第27話 序章5の3 郷里

 カチ、カチ、カチ・・・。


 針の時を刻む音が聞こえた。

 気が付くと、己の身体は事務机の上に突っ伏した状態で眠っていた。

 目を数回瞬しばたたかせて、机上を手探りでまさぐった。

 うんうんと唸りながら腕を動かすと、ようやく目的のものに指が触れた。それを掴み、寝ぼけまぶたに掛け直す。

 瞬間、一気に視界が冴え渡った。

 改めて壁に掛けられた時計を見ると、短針が九時を少し過ぎたあたりを刺していた。


(5時間程度か・・・。)


 周囲を見渡すが、将校室には己以外誰もいなかった。

 室内に置かれたストーブの中では、煌々と炎が輝いている。

 そして時折、ストーブの中の真っ赤に燃えた薪が割れ、パキッという乾いた音が、静まり返った部屋の中に鳴り渡った。


 両手を組み、グッと背伸びをする。

 随分と懐かしい夢を見ていたように感じられた。

 秩父宮殿下の下で指南を受け、修練に励んだ日々。

 自らが教官となって候補者達を指南を授け、共に過ごした日々。

 目を閉じて追憶ついおくける。

 瞼の裏に浮かぶのは、色褪いろあせることなく、彼の中で鮮烈に輝いていたかつての日々だった。


 厳しい訓練や、叱咤に何度か挫けそうになったことも確かにあった。

 しかしあの頃は、只ひたすらに目の前の事に全力を注ぐことが出来た。

 一分の迷いも無く、仲間や教え子と共に日々を邁進することが出来た。


(思えばあの頃が、一番楽しかったのかもしれないな・・・。)


