第6話 初めの村と謎の魔術師

 ノルニシュカの国は、暗く、冷たく、長い最初の一夜を越えた。

 三人は結局、ほとんど満足に眠ることはできず、土の上でそれぞれに身を横たえるばかりだったが、氷狼や、熊の声は、真冬のように張り詰めた空気のなかで一度も聴こえることはなく、森には、夏にしては冷えきって澄んだ朝が訪れていた。鳥の鳴き声もしないが、葉や草が動く音がする。イフの予想に反し、森のなかの草地はまだ瑞々しさを保っていた。さわさわと銀に波打って、緑の絨毯が揺れる。

「きれいね」

 おとぎ話の挿絵のような森に、ユリユールはぽつりと溢した。水のなかにいるように淡い朝の光、降り落ちる木洩れ日のやわらかさ。息づく夏の気配は北国だけあってどこか夢のなかのようで、湿った土の匂いや青い葉から迸る香りが大河のようにあたりを包み込んでいた。

「夏の間はね」

 イフは、衣服の刺繍をそっと指でなぞった。白い花のような、雪のような、彼の国を象徴する模様。ひるがえる旗に輝く氷の花と、よく似た形をしている。

「忘れてはならない。晩夏になればあとは駆け足。秋の輝きは一瞬、優しさなどはない」

 雪のように白い肌と、氷のようにあざやかな瞳で、イフは独り呟いた。木々がざわめく、その宝石より柔らかで深く、そして短い生をもつ緑は歌う。わすれるな、わすれるな、ここは氷雪の大地。夏は過ぎ去るもの、冬は留まるもの。

 ユリユールは黙ってその口許を見つめていた。それがこの国の国歌の詩であることは、旅人のユリユールは知らなかった。しかし、イフの口にしたその響きは、彼らの民の血に脈々と受け継がれた言葉に聞こえた。

 イフは手早く身支度を整えると、上着を抱えて立ち上がる。

「君はもう支度が終わったの?」

「あたし、旅人だもの。いつだって身一つでいけるわ」

 まあ、日用品を入れた袋を、本当は身に付けているはずなんだけど…とユリユールはゆったりした服の腰に巻いた組紐のベルトを叩いて苦笑いする。本当はいつもそこに、ナイフや石を入れた袋を下げていたのだ。

「なにか必要なものを無くしてしまったりはしていないの?」

「まあ、ちょっとしたことのために使っていた石とかは無くなっちゃったけど、少しくらいなら道中で拾えるでしょう」

「ふうん。石だけでなにかができるのか……」

 感心したように呟くイフは、"旅人の魔術"の原理に興味津々のようだ。当たり前のように使ってきたことにそのような感情を向けられ、ユリユールは照れるような、気まずいような妙な心地で、後ろ手を組む。

「お二人とも。行きましょう」

 剣を磨いていたロクスが声をかける。イフはえっちらおっちら、幹に立てかけておいたジルを運んでくる。

「ロクス、ジルに羅針盤があるけれど、取り外すかい」

「いいえ、大丈夫です」

 樹冠の隙間からのぞく青い空を見上げて、ロクスは微笑んだ。

「海辺の民は、太陽と星で方角がわかりますから」

 イフとユリユールは顔を見合わせ、ロクスに任せようと頷きあった。




 ノーレン語で"暗い森"という名で呼ばれるこの森は、都のまわりをぐるりと囲み、中を抜ける曲がりくねった街道を逸れると並大抵のことでは脱け出せない、人々に恐れられている場所だった。白く化粧された石畳だけが、人の足が安心して踏める道だった。しかし、そこにたどり着くまでが長い。夜の間に温度を下げた森のなかは、まるで木の根の洪水のなかを歩いているようだった。足を置ける場所がなかなか見つからず、幹に手をかけ、地に手をつき、冷たい泥に手のひらや膝を汚しながら、三人は少しずつ移動していった。まず、ロクスが少し先の地点まで安全を確認しに行く。それからとって返し、イフとユリユールをつれて、その地点まで行く。これを繰り返して、通常の何倍も時間をかけながら、三人は街道にたどり着いた。

 日の光が降り注いでいる街道にも薄く霜がおりているのを確認して、イフはため息をつく。ここは恐らく中間地点ほどだが、既にここまで呪いは広がっているのだ。ここから、渓谷を迂回する長い道のりが待っている。

