2

 ひどい取り乱しようだった。


 客は他にもいたし、店員にも心配をかけてしまったので、僕らは早々にバーを

辞した。するとクレンが僕の部屋へ行きたいと言い出したので、僕は素直に彼女を

部屋へ上げた。

 女の子を部屋に招くならもうちょっと綺麗に、だなんて思っていられる状況では

ないことは分かりきっていた。




「……ええ。お願いします。個人的な理由です。調べたいことがあるの……はい。

分かっています。お願いします」

 さっきから電話で何か話しているクレンの様子は、見たことがないくらいの凄みを帯びていた。電話を切ると、その凄みは僕へ向けられる。

「吹葵。スマホ見せて」

「……分かった」

 網膜認証でロックを外し、スマートフォンをクレンへ渡す。壁紙に設定された

あの日の写真を見て、クレンは虚を突かれたような表情になったが、すぐに真剣な

顔つきになって僕のスマートフォンの中を漁り始めた。


 最初に調べ始めたのはアルバム……画像フォルダだったようだ。

 元よりほとんど撮影をすることがない僕のアルバムは貧弱で、すぐに前の機種から引き継いできたデータ群に突入してしまう。その中にはあの日撮ったクレンの寝顔もあったが、彼女はそれに一切興味を示さなかった。

「……ない」

 スマートフォンを初めて持って、一番最初に撮った僕のかつての自室……最初に

クレンと二ヶ月を過ごしたあの部屋の画像まで行き着くと、クレンはそれだけ言って次は電話帳、つまり連絡先リストを漁り始めた。

「風村……ない。フルネームじゃないなら……何か、何か……」

「『母』っていう連絡先なら、昔あったよ」

 僕の言葉に、クレンが顔を上げる。

「かけてみたけど誰も出なくて、だから、ミスか何かだと思って消した」

「いつ?」

「今の機種に変えて連絡先を確かめた時だから……去年の夏頃かな」

「その時何も思わなかったの?」

「逆に聞くけど、クレン。『弟』って番号がいつの間にスマホに入ってて、でも

試しにかけてみて誰も出なかったら、それは残す?」

「……そんなの」


 クレンは僕のスマートフォンを持ったまま、唇を噛み締めて俯いた。しきりに

瞬きをして、何かを考えているようでもある。そしてそんな彼女に対して、僕は

何もしてやれない。

 だって、そうだろう。今までいなくて当然だった母親が、実はいると言われて――つまりいなかったのではなく『縁喰い』されていただけなのだと知らされたって、

僕には何一つ実感が湧かない。



「……飲み物でも持ってくるよ」

 僕は一旦流しへと引っ込んだ。二つのマグカップにオレンジジュースを注ぎ、電子レンジに入れる。

 ゴー、という音と共に橙に照らされる二つのマグカップを見ながら、僕は改めて

『母』というものについて思い出そうとする。しかし、駄目だ。日々の生活に、学校行事。そういったものに母親らしき女性が関わっている覚えはない。

(……でも)

