第1話「黒き戦士 あらわれて」Aパート
「―― ッ!!」
梶山雪路は、弾かれたように布団から跳ね起きた。そして急いで自分の手を確認する。やや色素の薄く指の長い手だ。間違っても鱗に覆われてなどいない。
姿見を見る。クマのできた切れ長の三白眼が強く主張された顔はお世辞にも美人とは言えないが、赤く光ってなどない。口だって裂けて牙が生えてもいない。
頭に手をやれば、昨晩と同じく長い黒髪がある。辺りを見渡せば、そこは廃工場でも廃倉庫でもなく自分の部屋である。
「ふぅ」
雪路は、ため息をついた。春休みに入ってから、毎朝こうなのだ。気がつくと、あの蛇の騎士の夢を見る。最初は、黒服の男たちを殴り殺す夢。次に、バイクにまたがりカーチェイスを繰り広げる夢。そして、今朝と同じく廃工場のような場所で特殊部隊風の男たちを惨殺する夢。
いつも蛇の騎士は暴れ回り、そのたびに人間を殺して回っていた。
だが、何より恐ろしいのは蛇の騎士が殺人を行う様子が妙にリアルに感じられることだった。
銃弾が身を貫く痛み、人間を殺したときの血のにおい、それらがその場で体験したかのように感じられた。
「もしかして、蛇の騎士とは自分なのではないか? 自分は寝ている間に夢遊病者のようになって蛇の騎士に姿を変え、人を殺しているのではないか?」
そんなことさえ考えるようになっていた。結果、よく眠れず暗澹たる朝を迎えるというのがここ1ヶ月ほどの雪路であった。
「今日は入学式だっていうのに・・・・・・」
なぜこんな辛気臭い夢を見なければならないのか。そしてふと、壁の時計を見る。
「っ!!」
雪路は凍りついた。壁の時計は冷徹に、今すぐにでも支度をせねば遅刻は免れないことを示していた。蛇人間のことを頭から振り払うと、すぐさま寝巻きを脱ぎ捨て、壁に掛けられた黒いセーラー服に着替える。初めて着る高校の制服なのだが、感慨に浸ることも許されない。
そのまま部屋を出ると、そこには弟の忠与があきれ顔で立っていた。小柄な体格、華奢な骨格、大きな目など見た限りでは小学校高学年にしか見えないが、雪路の『双子の』弟である。
「お姉ちゃん、昨日は早く寝るように言ったじゃない!」
「眠れなかったの!」
弟の小言を打ち切り、雪路は廊下を走り抜けた。
「とにかく急いで、もうご飯できてるから……」
忠与も、姉の後を追って走る。2人が階段を駆け下り一階に下りると、『梶山建設』と背に染め抜かれた作業着を着た男たちとすれ違った。
「御嬢さん、おはようございます!」
「御嬢さん、ぼやぼやしてっと遅刻しちまいますよ!」
男たちは、雪路の家の「従業員」である。いつもなら挨拶するところなのだが、雪路は心の中で謝罪をするとそのまま駆け抜けた。挨拶する余裕も今の彼女にはなかった。
「あ”ぁ……」
数時間後。梶山姉弟は入学式を終え、クラスでの初顔合わせを終え。
校舎を出て校門へと向かっていた。
「大変、だったね」
忠与が苦笑いする。
あの後、何とか間に合った。間に合いは、した。
しかし寝不足の雪路を待っていたのは校長の話、学年主任の話、PTA会長の話といった長話のラッシュだった。
上手いこと居眠りすることもできたし周囲には一人二人そういう者はいた。しかし、雪路はそれを良しとしなかったため……1時間半後には、徹夜明けのような顔が二徹明けのような顔と化していた。
「寝てもよかったのに。僕が起こせばいいんだし」
「そういうわけにはいかないじゃない。高校生活最初の日なんだから」
「だったらもっと早く寝ればいいと思うんだけど」
眼の下にクマを作りながら胸を張る雪路に、忠与は眉間を押さえた。
「そ、そう、よね」
雪路は眼を泳がせる。蛇人間の事は忠与を含め誰にも話していない。信じてもらえるとは思えないし、それに……
「あああああッ!!」
雪路の思考は、突如どこからか来た叫び声に打ち消された。