「ユリユール、なにか拾えたかい」

「そうね……少しだけど」

 二人が言葉を交わす間に、ロクスは少し先まで行って、駆け戻ってきた。

「人がいません。都に行く道なのに」

「……話が広まってるのかもね」

 イフは考え込む。けれど、それならば様子を見に来る者がいないのも奇妙な話だ。

「魔術師のひとりやふたり、村にいたならば都に来てもおかしくはなさそうなんだけどな」

「行き違いになったのじゃない」ユリユールが言うと、イフはこてんと首をかしげて「かもね」と返した。

 舗装された道は、凍ってこそいたが本当に歩きやすく、傷んだ靴底や疲弊した足に優しかった。滑らないように気をつかっていても、ずっと楽だ。息をつくイフに、ユリユールはそっと言う。

「……その人力飛行機…ジル、だっけ。少し交代しようか」

 どんなに難所でも、けして置いていこうとはしなかった空飛ぶ馬のハンドルを握ったイフは首を振る。その陶器のような額には、一粒汗が浮かんでいた。

「……どうしようもなくなったらね」ありがとう、と頭を下げ、イフはハンドルを握る手に力を込めた。下部の歯車が密集した機械部に車輪が収納されているようで、かたかたと回転翼を揺らしながら、ジルはガラスの目で正面を見つめたまま、造り主に運ばれていった。



 かつては本当の農村であり、開けて以降は旅人が多く滞在するようになったダリル村の入り口には、円形の石畳の広場があり、複数の人々が集まって立ち話をしていた。雰囲気は一様に穏やかでなく、色のない不安が立ち込めている。広場の中央には大きな菩提樹が繁り、その傍らには井戸があった。

 ロクスは小高い丘の上からその村の様子を眺めると、後続の二人に街道沿いの黒苺の茂みに隠れるよう促した。

「皇子、お顔を隠すものはありますか」

 身を屈めて問われ、イフは首を横に振る。

「ぼくの顔はあまり知られていないはずだけど」

「そうは言いましても、皇子ですよ。誰かは必ずあなたがイフ第十二皇子だと気づくでしょう。あまり悪いことは考えたくはありませんが、万が一です」

 ロクスはため息をついた。そもそも、都の方面からやって来たというだけで注目されるだろうという彼の懸念に、イフはかたりと首を傾ける。

「目眩ましの呪文は思い出せるけど……」

 紋章を対象物に描くための、猫の血と鴉の羽が手に入らないな、とイフは呟いた。これだから大陸魔術は、というようにロクスは額に手を当てる。イフも肩をすくめる。

「私は音を消すための猫の血しか持っておりません。札やなにか、代わりになるものはないんですか、皇子?」

「普段はポケットにいれて持ち歩いてたんだけど」上着の裾をつまみ、まくりあげてイフは肩を竦める。「あのとき、風に飛ばされてしまった」

 ロクスは分かりやすく肩を落とした。

「ねえ、皇子だとわかることが、まずいの?」

「ええ……」ロクスは言いにくそうに声を潜め、ユリユールの耳元に口を寄せる。甲冑のしゃらんと擦れ合う音がした。「ダリルは人の出入りが多いところです。ノルニシュカの者だけがいるとは限りませんし、今回の事件に付け入ろうとする他国の人間がいるかもしれない。そうしたら、わたしだけでは皇子とあなたを護りきれないでしょう」

「あたしも皇子を護るわ。こう見えても戦うのは苦手じゃないの」

 爪先の堅い靴で地面を蹴り、器用に一回転したユリユールは、着地を決めてふんと胸を張った。ロクスとイフはきょとんとした表情をして、次いでお互いに顔を見合わせる。

「貴女は心強いですね、ユリユール嬢。けれど、相手は魔術師かもしれないのです」

 ロクスがやんわりと言うと、ユリユールは予想もしないことを言われたというように、少し目を見開いてから肩を落とした。イフはその向かいに立って、気持ちはありがたいよと彼にしては優しい口調で彼女を労った。そしてから、人差し指をたててユリユールに言い聞かせる。

「誰もが悪い人ってわけじゃないよ。ぼくたちの治世はそれほど悪政でもないはずだし、民にそう憎まれてもいない。でも、黒いローブには注意だ。正と逆の三角形の紋章がどこかにあれば確実、そいつらは窮地のノルニシュカを狙う、エスタリアの魔術師やその使いかもしれない」

