第二十一話

 私には好きな人がいる。もう2年にも及ぶ片思いだ。その人とは中学3年の時に初めて同じクラスになり、すぐに好きになった。

 1、2年生の頃はあまり話した事がなかったが、存在は知っていた。サッカー部の波多野郁斗君。砂のグラウンドで毎日がむしゃらに部活をしていた。

 小さな体で走り回り、転んでもすぐに起き上がり、走って、そしてまた転んで。見ていると怪我をしないか冷や冷やする。サッカー部の隣で練習をしていた陸上部の私には、1日に何度も転ぶ彼がやけに目立った。


 中学3年の初日、新しいクラスの教室で波多野君を見かけた。小さいと思っていた彼は、いつの間にか私よりも身長が高くなっていて、少し凛々しく見えた。


「同じクラスだったんだ」

「何か言った?」


 この年も同じクラスになった仲のいい友達が私の呟きに反応した。


「ううん、何も」


 私は慌てて否定し、彼から目を逸らした。

 この日は始業式で、午後からの部活を終えると、一度家に帰った私は塾に向かった。この日は始業式のおかげで部活が終わる時間も早く、余裕をもって塾に着いた。

 私が教室の扉を開けるとなんとそこには波多野君がいた。一番後ろの席に座っている。他にはまだ数人しかいない。みんな他校の生徒だ。私はすぐに彼に歩み寄った。


「こんには。波多野君だよね?」

「こんにちは。えっと……」


 まだ私の名前を知らないらしい。けど制服と中学3年の教室から同じ学校の同級生だということはわかっているだろう。


「太田真子だよ。今年から学校でも同じクラス」

「あ、そうなんだ。よろしく、太田」

「よろしくね。今日から入塾したの?」

「まぁ」


 どうやら波多野君は緊張しているようだ。無理もない。学校と違って和気藹藹とした雰囲気はなく、受験生になったばかりの生徒たちのピリピリとした緊張感の中にいるのだから。


「Aクラスなんだ。勉強できるんだね」

「あ、いや。Bクラスに席が空いてないらしく、次の実力テストまでここって言われた」

「……。そっか……」


 どうやら入塾テストに合格できほどの実力はあるらしいが、成績がいいと言うわけではないらしい。

 私は初めてで緊張している波多野君にこの塾の仕組みなどをいろいろと教えてあげた。月に1回ある実力テストで成績順にクラスが振り分けられ、教室内でも成績のいい人から順に前の席になることなど。

 次の実力テストで波多野君はBクラスに落ちてしまった。それから私は彼の勉強の面倒を見るようになった。するとその次の実力テストで波多野君はAクラスに戻って来た。入塾の際は暫定的に与えられた席だったので、実力でのAクラスは初めてだ。


 波多野君とは学校の教室でもよく話すようになった。部活ではいつも冷や冷やさせられるので、私は小型の救急セットを常備するようになった。休憩中の波多野君を見掛けると私は部活を抜け出し、傷の手当てをするなと何かと世話を焼いた。

 私達はいつしかお互いを名前で呼ぶようになり、その時には既に波多野君のことが好き好きで仕方なかった。何事にも真っ直ぐで人当たりが良く、笑顔が可愛い波多野君が私は大好きだった。


 夏に部活を引退すると私は本格的に波多野君の勉強に付き合うようになった。部活で世話を焼く時間がなくなったため、これで補おうと考えた結果だ。まったくもって不純である。

 しかしその甲斐あって波多野君の成績はぐんぐん伸びた。塾でもAクラスの前の方の席になった。


 そして12月。


「真子は志望校どうするんだ?」

「桜学園を受けようと思う」

「そっか。さすがだな」

「いっくんはどうするの?」

「俺も桜学園にするって言ったら皆に笑われるかな」

「え……」

「やっぱ俺の成績じゃダメだよな……」

「そんなことない!」


 いっくんの落胆したようなその言葉に私は思わず力を込めて返してしまった。いっくんは少し驚いたような顔をしている。私も少し恥ずかしくなってきた。けど、引けない。好きな人と同じ高校に行けるかもしれないのに。