見ると、向こうで人だかりができている。
「ああっ、お前も、お前も俺を殺しに来たんだろう!!」
「何を言って、ああっ!!」
大柄な男子生徒が腕を振り回して暴れている。男性教師が数人がかりで取り押さえようとしているが、軽く跳ね飛ばされてしまった。
「お、お前もだァ!!」
男子生徒は、雪路の方を指さして叫んだ。周囲の視線が、一斉に雪路に向けられる。
「お、お前! 俺を殺す気だろう!」
「行きましょう」
ずかずかと歩み寄ってくる男子生徒をよそに、雪路は忠与の手を軽く引き立ち去ろうとする。
「無視すんなあ!」
背中に男子生徒の罵声が飛ぶが、構わず歩く。
「ああああああ!!」
押さえつけに来た教師や生徒を振りほどき、男子生徒は雪路に殴りかかってきた。
身長は同じほどだが、体格は男子生徒の方が二回りほど大きい。拳が風を切り、雪路の顔面を……
とらえる前に、止まった。
「私、入学してきたばかりなんだけど……何か悪いことしたかしら?」
男子生徒の二の腕が、がっちり掴まれ止められていた。
「ねえ?」
軽くため息をつき、雪路は掴む力を強くした。ぎしりと男子生徒の腕の骨が悲鳴を上げる。
男子生徒はぐるる、と唸り声を上げ振りほどこうとする。目の焦点が合っておらず、口の端からよだれをたらし、明らかに正気でないことが見て取れる。
「ちょ、ちょっと落ち着いて……」
男子生徒をなだめようと、忠与が入ってきた。
「うるさいッ!」
男子生徒は雪路の腕を振りほどくと、今度は忠与に殴りかかろうとする。
「が、あ……!!」
だが、またもその腕は止められた。
「貴方ね……それは、笑えないわよ」
雪路が二人の間に割って入り、右拳を男子生徒のみぞおちに沈めていた。
据わった鋭い目、ぎりぎりと食いしばられた歯。寝不足でふらふらしていた時とは比較にならないほどの、はっきりした怒りがそこにはあった。
「う、が、ああ……」
ドスンと音を立て、男子生徒は崩れ落ちた。
「行きましょう」
うめき声をあげる男子生徒やあまりに突然のことが立て続けに起きて呆然としている教師たちを尻目に、雪路は忠与の手を引いていった。
「・・・・・・」
雪路は何も言わない。学校を出てから最寄り駅への道を、黙々と歩くだけである。それを忠与が、ちょこちょこと後からついて行く。そんな状態がもう五分も続いている。
(やって、しまった)
雪路は自分の手を見つめる。
あの時、本当は殴りかかる男子生徒を抑えるにとどめるつもりだった。
それが、忠与に殴りかかろうとしたのを見てかっとなり・・・・・・
崩れ落ちる男子生徒、おびえて遠巻きに見つめる生徒たち、こみ上げてきた暗い衝動。
これでは、まるであの蛇人間と変わらないではないか。いや、むしろ"あの時"と・・・・・・
「お姉ちゃん、今朝『眠れなかった』って言ってたよね..ここの所ずっと寝不足みたいだけど、どうしたのかな?」
忠与が回り込み、雪路の前に立っていた。
突然の問いかけに視線が落ち、止まる。
言っても信じてもらえないのではないか。その躊躇いが口をつぐませた。
「僕でいいなら、言って」
躊躇い以上に、忠与に気を使わせてしまったことが雪路の心を痛めた。
「蛇人間よ」
ありのままを言うしかない。意を決して、雪路は口を開いた。
「全身緑色で、目が赤く光る化け物の夢を見るの。そいつが……辺りかまわず、人形でも壊すように人を殺す夢を、ね。それが、怖くて」
話して楽になりたい。そう思うと、言葉が加速していく。
「私が蛇人間なんじゃないか、って思ったの。知らないうちに私が蛇人間に変身して、人を殺してるんじゃないか、って」
言葉を繰り出していくうちに、震えが大きくなっていく。