 その一方で、妙だとも思う。父さんは長く単身赴任をしていた。僕は小学生の頃

からずっと、一人で生きていたことになってしまう。クレンと出会った頃も。

 確かに、おかしい。

 しかしおかしいと思うだけだ。指摘されて、深く思い出して、考えて、ようやっと気づくことができる程度の記憶の不合理。

 ないものは、思い出さない。思い出さないから、違和感を覚えない。

 これが『縁喰い』なのかと、僕は今になって思い知る。



 チン、と電子レンジが温めの終わりを告げた。

「2018年より後で去年の夏以前……東海四県……方位的に……」

「置いておくよ」

 湯気の立つオレンジジュースを、クレンが熱心に作業する横に置いた。クレンは

脇目も振らずに自分のスマートフォンに食い入っている。僕は僕のスマートフォンを充電器へ差した。


「……駄目」

 しばらくして、クレンがうなだれて呻いた。

「数が多すぎる……亜成体だけでも期間中に34体。実際に被害を出したかどうかも、この資料だけじゃ分からないし」

「……クレン、一息ついて」

「いつ……いつ吹葵のお母さんは喰われたの。どうしてそんな事が」

「クレン」

 僕は強く彼女の名前を読んだ。クレンは顔を上げる。疲弊した目つきだった。

「吹葵」

「どの白の獣が、その……僕の母さんを、食べたかなんて。調べても、仕方ないじゃないか。根を詰めたら駄目だ」

「……仕方ないよ。でも知りたい、知らなきゃいけない、って思わないの?」

「思わないの、って……」

 クレンのその言葉が僕に向けられているという事実に気付くことすら、今の僕には時間が必要だった。

「……ッ」

 そしてその事実にクレンが気付くと、また下唇を噛む。口にしかけた言葉を、封じ込めるように。


 温めたオレンジジュースを口にして(もちろんクレンの適温に合わせてある)、

彼女はぽつりと漏らした。

「……これもだよ」

「え?」

「この、温めたオレンジジュースっていうのも、吹葵のお母さんが教えてあげた味

なんだって言ってた。吹葵の小さい頃、夜に寝付けない時期があって、本当はホットミルクを飲ませたかったんだけど、お腹を壊しちゃうから、これだったって」

 僕は自分のマグカップの中を見る。

 母親から、教えてもらった? そう言われてもまったく実感が湧かない。確かに

好きだし、落ち着くし、安眠できる味だ。けれど言ってしまえば、ただオレンジ

ジュースを温めているだけである。

「これを飲むと、落ち着く」

「それは、確かにそうだね」

「私たちにとっても、思い出の味だよ」

「うん」

 クレンは少し黙り込み、そして口を開く。

「……他に、何か、ない?」

 クレンの声色には、失望とも絶望とも言えない感情が滲んでいた。それで、彼女が何を望んでいるのか、なんとなく分かった。

 思い出して欲しいのだ。その母親のことを。

 そんな事は無理だと、本人が一番分かっているはずなのに。

 ……それとも、彼女に合わせて、思い出したと言って、そういう風に振る舞うか?

