第1話「黒き戦士 あらわれて」Bパート

 数時間後。とある病院の一室の前で、看護師たちが噂話をしていた。

「ねえ、見た?」

「見た」

「あれって……アレよね」

「うん……ヤク」

「しーっ! 聞こえてたらどうするのよっ!」

 そんなことを言いながら、扉の向こうを伺いつつ立ち去っていく。



 扉の中には異様な光景が広がっていた。

 診察室には4人の男がいる。そのうちの一人である若い医師は、小柄な体を余計に小さくしてがたがたと震えている。

 医師に向かい合っているのが、作業着姿の残り3人である。

一番年嵩の50代前半ほどの男は、椅子にどしりと腰を下ろし、腕を組んで岩のように動かない。

 一方で脇に控える2人の若者は、突撃指示を待つ猟犬のように医師を睨み付けている。

 実はこの2人、寝坊した雪路に挨拶をした2人の従業員と同一人物なのだが、あの時の鷹揚さはすっかり彼らから消えていた。

「先生よぉ、もう一度説明してもらおうじゃねえか」

 若い従業員のうち、長身細身の方が言った。

「俺らアタマ悪くてよ、何のことやらサッパリなんだ」

 もう一人のずんぐりした方が続く。2人とも、口元こそ笑ってはいるが目は濁り据わっていた。

「は、はい」

 哀れな医師は、喉奥から絞り出すような声を出した。

「忠与君の症状は、サソリや蜂といった生物が持つ『神経毒』によるものに似ています。ですが、毒自体が検出されない上に、症状の重さが時によって違うのです」

 男たちの顔色を窺うように、医師は言う。

「重さ?」

「何だよそれ」

 若手2人は訝しげな視線を向けた。

「普通神経毒というものは、強いものなら数分で対象を死に至らしめます。忠与君の場合そういうことはありません。かといって症状が軽いと言えば決してそのようなことは無く、強く作用したと思えばすぐに緩和し、既存の中毒症状とは全く異なっているのです」

 そう言って、医師は目線を3人からそらす。

「あの、私の立場で言うべきではないとは重々承知しているのですが、その……まるで呪いか何かが忠与君を生かさず殺さず苦しめているかのようなのです」

「呪いだぁ!? 坊ちゃんが誰かに怨まれるようなことをするってのか、あぁ!?」

 医師の言葉が終わるか終らないかするうちに、長身の従業員が医師に掴みかかった。

「う、あ、あの」

「きっちり説明してもらおうじゃねえか」

 もう一人の従業員も、退路を断つかのように医師の後ろに回り込む。医師はすっかり真っ青になってしまい、第三者が見れば「取り立て屋が債務者の職場に乗り込んできた」ようにしか見えない。

「やめねえか」

 静かな、しかし重い声がぴしゃりと響く。従業員2人の動きがピシリと止まった。

「ヤス、サク。お前らが騒いでも坊ちゃんは治らねえんだぞ」

 口を開いたのは、今まで沈黙を保っていた年嵩の従業員だった。

「でもさ、ゲンさん……」

「でもも何もねえ。先生が言うんならそうなんだろう」

「じゃあゲンさん、坊ちゃんが誰かに呪われてあんなになった、だなんて信じるんですか!?」

「信じる信じないの話じゃねえ、右も左もわからないうちからガタガタ騒ぐんじゃねえと言ってるんだ!」

「ひっ!」

 ゲンさん、と呼ばれた年嵩の従業員の一喝に、ヤス、サクと呼ばれた若者2人はびくりと体を震わせる。医師も3倍ほど震わせる。

「それにな、今一番つらいのは誰だ? 坊ちゃんを見ているだけしかできない社長と副社長に御嬢さん、何より苦しんでる坊ちゃん自身だろうが。それでも泣き言言わず耐えてるってえのに、外野のお前らがギャーギャー騒いで恥ずかしくねえのか」

 若手2人はすっかり静まり、すごすごと引き下がった。

(た、助かった)