雪路も最初は、蛇人間の夢を荒唐無稽な空想の産物だと思っていた。だが、二度、三度と見るうちに、夢は妙なリアリティを得ていった。蛇人間が人を殺すたびに血肉の感触が、蛇人間が叫ぶたびに強い怒りの感情が雪路の体を突き抜けた。その感覚はいつしか「もしかして、蛇人間とは自分なのではないか?」という疑惑に変わり、今では睡眠を阻害するほどの強迫観念へと変わっていた。
「違うよ」
だが、忠与ははっきりと首を横に振る。
「でも、知ってるでしょう? 私の体」
そう言うと、雪路は自らの右拳をギリギリと握った。程なくして、ボタ、ボタと血がしたたり落ちる。手の甲からは、血まみれの指が覗いていた。
雪路は顔をわずかにしかめて貫通した指を抜き取る。そして完全に手を開くと、右掌は深くえぐれていた。
「この"力"と」
しかし、程なくして右掌の傷が、ビデオの巻き戻しのようにふさがり始めた。ついに、傷跡すら残さず傷はふさがってしまった。
「この"治癒力"・・・・・・蛇人間もそうだったの。銃で撃たれてもすぐもと通りになって、さっきの私みたいに、すごい力で、人を、」
そう言う雪路を、忠与は抱き寄せる。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。怪物なんかじゃない」
大人と子供というくらい体格差のある二人だが、今は忠与が外見よりずっと大きく見える。
「お姉ちゃんが戦う時は、いつも誰かのためじゃない。僕とか、ほかの人とか。それに……いつも自分の力を見つめて、その力を暴走させないようにしようって頑張ってる。それは、その怪物にはできないことだと思うよ」
笑いかける忠与を見て、つーっと涙が流れた。
「ごめんなさい。心配かけたりして」
つい甘えたくなって、かがんで抱きしめ返す。
「気にしてないよ」
「うん・・・・・・」
「あぁーあ、アツいですわねぇ」
不意に投げかけられた言葉に、雪路は弾かれたように立ち上がった。
「いくら人通りが少ないからって、節度って物があるんじゃなくって?」
派手な女だった。明るい金髪、厚い化粧、胸元の開いた真っ赤なドレス。アカデミー賞授賞式に出席するハリウッド女優のような、住宅街の路地裏には不釣り合いな女だった。
「いいんですのよ? 続きでもなんでも」
ケタケタと笑う女に、雪路は眉をひそめる。下品な冗談以上に、この赤ドレスの女はどこか”危ない”。どこか自分と違うような、それでいてどこか同じような……!
「……あら?」
女がナイフを二、三本投げるのと、射線上に雪路が割って入るのはほぼ同時だった。
「ェアアッ!!」
投げナイフは全弾、雪路に叩き落とされカタンと地に落ちた。
「回し受け、だったかしら? お上手お上手」
女はパチパチと気のない拍手をする。反応が少しでも遅れていれば、ナイフは忠与に刺さっていた。遊んででもいるような女の態度に、雪路は怒りで目を細める。
「じゃあ、これはどうかしら?」
女は、10本近くのナイフを投げてきた。
「ァァァッ!!」
これも、弾く。忠与に当たらないよう、角度に細心の注意を払って叩き落す。
「ほらほらほらほらっ!!」
絶え間なく女はナイフを投げてくる。だが、弾く。弾く、弾く弾く弾く!! 弾……
「うっ……!」
何本目かのナイフを叩き落としたところで、背後から聞こえてきたうめき声に雪路は思わず振り向いた。
忠与の右腕が切れ、、血が流れていた。
弾ききれなかったか、弾きそこなったか。いや、それより忠与がケガを……!
雪路の脳内で、思考が混線する。
「あーらら、残念。マイナス一ポイント、ですわ」
ケタケタケタケタ、女は笑う。人の命など、何とでも思っていないかのように。いや……この女は、人の命など何とも思っていない。
ぶちり、と雪路の思考は切断された。
「じゃあ続き、いきますわよー? まかり間違えば坊やだけじゃなくあなたもハリネズミに」
そう言って、女は胸元から何十本目かのナイフを取り出した。しかし!