「どんどん成績伸びてるし、これからも頑張れば受かるよ。これからも私が勉強付き合うから。一緒に桜学園受けよ?」

「へへ。真子先生がこれからも教えてくれるなら自信になるな。俺も桜学園にしよ」

「うん」


 私は弾んだ声で返事をした。


「俺の従兄弟の兄ちゃんがさ、建築士なんだよ」

「建築士?」

「うん。設計事務所で図面描いてる。今年一級建築士に合格したんだって」

「すごーい」

「その人が仕事のいろんな話をしてくれてさ。それで興味持っちゃって、俺も将来建築の仕事に就きたいと思うようになってきたんだよ。建築学部がある大学はたくさんあるけど、なるべくいい大学に入りたいじゃん? だから高校から進学校に行きたいなと思って」

「へぇ、そっかぁ。私はまだ将来どんな仕事に就きたいとかまでは考えてないから、いっくん尊敬する」


 そう言うといっくんは照れたように笑って頭を掻いた。


 それから2人は勉強の日々だった。学校の放課後や、塾の空き時間。休日は図書館で一緒に勉強をした。いっくんに勉強を教えたおかげで私の成績まで上がってきて相乗効果だ。


 そして年が明け、願書を書く日が来た。


「大丈夫かな……。本当に桜学園にして受かるかな?」


 いっくんが弱音を吐いた。何事にもがひた向きでストイックないっくんにしては珍しい。けど気持ちはわかる。いっくんの成績では合格が五分五分と言ったところだ。

 いっくんは学校の先生には志望校のランクを一つ落としたらどうだ、と言われていた。ちなみに私は少し余裕があるのだが。


「大丈夫だよ。あれだけ頑張ってきたじゃん」


 今にして思えば無責任な発言だと思う。もし落ちたらこの言葉がいっくんの人生を左右していたかもしれないのに。口ではこう言ったものの、実は私にも不安はあった。


「うん……」


 いっくんは自信なさそうに桜学園の願書を書き始めた。


 2月に入り、この日はバレンタインデー。私はいっくんに渡すチョコを用意していた。そしていっくんに気持ちを伝えようと決心していた。考えたくはないが、4月から2人して同じ高校に通える保証はない。このまま中学で別れて疎遠になるのは嫌だ。そう思ってのことだった。


「いっくん、これ」


 私は放課後に呼び出した校舎裏でいっくんにチョコを差し出した。本命チョコって初めてだから本当に恥ずかしい。するといっくんは顔を綻ばせた。


「俺に?」


 私はいっくんを上目遣いで見て、無言で頷いた。


「すげー、嬉しい。ちゃんとホワイトデー返すな。期待してて」


 喜んでもらえた。良かった。いっくんのその笑顔が私を満足させる。けど本命チョコだって気づいているだろうか? そう、本番はこれから。私は勇気を出して言った。


「あのさ……」

「ん?」


 いっくんは受け取ったチョコの包みを嬉しそうに眺めながら答えた。


「わ、わ、わ、私……、いっくんのことが……、その……、す、好き。なんだよね」

「え?」


 言った。ちゃんと言えた。いっくんは呆けた顔をしている。そんな顔も可愛いのだが、この時の私にはそれを感じる余裕はない。


「それでさ、私と……。つ、つ、付き合って下さい」

「……」


 いっくんが口を開いたまま固まっている。恥ずかしい。間が持たないから何か言ってほしい。けど、このいっくんを見ているとそれは期待できなさそうだ。


「えっと、ホワイトデーにお返しもらえるなら、返事はその時でいいから。それじゃ、また塾で」


 私は逃げ出すようにその場を走り去った。ドキドキが止まらない。いっくんは私と付き合ってくれるだろうか。期待と不安で胸がいっぱいだ。この後の塾では恥ずかしさからいっくんの顔を直視することができなかった。


 卒業式を数日後に控えたある日。私はいっくんに呼び出された。場所は私がいっくんに気持ちを伝えた校舎裏。ホワイトデーでいいと言った返事をもらえるのだろうか。緊張する。落ち着かない。


「あの告白、本当だよな?」

「え?」


 どういう質問だろう。いっくんの質問の意図がわからない。


「罰ゲームとかじゃないよな?」


 え……。罰ゲーム? なんでそんなことを言うの?