 医師は心中で胸を撫で下ろしていた。

 異動も早々に原因不明の患者が運び込まれ、地元の名士だか何だか知らないがヤクザまがいの土建屋に吊し上げられ、人生最悪の時だと思っていた。

 まさか救いの神がベテラン猟犬のシベリアンハスキーのような面構えをした中年男性だとは思いもしなかった。

「すんません、先生。聞かないやつらで」

 冗談もそこそこに、顔を上げると目の前にシベリアンハスキーが立っていた。医師の心拍数はV字で上がる。

「ですが、坊ちゃんを助けられるのは先生だけです。どうかお願いします」

「は、はい。最善を、尽くします」

この年嵩の従業員に助けられた形なのだが…… 一番恐ろしいのも彼だった。医師は、喉奥から声を絞り出しながらそう思った。



 一方そのころ、病室のベッドに、忠与は寝かされていた。

 ナイフで傷つけられた腕は包帯を巻かれ処置されたが、しきりにうめき声を上げ、脂汗をかいているのは変わらない。

 彼の傍らには、一組の男女がいる。

「……」

 男の方は腕組みをしながら歯を食いしばっている。ゴツゴツした顔つきに太い首と「ゲンさん」がシベリアンハスキーなら、彼はマスチフと言ったところだろうか。

 梶山建設社長にして梶山姉弟の父、梶山世四郎である。

「起きないわね……トモちゃん」

 女の方は、椅子に腰かけ忠与の手を握っている。

柔和な顔立ちの若く見える女性で、男と並ぶとさながら「美女と野獣」という風体だった。こちらは、梶山建設副社長にして梶山姉弟の母、梶山音音である。

 雪路から「帰宅途中に忠与が倒れた」と聞かされた2人は、従業員の中では一番古株のゲンさん、一番若手で忠与をかわいがっていたヤスとサクと共に、雪路の教えた病院に駆け付けた。

 そして医師から事情……「呪いのような毒」の事を聞き、夫妻は忠与が心配だということで病室に向かい、ヤスとサクは納得がいかないと診察室に残り、ゲンさんは2人が暴力沙汰を起こさないように残り、今に至る。

「ああ」

 世四郎は目を伏せ、目を覚まさない息子を見つめる。どうしてこんなことに。そんな弱音を必死で押しこめようとする夫の悲痛な姿を音音は見出していた。

「雪路も、帰ってこないな」

 医師の説明を聞いたとたんに、「行かなければいけない場所がある」と雪路は病院を飛び出してしまった。何度か連絡を取ろうと試みたが、あれから数時間たっても全く電話に出ることは無かった。

「うん。トモちゃんも心配だけど、ユキちゃんも心配だわ。あの子トモちゃんのことになると、周りが見えなくなるから」

「気にしてるんだろうな、『10年前(あのとき)』の事を」

 夫妻は忠与の手を握り、子供たちの無事を願う他なかった。



 そして、同じころ。

 すっかり暗くなった、横浜駅周辺の繁華街を少女が一人歩いていた。

 近辺の高校の制服を目にしてキャッチの男が少女に声をかけようとするが、少女の剣幕と、ボソボソと何かを呪いのようにつぶやく様子を見て後ずさる。

 少女は……病院を飛び出し、あの『赤いドレスの女』を探していた雪路は、周囲に構わず夜の街を進んでいく。

「どこだ……!」

 目は血走って濁り、焦点が合わない。拳は握り固められ、抜き身の拳銃の如く憎き敵に叩き込まれるのを待っている。女の居場所など知る由もなく、ただ女への憎悪のみが雪路を突き動かしていた。

 どこにいるか分からない。いたところで、忠与の治し方を知っている保証はない。それでも雪路は、衰弱している忠与をただ見ていることはできなかった。

「スコーピオンを探しているのかい?」

 ふと、何者かの呼びかける声が聞こえる。その声は、町の喧騒をすり抜けて飛んできたかのように雪路の耳に届いた。思わず雪路は足を止め、声の主を探す。

「ここだよ、ここ」

 その時。街角から、音が消えた。人々が、消えた。輝く飲食店やビルが立ち止まる中、雪路は一人立ち尽くす。

 「ここだよ」

 いや、1人ではない。目の前に、のっぺりとした白い仮面をかぶったスーツ姿の男が立っていた。

 怪しげな仮面の男に、人の消えた街。雪路は状況を把握しきれず、ただ強い警戒心を持って身構える。

「そう怖い顔をしないでくれたまえ、梶山雪路くん。少なくとも私は君の敵ではない」

 この男は、自分の名前を知っている。背筋から顔にかけて、ビクリとした感覚が雪路を震わせた。

「どなたかしら? あいにく4月にビジネススーツに仮面だなんて半端な仮装をする人間、知り合いに持った覚えはないんだけど」

 意識を張り詰める雪路に対し、一方の『仮面の男』は鷹揚な姿勢で肩をすくめた。

「君は私を知らないだろうが、私は君を知っている。なぜなら私は『ゲームマスター』だからね」

 そして今度は、大仰な姿勢で額に手をやり、すすり泣く真似を始めた。

「そして私は、君に起きた不幸な出来事も知っている。弟さんの件、まことに不幸な事件だった。なんといっていいか」

 男の言葉は途中で打ち切られた。男の眼前まで距離を詰めた雪路は、男の襟首をつかむと、クレーンのように右腕一本で真上に吊り上げる。

「御託は結構、3つに1つよ。忠与を治す方法を教えるか、あの女の居場所を教えるか。それともこのまま近くのショーウインドーにでも放り込まれるか」

「落ち着きたまえ」

今度は、雪路の言葉が打ち切られる番だった。雪路の腕から男はふっと姿を消し、背後からその声が聞こえてくる。振り返ると、男はこともなげに雪路の真後ろに立ち、ひらひらと手を振っていた。

