制帽-失せ物-

 がらり、と。戸が開く。顔を覗かせ、俯きがちに門徒をくぐった小柄な人影に声をかけた。

「おかえり迷––––––」

 その続きは、出なかった。

 その幼気いたいけな、年端にそぐわない幼顔は、何時もに増して虚ろに歪んでいる。あの透き通った藍色も色を潜め、深く濁っていた。長い睫毛と厚い瞼は重そうで、疲労の色、虚無を色濃く映し出す。だらりと垂れ下がった両腕は作り物のように無気力。かくんと首は右に折れて、ぼんやりと、どこか遠くを見ていた。

「迷路」

 声をかける。二度目のそれで、迷路の瞳は僅かに動き、その中に隘路を映した。口を、はくり、と僅かに開く。喉からは何一つ出てきはしなかったが、その血の気の引いた青い唇は確かに、隘路、と、動いた。

 違和感に気づく。本来あるべきものがない。隘路は、ゆっくりと、あくまで淡々と、いつものように。虚ろな表情を浮かべたまま微動だにしない少年に、声をかけた。

「制帽、は」

 少年は、

 ゆっくりと、首を横に振った。




「なくなってしまう、はずが、ない。です。だって、みんな、体育の準備を––––––してた、から」

 淹れた麦茶は手をつけられることなく、からりと氷がグラスに擦れて音を立てる。水の部分が上澄みのように麦茶と分離してしまっていた。

「だからきっと、盗まれては、いない、はずなん、です。なの、に」

「なくなっていたのか」

 こくり、と。首を縦に振って、迷路は蒼い顔のまま唇を震わせた。

 ほんの少し前、体育の時間に制帽を置いていた隙に、なくなってしまっていたらしい。それはもう、忽然と。跡形もなく。

 今、来たか。と、隘路は眉根を寄せる。

 よりにもよって、今。

「教師には言ったのか」

「言いました、ら、無くしただけだと、言われ、て」

 いつもに増して言葉足らず、妙な区切りの言葉遣い。安定していないのが目に見えて、否、耳に聞こえて判る。目に見えるのは、やけに乾いた迷路の目と、蒼白の顔。正座をした膝の上に揃えられた爪は紫だ。明らかに、精神の疲労が体調に現れている。

 前から、学級から疎外されている風はあった。電卓の時もそうだ、あの閉鎖的な空間に迷路の居場所はない。人とは違うことで、避けられていたのだろう。それが誰の目にも明らかな悪意となって迷路を襲った。畏怖嫌厭の感情は溜まり集って怨嗟となる。彼らは、迷路を標的として見定めた。

「大切な、もの、です」

 ぽ、ぽ。迷路は語る。

から、頂いたものの、中の、一つです。制帽、ないと、を、忘れて、しまう」

 ぽ。その丸く白い頬を伝って零れる。零れて落ちる。丸く畳の上に立体として浮かび、そして吸い込まれていく。跡形もなく消え失せる。

 違う。そう、隘路は言いたかった。そんな簡単に人は忘れない、と。大切な感情、尊い思い出、好きだという衝動、人の中にあるものすべて。それは簡単に消え失せたりはしない。畳に浮かんだ雫のように、麦茶に溶けた氷のように、無かったことになどならないと。

 言えなかった。

 隘路には、そんな事を言える資格など最初はなから存在していないのだ。

 そんな事、言えやしない。

 言えや、しない。

 ならば。

 今、目の前の小さな魂にかける言葉は、たった一つだ。

「お前は、どうしたい」

「どう、––––––」

 逡巡。目を迷わせ、唇だけを動かす。

 初めてなのだ。迷路にとっては、初めて。滅多にない。何かを己で選ぶこと。何かを選択すること。それはつまり、何かを切り捨てることだ。この場合、迷路が切り捨てるものはなんだ。迷路が失うものは。

 今は何も思わずとも、いつか枷になるものとは。

 隘路は、覚悟を決めた。

 いつか。いつかのその時。

 その枷を取り払うのは、この己の役割であると。

 引き摺り込んだ、己の役であると。

 縋る藍色は冬の暮れ方の空によく似ている。先ほどまでの虚ろな味は息を潜め、今あるのはいつもと変わらぬ意思の光だ。星屑を散りばめた、ほの明るい月が息をする瞳。瞬き。体を硬くする。ぐっと口を引き縛り、大きく息を吸い込んだ。一息に、吐き出す、その感情を。

「僕は、取り戻したい。––––––です」

 その意思を、呑み込んで。

いい易々だろう」

 隘路はゆるり破顔笑、嗤った。

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