第9章 その2 逃げてもいい


(……お腹すいた)


 私は自室のベッドにうつ伏せの状態で倒れ込んでいた。朝食を食べる間もなく飛び出してきてしまったので、お腹の虫が鳴いている。リリース直後から『飯テログラフィック』と言われた『銀オラ』の食事は、その味もまた見た目を裏切らないものだと言うのに。


(今日のご飯、何だったのかな……)


 朝は大抵、クロワッサンにフレッシュジュース、紅茶がついていて、メインの卵料理とサラダに日々アレンジが加えられる。


(あぁ、思い出したら余計にお腹すいてきた……)


 何かの本で、お腹の鳴る音は脂肪の断末魔だと聞いたことがある。


(このまま登校したら、体重減るかな。でも周りにうるさいだろうな)


 私はごろりと仰向けになる。


(でも、ミランの言ってることも少しは本気で考えなきゃならないのよね。エネルギーの発動のコントロール……、今後は絶対に必要になるわ)


 胸元を押さえ、大きく息をつく。


(だってもう、私は『預言』が出来ないんだから……)


 そう思いながら、もう一度うつ伏せになろうと体を回転させた時だった。カーテンの向こうに人が立っているのが見えた。


「ひっ!?」


 思わず息を飲み、ベッドの上に正座する。

 見上げるような見事な体躯の人影。


「……ベルケル?」


 ベルケルは指先でコツコツとガラスを叩きはじめた。


「…………」


 私が知らんぷりを決め込んでいると、ベルケルはガラスを叩く指を徐々に増やし、ついには掌で勢い良く叩きだした。


(ちょ……)


 さすがにそれ以上の力で叩かれるとガラスが割れると危惧した時だった。ベルケルが諦めたように、ガラスを叩く手を下ろす。


(あ……)


 ほっとするのと同時に、ほんのり寂しさを感じる。だが次の瞬間、ベルケルのシルエットは拳を固め、勢いよく腕を振り回し始めた。


(窓を破る気かーい!!)


 私はベッドから飛び降り、慌てて窓辺に駆け寄るとガラス戸を開けた。


「何の用!?」


「やっぱ、俺がいるの気付いてたんじゃねぇか。無視しやがって」


「……ぐ」


 ベルケルは欠片も遠慮することなく、ずかずかと部屋の中へと入って来る。


「……そこ、窓なんだけど。ドアじゃないんだけど」


「だな」


「人が出入りする場所じゃないよね」


「そだっけか? つい、楽そうな侵入経路を選んじまった」


(やっぱり破る気だったんかーい! 元・盗賊、怖い!!)


「ほらよ」


 ベルケルは、テーブルの上へ無造作に謎の包みを放り出した。


「……何?」


「飯だ」


 ナフキンを開くと、中にはクロワッサンとゆで卵が入っていた。


「食っとけ」


「…………」


「食え」


「……喉に詰まりそう」


「水くらい、この部屋にもあんだろ」


「…………」


 テーブルの上に乱雑に転がっているクロワッサンとゆで卵に、思わず笑ってしまう。


「何がおかしい」


「ううん、エルメンリッヒみたいにサンドイッチにしてないなぁ、と思って」


「するか、そんな面倒くせぇこと。腹に入りゃ同じだろうが」


(栄養バランスも違う気がする……)


 そう思いつつも、つい口元が緩んでしまう。この、何の手も加えられていないクロワッサンとゆで卵は、とてもベルケルらしい差し入れに思えた。誰に言われたのでもなく、ベルケルが自身の判断で持ってきてくれたのだと。


「食わねぇなら、俺が食っちまうぞ」


「いいよ」


「…………」


 ベルケルがクロワッサンを乱暴に掴む。


「あっ、床にパンくず……!」


 思わず身を乗り出した私の首根っこを、大きな手が掴むのを感じた。


(えっ!?)


 次の瞬間、クロワッサンを口の中へと突っ込まれる。


「ふんぐっ!?」


「ほら、食え」


(無茶苦茶するなぁああ!!)


