第5話 帝国の書簡と夜の森

 ノルニシュカ皇国の首都、ノルニシュカから南へ谷をひとつと丘を四つ。

 半島中央部の都市ベルンテの中心部、六角形の広場に聳えるファサードは、白と薄紅、淡緑の花で彩られた六芒星を掲げている。ミッドガリア大陸の半数の国が国教とし、全土に信徒を抱えるソール・ハリト教の教会だ。エスタリア風の壮麗な建築様式に、風に吹かれた花びらをそのまま凍らせたような、精緻さと可憐さを併せもつノルニシュカの伝統的な彫刻芸術が施され、教会そのものが花冠のように華やいだ顔を見せている。

 しかし、その内部は混乱の渦であった。

「首都で何が起こっているんだ」

 年老いた魔術師が、黒いローブの奥で低く呻く。世話係の若い見習いが困惑した表情で、教会のあちこちに設置された水盤を覗き込んでいる。幾つかの水場を経由して遠く離れた地点を監視することができる魔術の道具だが、それも、今はただ波紋ばかりしかその面には揺らがない。

「見えません。連鏡の術が弾かれているようです」

「呪いか、それとも何者かが結界を張っているのか……」

 偵察に放った鳥や使い魔が次々と戻ってくるのを、老若男女の魔術師たちが困惑しきった表情で迎える。翼に氷の粒をつけた大鴉が心細げに鳴き声をあげるが、得られたものはなにもないようだった。

 教会からは、士官学校の鐘楼が見える。銀の鐘が鳴り響く緊迫した気配は凍った湖の上で鳴る稲妻のようで、駆けめぐる軍靴や魔術師の柔らかな皮の靴の音が、嵐のようにあたりに反響して渦巻いていた。

 首都から離れた土地に置かれた士官学校は、かつての皇帝の意向だ。あまりに先進的な組織は多くの同意を得られず、やむなく当時は辺鄙な地域であったベルンテに建設された。その後、ソール・ハリト教の教会を移築することとなり、ベルンテは一気に都市化がすすんだ。そんな大きな街が、今は天地のひっくり返ったように慌ただしく、みなが動き回っている。

 そんな中、赤みがかった癖のある金髪をうなじで束ねた若者が、その美しい横顔を険しく歪めて、足早に教会の回廊を歩いていた。

「皇子、陛下や都の様子はまだ判りませんゆえ、お部屋にお戻りを」

「戻るどころか、俺自身で確かめにいきたいくらいだ。……本当に都との連絡手段が絶たれているんだな」

 足首につけた書簡をそのままに戻ってきた青鳩を見て、キアランは眉をひそめる。鳩は震えるように翼をはためかせた。その風切り羽から、ひらりとなにか白いものが落ちる。拾おうとしたそれが手袋の指先で溶けて消えたのを見て、キアランは訝しげに呟いた。

「……氷?」

 そのとき、教会の塔の天辺に吊るされた、他国からの連絡に使われる六つの水晶の鐘が鳴った。六度の鐘……エスタリアからの報せがある合図だ。はっと周囲の人々も顔をあげる。

 キアランの目前の空気が、くるりと陽炎のように渦をまく。ねじれた空間から、とろりと小さな金色の火が滲みでた。キアランは目を細め、その火に指をかざす。熱はない。

 温度のない火は、まばたきする間に鳥の形に変わった。銀に光る嘴が門のように開き、そこから低い人間の声が漏れる。

―――エスタリアのクレメント・ヴァランセより、国を代表して使いを送らせていただきます

 大使として国を訪れたこともある外相の名を聞き、キアランは眉をひそめて腕をのべた。恭しく、その魔術の鳥はそこへ舞い降りる。

 白く、巨大な大鷲だ。ひとつ羽ばたき、床に火花のような白い光を散らしたあと、それはキアランの腕にとまって美しい造形の首を垂れた。一拍おいて、その姿がひらりと書簡に転じる。空に浮いた巻物がするすると開くうち、幾粒かの雪の結晶がはらはらと落ちた。……ノルニシュカの人間の手を経て、ここへ送られたという密かな合図だ。実際に、すべて開ききったその羊皮紙の片隅に、第九皇子、コロニルの筆跡で走り書きが残っていた。

――奴らは牙を研いでいる

 キアランが羊皮紙に浮かび上がってくる文字を読むと、親交厚い国が突発的な危機に瀕しているとの報を受け、急ぎ書簡を送ったこと、要請に応じて軍を向かわせる準備はできている、などという内容が恐ろしいほど取り澄ました文面で書かれていた。上品な文章の奥には、皇帝への叛逆の可能性を示唆する疑念が見え隠れしていた。

