇猛な軍靴の音は周囲へ響き渡り、何事かと驚き様子を見に来た者達は、その統率の取れた行進に思わず釘付けとなった。

 またある者は、手を振って彼らを応援していた。


 駒場を抜け、下北沢に到ると、周囲には青々と茂った麦畑と、真っ黄色に咲き誇る菜の花畑が広がっていた。

 長閑のどかな田園風景の中を、彼らは悠々と歩を進めていく。

 時折吹く穏やかな春風が、皆の火照った身体を心地よく吹き抜けていった。


 そして、およそ3時間。

 遂に目的の松蔭神社へと到着した。


「全体、止まれッ!」


 安藤の掛け声により、行進が止まった。

 候補者達の額(ひたい)には、大粒の汗が幾つも浮かんでおり、皆一様に肩で息を切らせていた。


「これより、参拝を行う。他の参拝者に迷惑を掛けぬよう、各人気を付けよ。」


 そう言って再び安藤は歩き始め、その後を皆は追った。

 松蔭神社の境内はかなり広かった。

 そこには、くすのきけやきしいの大木が参道両脇に鬱蒼うっそうと生い茂っており、森林の中を思わせる光景だった。

 御影石造りの簡素な鳥居をくぐった参道の先に、楠の老樹とその根元に石の座像がひっそりと佇んでいた。


吉田よしだ寅次郎とらじろう藤原矩方ふじわらのりかた、長州藩士、号は松陰。

 年少より大義を唱え、松下村塾を主宰し、明治維新の原動力となった志士多数を出す。安政大獄により刑死す。享年三十歳。』


 安藤が無言でその座像に向かって敬礼をすると、皆もそれにならった。

 一行は透き通った湧き水の手水ちょうず場で手と口を清めた後に、神域へと入り、拝殿の前に整列した。

 安藤の号令で、ささつつの拝礼を行い、それから黙祷を捧げた。

 やがて神域から退去し、右手に見えた草の茂る小脇道を進むとその先に山茶花さざんかの生垣に囲まれた霊廟れいびょうが見えた。

 吉田松陰と刻まれた墓標を中心に、らい三樹三郎みきさぶろう来島きじま良蔵りょうぞう小林こばやし民部みんぶ中谷なかたに正亮しょうすけ綿貫わたぬき治良助じろすけ福原ふくはら乙之進おとのしんの7名の墓が左右に並んでいた。