 ロクスは目を細めてそれを聞いていた。国家間の諜報合戦がどれほど国交でものを言うかを、兵士の彼もよくわかっている。

 その腕をちょんちょん、とユリユールがつつく。イフとロクスが彼女を見ると、ユリユールは左の手を開いてその掌に乗ったものを見せた。

「あたし、森で黒曜石の欠片を拾ったわ。これで気配を薄くしたらどうかしら」

「そんなことができるの?」

 イフは目を丸くする。ユリユールはむしろなぜ驚いたのかわからないという表情で、銀の瞳を瞬かせた。

「黒曜石は、獣の目を逸らす力があるの。森で夜を過ごすときに使うわ。人だって獣よ、同じようにできるはず」

 ユリユールは眼差しを石に注ぎ、その油膜のように複雑な光沢をもつ黒い表面を指で撫でた。

「きみの使う魔術は、根本から大陸魔術とは違うようだね」

「……あたし、ちゃんと魔術の教育を受けたことはないから。それに、あたしはまだ下手だから、子供だましみたいなものよ」

「いいや。実際、今役に立っているのは君のほうだ」イフは肩をすくめ、ペンを握った痕のある掌を翳す。「……大陸魔法というのは、存外役に立たないものだな」

 膨大な勉強量と引き換えに極端に簡便化されたエスタリアの魔術は、基本的に二、三の特殊な材料を必要とする。イフは大人しくユリユールから黒曜石を受け取り、指示された通りに舌の裏に隠した。ユリユールはその額に触れ、目を閉じて少し念じる。

「……呪文もないのか」

「あるかもしれないけど、唱えなくても充分なの。あなたを、火が覆い隠すイメージを頭のなかに描くだけ」

「火が?」

「そう。火よ――まぼろしの火。熱くないから安心して」

 ユリユールの冗談に、イフは片目をつむる。ユリユールは、一応と自分の口にももう少し小さな欠片をいれて、同じことをした。

「ジルは大丈夫なのかな」

「あなたが手を離さなければ大丈夫だと思う」

「お二人とも、では行きますよ」

 準備ができたと判断したらしいロクスが、そっとマントを翻して先頭に立った。そのまま、ゆるい下り坂を広場を目指しておりていく。石畳の氷はとうになく、白い石英の欠片が光る、薔薇色の化粧石に変わっていた。

 都方面から街道をやってくる三人組に、人々は目を向けてなにかを囁きあった。そのうち何人かは歩み寄ってくる。壮年の商人らしい男が、恐る恐る声をかけてきた。

「失礼、もしかして首都から?」

 ロクスは羽織っていたマントを外し、その胸当てや籠手、騎士團の紋章が入った剣、そして髪に結った青と白のリボンを見せる。「はい。私は皇国騎士團第一連隊所属、ロクス・ラヴァンドと申します。階級は青騎士です」

「青騎士殿!」商人は驚き、こうべを垂れる。

「あっ、そんなに畏まらないでくださいな」ロクスは慌てて手を振り、ちらっと自分の背後に立つ二人の子供に視線をやる。イフはフードを目深にかぶり、ユリユールも似た格好をしていたが、確かに商人を初めとした人々は彼らに注意を引かれたりはしていないようだ。イフは舌の上の黒曜石の感触を確かめ、感嘆する。

「首都で何か起きていると……街が白くなっているとか。こちらの村の者も何人か向かわせましたが、まだ戻ってきていなくて」

「ええ……あの、……単刀直入にいうと、首都は人も含めて、城壁から内側はすべて凍ってます。恐らくは魔術で」

 説明に悩んだ末、結局直截的な物言いしかできなかったロクスの言葉を、男は最初理解できなかったようだ。薄い青の視線がさ迷い、それでから肩が震える。

「なんてことだ……」

 周囲でやり取りを聞いていた人だかりがにわかにざわめき出す。「おい、さっき使いをやったろう。誰と誰だ」「ニレとオーリだ。連れ戻さなければ」「都が、なんだって?」「いや、なんでも魔術で……」

