エピローグ Epilogue
最終話 幸せな時間たち
★
「今岡さん、ひとつ訊いてもいい?」
「ん? いいよ」
展望スペース沿いを旅館の方へ向かう途中、隣りを歩く今岡さんに、麻耶は疑問に思っていたことを切り出してみたの。
「どうして急に帰国することになったの? それに、仙台駅から直接秋津温泉に来るなんて――麻耶がここにいること、知っていたの?」
麻耶の質問に
ちょうど展望スペースの真ん中あたり――ライトアップされた秋津大滝を正面から見ることができる場所で。
「実は、僕も腑に落ちないことがいくつかあるんだ――まず、
三日前に退職の件も離婚の件も合意に至って、僕は晴れて出国できることになったんだ――退職の方は、
結果として、僕の退職金を含めて全財産を家内への慰謝料に
「どうしようかなぁ……後出しジャンケンでそんなこと言われてもなぁ……」
流し目で今岡さんのことを見ながら、麻耶が意地悪な言い方をすると、想定外のリアクションだったのか、今岡さんは少し焦ったよう顔をする。
「わ、わかった! 『ほっと・SPRING・れすと』の特製プリン・ア・ラモードを
今岡さんは両手を合わせて麻耶に懇願するようなポーズをとる。
そんな今岡さんの切実な様子に、麻耶は思わず噴き出したの。ただ、麻耶も鬼じゃないから、それで手を打ってあげることにした。
「それから、仙台駅から直接ここへ来たことについては――成田で飛行機を降りたときから決めていた。もちろん麻耶が秋津温泉にいることを確認したわけじゃない。でも、なぜか『一秒でも早く行かなければいけない』って思ったんだ。
確かに『去年の今頃、麻耶といっしょに紅葉を見に行ったよなぁ』なんて思ったことはあった。でも、仙台に着いたら、まず麻耶のマンションを訪ねるのが普通だ。いきなり
話を聞く限り、今岡さんが
「――秋津流水館のフロント係と話をしたら、麻耶が二十分前に大滝の方へ向かったことを教えてくれた。それで、急いで後を追ったんだ。でも、驚いたよ。麻耶が
あのとき今岡さんの声が聞こえたような気がしたのは、空耳じゃなかったんだ。それなのに、麻耶ったら「あの世から今岡さんが呼んでいる」なんて思い込んで、
「笑いごとじゃないぞ。本当に危なかったんだからな。麻耶がおかしな行動に出ないように、しばらく僕が二十四時間体制で監視する。わかったな?――具体的には……住むところがないから、麻耶のマンションに厄介になるってことだけど」
最後の言葉を聞いた瞬間、それまで神妙な顔で聞いていた麻耶は、思い切り噴き出したの。すると、釣られるように今岡さんも声を上げて笑った。
「――でも、これからは、
今岡さんがサラリと言った言葉に、麻耶は思わず目を見開いたの。だって、驚きを隠せなかったから――どうして麻耶の『幸せな時間』のことを知っているの? 誰にも話したことがないのに。
「三十分前? 何のこと? 意味がわからないんだけれど」
麻耶はとぼけた振りをして訊いてみたの。
すると、今岡さんは
「麻耶は、いつも待ち合わせの三十分前に『ほっと・SPRING・れすと』に来ていた。窓際の二人掛けの席に座ってカプチーノを飲んでいた。そして、たぶんだけど、僕の姿を見つけたら凄い勢いで待ち合わせ場所に向かって走った――違う?」
「ど、どうして? どうして知っているの?――麻耶が三十分前にあそこにいたこと」
まるで麻耶の行動を一部始終見ているような言い方に、反論のしようがなかった。
あっさり白旗を上げた麻耶に、今岡さんは穏やかな笑みを浮かべたの。
「それはね、僕もいたからなんだよ。あの店に――四十分前から」
「えっ――そうなの!? お店の中にいたの!? 全然気がつかなかった……どこにいたの?」
「奥に四人掛けのテーブルがあるだろう? あそこの一角さ。ちょうどキミの位置からは死角になっていたかな。ただ、僕の方からは、キミの姿を斜め後ろから見ることができた。
初めてキミと待ち合わせたとき、早く着き過ぎたからあそこで時間を潰していたんだ。そうしたら、三十分前にキミが入ってきて窓際の席に座った。そのときから、僕は待ち合わせの四十分前に四人掛けのテーブルに座って、キミを待つことにしたんだ――実は、マスターとも結構仲良くなって、あそこを僕の指定席にしてもらったんだ」
信じられなかった。まさか今岡さんが麻耶と同じことをしていたなんて。しかも、麻耶のおかしな行動を一部始終見ていたなんて――でも、今岡さんは何が楽しくてそんなことをしていたの? 声を掛けてくれたら、もっと早く会うことができたのに。
「今岡さん、どうして声を掛けてくれなかったの? 麻耶が一人でいるのを見て、何か面白いことでもあったの?」
「うん。あった――あれ? ひょっとしたら、キミは気づいていないの?」
今岡さんが意味ありげに尋ねてきたけれど、麻耶には思い当たる節がなかった。
きょとんとした表情を浮かべる麻耶に今岡さんは続けたの。
「――あのとき、キミはとてもうれしそうな顔をしていた。いつものクールなキミとは別人だった。幸せそうな笑顔を見ていたら、僕もすごく幸せな気分になったんだ。僕の存在が少しでもキミの役に立っているんだって思えてね」
そうだったんだ。「あの麻耶」が笑っていたんだ。全然気がつかなかった。本当にうれしかったんだね。麻耶――「幸せな時間」は決して偽りの時間なんかじゃなかった。
それは、「麻耶」と「今岡さん」、そして、「もうひとりの麻耶」と「もうひとりの今岡さん」が、それぞれ幸せを感じていた時間だった――良かった。本当に良かった。
そう思ったら、麻耶は今岡さんの温もりが欲しくなって、胸に顔を
「麻耶――違和感がないね」
耳元で優しい言葉が魔法の呪文のように
左手が麻耶の細い腰をスッと抱き寄せる。
驚いて顔を上げると、穏やかな眼差しが真っ直ぐに麻耶に向けられていた。
静かに瞳を閉じると、ライトアップの白い光を浴びた二人の姿は一つの
そう――まるで、あのときの「幸せな時間たち」と同じように。
おしまい
幸せな時間たち ― 桜木麻耶は笑わない ― RAY @MIDNIGHT_RAY
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