金盞花-花-
そこはとても美しい町だった。
美しい、というのは、なにも豪華絢爛、華々しい美しさではなく、それは静かで優しいうつくしさだ。空気が微睡んでいる、ふわりと漂ったのは何処か懐かしい香りで。それは、この間軍服を着た彼に出会った時の、あの場所の、懐かしさとどこか似ていて、しかし何かが絶対的に違っている懐かしさである。懐古というより、寄り添う匂いだ。あの時のあの場所のような、それがそうであることが当然という、どこか暴力的でありながら撫でる女の指のように優しい、捲る頁の音が耳の奥で谺するような、ああいったものではない。白く、柔く、肌にしっとりと染み渡る、それは枯れた葦の匂い、また、その色に似ていた。
カンカンカンカン––––––
踏切の遮断機の音がする。遠くで鳴っていると思われたそれは、足を動かせていくにつれ大きくなっていく。少し調子の外れた警報音もどこか間延びしていて、それがどこか愛らしい。くるくると首を回し、雀が三羽、足元を跳ねていった。
「迷路」
「はい」
「あまり袖を引きゃるな」
つい強く引っ張っていたらしい。ぱっと手を離す。握っていた右手は汗が滲んでいた。手の甲を撫でながら、「ごめんなさい」俯く。隘路は「ん」と、いつものように喉の奥で肯定の意とも唸り声ともつかない音を出した。目の前についと手が差し出される。大きな、四角い爪のやけに白い肌をした手。隘路のものだと気付くのに少しの時間を要した。んんと首を捻れば、頭の上から声が降る。
「袖を引くくらいなら手を握るか」
「え」
カンカンカンカン––––––
目の前でゆっくりとこうべを垂れていく黒と黄色の縞模様。交差していく。その遮断機が降り切った時に、目の前を轟音で通り過ぎていった機械仕掛けは、車輪を回し僕などには一瞥もくれずに目の前だけを凝視していた。行き先を見据え、何の迷いもなく。一陣の風を巻き起こし、去っていった。
差し出されたままの手と隘路の顔を交互に見て、その大きな手のひらに中指の腹を当てる。隘路は僕の揃えた指を包むようにした。
遮断機が上がる。隘路の影は動かない。僕の影も動かない。じっと、そこに立ち続けている。
隘路は何かを待っている?
「隘路、隘路」
「隘路は一回」
「隘路」
「ん」
「隘路は、ここに来たことが、ある、ですか」
「ない」
「ない」
ないのにどうやってここに来れたんだろう、首をひねる。電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、バスを乗り継ぎ乗り継ぎ、そしてよくわからない汽車に乗り、ここに辿り着いた。見たことのない風景が広がるここが一体どこなのか、霞んだようにわからない。隘路がここに来るまでに迷いなく歩を進めていたものだから、てっきり過去に来たことがあるのだと思い込んでいたけれど、どうやらそうではないらしい。緩やかに地面から反射した陽の光が眩しいのだろうか、隘路は僕の手を握っていない方の手で己の目を覆い、目元にひさしを作った。隘路の頬の傷が立体的になる。影が濃くなる。
「昔、件であったと話したな」
「はい」
「件、というのは、予知をする土塊。予知、とは、未来を見るということに他ならず。未来を見るということは、過去を見るということと同義でな。未来を知れば必然として過去も現在も知ることになる。例え行ったことのない地であれども、そこが何処かさえ分かっていれば辿り着くことが出来るだろう。まあ、副産物というやつか」
「ふくさんぶつ」
「意図せぬことではあれど、幸か不幸か。此度は幸に働いたということだ」
「隘路は、此処に来たかった、ですか?」
ふ。
隘路は微かに口の端を持ち上げる。吹き出したかのような笑い方だった。遮断機がまた、カンカンカンカン、警報音を鳴らす。向こうから人影が歩いて来る。二人。ゆっくりと縞模様の境界が築かれる。少女のおさげが風に揺れる。
「時効、というやつだ」
なんの。そう疑問を口に出すことはできなかった。
轟音。
