第32話 別れのとき


 呆然ぼうぜんと立ち尽くす麻耶の手を引いて柵の内側へ移動すると、はホッとした表情を浮かべた。


「無事で良かった……何から話したらいいのか……その前に、麻耶に謝らないといけない。『連絡する』なんて言っておきながら、半年近くも音信不通だったんだから――本当にごめん」


 彼は申し訳なさそうに頭を下げると、真剣な表情で淡々と話し始めたの。 


「――何を言っても言い訳にしかならないけど……会社のトラブルに巻き込まれた……と言うより、会社にめられたんだ。

 二月に異動の打診があったとき、今回のプロジェクトにおける、僕の役割はあくまで戦略計画立案担当ストラテジック・プランナーで、勤務地も東京本社だった。必要に応じてF国への出張があることは聞いていたけど、それも『十月の現地事務所開設まで』という約束だった。それなら麻耶にも会えると思って、僕は異動を了承したんだ。でも、ふたを開けてみたら、聞いていた内容とは全く違っていた。

 四月に三友物産ぶっさんに戻った途端、駐在員のような長期出張ばかり。しまいには、何の相談もなく『現地駐在員』の再異動を命じられた。人事担当部署に抗議したけどらちが明かなかった。になっていたんだ。

 納得がいかなくて、いろいろ調べてみたら――わかったんだ。められたことに……誰にって? 三友物産ぶっさんの副社長である義父おやじにだよ。正確に言えば、義父おやじと家内にだ」


 首を何度も横に振ると、彼は眉間にしわを寄せて不快な表情をあらわにする。


「――の発端は、家内が僕とキミの関係に気づいたこと……どうやら、僕たちのことを、あることないこと振れ回った、『歩く週刊誌』みたいな人間がいたみたいだ。それが巡り巡って家内の耳に入って、疑心暗鬼に陥った家内が探偵を雇って僕たちのことを徹底的に調査した。ある時期から僕たちの行動は家内に筒抜けだったってことさ。

 プライドの高い家内は、そこで騒ぎを大きくするのは得策じゃないと考えて、義父おやじに相談した。すると、義父おやじは、僕らの関係は火遊びみたいなもので『冷却期間を設ければ何とかなる』なんていう判断を下した。その結果が、F国近代化プロジェクト関連部署への異動――長期間、現地へ行かせることを前提としてね。

 責任のあるポストに就かせれば、F国政府の手前、プロジェクト完了までの五年間は異動できなくなる。現地責任者として、戦略計画を立案した僕以上の人材はまずいない。もちろん駐在は家族同伴が常識。遠く離れた異国の地で二人きりなんていう環境をあてがえば、嫌でも夫婦仲が良くなると考えたわけ――考えることがナンセンスだよ。最初からなんだから、なんて発想が出ること自体間違ってるのに」


 「ヤレヤレ」と言わんばかりにため息をつくと、彼は口をとがらせる。


「――ものすごく腹が立ったから、会社に『このプロジェクトを下りる』って言ってやった。会社からは、内規違反だの無責任だの罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられた。でも、僕に言わせれば、あの騙し打ちみたいな人事異動こそ内規違反だ。プロジェクトの準備はほぼ終わらせたから、僕は自分の役割は十二分に果たしたと思っている。会社に対して後ろめたいことは何もない。僕がいなくても現地は何とかなるよ」


 そのとき、彼は何かを思い出したような顔をしたの――どこか戸惑ったよう様子が見える。


「F国の爆弾テロの件だけど――こっちも心配かけてごめん。現地はとんでもないことになっているけど、僕はこの通りピンピンしている。今日の午後に成田に着いてその足で仙台へやって来たんだ。テロのことを知ったのは、新幹線を降りて、ここへ来る途中のタクシーの中だった。

