9限目 1.エンターテイメント論 ミステリからホラーへ

 はいこんにちは五代です。先週はどうもばたばたしまして失礼しました。初年度とはいえ手際の悪さに恥じ入るばかりですが、なんとかやっていきたいと思いますので、もうしばらくおつきあいをお願いいたしますね。


 さて先週の続き。

 先週時間がたりなかったのと、区切りをつけるためにのばしておいた牙狼 ~MAKAISENK~より、六話『手紙』を、では先に見ていただきましょうかね。



 ……はい。いかがでしたでしょう。

 この作品はまず何よりも特撮であり、ダークなヒーローものですが、それと同時にファンタジーでもあり、ミステリでもあり、ホラーでもあります。

『手紙』の冒頭、穏やかそうな老夫婦が、息子を迎えて夕食の団らんを過ごしています。場面が変わって、老夫婦は通りすがりの人間を家に誘い込み、毒を盛って殺害してしまいます。

 老夫婦はずっとにこやかであり、殺人を犯したあともまったく悪びれる様子はなく、ごく普通の用事を済ませるように、死体を運び出し、庭の木の下へと埋めます。変わらない笑顔と、日常的で穏やかな会話が鬼気せまる描写です。

 さて、このスタートはミステリ的でしょうか、ホラー的でしょうか?


 ミステリには「倒叙もの」という一スタイルがあります。犯罪をおかした犯人を視点とし、その犯人が、自分の罪を隠す、あるいは恐れおののきつつ事態を見守り、しだいに身近に迫ってくる探偵や警察におびえる、というパターンのお話です。

 ふつう、ミステリというのは犯罪という謎が発生し、それを読者が謎の解き手である探偵役のキャラクターといっしょに解こうとするお話です。倒叙ものとは、このパターンを裏面から書き直し、迫り来る破滅への恐れや犯罪を犯すに至った犯人の心情、罪人となってからの心情などに焦点を当てた書き方になります。


『手紙』の老夫婦のストーリーは、ミステリ的に言えばこのパターンです。最初にすでに事件は起こっており、犯人も登場してきています。老夫婦がなぜこのような犯罪を犯すに至ったのか、なんのためにこんなことをしているのか、はストーリーの中でおいおいわかってくるように仕向けられています。

 しかしほかのエピソードが、探偵役である魔戒騎士がわから描かれているのに対して、この『手紙』では、物語の視点人物としての比重は、犯人である老夫婦のほうにぐっと寄っています。探偵役の魔戒騎士ゼロは、単にこの老夫婦の罪をあばき、約束された破局へと導く役割を保っているにすぎません。

 

 ミステリであるかホラーであるか、という区別は(ジャンル分けが書き手にとってはあまり意味のないことだとは以前にも言いましたが、それでもあえて分けてみるのであれば)


・提出された「謎」が、最終的に現実的な方面で納められるのか(警察に逮捕される、社会的に公表される、知られたくない相手に明かされてしまう、探偵の手によって読者の前に言語化されてしまう、など)、

・それともあくまで人知れず、闇の中へと喪われ、現実ならぬ幻想の要素に吸収されてしまうのか(『手紙』の結末のように、取り憑いていた悪しきものが祓われ、当事者である老夫婦は自決する、といったような)


 という二方向になるでしょう。

 おおざっぱに言えば、ミステリは「秩序」の物語です。「謎」というカオスがわき起こった場合、それを人間的な論理と知性によって説明し、通常の社会と理性の了解する枠組みの中へ回収していくのが、ミステリというスタイルの役割です。

 それに対してホラーは、「混沌」の物語です。現出した「謎」は、理性的な形ではけっして解き明かされることなく、物語が進むにつれてますます濃さを増し、やがて、理性や論理、または人間性といったものをすべて呑み込んで際限なく拡大して、すべてを暗黒と混沌の中に包み込んでしまう。

 ホラー・ミステリという、両者の中間に位置するものもあるにせよ、最終的にミステリとホラーをわけるのは、この一点でしょう。すなわち、秩序を指向するのか、それとも混沌を指向するのか。

