制帽-失せ物-
がらり、と。戸が開く。顔を覗かせ、俯きがちに門徒をくぐった小柄な人影に声をかけた。
「おかえり迷––––––」
その続きは、出なかった。
その
「迷路」
声をかける。二度目のそれで、迷路の瞳は僅かに動き、その中に隘路を映した。口を、はくり、と僅かに開く。喉からは何一つ出てきはしなかったが、その血の気の引いた青い唇は確かに、隘路、と、動いた。
違和感に気づく。本来あるべきものがない。隘路は、ゆっくりと、あくまで淡々と、いつものように。虚ろな表情を浮かべたまま微動だにしない少年に、声をかけた。
「制帽、は」
少年は、
ゆっくりと、首を横に振った。
「なくなってしまう、はずが、ない。です。だって、みんな、体育の準備を––––––してた、から」
淹れた麦茶は手をつけられることなく、からりと氷がグラスに擦れて音を立てる。水の部分が上澄みのように麦茶と分離してしまっていた。
「だからきっと、盗まれては、いない、はずなん、です。なの、に」
「なくなっていたのか」
こくり、と。首を縦に振って、迷路は蒼い顔のまま唇を震わせた。
ほんの少し前、体育の時間に制帽を置いていた隙に、なくなってしまっていたらしい。それはもう、忽然と。跡形もなく。
今、来たか。と、隘路は眉根を寄せる。
よりにもよって、今。
「教師には言ったのか」
「言いました、ら、無くしただけだと、言われ、て」
いつもに増して言葉足らず、妙な区切りの言葉遣い。安定していないのが目に見えて、否、耳に聞こえて判る。目に見えるのは、やけに乾いた迷路の目と、蒼白の顔。正座をした膝の上に揃えられた爪は紫だ。明らかに、精神の疲労が体調に現れている。
前から、学級から疎外されている風はあった。電卓の時もそうだ、あの閉鎖的な空間に迷路の居場所はない。人とは違うことで、避けられていたのだろう。それが誰の目にも明らかな悪意となって迷路を襲った。畏怖嫌厭の感情は溜まり集って怨嗟となる。彼らは、迷路を標的として見定めた。
「大切な、もの、です」
ぽ、ぽ。迷路は語る。
「ととさまから、頂いたものの、中の、一つです。制帽、ないと、ととさまを、忘れて、しまう」
ぽ。その丸く白い頬を伝って零れる。零れて落ちる。丸く畳の上に立体として浮かび、そして吸い込まれていく。跡形もなく消え失せる。
違う。そう、隘路は言いたかった。そんな簡単に人は忘れない、と。大切な感情、尊い思い出、好きだという衝動、人の中にあるものすべて。それは簡単に消え失せたりはしない。畳に浮かんだ雫のように、麦茶に溶けた氷のように、無かったことになどならないと。
言えなかった。
隘路には、そんな事を言える資格など
そんな事、言えやしない。
言えや、しない。
ならば。
今、目の前の小さな魂にかける言葉は、たった一つだ。
「お前は、どうしたい」
「どう、––––––」
逡巡。目を迷わせ、唇だけを動かす。
初めてなのだ。迷路にとっては、初めて。滅多にない。何かを己で選ぶこと。何かを選択すること。それはつまり、何かを切り捨てることだ。この場合、迷路が切り捨てるものはなんだ。迷路が失うものは。
今は何も思わずとも、いつか枷になるものとは。
隘路は、覚悟を決めた。
いつか。いつかのその時。
その枷を取り払うのは、この己の役割であると。
引き摺り込んだ、己の役であると。
縋る藍色は冬の暮れ方の空によく似ている。先ほどまでの虚ろな味は息を潜め、今あるのはいつもと変わらぬ意思の光だ。星屑を散りばめた、ほの明るい月が息をする瞳。瞬き。体を硬くする。ぐっと口を引き縛り、大きく息を吸い込んだ。一息に、吐き出す、その感情を。
「僕は、取り戻したい。––––––です」
その意思を、呑み込んで。
「
隘路はゆるり破顔笑、嗤った。
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