 運転手に携帯を借りて麻耶に何度か電話をしたけど、つながらなかった。情けない話だけど、僕の携帯は壊された。家内に――理由はわかるよね? 家庭の方も、ここ数日、かなり動きが慌ただしくて、まさに修羅場だった。でも、このタイミングで出国できたのは、運が良かったとしか言いようがない」


 口調こそしっかりしているけれど、かなり疲れているのがわかった。彼のことをよく知らない人ならそんな変化には気づかなかったと思う――麻耶は、彼が「本物の今岡さん」だってことを確信した。同時に、この半年、仕事だけじゃなくプライベートでもかなり大変だったことも理解した。

 ただ、理由はどうあれ、爆弾テロが起きたとき、今岡さんはF国にはいなかった。寸でのところで出国していた。良かった。本当に良かった。こんなにうれしいことはない。


 ホッとしたら、また涙があふれてきた――今岡さんが驚いた顔で麻耶を見ている。それもそのはず。だって、クールな麻耶の泣き顔なんて初めて見るんだから。でも、いろいろな思いが一気に溢れ出して、麻耶は涙を止めることなんかできなかったの。


「麻耶……キミが泣いているところ、初めて見た……連絡しなくてごめん。独りぼっちにしてごめん。心から謝る。どうか許してくれ」


 今岡さんは、動揺した様子で何度も謝りながら、麻耶の涙を指で優しくぬぐい取ると、ギュって抱きしめてくれたの。

 これまでの麻耶だったら「最高に幸せ」なんて夢心地になったと思う――でも、今は少し違う。これで終わるわけにはいかないの。だって、気持ちを伝えないといけないから。


 ゆっくり顔を上げると、麻耶は今岡さんの顔を真っ直ぐに見つめたの。


「麻耶、僕を許してくれる?」


 今岡さんの言葉に麻耶は答えた――それは、クールガールの麻耶が初めて自分の想いを口にした瞬間だった。


「今岡さん! 麻耶はあなたのことが大好き! いつだっていっしょにいたい! いっしょにいてくれないと寂しくて死んじゃう! 麻耶は死ぬまであなただけを好きでいる! だから、今岡さんも麻耶だけを見て!」


 今岡さんは目を丸くして言葉を失っている。

 でも、そんなのお構いなしに、麻耶の口からは、これまで溜め込んでいたものがせきを切ったように次から次へと溢れ出したの。


「――だって、麻耶は男の人が苦手だったのに、今岡さんと手をつないだときも、キスをしたときも、抱かれたときも、全然イヤじゃなかった。違和感なんか全然なかった。つながっているのが自然だった――だから、いつも手をつないで欲しい。いつもキスして欲しい。いつも抱きしめて欲しい。麻耶は変な女。でも……あなたを好きな気持ちは世界中の誰にも負けない! だから……だから……」


 最後は言葉にならなかった。

 麻耶は今岡さんの胸に顔をうずめて大声で泣いた。


「……麻耶、ありがとう。キミがそんな風に自分の気持ちをぶつけてくれたのは初めてだ。すごくうれしいよ」


 今岡さんは麻耶の身体を抱きしめると、髪を優しく撫でてくれた。


「ずっと思っていた――『気持ちをきちんと伝えなければいけない』って。でも、なかなか言えなくて、気が付いたら二年が経っていた……甘えていたんだ。キミに。そして、自分自身に。麻耶と離れ離れになったこの半年間で、そのことを改めて考えたんだ……順番が逆になったけど、ボクの気持ちを聞いて欲しい」


 今岡さんは腰をかがめて目線を麻耶の高さに合わせると、いつもの優しい笑顔で話し始めたの。


「仙台に来て初めてキミに会ったとき、運命を感じた。手をつないだことで、その思いは強くなった。そして、キミを抱いたとき、それが確信に変わった。でも、心のどこかで『出会ったのが遅過ぎた』とも思った――僕は、形だけとはいえ結婚していたから……そのことがあって、キミに自分の思いを告げることが躊躇ためらわれた。