「敵ではない、と言っているじゃないか、落ち着いてくれたまえ。私は君に教えたいことがある」

 男は語り掛けるが、雪路の耳には入っていない。男への不信感と戸惑いがないまぜになり、右腕を上げたまま呆然としている。それを見た男は大仰に肩をすくめてみせた。

「もう一度言おう。私は君に教えたいことがある。私はね」

 男はフッと笑うと、人差し指を眼前に置いて意味ありげに言った。

「忠与君の治し方を、知っているのだよ」

「ッ!!」

 とたんに、雪路の目がギラリと輝き、男の方に向き直った。

「……本当なんでしょうね」

「本当だとも。私は無益な嘘はつかない主義だからね。ああ、私は知っている。忠与君の身体からあの『レディ・スコーピオン』の呪毒を除去し、彼の笑顔を取り戻す方法をね」

「……教えなさいッ、その方法を!」

 雪路の身体はわなわなと震え、眼は鋭く仮面の男を睨み据える。

「いいとも。しかし条件がある」

 雪路はギリリと歯を食いしばった。

「いいから早く言いなさい……こうしている間にも忠与は苦しんでる」

 しかし、雪路のいら立ちもどこ吹く風で仮面の男は天を仰ぐような姿勢を取る。そして、高らかに言った。

「私は、君の中に潜む野生が見たい」

 そう言って、仮面の男は指を鳴らす。すると、雪路と男の2人しかいなかった街角に、何者かがのそのそとやって来た。

「あなたは……!」

 昼間、忠与を殴ろうとして雪路に殴り倒された男子生徒が、うつろな目をして立っていた。あの時は錯乱していたが今はうって変わって静かで、魂が抜けたかのようだった。

「さあ、『変身』したまえ」

 男は再度指を鳴らす。すると、男子生徒はリモコンから指示を受けたロボットのように左腕を胸の前に構えた。

「ウ……グ……」

 男子生徒の左腕には、角ばった機械的なデザインの黒い腕輪がはめられている。男子生徒は唸り声を上げながら、その腕輪についたボタンを押す。

すると腕輪が黒い光を放ち、男子生徒の目の下には黒く光る傷跡のようなラインが現れた。

― Sia ferox ! ―

「グ、グァアアアアアアアア!!」

腕輪からの電子音と叫びとともに男子生徒の輪郭が歪み、黒い光に包まれていく。

(これは、あの女の時と同じ……!)

雪路の脳裏に、サソリ人間に変身するスコーピオンの姿がよぎった。

そして、光が退いて……

「……」

男子生徒は、コオロギのような昆虫を思わせる頭と茶色の甲殻に覆われた身体をした、怪人と化していた。

夢の中に現れた蛇人間、赤いドレスの女が変身したサソリ人間、そして目の前にいるコオロギ(?)人間。雪路にとっては、都合3人目の怪人である。

「リオック・ジオボーグ。コオロギの仲間の、大きく獰猛な昆虫の力を持つ『獣兵士(ジオボーグ)』さ」

 仮面の男は、新商品のデモンストレーションでもするように、コオロギ人間ことリオック・ジオボーグを手で示した。

「スコーピオンや君と同じ、ね。彼に勝ったら忠与君を救う方法を教えてあげようじゃないか」

「……は?」

 雪路の思考が、一瞬フリーズした。スコーピオンがそのジオボーグやらだというのはわかる。だが、なぜそこで自分の名前が出てくる?

「梶山雪路君。私は単に、君の名前だけを知っているのではない!」

 だがそんなこともお構いなしに仮面の男は、大詰めを迎えた法廷劇の主役のように声を高らかに張り上げ雪路を指さした。

「私は『10年前の事件』だって知っているし、君の幼少期の記憶が広範囲にわたって喪失されていることだって知っている。そして何より! 」

 男はふっと消えると、雪路の手を取ってするりと撫でる。

「君に人並み外れた怪力と、自己治癒能力があるのも知っている」

 雪路は顔をゆがめその手を振り払おうとするが、男は一足早く飛びのく。

「まさか、その力が単なる人間の個人差だなんておめでたいことを思っていないだろうね?」

 男は懐から、男子生徒が持っていたものと同じ黒い腕輪を取り出した。

「普通の人間はこの『ジオブレス』を使わなければジオボーグにはなれない。しかし、スコーピオンは別だ。生まれつきジオボーグに変身する『力』を持っている」

 そう言うと、仮面の男は再び大仰なしぐさで雪路を指さす。

「君も同じなのだよ、梶山雪路君。唯一の違いは、その力がまだ眠りについているということ。君の身体能力は、いわば岩盤にせき止められた大水脈のわずかな隙間から漏れ出す雫。眠りについている能力の余波というやつさ」

 男が滔々と語るたびに、雪路の顔はだんだん青くなっていく。

― まさか、その力が単なる人間の個人差だなんておめでたいことを思っていないだろうね? ―

そう、仮面の男は言った。もちろんそんなこと、思っていない。転んでひざをすりむいても、すぐに治ってしまうから絆創膏や消毒薬を使った記憶がない。小学校も高学年になったころには、従業員に交じって家の仕事を手伝えるようになった。