縞模様の向こう側で電車が空気を轢いていく。窓の中にいる人たちは虚ろな目をしていた。老いた女性、眼鏡のサラリーマン、耳から白いコードを垂らし手元の小さな板を見つめる紺色のブレザーを着た少女。目に入った瞬間に消える残像。通り過ぎていく。
轟音が遠ざかっていく。遮断機の向こうが見える。眼鏡をかけた少女が驚いた顔をしている。隣に立つのは青年。表情は定かに見えない。カンカンカンカン、警報は止まない。電車は通り過ぎたというのに。轟音はやんだというのに。
いいや、違う。とうの昔に警報はやんでいるんだ。遮断機は上がっているんだ。だのに、だのに。
隘路はひさしを作っていた手を、少女に向けて伸ばす。僕の手が少し強く握られる。少女は口を開く。
「
それは。
ほんの一瞬のことだった。
警報音の向こうで、少女が膝をついた。
隘路の手は、
手のひらを少女に、
いや、少女の側に立つ青年に向けられていた。
制止を、表していた。
はたり、はたりと隘路の袖が靡く。
空気は澄んでいた。雲の切れ間から漏れる陽の光は柔らかだった。地面はあくまでも優しく包んでいた。さくりと静かに草が揺れた。警報音は何故かけたたましさを持たず、むしろ、そことここが別のものであると表すためだけに鳴り続けているかのようで。さわり、さわり。あるはずのないすすきの音がこだましている。
全ての音が消え去った、ほんの一瞬だった。
「息災で」
隘路は。
まるで失せ物を拾うように、落し物を手に戻すように。
そう、声をかけた。
ごとん、ごとん。
汽車の中で、僕は目の前に座り車窓に肘をつく隘路を見た。隘路の目は変わらず細められている。頬杖をついたその姿は夕空に映えていて、そのやけに白い肌を赤く染め上げた。
「隘路」
「ん」
「ようやく、わかりました」
「ほう」
太腿の上で拳にした両手。揃えた足。僕は今度こそ、目を逸らさず、真っ直ぐに、隘路を見つめる。
「怖かった。僕は、とても怖かったんです。何かを怖れていて、そして怖れているものが一体何なのかわからないことにも恐れていた。僕は怖かった。でもようやく分かりました」
ごとん、ごとん。
隘路は僕の目を見て、姿勢を正した。足の付け根のあたりで手を当て、指を揃える。すこし股を開き、僕を正面から向いた。それを待って、僕は口を大きく開く。
「僕は、わからないことが、怖かった」
区切って、ひとつひとつを、丁寧に。漏らさないように、紡ぐ。
「僕の目は、他の人が見えていない、何かが見えています。その何かが、そこにいるには、理由がある。いえ、ない時もあるかもしれません。でも、僕が知っていさえすれば––––––どうにかなることも、ある。僕は今まで、考えたこともなかった。僕は、僕が知らないのが、見ているのに、知らないのが、怖かった。確実に、それが、そこにいたのに。判断、する、材料さえ持っていないのが」
隘路は静かに、聞いている。息すら潜め、微動だにせず、僕を、僕だけを見つめて。
「だから、決めました。––––––隘路」
一定に揺れる車輪の音。僕と隘路以外誰もいない汽車の中。硬い木製の椅子。飲み込んだ唾。喉が立てた音はやけに大きく耳に刻まれた。短く息を吐いて、すっと吸い込んだ。
「僕に世界の全てを教えてください」
ごとん。
その音は、汽車の足音か、それとも僕の心臓の立てた音なのか。
「僕は、全てが知りたい。世界の全てが、この目が見ているものの理由が、この目が捉えているものの正体が知りたい」
教えてください。
膝に額がつくほど深く頭を下げる。どうか、と、懇願する。声に出さずとも。
「ははっ」
心底、愉快そうな笑い声の後、僕の頭に大きな手が乗った。ぐしぐしとかき回す。
「遅い」
ああ。
目が熱い。藍色が歪む。じわりと滲んで歪む。膝の上に、熱い雫がぽつ、ぽつと。
ああ、ああ。
僕は、知りたい。
僕は、
あなたが、知りたい。
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