 キアランが読み終わるのを待っていたように文字が薄れ、最後に、羊皮紙のおもてには、双頭の大鷲の国章が焼け跡のように浮かび上がった。

 キアランの指に、紙を引き裂かんばかりの力がこもる。

「……エスタリアに知られたか」

 辺りに立つ黒いローブ姿の魔術師たちを睨みつけ、キアランは深く呼吸する。エスタリア帝国から派遣された魔術師たちのうち、どのくらいの数が本国に報せを送ったかなど問い詰めても無駄だ。

 高嶺の花のように稀少な宝石の資源と、氷河地形や極寒の気候による天然の要塞を誇るノルニシュカ皇国は、これまで度重なるエスタリア帝国からの侵攻を退けてきた。東方の領土権を獲て大帝国に成長したエスタリアは、近年こそ小競り合いを除いて大規模な侵略戦争を控えているらしいが、瀕死の獲物を頂戴できると知って巣穴に隠っている獣はいない。

 キアランは中庭から室内へ入り、自分の執務室へ歩きながら鉱信を試みた。エスタリアでは近年確立された魔術の一種だが、ノルニシュカではずっと昔から行われてきたものだ。同属の宝石の結晶を通じて、遠く離れた相手と言葉を交わす魔術だ。宝石は純度が高ければ高いほど声がよく届く。元々、天候や行為者の魔術の才能に左右されてきた不安定なものだったが、呪文による術式の一般化や解明され紋章化された原理のおかげで、大陸魔術における鉱信はひとつの立派な通信手段と見なされていた。

 軍服の胸元から、紐に下げていた複数の結晶を取り出す。その中から紫石英を選び、短い呪文を唱えた。桃や紅を織り交ぜた光が走る内部に、ドーレスト家の紋章が浮かび上がる。

「聴こえるか、カイエ」

―――キアラン様。

 少しあって、カイエの、特徴的なかすれた声が聴こえた。紫石英がしきりに瞬く。雨音に遮られたように遠い声に、キアランは回廊を移動しながら早口で告げる。

「エスタリアが書簡を送ってきた。どうも、クーデターなどの反乱を疑っているようだ」

―――まさか。

「こちらはまだ何もわからない。今どの辺りだ?」

―――ダリル村手前、ヨルム渓谷です。

「ヨルムは迂回しろ、危険だ」

―――時間を無駄にはできませ……

 声がぶれた途端、ぱちり、と鉱石が弾け、罅が入る。ノイズと共鳴したらしい。キアランは破片で切れた頬をそのままに、別の紫石英を取り出す。

「カイエ」

 微かな返答を確認して、キアランは低く囁く。

「よく聴け。今、最も都に近いのはお前だ。確かに俺たちは情報を欲している。間違っても、エスタリアに先に都の状況を掴まれるわけにはいかない。あいつらはこの機に乗じて、手を差しのべる振りをして、そのまま喰らい尽くしてしまう気だろう。こちらが凍りついているうちに丸ごと腹におさめて、お話はそれから、って寸法だ」

―――そうでしょう! だから俺は―…

「だからこそ、今お前に何かあっては困るんだ。お前には、できるかぎり確実に都にたどり着き、様子を教えてもらいたい。基本を忘れたか。いいか、ヨルム渓谷は迂回しろ。あそこは瘴気の坩堝だ」

 少しの沈黙があった。しかし、本分を忘れなかったカイエは、短く了解しましたと返事をして、鉱信を切った。

 結晶を口元から離したキアランは、目を見開く。紫の宝石の表面は、いつの間にかうっすらと霜に覆われていたのだ。鋭い万華鏡の瞳は一瞬だけ彷徨い、もう一度その微細な針状の結晶に変じてしまいそうな石に戻る。手の上で、その霜は、じわじわと革紐まで冒そうとしていた。

 キアランはその手を握りしめた。紫石英が、手のひらで砕け散る。蒼白のかんばせで、彼は、信じがたいというようにその名を口にした。

「ラルカ・ドーレスト・ラ・ドーレスト……!」




 ぱちぱちとはぜる焚火に、ロクスがそっと小枝をくべる。さすが皇国騎士團の兵士というべきか、野営の仕方は訓練で習っているようだった。焚火はイフとユリユールがつくろうとしたものよりずっと大きく、ずっと明るかった。空気は菫色に染まり、実体化し始めた夜の柔らかな腕が三人を包み込もうとしていた。春と夏の端境の季節、大陸北部のノルニシュカでは極端に夜が短くなるはずだった。しかし、空の上からなにかが覆いかぶさってくるように駆け足の日暮れが、異様な気配と一緒にあたりに闇をもたらし始めていた。

 駐屯地から少し草地をいったところに、森のほど近く、丘陵の上の鳩舎があり、そこはまだ凍りついていなかった。急ぎ伝書鳩を飛ばし、ついでに鳩舎の近くで火を焚いて鳩たちの住み処も暖めた。鳴き声や羽ばたきの音が聞こえるたび、重苦しい沈黙が取り除かれる。生物の気配がすることがこれほどまでに心安らぐとは、イフにとって思いもよらないことだった。

