失せ物みっつ、大路に集え。

階段

 目の前に、どこまでも長い階段が連なっていた。

 自然と右足が一段めを踏む。無機質な石だ。木ではない。けれどよくよく考えれば、石とも違うような感覚もした。とても硬いプラスチックのような、よくわからないもので。それが、柔らかいものでない、それだけを頭が理解した。

 一段。また、一段。

 一歩。また、一歩。

 確実に、ゆっくりと、足の裏をつける。指を開いて、しっかりと。踏み外さないように、踏み外れないように。線の内から、輪廻の輪から。

「エッシャーの階段、と言うものがあるんだよ」

 聞いたことのない声が、聞こえる。その場の至る所から聞こえる。声の主が何処にいるのか、僕にはわからない。ただ、とても人間的な、普遍的な、極々有り触れた声だ。

 隘路の、声じゃない。

 人間の声。

「正しくはペンローズの階段。ライオネル・ペンローズと息子のロジャー・ペンローズが考案した不可能図形だ。マウリッツ・エッシャーはそれを用いてリトグラフ、《下降と上昇》を描いた」

 次第に天辺が見えてくる。階段は意外に短い。かと思いきや、直角に曲がり、また階段が続いていた。くるりと右を向いて、また足を踏み出す。焦りはない。ただ、胸の奥がやけに冷えていた。きゅうと小さく、冷たくなる。この心の臓は氷のようなものだったか。小さいには変わりあるまいが。

「冷静に考えればなんと言うこともない図形だ。あれは正方形に見えて正方形ではないんだ。簡単に見破れる、頭の中で縦と横と斜めの線を引けば、矛盾にすぐ気がつく。だのに、吾々は見誤ってしまうんだ。上がっているはずの階段が下がっている、下がっているはずの階段が上がっていることを」

 一歩、一歩が覚束無く思えてくる。次第に平衡感覚が失われていく。真っ直ぐがわからない。螺旋階段を延々登り続けているような感覚だ。気味の悪い、ひたすら上がり続ける直角の渦。

「でもね、終わりがないなどあり得ないのだよ。終わりは必ず誰しもに訪れる。世界も宇宙もそうだ。星も地球もそうだ。人も動物も虫も草も花もそうだ。全部終わりが来るんだよ、いつの日か。そうそれは、吾々が階段の正体に気が付いた時のように」

 また直角だ。くるりと回る。頭がいたい。ぐわんぐわんぐわん、耳鳴りに眩暈めまい。声が耳元で大音量。塞いでも流れ込む思考。いつしか終わりが来る。そんなものはわかりきっていることだ。僕も僕も僕も。僕も僕も私も。

「少女が鏡の中の少女に目を見張り、手を伸ばしその白くあどけなく幼い指が硬い物質に触れた時、彼女の中の世界は一つ壊れる。それと全く同じだ、階段も謎を解いてしまえばそこで終わる。正体を知ればそこで止まる。無用の憧憬に過ぎないんだよ」

 ぐわ、ぐわんぐわんら。

 ぐにゃりと歪む。床が歪む。ひずむ。どぷり、闇という名の鯉が泡を吐いて息をする。溺れる。足が消えていく。あやふやな世界は僕の思考で割れて揺らして、破片を散らす。明日は来ない。この世界に明日はない。今日生まれて明日死ぬ、蜉蝣より短命な輪廻。

 それを僕のせいだというには、僕はあまりに世界に干渉しなさすぎて。

「迷路。迷路。安心しなさい迷路。迷路の世界はね、」

 ごぷり。僕の口から黒い泡が零れた。

 そうだ、この闇は。


「最初から壊れているからね」


 僕の




「おはよう迷路」

 起き抜けの目に太陽の光が差し込む。縁側に色とりどりの紫陽花が笑っている。

「隘路、隘路」

「ん」

 隘路は背中に紫陽花を背負っている。その色は紫陽花と同じ色をしている。青と紫と赤の、空の色だ。紫陽花は空の色だ。紫陽花は隘路の色だ。

「庭の紫陽花が綺麗なのは、隘路が染めたから、ですね」

「成る程、それは愉快、愉快」

 単調な隘路の音に耳を澄ませる。じめじめと、空気を舐めれば、コップのふちを舐めた味がする。

「隘路、隘路」

「ん」

 向こうの空は濃い雲がかかっている。切れ間から光が差す。

「僕の世界は、壊れています、………、か」

 ぴしり、という音。階段。姿の見えない声。隘路。夢の中。

 ぱちん。隘路の手の中の爪切りが、鳴く。

「もしそうだとしたら、主は如何する」

 紫陽花の花は花じゃない。

 心臓に手を当てる。仮初めのもの。世界。壊れる。隘路。

 隘路、も。

 きゅうと、冷たくなった。

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