第四幕:虚ろな約束

1

 2022年、10月24日。

 クレンと初めて出会ったあの日から、8年半が過ぎようとしていた。




 就活は失敗だった。

 四月の早々に外部との通信手段を没収されて合宿所に放り込まれ一週間缶詰めに

される、いわゆるブラック研修というやつに出くわしたときは、本当にこんなことが現実にあるものかと感心したものだった。

 求められる姿を求められるままに作って演じることで研修そのものはどうにか

切り抜け……というのは、恰好をつけ過ぎか。確かにあの時は、あの異様な空気に

呑まれて僕の心も少し変形していたかもしれない。

 どちらにせよ、その先が駄目だった。与えられた仕事は、個人相手に飛び込みで

営業をかけて商品を売るというよくある無茶振りなのだが、その全てが最悪なのだ。ネットではすぐに壊れる、ぼったくり、保証期間中なのに難癖をつけられて取り替えしてもらえなかった、などと言われているし、売る時は金を持ってて頭の方が弱っていそうな年寄りを狙え、独居老人は死んでも逃がすな、という指示も受けた。


 なので、やめた。さっぱりとやめた。

 だってそうだろう。仮にここで言われた通りに仕事を続けられたとして、いつか

クレンと一緒になるとき、僕はなんて説明すれば良いんだ。

 お年寄り相手に詐欺まがいの商品を売りつけて生きてきた?

 ……想像するだけで寒々しい。たとえクレンが受け入れてくれても、僕がそれを

認められない。



 とはいえ先立つものは必要なので、辞職した帰りにその足で職安に向かった。

 応対した職員の人は手慣れたもので、僕の事情を聞くと、すぐにそういう人材……つまり、入社した会社を方針が合わず、早々に見切りをつけた超早期第二新卒とでも言うべき層を求めている求人をいくつか紹介してくれた。

 僕もそんな都合の良い話があるものかと驚いたが、

「昔から『会社と合わない』『悪いのは会社の方』でやめてくる新卒生は一定数いるものですから……それが単なるワガママでないかを見極める必要もありますが」

 ということで、僕の場合は単なる僕のワガママではなく、会社の方が悪質であると認められたようだった。

 そうなると研修で苦楽を共にし、なおあの命令の下で走り回っている同期のことが気にかかったが、彼らは彼らと折り合いをつけることにした。



 そして、この会社に勤めて3年が過ぎた。

 個人の、高齢者を相手に商売をしているのは最初の会社と同じだ。毎月のノルマがあり、達成できなければ怒られる。古い営業車を転がしてどこにでも行かされるし、書類仕事で残業もしょっちゅうだ。

 だが、売っているのは品質の良い介護用品だし、家族やヘルパーにも重々説明して納得の上で買ってもらうことをモットーにしている。返品だって受け付けているし

(そうなったら怒られるのは僕だけど)、購入後は商品を買ってもらうアテがなくても使用感を確かめるため訪問するよう強く命じられている。

 ノルマ未達で怒られたって、その後できっちり指導やサポートをしてくれるし、

どこにでも行かされるというのは、つまり販路がいくらでもあるという事でもある。何より、残業すればその分残業代も出る。



 不満がないとは言わないし、しんどい事もあるが、それはそれ。

 疲れた時は、スマートフォンの画面を見れば、笑顔のクレンが迎えてくれる。

それでまた、僕は頑張って前進することができる。


 風村吹葵という人間にとって、この環境は相応に恵まれていると言えただろう。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 大阪事業所に配属になったのは、2022年になってからのことだ。

 新しい上司は聞き取るのも大変なクセの強い関西弁で、まず意思疎通からして

大変だったが、そんなハードモード関西弁の人といきなりぶち当たったためか、

関西弁のお年寄りともほどなく話せるようになっていった。


 だが、僕のメインターゲットはいわゆる大阪の猛烈なご老人たちではなく、少し

落ち着きのある人たちだった。

 事業所に人事を任せていたら熱苦しいメンバーばかりで揃えられてしまったので、落ち着きがあり将来性もある僕が関西に行かされたのだという。

 リップサービスであれ、褒められ頼られるのは気持ちが良いものだ。



 10月24日は、和歌山県の小さな町へ行っていた。

 周辺のご老人を集めた秋祭りがあるとのことで足を運んだが、折り悪くも嵐に

見舞われ、祭はお流れとなり、僕はその嵐の中を駆けていた。

 普段は車で来るのだが、今日は生憎徒歩である。秋祭りに参加するならば飲酒の

機会も当然にあったからだ。




「やっと見つけた……!」

 靴の中はグチャグチャに、洗い立てのスラックスはびしゃびしゃドロドロにされ、それでも何とか走り続けて、目的のバス停留所が見えてきた。簡素ながら屋根と壁がついている、今このタイミングにはまさにありがたいバス停だ。