 発生した事態が一見いかにホラー的でも、最終的にそれが理性と秩序の範囲内において説明づけられるなら、それはおそらく、ホラーではありません。謎が理性の領域を逸脱し、闇と混沌の領域にむかって沈み込んでいく物語、それがホラーです。


 先々週、現代ミステリとその周辺を一望するためネットをあさっていて、一般的にはモダン・ホラーの作家とみなされている(特にアメリカの)作家、スティーヴン・キング、ディーン・R・クーンツ、ロバート・R・マキャモンなどが、ミステリの周辺(冒険小説)作家として分類されていることはちょっと驚きでしたが、やはり、ミステリとホラーが同根であることは確かである、という意を強くしました。

 ディクスン・カーの諸作や、日本であれば妖怪を主題にとる京極夏彦のように、ホラー的な題材を扱っても、最終的に論理と理性によって事件を解決するのがミステリですが、特にアメリカのモダン・ホラー作家は、あまり幻想性や精神性には重きを置かず、善悪、あるいは光と闇の対立項に話を持っていく(そしてたいてい愛と友情が勝つ)からでしょうか、多くの人に受け入れられつつ、アクション小説や冒険小説、青春小説、ファンタジーなどとして読めるのが、人気の秘密なのかもしれません。


 ホラー小説の出発点は、18世紀のゴシックロマンスと呼ばれる一連の陰鬱な小説群にあると考えられています。現実主義から離れ、亡霊や悪魔、妖怪などが跋扈する、多少大時代で仰々しい語り口を持つ作品は、教条主義で退屈な現実の小説に飽きた人々に好まれて非常な人気を博しました。

 ゴシック小説の嚆矢はホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764)でしょう。作者のウォルポールがある夜見た悪夢をそのまま小説にしたというこの作品は、暗い因縁と応報が絡み合い、鬱々とした因果応報の物語が展開されていきます。

 巨大な兜に潰されて圧死する息子、壁から抜け出て動く絵、空中に浮かぶ巨大な手や足という怪奇現象が展開され、最終的には先代領主の巨大な亡霊が現れて、邪悪な現領主を城から追い払う、というこの物語ですが、正直、現代の人間が読んでもさほど怖くもなければ、おもしろくもありません。因果の絡む悲劇はギリシャ悲劇に、また動き出す絵や兜、亡霊の登場などはモーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』に通じる部分はありますが、物語としては深みがなく、陳腐な感じは否めません。

 ウォルポールは別に恐怖譚を書こうと思っていたのではなく、たんに、理性に抑圧されない荒々しい自然を書こうとしたのだと思われます。「冷ややかな理性しか欲しない今の時代」と彼は書簡に記していますが、理性によってなんでも解決してしまおうとする啓蒙主義のかたくなさに飽き飽きし、もっと自由ななまの世界を書いてみたいと考えた書き手の思いでしょう。


 ところが、ウォルポールがつくったこのゴシック小説の枠組み(陰鬱な城や館でくり広げられる亡霊や呪い、悪魔の出現、閉じこめられ虐げられる美姫、血の因縁など)は、その模倣性と「つくりもの」っぽさにより、多くの人々の手によってさらに人工的な世界へと作り替えられていくことになります。

 ウィリアム・ベックフォード『ヴァテック』、アン・ラドクリフの『ユードルフォの秘密』、マシュー・グレゴリー・ルイス『マンク』などが現在でも邦訳が出るなどして読まれていますが、これらは当時の道徳に反する主人公が登場して悪と放蕩のかぎりをつくす、という意味では悪漢小説でもあり、規律と理性にしばられた一般の読者、特に家や慣習に縛られてほとんど自由のなかった女性の読者や書き手にとって、自由に精神を解放してロマンを楽しむ唯一の手がかりだったのでしょう。


 19世紀に入ると、この女性によるゴシックホラー小説の流れに、一つの記念碑的作品が登場します。メアリ・シェリー『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』です。

 この原作自体は、たぶん読んだことあるって人は少ないかもしれません。おそらく、有名なのは後年、アメリカの映画会社ユニバーサル・ピクチャーズが映画化した、ボリス・カーロフによる怪奇映画のビジュアル、あるいは人造人間としてのフランケンシュタインの怪物そのものでしょう。