 しばらくした後、彼は目を開け、過去を振り払う。

 そして再び現在へと目を向けた。

 机上に乱雑に散らばる書類を片付けるべく、彼は動き出した。


 実際には、彼が教官を務めた集合教育は、まだ3カ月前に終えたばかりである。

 だがそれでも、彼には遙か昔の事のように感じられてしまうのだった。

 それほどまでに彼を取り巻く世界が、急激に動き出していた。


    ※


 ふと時計に見ると、時刻はもう11時回ろうとしていた。

 連日に渡る徹夜での作業の甲斐があってか、仕事にも粗方あらかた終わりの目途が立ってきた。

 そして気分転換にお茶を入れ直すべく、将校室を出た。


 だがそこで安藤が扉を出た瞬間、一人の青年兵とばったり出くわした。

 この遭遇に二人は互いに驚いたが、


「安藤中尉殿、お疲れ様です。」


 その兵士は即座にたたずまいを直して挨拶をした。


「ああ、おはよう。

 君は確か・・・、由利本ゆりもと伍長だったね。」


「はい、由利本ゆりもと五助ごすけであります。」


 教導学校を卒業した彼は、今年の4月付けでこの第三聯隊の第六中隊に入隊した。

 安藤が先の集合教育を務める傍ら何度か彼と接触したことがあった。

 とは言えそれは兵舎の廊下ですれ違ったり、食堂内で出くわす程度で、面と向かって言葉を交わしたことはこれまで無かった。


「それで、今日はまたどうしたのだ。」


「いえ、特に何か用事がある、という訳ではありません。

 暇を持て余し、兵舎の中を当ても無く歩き回っていたところです。」


「ふむ、なるほどな。」


 安藤は少し考え込んだ後に、


「ならば、少し俺の話相手をしてはくれないか。」


 そう言って、由利本を将校室の中へと招いた。

 安藤は適当に空いた事務机から椅子を引っ張り出すと、そこに彼を座らせた。


「いや、すまんな。俺の我儘わがままに付き合わせてしまって。

 気を入れ直そうとしたところに丁度良く君が通りかかったものだから、つい誘ってしまった。」


 安藤は、そう言って淹れたばかりの茶と、菓子を差し出した。


「お気になさらないでください。

 寧ろ、中尉殿にこのように誘って戴けるとは光栄の至りであります。」


「はは、そんなにかしまらないでくれ。

 今は中尉としてではなく、一人の対等な人間として、俺は君を招いたのだから。」


 安藤はほがらかに笑って、由利本を歓迎した。


 しばらく二人は会話に花を咲かせた。

 初めのうちは緊張していた由利本も、安藤の気さくな性格に安心したのか次第に物腰もやわらいでいった。

 そうした後に、安藤は一つの疑問を口にした。


「ところで、君は実家へと戻らないのか?」


 こよみはもう既に師走しわすの下旬に入っていた。

 既に多くの者が彼らの故郷へと帰っており、僅かに残っている者も実家が神奈川や埼玉、千葉といった近郊にある者達だった。 

 それらの者も今は由利本と同様に、暇を待て余して外に出掛けており、その為、聯隊れんたい兵舎へいしゃ内は閑散かんさんとしていた。


「君の故郷は秋田のはずだが・・・、」


「ええ、おっしゃる通りですが、今年は帰郷は致しません。

 帰りの鉄道の運賃にてるよりも、その分を少しでも実家の仕送りに充てたほうが良いですから。」


 彼はそう言って、力無く笑顔を作った。


「それは一体どういうことだ。」


 彼の言葉をいぶかしんだ安藤は、詳しい説明を求めた。


「僕の家は秋田で農業を営んでいるのはご存知でしょうか?」


「ああ。それと東北で凶作が続いていることは、噂程度には聞いている。」


「はい。中尉殿が仰る通り、ここ数年、凶作が続いております。

 そして凶作と恐慌の煽りを受けて僕の実家は、困窮の底に瀕しているんです。」


 そんな言葉から、彼の説明が始まった。


 そして安藤が耳にしたのは、驚くべき実体だった。


    ※


 2、3年ぐらい前に全国規模で、農村地帯に旱魃かんばつと冷害が襲いかかった。

 中でも東北地方と北関東の被害は甚大であり、その惨状は目を覆わんばかりの地獄絵図だった。

 蜘蛛の巣のような無数のひび割れが走る渇き切った田畑。

 六月に入っても終わらない降雪。

 何もかもが常軌を逸していた。


 そこに追い討ちを掛けたのが、度重なる恐慌だった。

 なけなしの作物も、その価格が半分以下までに暴落した。

 働けば働く程に、金が無くなっていくという、悪夢と呼ぶのも生温い有り様だった。


 絶望と貧困に喘ぐ中で、穫れた僅かばかりの作物も地主に容赦なく搾取され、更には主な働き手たる男児も、徴兵により奪われてしまった。

 唯一の働き手を失い途方に暮れる家。

 食い繋ぐ為に姉や妹を遊女として売りに出す家。

 その差し出す娘さえもおらず、死の瀬戸際に立つ家。

 そんな異常な光景が、各地で溢れ返っていた。


 初めは野生の鳥獣や、なけなしの家畜を食べ、飢えを凌いでいた。

 やがて、そういったモノも無くなると、雑草や木の根、虫などをみ、何とか命を繋いだ。