 厭なほどに濃密な夜だった。水をかき回すようにロクスは手首を降り、指先にねっとりと絡む闇と冷たい霧にため息をつく。

「この闇は何がひそむかわからない。夜明けの光が見えたら、隣の村へ向かいましょう。…最寄りはダリル村だと思います」

「覚えがあるわ」ユリユールは肩掛けにくるまって頷いた。その足元に火の粉が飛ぶ。

「ユリユールはそこに寄ったの?」

「ええ。国境近くの街で御招待を受けて、ここへ来る途中に。村とは言うけれど、とても大きなところよ」

「ベルンテに教会が移動されてから発展したんだ。首都との中継地点になってる」

 苺を摘まみながらイフは言った。ロクスは手甲などを外して脇に置き、軽装になって捕らえた兎を捌いていた。刃物があるのとないのとでは雲泥の差ということを、イフとユリユールは痛いほど理解した。

「……それにしても、街ひとつを凍らせるなんて、神話みたいに現実味がないです」

 城には魔術師もいたのに、と呟くロクスは、切り分けた肉を木の枝に刺して炙り、そっと指を組む。

「……例えづらいけれど、人は敵襲を退けられても、嵐を防げないのと同じだと思う」全く性質が異なるものにはなす術をもたない、とイフは地面に何か言葉を書き付けた。この国の文字を知らないユリユールには、それが何かはわからなかった。

「ドーレスト」

 答えはイフ自身が口に出した。

「この呪いを解く鍵は、ドーレスト家の力のみにある」

 ロクスが嘆息した。「イフ皇子と、ベルンテにいらっしゃるキアラン皇子と、エスタリアにいらっしゃるコロニル皇子! お三方だけでも無事でよかったのですが、他の方が……」

「ローゼルもリリエンも、折り悪く外遊から都に戻っていた」イフは目を細めて、兄らの安否に思いを馳せる。「……ムムリクもベルンテの教会から戻っていたし、ギデオンはそもそも滅多に城から出ない。エトリカと父も当然、城にいた」

 そして、ラルカも、とその小さな唇が動いたのを、ユリユールだけが見ていた。母は、とは誰も口にしない。ノルニシュカ皇国に后妃がいないのは皆知っていた。

「……呪いを解くために、ぼくは何をすべきだろう」

 この場でただひとり、ドーレストの血を受けた少年は、自分の白い手を見つめながら唇を引き結んだ。

 夜が更けていくにつれて、月に温度が吸われていくように闇は冷えていく。ロクスは駐屯地で見繕ってきたらしい、霜の装飾が足されたマントを三枚差し出した。慎重に焚火にかざして霜を溶かしながら、三人は祈りを捧げて兎の肉の食事を摂った。

 ユリユールは、ロクスが持っていた小さな燧石を弄ぶ。空に投げあげ、落ちてくるまでの間に何回火花を散らせることができるか、という遊びだ。ユリユールにとってはよくやる手慰みに過ぎなかったのだが、呪文もなく火花を操る手管に、ロクスもイフも驚いた顔をした。

「すごく才能がある人しか、詠唱も紋章もなしに魔術を扱うなんてできないよ」

「そう複雑なものじゃないから」ユリユールは照れて、燧石をロクスに返した。

「本当に簡単なの。ただ、どうやるかの説明は難しいんだけど……」

 イフはユリユールの異国風の赤毛を見つめて興味深そうに頷いた。

「自然を操る魔術を扱うには、要素との相性が大切だと書にはかいてあったな。きみは火と相性がいいのかもしれない」

 ぼくたちの氷の力と同じように、とイフは付け足した。ユリユールは改めて、燧石を操っていた自分の手を見つめる。ノルニシュカの民よりも少しだけ日に焼けた色。父に教わった"旅人の魔術"を、ただ教わったままに使っていた手。けれど、その正体はなんなのだろう。またも脳裏に閃いた疑念に、ユリユールは頭を振ってそれを追い出す。お父さんをおかしな風に疑うなんて。

 イフが興味深そうに自分の手を見つめていることに気がついて、ユリユールは彼に水を向けた。

「あなたも、昔は雪を降らせたりできたのよね」

「ああ」イフは手を目の高さにかざし、透ける血潮の色にふっと息をついた。

「……けれど、今はできない。思い出すことも……」

 手袋の下の手は、機械の油で少し爪が黒ずみ、表面は荒れていた。初雪のような他の皮膚とは異なるそれは、恐らく魔術から遠ざかって久しいはずだ。

「大陸魔術は学んだし、よく使うよ。たとえ冬の力は失われても、ドーレスト家は魔術が使える血統だ」

 ロクスがふっと息を吐いた。無意識だろうが、それは、恐らく魔術の類いに縁がない生まれに端を発する、憧れのようなものに似ていた。まとう甲冑に魔法の香を焚き染めても、才能がなければ呪文も紋章も意味をなさない。

