2.違和感
「トキオさーん。お会計です。こちら自立支援のお手帳と診察券お返ししますね。今日は五百四十円になります」
「いやぁ、自立支援を申請してから、かなり家計が助かっていますよ。一割ですもんね。薬代もね、これを申請してから安くなって助かってますよ。ワーカーさんの、えーと、
「え、と」
受付スタッフに話し掛け始めてしまい、会計が滞ってしまった。しかも声がかなり大きいため、待合室で座っている他の患者がチラチラとトキオの方を見ている。
スタッフが話を切ってお会計を済ませようと何度か試みてはいるが、受付の話す言葉に、トキオの言葉が被さってしまい、トキオの耳には届いていない様子だ。
受付の奥で作業をしていた小山田メンタルクリニックのワーカー、雪凪が、そのやりとりを見兼ねてトキオの前に出る。
「トキオさん、こんにちは。ワーカーの雪凪です。ご無沙汰してますね。トキオさん、お会計ですよね。今日は五百四十円です」
「ああ、雪凪さん。こんにちは。あーはいはい、すみません。おしゃべりが好きなもんで。じゃあ千円でお願いします」
受付はトキオから千円を預かっておつりを渡す。
「あ、雪凪さんすみません。これ、先生に渡しそびれちゃったんです。
「はい、じゃあこちら預かりますね。また出来たら携帯にでもお電話入れますので。それではお大事に」
雪凪に頭を下げるトキオの後ろで、妻が何も言わずに雪凪に向かって深々と頭を下げると、颯爽とクリニックを出て行くトキオの後を追いかけるようにクリニックを後にした。
雪凪。ケースワーカー歴は五年目になる女性ワーカー。
精神科病院で経験を二年ほど積んだ後、小山田メンタルクリニックに転職をした。
雪凪は精神科病院で働く前、要は精神保健福祉士の資格を取得する前に三年ほど医療や福祉とは全く無縁の別業界で社会人経験がある。
実は精神保健福祉士という国家資格は、四年大学ではもちろん試験の受験資格を得られるのだが、そういった福祉系の大学に通っていなくても専門学校に一年通えば国家試験の受験資格を得られるのだ。
ちなみに、誰でも専門学校に通えば精神保健福祉士になれるというわけではなく、必ず、何を専攻しててもいいので、必ず四年大学を卒業している人に限る。ちなみに雪凪は経済学部。精神科の分野に興味があった雪凪は、たまたまネットで精神保健福祉士という資格を見つけ、仕事を退職。専門学校へ一年通い資格を取得した。
このように精神保健福祉士の中には、元銀行員、元営業、元農業マンなど、たくさんの社会人経験者がいるのだ。これらの経験は、支援をして行く上でとても役に立っている。このような視野の広さも、精神保健福祉士の特徴のひとつかもしれない。
そんな雪凪は、トキオとは実は初診で来院した時から関わりがある。
小山田メンタルクリニックでは、初診で来た患者に対し、必ずワーカーがインテークを取る。
インテークとは、診察とは違う初回の面接。
そこで患者の主訴や、これまでどんな人生を歩んで来たのかといったことを医者の診察の前に聞いている。
精神科を訪れる患者というのは、覚悟や一大決心をした後、予約制でなかなかすぐには取れない貴重な予約を確保し、その日を今か今かと待ちわびて、当日には『どんなところだろう』『怖い先生だったらどうしよう』『話聞いてくれるだろうか』などといった不安になりながら、私服に着替えて、女性は化粧をして、長い時間電車に揺られて、クリニックの敷居を跨ぐのだ。
初診の患者はそれだけいろんなことが不安で、とても緊張している。
そのため最初のこのインテークで、まず優先的に行うことは、患者の主訴を傾聴、共感し、患者の緊張を解す。『安心して相談していいからね』ということを患者に伝えるのだ。
インテークの目的は、インテークでその人の生活歴や現病歴を聞くことができれば、診察室の中でそれ以外の医者が必要な診察に時間を割くことができる。診察室の中でできる簡単な検査等もゆっくり時間に追われることなく行うことができる。要は医者が効率良く診察を進めるためという目的が大きい。
インテークが終われば、カルテなどに、聴取した内容をA4サイズの用紙の三分の一ほどの量で、簡潔にまとめる。題するとすれば『〇〇さんの今日に至るまで』といったところか。
今の時代、脳外科や整形外科などでもインテークを看護師がとることもあるらしい。その場合は、主訴だけ本人に聞いて、それを医者に伝え、より早く診察を回していく。
雪凪は、精神科病院でもインテークをとっていた経験もあり、ここでも初診の患者に対してできるだけインテークを取っている。
そして、ある日初診でやってきたトキオと妻のインテークを行うことになった。
トキオの第一印象は、全く持って生気がなく、中身の入っていない空っぽの人形のような状態。『よくぞここまで来れましたね』の一言に尽きるほど具合が悪そうに見えた。一日でベッドから起き上がるのはトイレの時のみという生活を送っていたトキオは口数もほとんどなく、妻が代わりに話すことが多かった。
その時に休職中の経済的な心配があると聞き、自立支援と傷病手当金の提案をしたことがある。
ちなみに傷病手当金とは、会社を何らかの理由で休職した人に対して支払われる手当金のこと。
連続して三日以上会社を休んだ場合(※これを待機期間と呼ぶ)に四日目から支給の対象となる。給料の約六割が毎月、もしくは数ヶ月分まとめて口座に支払われる健康保険の制度である。
◆
「小山田先生、おつかれさまです。これ、トキオさんが置いて帰られましたよ」
「おお、傷病手当金の書類だね。今時間あるから書くよ」
一通り午前中の診察を終え、食事を摂ろうとしていた小山田を、雪凪が捕獲した。
小山田は、胸元のポケットに刺さるペンを取り出すと、トキオの書類を書き始めた。
「トキオさん、最近上がってます?」
「だと思うよ。今日薬を減らしましょうよ、先生って提案されちゃったよ」
「気分が高揚する
「そうそう。だから双極性の人たちは、上がっている時じゃなくて、
小山田は書類を仕上げると、雪凪に手渡し、席を立った。
今日の昼食はコンビニで買ってきたおにぎりやチキン。だけでなく、パスタもパンも見える。小山田は俗にいう、痩せの大食いなのだ。
「先生、またそんなに食べるんですか。本当にどんな胃袋してるのか見てみたいですね。あ、今日もトキオさんの奥さん、何も喋らなかったんですか?」
「そうなんだよ。ただトキオさんの話を黙って聞いているだけ。落ちている時は逆に奥さんの方がよく話していたんだけどね。まぁトキオさんも喋る気力もないほどの状態だったからね」
雪凪は「ん〜」と言いながら手を顎に添えた。
うつ状態になっている時は代わりに妻が話し、躁状態になってよく喋る時は妻は黙って本人の話を聞いているだけ。
雪凪はそこにある違和感を感じていた。
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