 どんなに飾った言葉を使っても、口先だけで説得力がないと思った。言葉にした瞬間、男と女が寂しさを紛らわせたり欲望を満たすために行う『不倫』に成り下がる気がした。キミのことを『不倫相手』という言葉で片付けたくなかった。それなら、あえて言葉なんか交わさない、中途半端な関係の方がいいんじゃないかって思った――でも、それも自分を正当化するための言い訳だって気づいたんだ。

 だから、僕は行動に出た。そして、キミに思いを告げることにした。死ぬ瞬間に後悔したくないから――麻耶、僕は決めた。三友物産ぶっさんを退職することと、家内と別れることを」


 その瞬間、麻耶は目を大きく見開いて今岡さんの顔を見つめたの。

 身体が震えていた。うれしいはずなのに、やり切れない気持ちが心に重く圧し掛かった――それは、今岡さんの決断が何を意味するかを悟ったから。今岡さんが抱いてきた夢が遠退とおのいて行くのがわかったから。


「……夢が……今岡さんの夢が……麻耶のせいで……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 大粒の涙がこぼれ落ちた。

 麻耶はをしてしまった。今岡さんの邪魔をしてしまった。罪悪感で心が押し潰されそうだった。

 口には出さなかったけれど、心のどこかで、今岡さんに麻耶の気持ちを受け入れて欲しいと思っていた。その結果がどういうことになるかわかっていながら――麻耶は心の中で今岡さんを裏切っていた。


「麻耶、謝ることなんかない――僕は夢を捨てたわけじゃない」


 むせび泣く麻耶に優しい眼差しを向けると、今岡さんは麻耶を諭すように言ったの。


「夢の内容がほんの少し変わるだけだ。これまで僕はこだわり過ぎた。そんなものは、金をかければ誰にだってできることだ。だから、自分が生きたあかしを残すなら、『今岡恒彦』にしかできないことをするのがいいと思ったんだ。幸いなことに、今のボクは独りじゃない。信頼できる仲間が五人もいる」


 今岡さんは吹っ切れたような表情を見せた――麻耶もそう思った。あのメンバーが集まれば不可能なことだって可能になる。みんな、きっと今岡さんの力になってくれる。


「それから、もう一つ夢を追加しようと思っている」


 麻耶が鼻をすすりながら小首を傾げると、今岡さんは少しはにかんだような表情を見せる。


「僕のもう一つの夢は――麻耶、キミを幸せにすることだ。一生かけてね」


 麻耶ったら、いつの間にこんなに泣き虫になったのかな。また涙が止まらなくなっちゃった。こういうとき、目が大きいのはダメ。だって、緩んだ水道の蛇口から水滴がボトボト落ちるみたいだもの。


「――麻耶、愛している。いや、初めて会ったときからずっと愛していた。そして、これからもずっとキミだけを見つめて、死ぬまでキミといっしょにいる。だから……僕と結婚して欲しい」


 今岡さんの言葉が麻耶の心に深く染み渡った。身体の隅々にまで行き渡って身体全体がポカポカと温かくなった――麻耶はずっと待っていたのかもしれない。いつかこんな瞬間ときが訪れるのを。


「……こんな……こんな女でいいの? きっと、二十四時間三百六十五日離れないよ。後悔しても知らないよ……」


「二十四時間三百六十五日か……コンビニ事業を手掛けてきた僕にとっては、これ以上ないパートナーだ。後悔なんてしようがない。それで――返事は?」


 麻耶は満面の笑みを浮かべると、首を縦に振ったの。

 今岡さんがホッとしたような表情を浮かべたのが印象的だった。


 そのとき、クールガールの姿はもうどこにもなかった。

 麻耶はライトアップされた滝の方へ目を向けると、心の中で小さく呟いたの。


『さようなら。もう一人の「私」――今まで、ありがとう』


 つづく(エピローグへ)

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