 しかし。

「え?」

「うおっ!」

 先客がいた。女性で、しかも彼女も同じようにずぶ濡れだった。そして女性の服は白く、つまるところ透けていた。


「す、っすみません!」

 僕は慌てて屋根の下から飛び出て、また雨に打たれて屋根の下へ舞い戻り、女性の方へ背中を向けるという間抜けな立ち回りをしてしまった。

「……ふふ」

 背後から女性の笑い声が聞こえてくる。不思議にくぐもった声だ。

「驚かせてしまってすみません」

「いえ……雨、すごいですからね」

 応対をしながら、早くバスが来てくれることを祈る。時刻表を見ようかとも思ったが、よりによってそれはあの水濡れた女性の向こう側だった。


「気にしないでください……」

「はい?」

 女性の囁きに返事をすると、ずる、という音が足元から聞こえた。濡れた足音。

「いいんですよ……少しくらい、減るものじゃあないんですから」

「いや、何を言って」

「見たんですよね?」

 女性の声が、近付いてくる。まるで何か、殺人事件現場でも見られたみたいな

恐ろしいトーンだ。

「この雨です……誰も来ませんし、バスもあと二時間は来ませんよ」

「なんてド田舎だ……!」

「一日朝晩に二本、昼に一本来るだけまだ良心的とも言えます……」

「田舎に詳しい」


「ですから、さあ」

 女性の濡れた手が僕の肩にかけられた。

「少しくらいお戯れしても、良いじゃありませんか? ねえ」

「いや……駄目です。僕には心に決めた人がいて」

「心に決めた人?」

 女性の声に好奇心の色が混じる。僕は少し大げさに、演技がかった喋りをする。

「そうです……その人は美しく、強く、それでいて放って置けない所があって……」

「…………」

「女性としても魅力的だし、僕のことを好きだと言ってくれる……」

「…………」

「クレンという人で、今僕の背後にいるのですが」

「ちょっとー!」

 水濡れの美女はべし、と僕の背を叩いた。シャツ一枚なので普通に痛い。


「いつ気付いたの! マスクしてたのに……」

「マスクしてたって声で分かる。というか、何でマスクなんて?」

「花粉症……ブタクサの」

「ああ、この季節の」

「もう、もうー」

 笑いながらぱしぱしと僕の背を叩き続けるクレン。それから僕の背に抱きついて

くる。懐かしい温かみと、柔らかさ。

「久しぶり。雨に降られて困ってる私を助けに来てくれた?」

「久しぶり。雨に降られて困ってる僕の助けを探していたところだよ」


 運命的偶然による僕とクレンの二度目の再会は、雨の音にもかき消されない笑いで始まった。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 バスを待つ間に、僕らは互いの最近について話した。

 と言っても、クレンの方は大して変わりないらしい。白の獣を狩りに、日本中を

あっちへこっちへ。今日もこの辺りで白の獣に縁喰いされたと思しき痕跡がいくつか見つかったため、飛んできたところでこのゲリラ豪雨に出くわしたのだという。

 それでも、最近はあの年下のエリカという娘が戦力として数えられるようになり、他にも何人か赤の人の素養を持つ者も増えてきたらしい。


「……増えるものなの? そういえば。なんか、一族っていうくらいだし、血筋とかが関係してるとばかり思ってたんだけど」

「それを言ったら、私だってもともと部外者だよ」

 クレンによれば、確かに前提として素養・才能のようなものは必要だし、最終的な実力はそれに左右されやすい。だがその素養や才能自体は、質さえ問わなければ

決して珍しいものでもなく、正しく鍛えれば実戦には十分な強さを持つことができるのだという。

「最初はね、私みたいに白の獣に家族を殺されちゃった子を保護するついでに教えただけだったんだけど、その子が思った以上にものになりそうだったから、斉木さんが全国の児童保護施設に色々手を回してくれて」

