金盞花-蕾-

「暫く留守にする」

 それはなんの前触れも無く、大きな羽を広げて飛び立った。ふわりと微笑し羽音を奏で、瑠璃色ははらりはらはら、止まっていた朝顔から遠くの群青へと舞い上がる。隘路の半着の袖が無機質に揺れる。太陽の熱い視線を受けて、薄紫にちらと色を変える。いつもの奥深い森の色に落ち着いたのは、すくりと隘路が膝を伸ばしたのと同時だった。

 留守、と喉の奥で繰り返す。留守。

 隘路が目の前に現れてから、未だ嘗てない事だった。

 流石に学校に行っている間のことはわからないが、僕が家にいるうちは隘路は必ず側にいた。敷居を跨いで外へ出たことはなかった。隘路が何処かへ出かけるときは決まって僕を連れていた。––––––いや、僕を連れ出すために外へ出ていた、と言ったほうが正しいだろう。なぜなら、出たくないと言えば直ぐに諦めたからで。まあそんな日もあろうな、と。

 隘路は、今、言った。

 暫く留守にする、と。

 ぞわ、と––––––

 まただ。

 心臓が縮こまる。ぎりりと締め付ける。息がつまる。悪寒がする。背中に汗が流れる。目頭が熱を持つ。手のひらがねっとりと滑る。吐き気が込み上げる。爪だけがやけに冷たい。息が、その一瞬だけ、途切れた。ひゅっ。喉に詰まる。

 寒い。

「隘、路」

 咄嗟だった。

 隘路の袖を掴んだ。手の中で僕を映すのは恐ろしいまでの深い深い深い緑。絡まる蔦に似た、朝顔の蔓に似た感触は指の腹に染み渡りじくりと刺す。思わず膝立ちになった、その畳に触れている膝は擦れた。皮がむける、焼ける感覚。

「ん」

 いつものように、隘路は顎を引く。

 袖を掴んだ拳を開けないまま、僕は詰まった空気をひといきに呑み込む。ごくり、と、空洞の音がした。ぐるりと回るそれを、無理矢理に腹に押し込んだ。中に入ったのは単なる無だというのに、不快感、異物感が胃を圧迫する。

「………って、さい」

 漸く絞り出した。声は畳に吸い込まれる。

 ぐ、と。

 顎を上げ、隘路を見た。

「連れて行って、ください」

 隘路の細い目がぴくりと動く。口の端がもぞ、もぞと。体はぴくりとも動かない。ただその微妙な表情の変化だけが頼りだった。瞼の下から覗く、赤紫。夕闇の色。それはいつもと変わらずとても凍てついている。いや、全く温度を感じさせない。冷たさも暑さも無意味だ。何も感じさせない、それは無。果てしない虚無の深奥。

 夢の中のように。

 闇の中のように。

 その瞳の色だけを見つめて、ひたすらに目を合わせて、拳に僕の持ち得る最大の力を込めたまま、開くようになった喉を再び震わせた。

「僕も一緒に、」

 僕も、隘路と一緒に。

 連れて行って、ください。

 ああ––––––

 やって、しまった。

 頭の先から冷えていく。握っていた手が緩み、尻を畳につけたのと同じように、手の甲から滑り落ちた。体の力が抜ける。冷える。悪寒とは違った、するりと冷めていくそれだった。体の熱は何処かへ息を潜め、だのに、頭だけがやけに重い。ああ、ああ、やってしまった。何故だかそう直感する。これは、確実に、、だと。なんの根拠もない考え、なんの根拠もない勘。本能。それは矛盾。だが、心のどこかで、いまここに至るまでの何処かで、わかりきっていたことだ。暗黙の了解、水面下の無言。

 やってはならないことだと。

「ごめん、なさい」

 ぽつ。何をいいのかわからなかった僕が選んだのは贖罪だった。なんて無意味な。なんて無力な。僕はまた、選択を違える。

「ごめんなさい」

 こうして消える。こうしていなくなる。それは、正しく僕のせいだ。僕が招いた倨傲。僕の尊大な羞恥心の所為。

 いっそこの身が虎であったなら。

「何故謝る」

 隘路の前髪が僕の額を撫でた。屈んで畳に膝をつき、覗き込むその赤紫。細く見える切れ間の先は見通せない。目をそらす。自然と食いしばった歯がぎちりと耳には聞こえない音を立てた。その時だった。

 頭に大きな掌が乗る。

「別に構わんがな、我のことなど知ってもつまらんぞ」

 ゆっくり。

 ゆっくりと、顔を上げる。夕闇と目が合う。いつものごとく無表情は何も感じさせない鏡に似て。

「わかりません」

 わかりません。

 隘路は珍しく眉根を僅かに潜め、その後に。

 ふ、と、自嘲じみた笑みを浮かべる。

 そして、「ならば用意を」と僕を急かした。


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