気づけば、武器や五体を使って敵と戦う方法を知っていた。

それが普通じゃないことは、ずっと前からわかっていた。

だからこそ、考えないようにしていた。

「私は君の中に眠る『野生』が見たい。君の中に眠る荒々しき怪物が、リオック・ジオボーグを打ち倒す様を見たいのだよ」

 自分が異質で、異形で、異常なる怪物だなどと思いたくなかった。

「そんな……私は、私は……」

 震える雪路を見て、仮面の男は肩をすくめ露骨な嘲笑の姿勢を見せる。

「もっとも、あきらめて帰っても私はどっちでもいいのだがね? まあその場合忠与君は死んでしまうね。1週間もすれば目から口から血が噴き出し、最後の対面もできないような姿になってねぇ」

 雪路は奥歯をかみ砕かんばかりに食いしばり、仮面の男を睨み据えた。

「やるに決まっているでしょう……私は!」

 そう言うと、リオック・ジオボーグに向き直り、構える。

「そんな怪物なんかの力には頼らない! この手で勝って、忠与を治してみせるッ!」

 サソリ人間……スコーピオン・ジオボーグに何もできず痛めつけられた記憶が、雪路の脳裏をよぎる。だが、忠与を救えるチャンスがあるならばわずかな可能性にでも賭けるしかない。わずかに震える拳が、悲壮な決意を物語っていた。

「どうやら、荒療治しかないようだね……」

 仮面の男は、フーッと長い溜息をつく。そして、今までとは打って変わって冷たく言い放った。

「リオック・ジオボーグ。容赦をするな。なんなら殺してもかまわない」

 男の合図とともに、男は後ろへ退き、リオック・ジオボーグはのそり、のそりと雪路の方に歩み寄り始めた。

(サソリの奴よりは遅い……これならッ!)

「あああああああッ!!」

 雪路は己を鼓舞するように叫び、一気にリオックとの距離を詰める。

「せいやァッ!!」

 そしてまずは敵の出鼻をくじかんと、腹部分の甲殻に拳を叩きこむ……だが。

「ッ~!!」

 固い。鉄扉でも殴ったかのようにびくともせず、ぐわんぐわんと振動が拳を走り、遅れてじんじんと痛みが襲う。

「!!」

 だが、拳の痛みよりも強い痛みが、腕に走った。

「う、あ……!」

 殴った右腕をリオックが掴み、握りつぶさんばかりに締め上げ始めた。

「……ひる、まは、よくも、やってくれたな。おかえしだ」

 ぎしぎしと顎を鳴らし、リオックがたどたどしい声を上げる。昆虫そのものの顔に表情はないが、雪路には彼が自分をあざ笑っているかのように見えた。

(喋った……!? いや、それよりこの状況……)

 雪路は昼間の事を思い出していた。あの時、雪路は殴りかかってきた彼の腕を掴んで止め、締めあげた。今は逆に、殴りかかってきた自分が止められ締め上げられている。

 そして、「お返しだ」という言葉……

「ふんっ!」

「か、ハッ…………!」

 まさか、と思ったところで、鉄球でもぶつけられたかのような衝撃が雪路の腹を押しつぶした。血交じりの胃液が吐き出され、くの字になって崩れ落ちそうになる。

「まだ、だ」

 リオックは、雪路の右腕を掴んで立たせるとそのまま腕を自分の肩に叩き付けた。ベキリ、と骨の折れる音がする。

 それから先は、リオック・ジオボーグによる一方的な攻撃……いや、『破壊』だった。

無事な左手で殴ろうとすれば受け止められて折られ、蹴ろうとすれば足を掴まれ脳天から地面に叩き付けられる。立ち上がろうとすれば膝を踏み砕かれる。

 いくら雪路の回復力が優れているとはいえ、骨折は一瞬で治しようがない。

 人影の消えた街に、打撃音とうめき声が響いた。



「しっかしお嬢さん、帰ってきませんねぇ」

 いまだ目を覚まさない忠与を見つめながら、ヤス……細身の方の若い従業員が呟いた。

 忠与の病室には、診察室にいた従業員3人が合流し、梶山夫妻も合わせた5人で忠与を見守る形になっていた。

 しかし、空気が暗い。忠与は原因不明の意識不明、雪路は行方知れず。そんな状態でもう5時間ほどが経過している。

「まさか、医者の言ってた呪いをかけたやつを探してるなんて……ないっすよねぇ」

 サク……ずんぐりした方の従業員が、愛想笑いしながら言った。

「アホか、こんな時に冗談言ってる場合じゃ……!」

 ヤスは、相棒の軽口を咎める。が、そこで梶山夫妻とゲンさんの様子がおかしいことに気が付いた。

 世四郎は額に手を付き、音音も普段は柔和な顔が困り顔になり、ゲンさんは何か諦めたような顔をしている。

 サクの発言に怒っているというよりは、何かに呆れているというか弱り果てているかのようだった。

「ど、どうしたんです社長」

「ああ……うん。雪路なら、やりかねんと思ってな」

 それを聞き、ヤスもサクも「ああ」と独りごちた。

「お嬢さん、坊ちゃんに過保護ですもんね……」

「坊ちゃんが風邪引くといつも『学校休んででも看病する』って聞かないもんなぁ」

「にしても社長、何でお嬢さんってあそこまで坊ちゃんが絡むと周りが見えなくなるんですか?」

 サクの問いかけに、世四郎はうーんと唸り腕を組む。

「ま、この際だから話すか。今から10年前……雪路と忠与が小学校に入ったばかりの時だ。2人が遊びに出かけていたら、居眠り運転の乗用車が突っ込んできた。向こうは気づかない、避けるには間に合わない。そこで雪路は、忠与を片手で抱きかかえて庇い、もう片手で乗用車を受け止めた」

「く、車を、ですか?」

 雪路の怪力に関しては、ヤスもサクもよく知っている。だが、そんな小さい時からそこまでの事ができたとは。

「じゃあ、そんな事故があったからお嬢さんは過保護に?」

「いや。雪路は無傷だったんだが、忠与が胸の骨を折る大怪我をしてな。あんまり強い力で抱きかかえるもんだから。骨が圧迫されて折れちまったんだ。自分が忠与を守るつもりが傷つけちまった。雪路の奴、いまでもそれを気にしてるんだよ」

「そんな事が……」

 病室が静まり返る。世四郎は、窓の外を見た。横浜の街は、何も変わらず輝いている。あの光の中のどこかに、雪路はいるのだろうか。

「早まっておかしな事をしなけりゃあいいんだがな」



「やれやれ。スコーピオンよりランクがずっと下とはいえ、腐ってもジオボーグ。生身の人間がかなうわけないじゃないか」

 倒れ、痛めつけられる雪路を尻目に仮面の男が呟く。

「第一、君の言動には歯がゆさを通り越して憐れみを感じるよ。直情径行、身内に何かあれば実力行使も辞さない。なのにどこか一線を引いてかたくなにそこを超えることを拒む。ヤマアラシのジレンマだなんて言葉があるが、君の場合は自分の針で自分を刺している。振るえる力があるというのにそれを利用しようとしないなんて、理解に苦しむね」

 雪路はリオックに執拗に蹴りつけられ、戦いは、もはや戦いとさえ言えないなぶり殺しの様相を呈していた。

(……何を、言ってるのかしら、あいつ)

 頭部に攻撃を受けた際に片方の鼓膜が破れ、そもそも目はかすみ、意識は薄れつつあった。肋骨が折れているのか、息を吸うと胸が激しく痛む。

(まさか、コオロギの化け物に殴り殺されるなんて思ってなかったわ)

 息を吐くと、内臓が損傷しているのかゴポリと血がこぼれる。

(こうなるなら、忠与にお別れのあいさつでもするんだったわね)

 そんなことを思っていると、走馬灯のように忠与との思い出が蘇ってくる。

 10年前ケガをさせてしまった時、病院に見舞いに行った。何て言っていいか分からなず黙り込む自分に、忠与はかすれた声で「ありがとう」と言ってくれた。

 自分の力に苦しむたび、あの時の言葉が勇気をくれた。

 受験勉強の時、合格が危うかった自分のために、日付が変わるまで勉強に付き合ってくれた。代わりに夜食は自分が作り、2人で食べた。

 睡魔と戦いながらではあったが、一緒に校門をくぐった時。一面に広がる青空がまぶしかった。

 そんな暖かい思い出が心を満たしていく。

(ごめんね、忠与。お姉ちゃんは、もう……)

 だが、脳裏を生々しい記憶がよぎった。

 スコーピオンのナイフを腕に受け傷つく忠与の姿。そして、死んでしまったかのような青い顔で病院のベッドに横たわる姿。

 忌まわしい記憶が、胸の中を灰色に染める。

― 今、お前は何と言おうとした? ― 

風の音さえ聞こえない雪路の中に、一陣の風のごとき声が響く。

― もう、と言ったか。もうダメだ、と言おうとしたのか。 ―

 (この、声は……)

 自分の声だ。雪路自身が、問いかけてくる。

― 忠与を救えるのは、“私”だけだ。なら“私”が死ねばどうなる? それが分からないほど、”私”も愚かではないだろう。なのに、諦めようとしたのか。 ―

 声は、どんどんと熱を帯びてくる。

― そんなに、自分の力を解き放つのが怖いか、自分の力と向き合うことが怖いか! 我が身可愛さに忠与を見捨てるのかッ!! ―

 声が熱を帯びていくのと同時に、雪路自身の胸の中が、どんどん熱くなっていくのを感じる。

(そうか、この声は…… 私の、魂の叫び!)

― “私”が怪物? 上等じゃないか、鬼になろうが悪魔になろうが、忠与を救えるなら! ―

「「何にだってなってやるッ!!」」

 心の叫びと魂の叫び、2つが混じり、溶けあう。雪路は、体に力がみなぎり感覚が取り戻されていくのを感じた。

「これは……」

 仮面の男は、目の前の光景に息を飲んだ。

 雪路を痛めつけるリオックを見て、男はとどめを刺すよう指示した。リオックは脚を上げ、雪路の顔面を踏みつぶそうとした。

 だが、足が振り下ろされることは無かった。折れて動かないはずの雪路の両手が、リオックの足を押しとどめていた。

「う、ぐ……」

 リオックは、ならば腕ごと踏みつぶそうと脚の力を強める。しかし、足が動かないどころか少しずつ押し戻されていく。

「ッ、えりゃあああああっ!!」

 そしてついに、気合の一声とともに押し返された。リオックはバランスを崩し、背中から倒れ込む。

「素晴らしいよ、梶山雪路君……! 私が見込んだだけの事はある!」

 そこには、雄々しく立ち上がる雪路がいた。学生服こそ破れ、汚れているものの、骨折はおろか全身の傷さえ無かった。

「勘違いしないでちょうだい。私はあんたの好奇心を満たすために戦うんじゃない、忠与を救う……そのための道を切り拓く、だから戦う!」

 雪路の目の下には、赤く光る傷跡のようなラインが走っている。それはまるで、怒りで流す血涙のように。

「ふんっ!」

 雪路は顔の前で両の腕を×字にクロスさせる。

「ぐっ……!」

 握った拳を開き、獣が爪を立てるかのように手を形作る。

「がっ……あああああああッ!!」

 そして、ヒトの皮を脱ぎ捨てるかのように組んだ腕をゆっくりと開いていく。叫び声とともに、目が赤く光り、光は全身を包んでいく!

「まぶ、し、い……!」

 立ち上がったリオックは思わず両腕で顔を覆う。仮面の男はヒュウ、と口笛を鳴らし光に包まれる雪路を見つめる。

(私、どうなったのかしら……)

 光が退いていく中、雪路は自分の手を見つめる。そこには自分の腕より一回り太い、漆黒の甲殻に包まれた腕があった。

 光が完全に退くと、近くのショーウインドウに全身が映る。

「えっ……?」

 大きく赤く光る眼、額には第3の眼のように赤く光る宝玉、頭頂部から、辮髪のように垂れ下がる蛇の尾のような器官。その姿は、全身を覆う甲殻が黒いことさえ除けば、あの夢に見た「蛇人間」と瓜二つだった。

「おめでとう、梶山雪路君……いや、ヴァイパー(マムシ)・ジオボーグ! それが君の中に眠っていた、ジオボーグの力だ!」

「私が、蛇人間……」

 雪路……ヴァイパー・ジオボーグの中で、蛇人間による虐殺の悪夢がフラッシュバックする。蛇人間が自分でないことはわかっていても、あの残酷で荒々しい蛇人間と同じ姿であるということの恐怖が手を震わせる。

 だが!

「構えなさい、リオック・ジオボーグ! 第2ラウンドと行こうじゃない!」

 ヴァイパーは腕の震えを止めると、拳法の構えを取った。

 残酷? 荒々しい? 上等だ。それほどのパワーこそ、目の前の敵を打ち倒すにふさわしい!

「う、ぐ……!」

 リオックは逡巡していた。満身創痍だったあの女が、自分と同じジオボーグと化している。しかも最初の頃の破れかぶれな姿や痛めつけられている時の生気の抜けた姿の面影はない。全身にはちきれんばかりの生気と闘志が充満している。

「怖いのかい? リオック・ジオボーグ」

 仮面の男の言葉が、リオックの背中に突き刺さる。

「この戦いは、君の『最後のチャンス』でもある。負け犬のままでもいいなら回れ右して帰りたまえ」

「お、おれは……まけいぬじゃ……ない!」

「そうか。なら勝ってみせろ! 勝って己の力を証明しろッ!」

 男の言葉を受け、リオックは弾かれたかのようにヴァイパーめがけて走り出した。

「うがああああああああッ!!」

 一方のヴァイパーは泰然自若。腰を低く落とし、黒き石壁の如く動じずに一回りほど大きなリオックを迎え撃つ。

「ぐっ、んんッ!!」

「ふんっ!」

 距離が縮まったところで両者はそのまま手を掴みあい、手四つ……力比べの体勢となった。

「ッ……!」

「ぐ、う……!」

 ヴァイパーが押せば、リオックは決死の勢いで押し返す。リオックが押せば、ヴァイパーも負けじと押し返す。ジオボーグとジオボーグ、一進一退の攻防が続く。

「だあッ!!」

「!?」

 だが、突如ヴァイパーは組んだ手を振り払い相手を突き飛ばした。リオックはとっさに体勢を立て直すが、大きく体勢が揺らぐ。

「はァッ!」

 そこを逃さず、ヴァイパーのストレートパンチがリオックの胸板をとらえた。

 胸部分の甲殻にひびが入り、そのまま後ろに吹き飛ぶ。地面に1度バウンドしてから、その巨体は再度地面に叩き付けられた。

「ううう、うう……!」

 土煙を上げながら、リオックはよろよろと立ち上がる。

 胸の甲殻が割れ、地面にたたきつけられた時の衝撃で触角は片方が折れてしまっている。

「おれは、おれは……!」

 しかし、黒く光る眼にはいまだ闘志の炎……いや、立ち上がらんとする妄執の炎が燃えている。

「おれは、おまえを、ころすッ!!」

 リオックは、再度ヴァイパーに突っ込んでいく。

「しねえええええッ!!」

 今度のリオックは、タックルの体勢を取っている。体格差を活かし、駆け引きに持ち込まれる前にパワーで押し切る算段である。

 一方のヴァイパーは、拳法の構え……拳打の構えを取った。

 タックルに対する、打撃。普通なら、そのまま押し切られかねない。

「があああああッ!!」

 暴走特急が如く、リオックの巨体が迫り来る。しかしそれでも、ヴァイパーは避けようとも身を守ろうともせず、構えを解かない。

「はッ!」

 激突の直前、ヴァイパーはリオックの肩を払い、タックルの軌道をわずかに変えた。そしてそのまま、紙一重でかわす。

「!?」

 突撃をかわされ、リオックは突然の事態に対処が追い付かない。

「ッああ!!」

 ヴァイパーはすかさず、無防備なリオックの首筋に裏拳の形でチョップを叩きこむ。

「だッ、だらッ、ッらぁ!!」

 そしてそのままリオックの正面に向き直り、反撃を許さず顔面に、肩に、胸に、腹にと絶え間なき拳打の雨を降らせる。拳がリオックを打つたびに、甲殻にひびが入り、割れ、砕けていく。

「ふーッ……」

 数十連打を打ち込んだところで、ヴァイパーは腰を落とし、右腕を引いた。

握り込まれた拳は、黒い光を帯びてバチバチとスパークする。

「セイッ、ヤァーッ!!」

 そして、右の拳がリオックの腹部に叩き込まれる。あまりの力強さに拳圧はリオックの腹から背中に突き抜け、背面の甲殻までもが砕かれる!

「毒龍拳奥義、『討魔崩拳』……!」

「がっ……あばっ!!」

 必殺の一撃を食らったリオックは、後ろにフラフラとよろける。甲殻ではなく体中に割れた鏡のようなひびが走り、全身に広まっていく。

「あばァッ!!」

そして、ガラスが割れるような音を立ててリオックは粉々になった。

「はぁっ、はあ……」

 ヴァイパーは再び赤い光に包まれ、光が退くと雪路の姿に戻った。

とたんに視界が揺らぎ、プールで長い間遊んだ後自ら上がった時のように体が重くなる。

だが、それにも構わず雪路は何かを探していた。

「うぅ……」

 リオックの倒れたところには、あの男子生徒が倒れていた。傍らには、粉々になったジオブレスの破片が散らばっている。

 雪路は男子生徒の方へ駆け寄った。自分の身を守るために無我夢中になって戦っていたが、彼自身に恨みはない。息はあるようだがだいぶ衰弱しており、放っておくことはできなかった。

「ねぇ、大丈夫……」

「おめでとう! 梶山君。みごと君はリオック・ジオボーグに勝利した!」

 だが、その間に仮面の男が割って入る。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 雪路は邪魔をするな、と非難の目線を向ける。

「ああ、負け犬の事か。ちょっと待ちたまえ」

 心底どうでもいい、といったような気の抜けた態度で返すと、男は男子生徒の近くにしゃがみ込み、学ランのポケットやズボンのポケットをまさぐり始めた。

「おっ、あったあった」

 そして何かを見つけるとそれを持ち去り、男子生徒に手をかざす。すると、男子生徒は光に包まれ消えてしまった。

「……何をしたの」

「敗北者にはご退場いただいたのさ。彼はもう『セッション』に参加する権利はない。目が覚めたら自宅のベッドに寝ていて、今までの事はきれいさっぱり忘れているよ。

 それよりも、君は私に聞きたいことがあるんじゃないかね?」

「……そうよ! 忠与を救う方法、教えてもらうわッ!」

 すると、男は今までの無気力な態度から一変、大仰な仕草で両手を広げた。

「そうこなくてはねぇ! では梶山雪路君。忠与君を救う方法を教えよう」

 そう言うと、男は雪路に何かを渡した。

「サイコロ……?」

 薄い緑色をした、翡翠か何かでできたようなサイコロである。

 だが、1面だけに3の目が彫られている以外はつるりとしていて何も目がない。

「これは、あの負け犬が持っていたものさ。いや、彼だけではない。この街には多くのジオボーグがいて、1から6の、一面にしか目がないサイコロを持っている。

 梶山雪路君。君が忠与君を救うためには『セッション』に参加し、2つのミッションをクリアしなければならない」

 そう言って、男は人差し指を立てた。

「ひとつめのミッションは、街に潜むジオボーグを倒し、1から6の『1面ダイス』を集めること。つまり君は、3の『1面ダイス』以外の、5種類のダイスを集める必要がある」

 男は人差し指に続き中指も立てる。

「2つ目のミッションにして最終目標は、スコーピオン・ジオボーグを倒すことだ。彼女を倒せば忠与君を治すと約束しよう。ダイス集めは参加資格というやつだ」

 そして男は、薬指も立てた。

「そしてこれはプラス・アルファーだが、タイムリミットは3か月だ。それまでにスコーピオンを倒せなければ、忠与君は死ぬ。やはりタイムリミットがあってこそ緊張感が生まれるからね……おや? 何かご不満のようだね」

 そこまで言って、仮面の男は雪路の方を見る。近くの壁に寄りかかり、乱れた呼吸を整えながらも男を見つめる視線ははっきりとした憎悪に満ちていた。

「当然よ……サイコロ集め? ミッション? まるでゲームか何かじゃないッ!」

「ゲームだよ?」

「ッ!!」

 雪路の目の下に、赤いラインが走る。

「おっと、変身して私を痛めつけようなどと考えない方がいい。第1にそんな体力は残っていないだろうし、第2に……君自身理解しているんだろう? この『セッション』に乗るしか方法がないことに」

 雪路の目の下から、赤いラインが消える。歯をかみ砕かんほどに食いしばることしかできない。

「図星のようだね。では話を続けよう。『6つの1面ダイスを集め、スコーピオンを打ち倒したものが願いをかなえることができる』。これは君以外のジオボーグも同じだ。

そうでなくとも、ジオボーグの資格者はそれなりのエゴと獣性を持った者たち……探さずとも君の前に現れることだろう」

 そう言うと、男は背広のポケットからジオブレスを取り出した。

「だから、君は注意しなければならない。リオックのようにジオブレスで変身するのであれば致命傷を受けてもブレスとセッションの参加資格を失うだけだ。しかし君の場合、ヴァイパー・ジオボーグの死は梶山雪路の死を意味する。代わりに壊れてくれるブレスがないからね。

あと間違っても警察に通報するなんてことはやめておいた方がいいね。そういう無粋な真似をしようものなら、スコーピオンに命じて忠与君への呪毒を一気に致死量まで引き上げる」

「上等よ……あの女はこの手でぶん殴らなきゃ気が済まないわ」

 拳を握り締める雪路を見て、男はフッと軽く笑う。

「あと、最後に1つ。セッションに参加してくれるお礼に、ささやかなプレゼントをするとしよう」

 そう言うと、男は指を鳴らす。

「プレゼント……?」

 問い返す間も無く、男は空間から消えた。すると、今までのことが夢だったかのように、無人の街に人が戻り再び騒がしい繁華街と化した。

 プレゼントとは何か。あの得体のしれない男のこと、何か悪いものなのでは……そう思った矢先、スカートのポケットに入れたスマートフォンが、振動しているのに気がついた。

「あっ……!」

 着信欄には、「父」とある。スコーピオンを探そうとして、夢中になるあまり全く気付かなかった。これを取るくらいなら、もう一度リオックと戦ったほうがマシだと思いながらも、恐る恐る着信ボタンをタップする。

― 雪路ッ! どこで油売ってんだッ!! ―

 スピーカーから飛び出てくるんじゃないかというほどの父の怒号に、雪路は思わずのけぞる。

「え、あ、あの、ごめんなさいッ!」

 マムシ怪人に変身してコオロギ怪人と殴り合ってました、などと言えるわけもなく、電話越しに平謝りする。

― 謝って済んだらヤクザはいらねえッ! 大体お前は昔から…… ―

― しゃ、社長! 今はそれより……!  ―

― 引っ込んでろヤス! 俺の気持ちがわかってたまるかっ!! ―

― だから落ち着いて……あっ、副社長、ゲンさん、ありがとうございます! ―

 どうやら電話の向こうでは大騒ぎになっているらしい。

「……というか病院よね? 静かにしなきゃだめだと思うんだけど」

― ……お姉ちゃん? ―

 その声が聞こえた時、心臓が止まるかと思った。続いて顔が熱くなり、思考が錯綜する。

「た、忠与、なの?」

― うん。ついさっき目が覚めたんだ。お医者さんが言うにはまだ治ってはいないみたいなんだけど、症状もちょっと軽くなったって ―

「そう」

 それしか、言えなかった。ぼろぼろと涙がこぼれ、前が見えなくなる。

― それでさ、ちょっとわがままを聞いてほしいんだ。本当はダメなんだけど、特別に面会の時間を延ばしてもらってて……お姉ちゃんに会いたいんだ。……ダメかな? ―

「ううん、行くわ! 待ってて!」

 雪路はそれだけ言うと、夜の街を駆けだした。

 何がこれから起きるかわからない。自分がどこまでやれるかもわからない。

 それでも。戦い続けてみせる。忠与を救ってみせる。

 確かな決意が、胸の中に燃えていた。

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