 いや、それこそ最悪だ。

 クレンだって、分かっている。生半可に演技なんてしたら、結局彼女を愚弄する

だけだ。


 四年前、彼女の心を支えられればと思った。支えようと決めた。

 それは虚飾や虚構でできることではないはずだ。



「なあ、クレン」

「待って……待って!」

 クレンは僕の言葉を遮り、彼女だけの思い出話を続ける。

「駅前の和菓子屋さん……吹葵のお母さんが好きだって言ってたけど、あれだって

もともと、吹葵が気に入って、それからお母さんも好きになったんだよ……?」

「……あの和菓子屋なら覚えてる。僕も好きだ。でもそれ以上はない」

「本当は私が秘密で家に出入りしてたこと、気付いてたけど、悪い子じゃなさそう

だし悪いことをしてる訳でもなさそうだからって、黙っててくれたんだよ?」

「……そう言われても」

「す、吹葵が、大学生になって、卒業できそうで……独り立ちできそうで……すごく

嬉しいって……安心してるって……」

「父さんとそういう話をした事はある。……なあ、クレン」


「やめて……」

 クレンは力なく僕を止めたが、かと言ってクレン自身から何か言えることがある

訳でもないらしい。

 だから、僕は続ける。

「縁喰いで喰われた人のことは、赤の人としての力を持たない、僕みたいな人間からは抜け落ちてしまうって、分かってるだろう。僕のその、母親もさ……」

「母さんって」

 クレンが強く短く、僕の言葉を遮る。

「吹葵はお母さんのこと、母さんって言ってた」

「その、母さんもさ。つまりそういうことだろ。何だったら今から父さんに電話を

かけても良い。あまり意味があるとは思えないけど……」

「そう……だけど……っ」



 僕は椅子を立つと、彼女の座る彼女の後ろに立ち、クレンを抱きしめた。あの日のように。あの朝空を一緒に見た日のように。

「しんどいな」

「……うん」

「僕は嘘はつかない。クレンに嘘はつきたくない。クレンだって分かってるはずだ」

「吹葵……ぃ」

「……その様子だと、僕の母親とは随分仲が良かったみたいだし。けれどさ、これが『縁喰い』だ。だから……」



 だから。

 クレンが知っている僕の母親のことを教えてくれ、と言うつもりだった。

 それを二人で分け合おう、と。あの日約束したように。


 けれど、それは叶わなかった。



「ああ――」

 クレンは息を吐いた。そして自分の肩を抱いた。

「それが、『縁喰い』。そうだね……本当に」

「……クレン?」

「こういうことなんだ……縁喰いで、人を殺して……世界から忘れ去らせるって。

こんなに、こんなに残酷なことだったんだ」

 様子がおかしかった。

「ううん、頭では分かってた。分かってたつもり。分かってたつもりだったんだよ」

 オレンジジュースを飲んで温まっているはずのクレンの体が震え始める。俯いたその横顔は、恐ろしいものを見たかのように蒼白だった。


「分かってなかった。私、全然分かってなかった。縁を喰らって、記憶や思い出を

奪うことって、こんなに酷いことだったんだ」

「クレン、落ち着いて」

「だって、だって……だってお母さん。吹葵の、お母さん。優しい人だった。あんなに優しくて、私にも優しくて、吹葵のことを考えてて、くたびれて、年も取ってた

のに笑顔が素敵で、あんなに幸せそうで……私、あんな風になりたいって。なのに、なのに、そのことを誰も、何も覚えてないなんて」


「……大丈夫。クレンは覚えてるだろう」

 これだって、その場凌ぎの慰めのつもりではない。僕は彼女と、そういう悲しみも喜びも共有するつもりでいた。そう約束したからだ。

 大丈夫だと言いながら、クレンを優しく抱きしめ、頭を撫でる。


 しかし、それでも彼女の震えは止まらない。

「……夢を見るの」

「夢……?」

「知らない人の夢。大変で、苦しい時もあれば、幸せで、温かい時もある。起きたら詳しいことは何も忘れちゃうような夢で、何かのドラマを見た時の印象が、残ってるだけだったのかな、って思ってたけど」

 話しながら、クレンは片手で顔を押さえた。

「……今なら分かる。記憶だったんだ。記憶だったんだよ、吹葵」

「落ち着いて、クレン」

「私が……殺した人の。思い出も何もかも、力に変えて。白の獣を狩るために、使い捨てたものだったんだ。あれが。あれが。あれも、あれも、全部……全部!」

「クレン!」

 名前を呼ぶ。名前を呼んで、抱きしめる。今の僕にはそれしかできない。そして、それでも彼女の震えは止まらない。

『ありゃ長くはたねえよ』

『人を殺すやつは、そうでないやつに比べて、本当に『死にやすい』んだ』

 ……辻本さんの言葉が不意に蘇る。僕はそれを、意図して頭の中から追いやる。



「当たり前……当たり前だよ。私が殺した人の誰にも、人生はあって、いろんな人と関わって、思い出があったの。それを全部、なかったことにして、私が」

「……白の獣を狩るために、必要だったんだろう」

「そうだよ。そうだけど」

「他の誰かを白の獣の犠牲にしないために、必要だったんだろ? だったら」

「それでもだよ! ……白の獣が死なせない代わりに、私が殺してるだけだった。

私がこの手で」

「……殺してる相手を選んでる、って言っただろう。だったらまだマシだ」

 悪い冗談みたいな慰めだと自分でも思った。それでも、彼女の錯乱と事実を照らし合わせて、僕に言えるのはこれくらいだ。


「……それでも」

 対するクレンは涙を流しながら――けれど口元は歪に笑いながら、僕を振り向く。

「半年の8人。あの夜の115人。一族の残存者と合流するまでの、15人。それは全部、マシじゃなかったんだよ」

 一族の残存者と合流するまでの15人。初耳だ。でもそれにこだわるべきじゃない。

「あの人たちにはみんな、思い出がきっとあったの。吹葵。それを全部……私が、

全部奪った。あの人たち自身から、あの人たちのことを好きだった人たちから奪って赤い光にして、使い捨てて。縁喰いで。私が生きるために」

「クレン。落ち着いて。今ちょっと、クレンは錯乱してる」

「そんなの、悲しすぎる。そんなの、許せないじゃない」

「……良いか、白の獣を殺すのは、人を守るためだろう。何も知らない人たちを君は守ったんだ」

「考えてこなかったんだよ。なのに、気付いちゃった。吹葵」

「クレン」

 彼女は僕の手を掴んだ。頬を撫で、潤んだ瞳で見つめてくる。

「……考えたくないよ、何も」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 結局の所、クレンは真実、自分の行いに目を向けていなかったんだろう。