 蜂の巣をつついたような、というほどではないが、嵐の最初の高波のように人々の不安がうねり辺りを包み込んだ。露天を出していた商人たちも囁きあい、旅人たちも驚いた顔をする。あっという間にロクスが取り囲まれ、人の群れに戸惑ったイフとユリユールは彼の背後からぽんと弾き飛ばされてしまった。しかし、それでも二人を気にかける者はいない。イフは、舌の裏の黒曜石をにわかに意識した。……まぼろしの火が覆い隠してくれている。二人はちょこちょこと小走りに、ロクスから少し離れた井戸の近くに移動して、その騒ぎを観察する。

「……助けに行くべきかしら」

「どうやって?」

 耳打ちしあった二人は、結局介入を諦めて、所在なく立ち尽くしていた。とはいえ、なにもしていなかったわけではない。ユリユールは付近に泊まれる宿や、食料を調達できる場所がないかを探していたし、イフは辺りの人々に他国の使いらしい顔かたちや、身分が高い客人がいないかを注意してみていた。都が凍ってしまったことを隠す手だてはないが、余計な情報――幻の長子の噂など――が広まることは防ぎたい。その点においては、具体的なことをほとんど知らないロクスが対応しているのは、ある意味では奏功しているとも言えた。

 隣り合って、うろうろと視線だけを巡らせている二人の視界に、ふと気にかかるものが映った。

 井戸の隣、魔除けと香りづけの花がからめられた支柱の脇に、長身の男らしき人物が立っていた。イフの言っていた「エスタリアの魔術師」らしい、羅紗めいた黒いフードがついたローブをまとっており、被ったフードの縁からは長く真っすぐな灰色の髪がこぼれている。ユリユールはすぐに視線を外したが、イフはじっと注視していた。その視線に誘導され、もう一度ユリユールもその男に目を戻す。それを待っていたかのように、男は、深くかぶっていたフードに指をかけた。

 布地を片手で持ち上げた彼は、確かに、イフとユリユールの方を見つめていた。二人は顔を見合わせ、もう一度男を見る。すると、彼は小さく会釈すらした。

「……見えてるね」

 舌先の黒曜石を頬に押しやり、イフはユリユールに囁きかける。彼女も頷いて、軸足に力を込めた。その戦うために構えた姿勢にイフは眉を動かす。「……なかなか大胆だよね、君は」

 黒いローブ、おまけに黒曜石のまじないを見破られたことに警戒を強めたユリユールは、野性動物のように戦う体勢をとろうとする。その思いもよらない血の気の多さにイフは淡々と「少し待って」と彼女の肩を叩く。

「……見覚えがある気がするんだ」

「あの人に?」

「そう。……たぶん」

 小首をかしげたイフに、訝しげな視線を向けて、ユリユールはあくまで構えを解かなかった。旅人ゆえの獣的な警戒心の強さが、その凛とした大きな瞳には銀の炎のように宿っている。

 魔術師とおぼしき男は、音もなく歩み寄ってきた。それを見て、ユリユールの前に立とうとするイフと、手を胸の前で構えるユリユールの肩がぶつかる。むっと互いに視線を見合わせるうちに、目の前まで男がやって来る。彼はそこで足を止め、フードを取ると、宮廷風に膝を折って丁寧に礼をした。

「……このような形でのご挨拶をお許しください、イフ・ドール・ラ・ドーレスト第十二皇子。私はトールレイヴ・シグルと申します」

 長い白灰色の髪を肩に流して、輪の形に結った独特の髪型をしている。顔立ちは思いのほか若そうで、整っていたが、その亡霊のような肌の白さや彫りの深い目元の隈が、彼の年齢を判らなくさせていた。

 エスタリアの魔術師らしいローブを着てはいるものの、かんばせの造作や長身、肌と目の色から彼を同民族だと判断したイフは、慎重に話しかける。

「……あなたは、昔、ノルニシュカの城にいたことがあるよね」

「ええ」男は胸に手を当てて首肯する。「第一皇子エトリカ様と、第五皇子ムムリク様の、大陸における魔術の体系化の指導を務めさせていただきました」

「やはり。…城にあったあなたの本を読ませてもらった」イフは手を差し出す。「……正確には、あなたの指導を受けたムムリクがそれをまとめたものだけれど。とても学習の助けになった。大陸の、回りくどい、呪いの匂いがする写本とは比べ物にならない」

「光栄です」

 煙のように優美な、とらえどころのない所作で礼をする。抑揚薄く、低い声で淡々と喋る様子がどこかイフと似ていて、北国の人はこういう性格になりやすいのかしら、とユリユールは考えた。何を考えているかわからなくて、待望の切り札となる魔術師との出会いだというのに、素直に話していいものかという気持ちになってしまう。黒曜石のまじないを容易く見破られたことに対する警戒もある。