 この怪物には名前がなく、フランケンシュタインというのは、この怪物を製作した若い科学者の名前にすぎません。小説自体は、科学者ヴィクター・フランケンシュタインの語りという形をとり、醜い姿で生み出されたこの怪物と創造者である彼の、命をかけた悲痛な相克を描いたもので、これもあまりホラー味は感じられません。怪物の恐怖というよりは、望まれずに生み出されてしまった生き物の悲哀といった側面に焦点が当てられていて、むしろ怪物への同情を誘うような作りになっています。

 タイトルにあるプロメテウスとはギリシャ神話に登場する巨人のひとりで、人間に火を与えたために神々に罰せられ、山頂に縛りつけられて毎日肝臓を鷲についばまれるという責め苦を受けることになった存在です。科学の行き過ぎと人間の思い上がりを、望まぬまま生み出されてしまった怪物の悲劇を通して描いているこの作品は、ホラーであると同時に、SFのはしりのひとつとしても認められています。


 ミステリの始祖であるエドガー・アラン・ポーは、ゴシックホラー・恐怖小説においても大きな位置を保っています。最初の探偵小説である『モルグ街の殺人』もかなり怪奇趣味の濃いものでしたが、おそらく、ポーの本質は耽美的、かつ怪奇的幻想的な一連の小説のほうにあったと言えるでしょう。

『アッシャー家の崩壊』『黒猫』『リジィア』『赤死病の仮面』など、彼の作品は多く早すぎた埋葬や死者の再生、絡みつく因縁や亡霊、不条理な罰や崩壊と死への傾倒、死美人への病的な愛着等に彩られており、『オトラント城』や『フランケンシュタイン』に比べれば、より純粋に恐怖小説を指向して書かれたものといえます。

 ポーはその先鋭性と強烈な美学、特異な文学的スタイルによって生前はほとんど評価されないまま人生を終えましたが、ミステリとホラー、二つのジャンルにおいて巨大な先達として認められている今、皮肉なことですね。


 この時代で挙げておくべき怪奇恐怖作家には、あと、シェリダン・レ・ファニュ、そしてプラム・ストーカーがいます。後者はいうまでもない吸血鬼ものの代名詞『ドラキュラ』の作者ですね。単独の作品ではスティーブンソン『ジキルとハイド』、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』、などがあります。

 ストーカーはほかにもいくつか怪奇小説を書いていますが、現行で生き残っているのは『ドラキュラ』だけと言っても過言ではないでしょう。これまた、フランケンシュタインの怪物と同じく、後年映画化されたヴィジュアル(アメリカのベラ・ルゴシ、英国クリストファー・リー)とキャラクターイメージが先行し、原作を読んだことのある人というのは意外と少ないのですが。

 実際原作を読んでみると、恐怖小説というよりは、ドラキュラ伯爵に相対するヴァン・ヘルシング教授と仲間たちの戦いにどちらかというと焦点が当たっており、伯爵の跳梁が描かれる前半三分の一はまだしも、後半は、逃げる吸血鬼を駆り立てる冒険サスペンス小説の色彩が濃いものになっています。


 ストーカーに先行して、レ・ファニュも女吸血鬼を扱った『吸血鬼カーミラ』を書いています。ストーカーはこれに影響されて、ドラキュラの物語を着想したともいわれています。レズビアニスムの甘美な雰囲気をたたえた幻想的な吸血奇譚で、怪奇幻想の名手とされるレ・ファニュの代表作ともいうべき作品です。ファニュの作品はあからさまな怪異や亡霊の出現を書くのではなく、物語の流れの中でうっすらと漂う鬼気によってぞっとさせることが多く、それまでの通俗的ゴシックホラーの書き手とは、一線を画した作家であります。


 と、ここまで18~19世紀の古典ホラーをざっと見てきましたが、今回はこの辺で。次回は、20世紀初頭のパルプマガジン・ホラーと、お待ちかねクトゥルーものについて、お話ししましょうかね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る