 彼らは皆、安政の大獄の前後に獄死、刑死、若しくは自害した志士だった。

 候補者達は、それぞれ思い思いに偉人達の墓前にひざまずいて彼らの冥福を祈る。

 各々が気の済むまで祈りを捧げた後に、一行は霊廟と社殿の中程にある草地へと移動した。


 この場所は、参拝者たちの憩いの場や休憩場所として利用されていた。

 ある者は草の上に寝そべり、ある者は置かれたの椅子に腰を下ろし、候補者達は各々疲れを癒していた。

 そしてしばらくすると、社務所しゃむしょの奥さんらしい年配のご婦人と二人の若者が、彼らに近付いてきた。


「安藤さん、それに皆さんも、本日はよくお詣り頂きました。これは私達からの差し入れ物でございます。どうかお受け取りください。」


 ニコニコしながら、菓子や果物、冷たいお茶などを差し出した。

 候補者達は、子供のようにはしゃいで歓声を上げた。

 安藤と宮崎が鄭重ていちょうに礼を述べた後、


「よおし、皆に平等に配給だ。一人ずつ取りに来い。」


 と、声を掛けた。

 候補者達は二人を中心に輪を作り、差し入れの茶菓子を喜んで口に運び、楽しい団欒の一時を過ごした。


「皆、食べながらでも良いので、聞いてくれ。」


 しばらくの団欒の後に、円陣の中心いた安藤はそう話し出した。


「この集合教育は、あくまでも教導学校入校のための予備教育である。その為、学校で教わるような課目はなるべく行わないつもりだ。

 故にこの期間中、俺は皆の武士もののふの魂を磨くことに重点を置きたいと思っている。

 小手先の技術では無く、あくまで武人、戦士としての心構えだ。

 お前たちは、雑兵などでは無い。少なくとも一つの隊を指揮する武士になるのだ。

 この中には、将来において万軍を指揮し、世界に覇を唱えんとする大将となる者。

 或いは、帷幄いあくの中で、日夜、策略や計略を考え、はかりごとを三千大世界の彼方にまで巡らす大軍師になる者が出てくると俺は確信する。」


 皆の手がピタリと止まっていた。

 菓子を咀嚼そしゃくすることも、嚥下えんげすることも忘れ、誰もが安藤の話を聞き入っていた。

 差し入れをくれたご婦人方や、この広場で休んでいた参拝者たちまでもが彼の話に耳を傾けていた。


「ここで皆に知ってもらいたいことがある。

 明治維新の原動力の殆どが下級武士であり、西郷隆盛を始め、維新の志士達の多くが貧しい下級武士や郷士の出身であった。

 そして、日清、日露の両戦争で軍の中枢にて輝かしい武勲ぶくん功績こうせきを上げた将軍もまた、下士官出身や教導学校出身者が非常に多かったのだ。

 下士官は今猶、軍の大動脈であり、軍の要である。

 下士官の優秀な軍隊は精強であることは、古今東西に通ずる絶対の真理だ。

 故に俺は、お前達を同年代の何処の隊の候補者達にも負けない武士へと鍛えていく。」


 安藤は決して雄弁では無かった。

 しかし、彼の言葉の端々から彼の熱意と、彼に従う候補生達に対する真摯な思いが溢れていた。


「俺がお前達と同じように隊付の集合教育を受けていた折に、秩父宮殿下から賜った薫陶くんとうを、そのままお前達にも送りたいと思う。」


 そう言うと安藤は少し照れくさそうに頭を掻き、一呼吸置いた。

 そして、静かに口に出していった。


「これからお前たちは、しっかりと目を見開いて勉強していってほしい。

 己の目で見て、耳で聞いて、それから己の頭でしっかりと考えろ。

 牛馬の如くに只ただ、唯々いい諾々だくだくと盲進するのではない。

 ロボットのような軍人にはなるな。

 確固とした己の意思と、誇りを持った人間らしい軍人になるのだ。

 今は隣にいる仲間と共に・・・。

 将来においては部下達と共に苦しみと喜びを分かち合い、全隊員と共に千軍万馬の大部隊を築き上げろ。

 自らが指揮官となって戦場に赴いた時、部下を信頼し、同時に部下から信頼されるようになること。

 そして、最後の最後まで決して部下を犬死にさせないこと。

 それが指揮官の心構えだ。

 以上が俺が殿下から賜ったお言葉である。皆もこの御薫陶をしかとその胸に刻み込んでおくように。」


 皆は殿下のお言葉に深く頭を下げた。


 宮崎もまた、安藤の一言一句を漏らさぬよう、聞き入っていた。

 安藤の言葉は、候補者達を勇気づけた。

 彼らの胸の内に尽きることの無い希望と、燃え上がるような闘志を湧かせていった。


「そして、諸君等の前には広大な道と、大いなる可能性が広がっている。

 伍長、軍曹から士官学校予科に入る道、曹長、特務曹長から少尉候補者となって士官学校の別科に入る道、日々のコツコツをした地道な努力を重ね、特務曹長から少尉、中尉と昇進する道など様々ある。

 俺は、先にお前達を誰にも負けない武士に鍛え上げると言った。

 そしてそれに加え、単なる下士官で終わらせるような教育をするつもりはない。

 将校なり、将軍なり、参謀なりになる可能性を十分に考慮して、その基礎を作り上げたいと考えているのだ。

 対抗秀吉は、足軽から累進して最後には天下の頂点に立った。

 お前達にだって天下に立てんことはないのだ。

 最後に俺が尊敬する吉田松陰の歌を送りたい。」


 安藤は目を閉じ、松陰の3首の辞世の句を朗々とそらんじた。


「”くすればるものと知りながら

  むにまれぬ大和魂”。

 ”身はたとへ武蔵の野辺のべくちちぬとも

  とどめおかまし大和魂”。

 ”親思ふ心にまさる親心

  今日の訪れなんと聞くらん”。」


 安藤の熱誠ねっせい溢れる話が、彼らの胸中に大いなる感動を呼び起こした。

 

「だからどうか皆、夢と希望と自信を持って、頑張ってほしい。」


 安藤がそう言い終え、頭を下げると、ドッと拍手が沸き起こった。

 中には大粒の涙を溢しながら張り裂けんばかりに手を叩く候補者もいた。


「いやはや流石は安藤さん、心に浸みゆく素晴らしい言葉でした。

 年甲斐も無く、涙腺が緩んでしまいましたよ。」


 神主とおぼしき人が、そう言って目尻を指で撫でていた。

 彼のほかにも、何人もの人達が、彼の話を聞き入り、周りに集まっていた。

 ようやくそのことに気が付いた安藤は、慌てて手を振り、


「これはまた、何ともお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。」


 恥ずかしそうに頭を下げていた。


「ではこれで俺の話は終わるが、次は宮崎軍曹の番だ。」


 安藤は何とか話を逸らそうとするも、


「いやいや中尉殿、それは余りにも殺生というものですよ。

 あんなもの後で、僕に一体何を話す余地があるというのですか。

 それこそ僕が下手なことをしゃべってしまったら・・・。

 いや、しゃべらなくても顔から火が出るような思いをするのは、火を見るよりも明らかですよ。」


「そんなこと言わずに、頼むからお前も何か教示きょうじしてやってくれ。

 でないと、俺だけが大間抜おおまぬけを見るではないか。」


 そうして、また二人の漫才が始まるのだった。

 そんな2人を候補者達と、周りに集まっていた人達は楽しそうにその様子を眺めていた。


 そして帰りの時刻が近付くと、安藤は神社の神主とその奥さんの下へ挨拶に行った。

 それを候補者達と宮崎は離れた所から見ていた。

 その時、ふと宮崎は、


「安藤教官とは、こういう人なんだ。あらゆる事に気を配ってくださる心の底から優しいお方なんだよ・・・。」


 沁み沁みと呟いた。


 境内の外まで見送ってくれた神主夫妻に、一同は深々と頭を下げ、帰路に就く。

 道中、一行は軍歌演習をしながら、進んだ。

 その勇ましい歌声に釣られたのか、


「兵隊さん、兵隊さん。」


 と、後ろを何人かの子供達が追いかけて来る。心なしか隊の行進速度も、子供達が並走しやすいものへと下がっていた。

 或いは、家の軒先のきさきや庭先から幼い子供達が手を振っていた。

 一生懸命にその小さな手を振る姿は、何とも言えない可愛らしさだった。

 一行は真っ赤に染まった夕日を背に受け、坂を上がって行く。

 そして次第にその後ろ姿は、子供達の視界から薄れていくのだった。

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