 じたばたと抵抗を試みるが、私を捕えたベルケルの腕は微動だにしない。そして私が抵抗するごとに、クロワッサンからパリパリの生地が剥がれ落ち、私の服や床へと散乱してゆく。


(床が~っ! 服が~っ!)


「ほら、大人しく食わねぇと、どんどん悲惨なことになるぞ」


(だから! そういう熟練の脅し方やめて! 本職!)


 私が抵抗を諦めゆっくり咀嚼を始めると、ベルケルはようやく手を離してくれた。


「手間かけさせやがって」


(何なのこれ。拷問? 特殊プレイの一種?)


 ベルケルは手近にあった椅子を引き寄せると、どっかと腰を下ろす。私の租借音だけが、静まり返った部屋に繰り返された。


「なぁ」


「っ!」


「いやなら逃げちまっていいんだぜ」


(ベルケル……?)


 私は食べかけのクロワッサンを口から離す。


「逃げる、って……」


「前にも言ったが、俺ぁてめぇが戦闘に出る必要はねぇと思ってる」


「……っ。で、でも、私にも力が……!」


「あぁ、魔法に代わる何らかの力があることは俺にも分かった。しかもスゲェ威力を持ってやがる。だが、特殊な条件下でしか発動しねぇ。しかもそれは……」


 ベルケルのごつごつした指が、私の胸元を指した。


「てめぇにとっちゃ、割と苦痛を伴うんじゃねぇのか?」


「…………」


 ベルケルの指摘にぽかんとなる。


「んだぁ? そのツラは」


「あ、いや、その……」


私は口に再びクロワッサンを運んだ。


(豪快なベルケルに、そういう乙女心のひだが理解できる細やかさがあったのが意外……)


「てめぇ、今、失礼なこと考えただろう」


「っ!? べ、別に?」


「元・盗賊舐めんなよ? こちとら気配を読むのは得意分野だ」


(おぅふ、確かに鋭くていらっしゃる……)


「でも……」


 私はクロワッサンを持った手を膝の上へ下ろす。


「逃げられるわけないよ……、私は『封魂の乙女』の役割を引き受けちゃったんだもの」


 ここへ来たあの日、安易に学園長の提案を承諾してしまった自分に今更ながら呆れる。まるでゲーム機の〇ボタンを押すように、何も考えず……。


「『封魂』が出来ねぇんだったら、続けても仕方ねぇだろ」


「だけどこれは、学園長先生から言われたことで、周囲の皆が知っていることよ……。もしこの役目から逃げたら、私、学園にいられなくなる」


「なんでだよ」


「一度引き受けたくせに、最後までやり遂げないなんて、無責任、って……」


「んだよ。そんなにこの学園に通いてぇのか?」


「……そんなでもないけど」


「なんだそりゃ」


 私の元いた世界の高校と違い、私はルーメン学園に入るため努力した記憶はない。液晶画面の中にあった学園に実際に触れられるのはとても楽しかったけど、それももう十分堪能した。大体、そこまで授業に出たいわけでもない。魔力が無いことで惨めな思いをする授業を、毎日受けさせられるのは、苦痛と言ってもいい。


「だけどここから逃げたら、私には行く場所がないもん。……この世界には親類もいないし、路頭に迷うしかないわ」


「そか。なら、俺んとこ来りゃいい」


「えっ?」


 ベルケルの言葉に心臓が跳ね上がる。


(え? 『俺のとこに来い』って、……プロポーズ!? ベルケルの恋愛イベントってこんな展開なの!? 『銀オラ』ってCEROいくつだっけ!?)


「アティファに言やぁ、てめぇ一人分の寝床ぐらい確保してくれんだろ。それに、お前がガキどもの世話を手伝うことになりゃ、アティファもちったぁ楽になるだろうし、断りゃしねぇさ」


(……あぁ、うん、そういうことですよね。知ってた)


 僅かな落胆を覚えたものの、先程のベルケルの言葉にはときめいたし、何より私の居場所を用意してくれようとしている彼の心遣いが嬉しかった。


(でも、やっぱりルーメン学園から逃げ出すわけにはいかないよ……)


 どういうわけか、私は周囲からソフィアと同一視されている。彼女の過去は私の過去だと認識されている。もし私がここから逃げ出せば、ソフィアが戻ってきた時、彼女の居場所は学園内になくなるのだ。