 しかし季節が冬に入ると、それすらも手に入れることが困難となり、やがて体力の無い者から次々と力尽きていった。

 或いは、飢餓の苦しみで進退窮まった末に、一家心中を計る家も出ていた。

 そうして次々と人がいなくなっていき、ついには丸ごと全滅してしまう集落すらも現れ始めた。


 そうした困窮家庭が今猶増え続けているという事態にも拘らず、国も県も村も消極的だった。

 救いを求める彼らに対して救済措置をはどこすことを全く行わず、数え切れない程の餓死者が出ている現状から目を背けるといった有り様だった。


 現在、東北の地で起こっている惨状のあらましを由利本は語った。


    ※


「なん・・・という・・・、」


 両手で顔を覆い、項垂うなだれた。

 何とか安藤から絞り出された言葉はそれだけだった。

 実のところ安藤は、北関東や東北で飢饉ききんが発生したこと自体は周囲の風聞から知ってはいた。

 しかし彼自身がいだいていた認識と、今こうして当事者たる由利本の口から告げられた実体が、あまりにも乖離かいりしていたのだ。

 その筆舌に尽くし難い惨状に、只々驚愕するしかなかった。

 だが、そんな安藤をよそに、由利本は、


「ですが心配はご無用です。」


 と、朗らかに晴れ渡った笑顔を浮かべた。


「父も母も、妹もまだ生きております。

 今もみんなで畑を耕して、懸命に生きております。

 毎月の中頃には、こうして手紙の遣り取りもしております。」


 そういって彼は懐からくたくたにしなびた便箋びんせんを取り出した。

 その中には、かの地の惨状や、自らの置かれた状況を悲嘆するようなことは一切書かれていなかった。

 只々ただただ息子の安否を気遣う内容ばかりがつづられていた。


「”こっちは俺と母さんと紗恵さえがいればやっていける。だからお前は俺らのことなど心配せずにお国の為にご奉公してこい。”、という言葉が父の決まり文句なんです。

 そうやって、いつも手紙の最後に添えられてありますよ。」


 安藤が手紙の末尾まつびを見ると、確かにそのような言葉で締め括られていた。

 達筆な、しかしひどくかすれた文字だった。


「だから僕に出来ることと言ったら、こうして手紙をしたためることと、戴いた給料をなるべく多く実家に仕送る程度のことです。」


 そう言った彼の服は、よれよれに草臥くたびれており、あちこちが擦り切れていた。


    ※


「君は・・・、本当に帰らなくて良いのか?」


「はい。」


 嘘だ。


「君の父と、母と、妹に・・・、合わなくて良いのか?」


「ええ、お互いに分かっていることですから。」


 嘘だ。


「家族と一緒に、過ごさなくて・・・、後悔はしないのか?」


「はい。微塵も致しません。」


 何もかも嘘だ。


(そんな筈がない。合わなくて良い訳がない。)


 しかし目の前の青年は、そう言って今猶、朗らかに笑っている。


(由利本は、己の中で既に結論が出てしまっているのだ。最早自らの意思では決して覆らないのだろう。

 だからこのように笑っていられるのだ。)


 家族を案じ、下した苦渋の決断を尊重することこそが、彼の為であるのか。


(だが、彼の帰りを待っているであろう家族はどうなる。

 ならば、彼の意志を折ることこそが・・・。)


 安藤は悩んだ。

 何が正しいことなのか。

 何がこの青年にとって良いことなのか。


『士官と部隊の関係はな、謂わば生物と細胞のようなものだ。』


 思案を巡らせる中、不意にかつて秩父宮から受けた教えがよみがった。


『安藤、その意味が分かるか?』


『つまり、私と兵士達は一心同体である、ということでしょうか。』


『ふむ、おおよそはそんなところである。

 およそ生物の全てが、細胞が無くては存在し得ない。

 また細胞もまた、それ単体では生物としては成立し得ない。ああ、単細胞生物という揚げ足取りは、この際無しだ。

 同様に部隊とは一つの生物であり、それを指揮する者が、その生物そのものといってよい。

 故に兵士一人一人が、お前の細胞であり、お前もまた、彼ら一人一人でもあるのだ。

 生物が自らの細胞の一つ一つを慈しむのが道理であり、彼らに対する礼儀である。

 だから安藤、士官たるものは部隊の一人一人を存分に慈しむのだ。

 共に過ごし、苦楽を共有し、彼らとの結束を、細胞同士の結合を育み、強固なものとすること。

 それこそが、この生物を最強足らしめる唯一にして最大の手法である。』


 秩父宮の言葉が、安藤の中で走馬灯のように浮かんでいた。

 今でも猶、色褪いろあせることなくその言葉は、彼の中にあり続けていた。

 数秒の間、目を閉じ反駁はんばくする。

 そして目を開き、


「そうか、分かった。」


 と、由利本に告げた。


 安藤の中にはもう迷いはなかった。

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