「身寄りのない子供を……ってやつ?」

「身寄りのない子供っていうより、もう今後一人ぼっちだろうな、っていう子の中で素養がある子を見繕って引き取ってる感じかな。情報が漏れるリスクもあるけど、

まったく行動しないよりはね」

「前進してるんだなあ」

「最近は白の獣の討伐効率も上がってるし……知ってる? 人がいなくなること、

もう随分減ってるんだよ」

「へえ……」

 そう言われても、あまり実感はない。最近はもう、敢えてニュースも取り上げたりしていないし。


 クレンは古いプラスチックのベンチに背を預けつつ伸びをして(服はもう渇いて

いたが、それはそれとして胸の形はぴったり見えた)、僕に言う。

「このまま赤の人が増えて、白の信奉者の数も減らせれば、きっとまた赤の人が

白の獣を押さえ込める時が来る」

「……そうだね」

「きっと近くない将来に」

 そしてそれが、僕らの約束の時だ。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





「わー、素敵なお店……」

「だろ?」

 それから僕らは一旦別れ、僕が今暮らしている部屋の最寄り駅で待ち合わせた。

時刻は夜の9時。僕は着替えた後に営業所で残っていた仕事をやっつけてきたので

変わり映えのない恰好だったが、クレンは一旦着替えたらしく、ネイビーブルーの

カットソーに白いスカート、ミントグリーンのカーデイガンという、シンプルながら落ち着きある洒落たファッションを見せてくれた。


 が、落ち着きあるのは服装だけだった。

「あの、吹葵さん吹葵さん」

「なんだねクレンさん」

「入り口、会員制って書いてあったんですけど、大丈夫? もっとちゃんとした

カッコしてきた方が良かった?」

 彼女の言う通り、今日僕が案内したのは、駅前地下の会員制バーである。店内は

狭いがゆとりのある作り――すなわち客をほとんど入れない想定の構造で、他に客がいないと緊張もひとしおだろう。

 けれど、そう固くなるような店でもない。僕は笑いかける。

「別に、そんな高級店って訳じゃないよ」

「でも会員制でしょ? 総理大臣とか来ない?」

「この空気を壊すようなお客さんが来ないように会員制にしてるだけなんだってさ。そうすればマナー知らずはやってこない。会員は会員で、ちゃんとした人だけ連れてくる。で、マナーさえ守ってれば、会計の時に言えば会員証を作ってくれる」