「……第一皇子の御戴冠とお聞きしましたので」

 参上したのですが、とトールレイヴは言葉を切った。灰色の眼差しはちらりと人だかりに向けられる。ロクスの「だからわたくしにはこれ以上のことはわからないんですってばぁ!」という悲鳴じみた声が聞こえてきた。

「いったい何が起こっているのか、お聞きしても?」

「勿論だ」イフが即答したことにユリユールが驚く間もなく、彼はトールレイヴに片手を差し出した。ユリユールが躊躇ってその手首に指をかけるが、イフは彼女に安心してというように頷いて見せた。

「ぼくは彼を知っている。城にもいたことがあるし、素性の知れない他人に話すよりずっといい。……ここを去ってから、エスタリアには戻っていないんだろう?」

 トールレイヴは黒いローブの裾をはき、清潔ながらもあまりにも着古したソール・ハリト教の修道服を見せた。「見た目はこのようですが、特定の機関などへの所属はしておりません」

「物持ちがいいんだね」

「素性を訊かれないので便利なだけですよ」薄く微笑むと、目元に蔭が落ちる。「エスタリアの服を着ているものが、エスタリアの民だとは限らないのに」

 イフは黙って肩を竦めた。ユリユールは構えを解いて、しかし少し緊張したまま、彼の耳元で「大丈夫?」と囁いた。

 イフはユリユールに顔を向け、自分の左目を指差して見せる。「嘘はわかる」万華鏡の輝きが、歯車のようにきらめいた。「君の決断は君自身に委ねる。ぼくは彼を信用に足ると思っているよ」それに、他に頼れる人もいなさそうだ、とイフはあたりを見渡した。ユリユールもはっとして通りや軒を連ねる店に眼を走らせる。どこにも、魔術師の掲げる薬や占いの看板などは見当たらない。

 人が暮らすところなら、どんなに辺鄙な村でも、土着のまじない師や魔術師が民の相談役となっているのが普通だ。この村にはそれがない。

「あたしが寄ったときには、まじない師のやっている薬屋があったと思うのだけれど……」

「主人が都の様子を見に行ったのですよ」トールレイヴはそっとユリユールの方へ一歩踏み出した。尖った靴先は、修繕布が幾重にも巻かれている。旅人の足だ。

「けれど、いまだ戻りません。馬の足ならとうに帰ってきても良さそうなものを」

 イフは石畳を踵で叩いて難しい顔をする。道を氷河のように浸潤してくる呪いのことを考えていたのだろう。その横顔は固かった。途中であの氷の魔法に囚われたというのなら、この村にもいずれ危険が迫ってくる。

 トールレイヴは、闇を引きずるように長いローブの裾と、夜更けの雪のような灰色の髪をたなびかせ、ざわめく枝葉のように二人に囁く。

「都から出られたのは貴女方だけ。何が起きたのかを話せるのは、貴女方だけなのです」

 ユリユールの瞳が揺れ動いた。イフから聞いた城壁のなかのこと、自分が受けた夏の吹雪、離ればなれの父親のことが一気に頭を駆け巡り、奔流となって彼女の心をゆさぶる。

「……あたしたちを、助けてくれる?」

「貴女が、私を信じてくださるのなら」

 トールレイヴは、皇族にするように膝を折り、こうべを垂れる。イフはなにも言わずに一歩下がり、ユリユールに決断を促した。

 少しの後、ユリユールは俯いていた顔をあげる。固く指を組んでトールレイヴに言った。「……あたしも、あなたを信じるわ」

 少女らしい真っすぐさで、ユリユールは同じように顔をあげたトールレイヴの瞳を正面から捉えた。よく似た金属の色をしていながら、経た年月の差かそれとも別の何かか、宿す光の色が異なる二者の視線が交わる。

「道が定まったようで何よりだ」イフが、大人びた口調で言う。薔薇色の唇の隙間、舌の上で黒曜石が燃えるように輝いた。

「……それじゃ、早速作戦会議といこう。ぼくたちに時間はない。冬から夏を取り戻すために、ぼくたちに立ち止まることは許されていないんだ」

 この冬の王国の血筋を受け継ぐ少年の

言葉に、二人はゆっくりと頷いた。

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