「あァァァッ!!」
息のかかるほどの距離まで、雪路は距離を詰めた。
「ちぃっ!」
女は投げナイフをそのまま握りしめ、雪路を直接刺そうとする。
しかし、雪路は女の腕を払いのけ、軌道を大きくそらさせた。
力の強さに女は体勢を崩し、胴体が無防備になる。
「せいやァッ!!」
「がっ……!」
雪路は、思い切り拳を女の腹に叩き込んだ。
「がぁああああああッ!!」
「うっ、ぐっ!」
それだけでは終わらず、横面、胸、わき腹と雪路は追撃の手をゆるめない。
時々女がナイフで刺そうとするが、その前に腕を払いのけて反撃を許さない。
距離を取ろうとしても、足を踏んで射程圏内に留める。
そうしてさらに殴る、殴る、殴る。そして。
「っああッ!!」
「ぐぶっ!!」
とどめとばかりに、女の顔面を思い切り殴りつける。女はぶっ飛び、地面を一バウンドしてからゴロゴロと転がった。
「はぁっ、はぁ……」
雪路は、肩で息をする。高揚感を抑えるために、恐れを振り払うように。
「……よくもやってくれましたわね」
女はよろよろと立ち上がり、頬を抑えながら女は雪路を睨みつけた。白い肌からはあちこち黒いあざがのぞき、その威力を物語っている。
「刃物まで出して、先に手を出したのはあなたでしょう」
雪路も負けじと女を睨み返す。それを見て、女は顔を歪めて舌打ちした。
「ったく、こんな子供にやられるなんて」
女はナイフを雪路に向けて構えた。すると突然、女の目の下から涙の跡のような赤い傷跡が現れた。傷跡は赤く輝き、赤い光は女の全身に広がっていく。
「自分が情けなくなりますわねぇ…… 」
赤い光は輝きを増し、女の輪郭をぼやけさせる。だがそれも、わずかな時間の事だった。
「いいでしょう。痛めつけて差し上げますわ」
光が引いた。立っていたのは、真紅の装甲に身を包み、四つの目を持つ人型の怪物だった。サソリの脚のような器官と尾のような器官が髪のように垂れ下がっていることを除けば、甲殻で覆われた人型のいでたちはどことなく夢で見た「蛇人間」に似ている。さしずめ「サソリ人間」だろう。
サソリ人間と化した女を見た瞬間、雪路は嫌悪感を覚えた。あのサソリ人間が蛇人間の「同類」だと、感覚が伝えた。
「ッ!!」
突然、思考が打ち切られた。雪路を激しい痛みと吐き気が襲う。サソリ人間の拳が、雪路の腹を捉えていた。
「う、あぁ」
思わず、雪路はよろよろと崩れ落ちる。立ち上がろうとするが、恐怖と痛みが理性を押しのけそれを許さない。
「ふん、なっさけない。素手で十分ですわ」
サソリ人間は、倒れた雪路を足蹴にして吐き捨てるように言うと、殴られた仕返しでもするように、二回、三回、うめき声を上げる雪路を蹴りつける。
そうこうして、雪路がうめき声すら上げられなくなったことを確認するとサソリ人間は蹴るのをやめた。すると、サソリ人間の身体が再び赤い光に包まれた。
「あーあ、興ざめですこと」
光が引くと、サソリ人間は元の赤ドレスの女に戻っていた。倒れこむ雪路には見向きもせず、その場を去ろうとする。
「っ、待ち……なさい……!」
「あら、しぶとい。あなたって橋の下で拾われたゴキブリの子どもだったりしますの?」
ケタケタ笑う女の体からは、先ほどまであったアザが消えている。
つまり雪路と同じ力を持っている……いや。サソリ人間に変身できる分、女の方が一枚上手、か。
「それよりあなた、坊やを放っておいていいのかしら?」
弾かれたように、雪路は忠与の方へ駆け寄る。
「あ、うう……!」
忠与の顔面は蒼白になり、滝のような汗を流していた。
「忠与に何をした……!」
雪路は立ち上がり女をにらみつける。明らかにただごとではないが、見たところナイフで負った傷は浅く、失血によるものとは思えない。
「ふん。今に分かりますわ」
そう言って、女は去っていく。
「うっ……ぐ……! ああっ!」
「忠与っ! 忠与ぉっ!!」
雪路にできることは、忠与を抱き寄せスマートフォンで119のナンバーを押すことだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます