絡繰二輪

「ほんの、少し、でも。遠くに、行きたい」

 思ったから。

 窓に浮かぶのは、薄衣の覆い被さったような群青。霞んで揺蕩たゆたう霧に似た白が、突き抜けているはずの晴天を、晴天を、晴天を、淡く、薄く、ほの明るく、ぼかす。暈して、曖昧模糊に、まぎらわす。緩やかな風に吹かれて、空のカーテンはひらりはためき、膨よかで柔和な表情のままにくすぶらせた。燦々としたあの目も眩むほどの光も、その下で深呼吸している。

 ああ、と目を細める。ぺこりと空がお辞儀をした。

 ぺこりと、お辞儀で返した。

「移動手段、と云う訳か」

 木の葉の掠れる音に似た、無機質。

 はい、と、頭を上げて、返事をした。

「どうして、なのか、わかりません」

 畳を足の親指の爪で引っ掻くようにする。かしり、かしり。楊枝ようじ舎人とねりが、とてちて、前を横切る。檜皮色のおべべを着て、行進かな、と。腰に刺した杉の剣は、いかにも武士のようだ。ぴんと爪先で弾きたくなるのを堪えて、見送る。かぶと虫ほどの大きさのそれは、ほんのすこし開いた襖の隙間から、どこか、知らないところへ行ってしまった。

 こぷり、こぷり。カーテンの下で欠伸をする、こぷり、こぷり。吐き出した息は浅葱色になって、僕の頭上で跡形もなく消える。こぷり、こぷり。

「怖いのでは、ありません。今あるものから、逃げたいのでも」

 ただ。ただ、何故か、遠くに行かなければならない気がする。遠く、遠く、曖昧だけれど、けれど近く。あらゆるもの、あらゆること。この足では及ばないところ。

 今は見えないところ。

「特訓をせねばな」

 さも当然のように、隘路は、いつもと変わらない声色で。首をひねって、隘路を見る。隘路は足を坐禅のように組んで、右肘を右膝についている。顎を拳に乗せて、隘路は僕を見ている。その細い目の奥は、いつもと変わらなくて。本当に、変わらなくて。

「いいのですか」

 隘路は首肯する。拳の上で顎が、ずれる。

「そもそも我が買ってやる訳ではあるまいに」

 こぷり、こぷり。

 僕は空に向き直る。優しい薄衣の後ろの群青、それを垣間見たくて、手を伸ばす。指をはらはらとさせる。見上げた先は見えているようで、見えない。まったくと言っていいほど。

 僕は見えない。

 僕は、見えていない。

「隘路、隘路」

「何ぞ」

「いつか、届きますか」

 隘路は、ほんの少し、ほんの、ほんの、ほんの少し。ほんの少しだけ。思い違いかもしれないけれど、聞き間違いかもしれないけれど。ほんの少し。

「望めばな」

 笑っているような、気がした。

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