(彼女が戻って来られたら、の話だけどね)


「……はぁ」


「なんだ、その溜息は。俺ん家に来んのがそんなに不満か」


「違……っ! それはない、全然! むしろそうしたいくらい。でも……」


「でも、なんだ?」


「……逃げるわけにはいかないの」


「ハァ、わっかんねぇな」


 ベルケルが椅子の背もたれに身を預ける。


「何のためにここにしがみつく? 逃げは負けじゃねぇぞ。戦略的撤退って言葉もある」


「……ベルケルには分からないよ」


「あぁ、分からねぇ。なんでそこまでして、てめぇみてぇな弱っちぃ女がむきになって戦闘に加わろうとしてんのか、全く理解出来ねぇ」


「じゃあ、ベルケル。もし、私のせいでこの世界が亡ぶとしたら?」


「はぁ!? 世界が亡ぶ!?」


 ベルケルが勢い良く身を起こす。椅子の背もたれがギシリと悲鳴を上げた。


「どういう意味だ、そりゃ。まさか、あのメトゥスを生み出してんのが、てめぇだってんじゃねぇだろうな?」


「違う違う違う! そうじゃない!」


「だったら、てめぇのせいなわけねぇだろうが」


「……うん」


 私がいるのは本来、メトゥスを封印できるソフィアがいるはずの場所だ。彼女がこの世界からはじき出されている原因が私の存在だとすれば、やはり私に責任があると思う。


(でも、それを上手く説明できない……)


「まぁ、もし、てめぇの言う通りこの世界が亡ぶとすんなら……」


 ベルケルは窓の方に目を向ける。


「それがこの世界の運命なんだろうさ」


「っ!?」


 悟りきったような冷めた瞳。


「ベルケルはそれでいいの?」


「いいわけねぇだろ。誰だって死にたくはねぇ。だが、どうしようもねぇ時は、どうしようもねぇ……」


「…………」


「まぁ、せいぜい足掻いて、一分でも一秒でもこの世界を長引かせるためにこの拳を振るうだけだ。足掻いて足掻いて、運命に爪引っかけてしがみついて、最後まで見苦しく抵抗してやんよ」


 その口元に寂しげな笑みが浮かぶ。


「……ガキどもを守ってやれねぇのは、悔しいがな」


「ベルケル……」


 胸の奥がきしむ。彼はあの子どもたちを、そしてこの世界を愛している。私はその世界の滅びを防ごうと必死に努力する彼らの行動を、邪魔しているようなものだ。


「……あ」


 ベルケルが不意に声を上げた。


「な、何?」


「いや、時間……」


 ベルケルの指し示す時計に、私は目を向ける。とうに一時限目の始まっている時刻だ。


「…………」


「ま、こんな日があってもいいだろ。今日は休みだ、休み」


 あっけらかんと言うベルケルにぽかんとなる。が、その提案を受け入れた瞬間、ふっと肩から力が抜けた心持ちがした。


「んじゃ、ま、俺はそろそろおいとますんぜ。それ、食っとけよ」


 そう言うとベルケルは椅子から立ち上がり、さっと扉を開くと出て行ってしまった。


(ベルケル……)


 私はクロワッサンの最後の一欠片を口に押し込むと、ベッドへと横になる。


(逃げてもいい、か……)


 実際はそんなわけにはいかない。けれど、そう言ってくれる人が1人いてくれるのだと思うと、少しだけ心が軽くなった。


「…………」


 胸の奥がほんのりと温かい。きっと今、ミランの機械で測れば、針はかなりの数値を示すことだろう。


(正直、自分の萌えポイントを探られるのは恥ずかしいし、……恥ずかしくてたまらないことだけど)


 もしそれが、この世界を救う唯一の方法だと言うのなら、逃げてばかりもいられない。


(私の感情1つで、ベルケルと、彼の大切にしている世界を壊してしまいたくない)


 勿論、ベルケルだけじゃなくて、導魂士のみんなや、この世界に生きる全ての人のことも。


(覚悟、決めるしかないかな……)

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