第2章 トキオのケース【双極性障害(躁うつ病)】

1.最高の気分

「最近ですか? 実は先生、とっても調子がいいんですよ。なんて言えばいいんでしょうか、表現のしようがありません。会社の方からは『いつ復職できますか?』と言われているくらいですよ。ああ、そういえば最近ギターを買いましてね。それはもうずっと探していたギターなのでとても嬉しかったですよ。え、値段ですか? 五十万円くらいでしたかね。なのですぐさま家の一室を防音室に改装したんです。いやぁ結構な値段したんですけどね、二百万円くらいかな。そこに昔のバンドメンバーでも呼んでライブに向けて準備しようかとも思っているんですよ。あ、朝は六時に起きてコーヒーを飲むんです。とびっきりあつーいコーヒーを飲んで、パンとバナナを食べる。脂っこいものはあまり食べないように心掛けていましてね。運動もしていますよ、先生。ジムに週五日通って、朝から晩までみっちりトレーニングしているんですよ。健康的な生活だと思いませんか? 疲れ? 疲れなんて感じませんよ。むしろ元気ぴんぴんですよ。ジムに行った後、家でギターの練習をするんですよ。防音室で弾くギターの音が耳に響いて最高ですよ。ああ、僕は読書も趣味なんでね、一度読み始めたら止まらなくて困っちゃって。あはは。今人生に花開いている感じなので寝る時間がもったいないんです。まあ昨日久しぶりに三時間くらい寝たんですけど。その前? その前寝たのは、いつなんでしょうね。先生、今はそんなことどうだっていいじゃないですか。明日にでも会社に復帰できると思うくらい心も体も最高の気分なんですが、いかがでしょうか。まだ診断書は書いて頂けませんか?」



 と、多弁たべんで話すのは、細身で長身、そして何だか高級そうな洋服やバッグで身を包んでいる、トキオという四十歳の男性だ。


 ここは、やまざと精神科病院から徒歩十分ほどのところにある小山田こやまだメンタルクリニック。

 院長は、クリニックの名前の通り小山田院長。もうすぐ六十歳を迎える、スタッフともとても仲の良い明るく元気な精神科医であった。

 偏見もまだ根強く残るこの地域に開業をして、もうすぐ七年。『メンタルクリニック』と柔らかい表現ということもあるのか、まだ敷居が低く、やまざと精神科病院と比べてそれほど地域住民の受け入れは悪くない。

 待合室もさほど広くはなく、診察室はひとつ。スタッフ構成は、看護師二名、臨床心理士二名、受付三名、そして精神保健福祉士が一名(※このクリニックでは精神保健福祉士のことを『ケースワーカー』や『ワーカー』と呼ぶため、以下そのように記載する)。

 入院できるベッドは持っておらず、外来のみ。クリニックや診療所でもベッドを持つこともできるが、十床以下であれば可能というルールがある。それが十床を超えると、病院という位置付けにしなければならない。


 トキオはこの、そんな小山田メンタルクリニックに通い始めてもうすぐ四ヶ月が経過する。


 もともと会社の役職に就き、バリバリ仕事をしていたトキオ。二年ほど前より、同じ部署内で異動や退職が相次いだことにより、その負担をほとんどトキオが請け負うことが多く、多忙な日々を送っていた。

 それから数週間後、気分が高揚して「会社は自分を中心に回っている」と誇大的な発言が見られ、社内での暴言、暴力行為などのトラブルを起こすようになる。一週間の出勤停止処分を受けたところ、精神的不安定となり、気分が落ち込み、寝たきり状態となる。食事も摂らず、入浴もできず、会社は有給を使い、一か月以上休むことが続いた。それを心配した妻と共に、四ヶ月ほど前に小山田クリニックを初診。

 初診したその日に、小山田が『休職する必要がある』という内容の診断書を発行し、現在休職中。気分の落ち込みは薬で何とか低め安定で維持できるようにはなったが、会社の上司と面接をする機会があったようで、『早く戻ってきてくれたら助かる』という言葉を貰ったことを機に、再び気分が高まり、今に至る。


「トキオさん、感じありますか?」

? たしかに気分はとてもいいですけど、これはテンションが上がっているとかそういうのとは違うと思いますよ。この休職期間中、私は十分に休めましたから。ああ、そうだ。今度妻とハワイ旅行を計画しているんですよ。先生にもお土産買ってきますからね。そうそう、ハワイで有名なお菓子と言えばね」

「トキオさん、まだ復職には早いと思いますよ。まずは段階を踏んでいきましょう。体調のがもう少し穏やかになったら、を利用してリハビリをした方がいいと思います」

「いや、まぁ先生。そんなこと言わずに、前向きに検討してください。私は今、体調がとてもいい、それは紛れもない事実ですから。あ、何なら薬を減らしてもいいかもしれません、先生」

「それは追々、考えていきましょうね。それではお大事にしてください」


 トキオは同席していた妻と、小山田に頭を下げ、診察室を後にした。


 小山田は、トキオの様子を電子カルテに打ち込んでいく。

 そのカルテには、本日の診察の内容を打ち込む欄、その隣には処方内容を入力する欄、画面の下三分の一のスペースに患者の氏名、住所、電話番号などの患者情報。そしてその隣にその患者の病名が記載されるようになっている。


 トキオ――。

 彼の病名は、双極性障害そうきょくせいしょうがい躁うつ病そううつびょう)である。

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