 僕が会員証を見せながら入店すると、店主は普通に「いらっしゃい」と言って

くれる。僕らは店の隅の丸テーブルを挟んで座った。

「氷点下ビール。クレンは?」

「……氷点下ビール?」

「マイナス3度まで冷やしたビールを、氷のジョッキに入れてくれるんだよ。一応

ちゃんとした名前はあるんだけど、長いから、氷点下ビール」

「へえー……あ、私はカシスオレンジで」


 そして僕らは、氷のジョッキとガラスのグラスで乾杯する。僕はジョッキに口を

つけると、一息に半分まで冷え切ったビールを飲んだ。口の中を爽やかな苦味が

駆け抜け、喉をチリチリと流れていく感覚がたまらない。

「はー……っ!」

 長く息を吐き、ジョッキを置く。やはり仕事終わりはこれに限る。

 ……などとやっていると、テーブル向かいのクレンがじっと僕の方を見ている

ことに気付いた。

「……どうかした? 飲む?」

「ううん……吹葵、ビール美味しそうに飲むなあって。苦くない?」

「苦い。でもその苦味が美味しいんだよね。飲んでみる? 冷たいから、あんまり

苦味とか感じないかもしれない」

「じゃあ、ちょっとだけ」


 クレンに氷のジョッキの木の持ち手を向けて渡す。クレンはそっとそれを持つと、恐る恐るといった風に一口、ビールへ口をつけた。

「……うーん、確かにちょっと、飲みやすいかも。でもやっぱり苦いかなあ」

「そうかー。まあ、無理に飲むでもないしね」

「でも氷のグラスは、なんか面白い! 冷たくて。他のお酒だとやってないのかな」

「入れる飲み物も冷たくないと、氷が溶けて薄味になっちゃうからね」

「なるほど……」



 それから僕らは、程なくしてやってきた料理を挟んでまた話をする。

「……ほら。エリカちゃん」

 クレンからは、スマートフォンの画面を見せられていた。映っていたのは、噂の

エリカちゃんだ。栗色の髪を三つ編みにして顔の両脇に垂らし、どこかの学校の校門前で撮影したようだ。制服姿で、後ろには桜の木。

「入学式?」

「そう。東京の高校に進学したんだよ。可愛いでしょ?」

「そうだね……なんか、良い子そうだ」

「良い子だよ! みんなの妹みたいなものだからね。相変わらず、私のことも全然

避けたりしないし……昔は病弱で、入院と退院を繰り返してるような感じでね。一族全滅の日に本当の家族はいなくなっちゃったけど、それでも元気になってくれて」

「……でも、戦力なんだ?」

 僕はバス停での話を思い出す。病弱で、入学したてでも、戦力。やはり赤の人の

不足は変わらないのか。

「うん。でも絶対に無理はさせてないよ」

 僕の言葉に対するクレンの語調は強い。

「あくまで東京の、しかも二十三区の幼体退治だけ。半年前くらいにね、そうする

ことを見込んで、徹底的に東京周りの白の獣を狩り出したの。幼体も、一匹残らず」

「……なるほど。亜成体以上を発生させないための防止をさせてるんだ」

「そうそう。というか、赤の人の仕事って、本来はそういう地味なものなんだよね。亜成体以上が出てきて戦わなきゃいけない事態は、かなりのバッドケースで」

 なるほど。そういう意味では、ひとまずは東京二十三区は本来の……赤の一族が

滅びる前の形を取り戻していると言えるのか。

「やっぱり少しずつ良くなってるんだ」

「そう。少しずつ、少しずつね」



 僕はちょっと悩んだが、あくまで軽い風を装って、就活のあれこれの話をした。

「ああー、ニュースでもやってるよね、春先とか」

 うんうんと頷くクレン。カルパッチョのヒレ肉をもくもくと食べる。

「あれに吹葵が……大変だったね」

「昔話だけどね。今はそれなりに上手くやってる」

「お年寄りのための商売かあ。そういうのって、家族にも売れるの?」

「ん? 家族? そりゃあ、合うものだったら使ってほしいけど……でも家族相手になら、普通に自分で買って贈るよ」

「あ、それもそうか」

 いきなりクレンが家族のことを話題に出したので面食らったが、確かにそういったものを贈るのも手かもしれない。

「……いや、でもどうかなあ」

「駄目?」

「なんか、手近で済ませてる感がしない? 贈り物っていうか、プレゼントなら、

やっぱりじっくり選んだ感じが欲しいよ」

「そうかなあ。吹葵が立派になった成果なんだから、良いと思うんだけど。きっと

喜ぶよ」

「うーん……」

 また、かすかな違和感。

 別に突っ込むようなことでもないが、思い切って聞いてみる。



「クレン、そんなに僕の父親と仲良かったっけ?」

「え? あ、お父さんにも会ったけど、お母さんだよ」

 そう言うと、クレンは照れくさそうに笑った。

「最近会った訳じゃないけど、四年前……吹葵と別れた後に。ちょっと名古屋の方に行かなきゃだったから、ついでに吹葵の家にお邪魔したの。そうしたらね、吹葵の

お母さん、すごく驚いて、でも歓迎してくれてね」

「…………」

「覚えられてたんだなあって。それで、吹葵の状況とか、色々……あ、もちろん

赤の一族のこととかは伏せてだけど、話してね。そうしたら、吹葵の子供の頃の話もたくさんしちゃって……アルバムとかも見せてもらったよ」

 クレンはその時のことを懐かしむように目を細める。

「その後も、夕飯ごちそうになって、車で送ってもらって……ふふ。初めて吹葵と

会った時もそうだったよね。ほら、私って本当の家族の記憶、ないじゃない。だから吹葵のお母さんのこと、本当のお母さんみたいに……」

「クレン」


 そろそろ止めなければいけないと思ったので、止めた。クレンは小首を傾げる。

「何?」

「その、なんだ。何と言うか、一体どんな勘違いをしているか分からないけど」

「……勘違い?」

 僕はかりかりと頭を掻く。実のところ、さっきからクレンが話していることを、

僕は少しも飲み込めないでいた。


 だって、そうだろう。





「僕の家には、昔から母親なんていないよ?」

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