 私は今までいっくんの怪我の処置をしたり、勉強を教えたり、たくさん尽くしてきた。恩を売っていたつもりはない。けれど尽くした自負がある。私の気持ちは疑いようがないという証拠にはなったはずだ。教室でも仲良く話した。それなのになんでそんなことを聞くの? もしかして私が世話を焼いていたのは迷惑だった?


 すると私の頬に涙が流れた。悲しい。そう、私は悲しいのだ。泣くなんて不覚だけど、この気持ちはどうしようもない。私は涙を拭うとゆっくりとその場を後にした。

 いっくんは追いかけて来てくれない。と言うことはやはり本気で疑っていたのだ。若しくは意地悪を意図してあの質問をしたのだ。涙が止まらない。こんな顔で教室に戻ったらみんなに心配されてしまう。どこかで顔を整えなくては。


 卒業式を経て私は桜学園高校に入学することになった。そして真新しい制服に身を包み入学式を迎えた。セーラー服からブレザーに変わった。胸元はリボンだ。

 受付でクラス名簿をもらった。私のクラスはD組。300人近くいる新入生の名前を順に見た。


『波多野郁斗』


 いた。いっくんは桜学園に合格していた。F組だ。

 皮肉だ。私はいっくんの前で泣いて以来一度もいっくんと話をしていない。連絡も取っていない。いっくんの合格をこの時初めて知った。同じ中学から受験したのは私といっくんだけなので、情報も入ってこなかった。


「はぁ……」

「どうしたのよ?」


 入学式に同席するために一緒に登校したお母さんが怪訝な表情をしている。


「ううん、何でもない」


 私は平静を装った。

 入学式のその日は半日で学校が終わったため、帰宅後私は中学の同級生と会っていた。そこで驚くべき話を聞いた。


「うちの中学って卒業前に告白ラッシュがあったじゃん?」


 そんなラッシュがあったのか。知らなかった。同級生は私の言葉を待たずに続けた。


「それで陽奈子ちゃんが晁生に告ったんだって」

「そうなの?」


 私は自他ともに認める恋愛奥手なのでそういった情報が入って来ない。中学時代、いっくんと仲良くしていたことは周知の事実で、クラス中に付き合っているのか? と一度は疑われた。しかし2人してそれを否定したため疑いも長くは続かなかった。実際、付き合っていなかったし……。そのくらいの私だから恋話をしたことがあまりない。

 更に実は私がいっくんに告白したことを誰にも言っていない。いっくんも誰にも言っていなければ2人だけしか知らない事実ということになる。


「けどね、陽奈子ちゃん実は罰ゲームで告ったらしいよ。しかも晁生のこと好きでも何でもなかったんだって」


 え、今何と? 同級生は続ける。


「それを晁生が本気にしちゃったもんだから付き合うことになったらしいけど、次の日に陽奈子ちゃんが振っちゃったんだって。晁生も陽奈子ちゃんほど整った可愛い子に告白されるわけがないんだって、身の程を知ってれば良かったのにね」


 私はしばらく放心した。その後も同級生は何か言っていたが話が頭に入って来ない。

 もしかしていっくんはこのことを耳にしたのではないだろうか? いや、たぶんそうだ。だから私の告白を本気にすることが不安になったのだ。それであんなことを聞いてきたのか。

 それなら私が誤解している。いっくんは意地悪しようとしたわけでも、最初から疑っていたわけでもない。これはまずい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る