 不謹慎な話だが、仮に彼女が殺した人の命を糧に戦う吸血鬼のような存在なら、

これだけの苦悩はなかったのだろう。

 思い返せば、彼女はいつも自分の行為を『殺す』と言っていた。実際の『縁喰い』には必要以上に触れなかった。

 きっと、ただ殺すだけなら、クレンは耐えられた。

 しかし、彼女の『縁喰い』は、その人にまつわる全ての関係性を根こそぎ奪い、

力にする。

 その意味を、クレンは考えていなかった。考えないことで自分の心を守っていた。


 だが、向き合わなければならなくなった。

 僕の母親が縁喰いによって、この世界から関係性もろとも消え去ったから。

 その意味する所を、受け止めてしまった。


 そして思い出したのだ。

 半年で8人。

 あの夜の115人。

 それからの15人。

 しめて138人と、あるいはその後にも生きるため殺してきた人々にあったはずの

無数の縁を、どれだけ自分が奪ってきたのかを。

 その意味を。



 ……僕が傍観者の視点で『結果的には誰かが悲しむことはない』とか『そうしなきゃいけなかったんだから許される』とか言ったって、意味はないんだ。

 誰よりその事実を悲しんでいるのはクレン自身で、誰よりクレンを許せないのも、クレン自身なのだから。


『クレンが感じた辛かったこと、苦しかったこと、全部教えてもらう』

『全部分け合おう』


 かつて自分が発した言葉が、無様に脳裏で残響する。

 僕は、たった1人……クレンが本当の母親のように感じていた一人の女性を失った

悲しみすら、共有できていないのに。


 僕が醒めた頭でこんなことを理路整然と考えている事実こそが、彼女の辛さと

苦しさを分け合うことのできなかった、何よりの証じゃないか。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「……あのさ」

「うん?」

 翌朝。クレンは靴を履きながら、こんなことを言い出した。

「連絡先、また交換しない?」

「え?」

「駄目、かな」

「……いや、駄目じゃない」

 俯きがちな彼女に、僕はスマホを取り出した。クレンは言い訳するように言う。

「別に、頻繁に連絡取るって訳じゃないよ。私たち、そういう関係じゃないし」

「関係、か」



 結局、僕らの関係は何なのだろう。

 唯一の秘密の共有者、あるいは共犯者という関係で始まった僕らだったが、今と

なっては一族の残存者がいる。

 相思相愛だと思っているが、たぶん愛と言うには拙くて、恋と言うには遠すぎる。

 未来の約束は、未来の約束だ。現在の僕らは、一体何なんだろう。



「……登録できた」

「ん」

 互いに自分のスマホの画面を見下ろす。すると、登録したばかりのクレンから、

さっそくメッセージが来た。

『写真』

「クレン?」

 僕が聞き返しても、クレンは自分のスマホを操作するばかりだ。

『あの時撮った写真』

 僕は少し考え、彼女と同じように話すことにした。

『印刷して持っててほしい』

『印刷?』

『壁紙にしてくれるのも、嬉しいけど』

『わかったけど、何で?』

『データだと、消されちゃうから』


「クレン」

 僕はもう一度、彼女を見た。クレンはちらりとこちらを見て、淋しそうに笑う。

『お願い』

『消したりしないよ』

『念のため』

『分かった』

 そう言うと、『Thank☆You』という看板を持ったゆるい雰囲気の犬のスタンプが

送られてきた。


「……ふふ」

「クレン」

 僕はスマホを降ろし、一歩近付いた。彼女も僕を見上げてくる。

「私のこと、忘れないで」

 それはあの日の約束だ。あの夜、彼女が去り際に願った約束だ。

「きっと世界中から私が忘れられても、吹葵だけは覚えていて」

「……クレンこそ。忘れないで欲しい。僕を」

 それはあの日の約束だ。あの朝、彼女を見送って願った約束だ。

「クレンのことを忘れない、風村吹葵っていう奴がいることを、忘れないで欲しい」



 ああ、どちらも。

 どちらも青く、若く、果たせない約束だ。

 だって僕は、赤の人ではない。どうしようもない凡人で、僕を産んだ人のことすら、忘れてしまった。

 もしもクレンが縁喰いにより失われれば、同じように忘却するだろう。

 分かっている。僕だって分かっているし、彼女だって分かっている。


 それでも、こんな空虚な言葉を、クレンは求めた。

 彼女に必要なものだった。



 ……どちらからともないキスが離れ、唇を涼しい朝の風が拭う。

「行くよ」

「ああ」

 僕はそのまま見送ろうとして、首を振る。そして努めて落ち着いて言った。

「いってらっしゃい」

「……うん」


 いってきます、と返ってくる事はなく、扉は閉じた。

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