「まあ、ぼくは科学や工学の授業の方が好きだったけれどね……」

 手袋をはめ直したイフは、ちらりと樹に立てかけられた人力飛行機に目をやる。絶えずさやかに移ろう光源に、陶器の体に描かれた装飾は、風に揺らめく花のようだ。金属部品は油を垂らしたように照り、まるでそれひとつが何かの仕掛けのように精巧で混沌としていた。

 彼の視線につられ、ロクスとユリユールもそれを見やる。ロクスはちょっと首をかしげて、イフの方を向いた。「あの、飛行機…ってのはどんなものなんですか?」

「ジルのことかい。あれは風に乗る大陸魔術を応用して機体に回転翼や重心を移動させる装置と舵をつけたことで空を飛ぶ装置だよ、動力源は操舵手の魔力の供給と元素灯を燃やして生まれる暖かい空気を循環させることによって内部の……」

「皇子、皇子!」降参、というようにロクスが両手をあげる。

「私はしがない騎兵です。あなたの言うことは難しすぎてちっともわかりませんよ」

「そうか……じゃあ、君の質問にはどう答えるべきなのかな」

「いえ、……特に仕組みが知りたかったわけではないのです」ロクスはまじまじとジルの装置を見つめ、金と紅の炎が照らす歯車の群れに驚く。「この重たそうな馬が、空を飛ぶんですね」

「うん。…ああ、仕組みでなくて動作の仕方を訊いていたのか……」イフは納得したように頷き、頭をかいた。少し気まずそうな表情を浮かべている。

「ぼくは、機械のことはわかるけど、人の気持ちはわからないことが多いよ……」

 おかしなことを言っていたら教えてほしいな、と、彼はユリユールの方へ視線を投げかけた。その自信がなさそうな瞳の色がまるきり少年じみていて、おやっとユリユールは驚く。イフはすぐに目を逸らしてしまったが、その横顔を彼女はしばらく見つめていた。冷たいほど大人びていたかと思えば、不意に年相応の顔を覗かせる。不思議な少年だ。

「大丈夫よ」

 小さいが、自分でも驚くほど柔らかい声が出て、ユリユールは少し躊躇った。しかし、イフがこちらをまっすぐに見てきたので、その瞳を見返して続けた。

「あたしのお父さんも、時計のことになったら話が止まらないの。他のときは全然喋らないのに。冗談もあまり言わないし、こっちが訊きたいことを勘違いしちゃうこともたくさんある。……でも、あたしは、そんなお父さんが好きだわ」

 言い終わると、一気に頬が熱くなった。火の粉がはぜたようなかんばせを両手で押さえると、彼女のことをじっと見つめていたイフは、そっと目を焚き火に戻して、囁いた。

「……ありがとう」

 鳥の鳴き声が、都から遠い方向で聴こえた。霧のなかを漂ったその音をとらえて、ロクスは「夜告げ鳥です。……もうそろそろ、眠る時刻になるのでしょう」と、影絵のような樹冠を仰いだ。そのまま剣を片手に立ち上がる。火の傍らに佇み、幾つかの外した甲冑の部分をイフとユリユールに渡す。

「夜が明ける頃には、霧も晴れるでしょう。眠りは何より大切です。まじないの鎧は重いかもしれませんが、私ひとりでは不安なのです。体の上に置いて……おやすみなさいまし、お二人とも」

 恭しく跪いた彼に、慌ててユリユールは渡された胸当てを押し返しながら「あたしはあなたより低い立場のはずだから、」と声をあげるのを、イフがそっと制する。

「そう。眠りは何より大切だ、ロクス。だから、ぼくはあなたも眠りをとるべきではないかと思うんだけどな」

 ロクスは跪いたまま、ゆるくかぶりを振った。イフはその額に手のひらを翳し、もう片方の手でブローチを握りしめる。手の内で、皇族の証がぼうっと光った。

「ここに跪く皇帝のしもべよ、ノルニシュカ皇国第十二皇子が命ずる。……堅苦しいなあ」

 ちょっと首をかしげてから、イフはふっと息をつく。「つまり、不寝番は交代制にする。これは命令だよ、ロクス」

 ロクスは微笑みながら顔をあげた。「あなたは本当に相変わらすでいらっしゃいます」細められた目は悪戯の共犯者のようだ。ユリユールは持っていた鎧を彼に渡し、焚き火を挟んだ向かいに座る。態度で賛成を示した彼女に、ロクスは少し眉を下げるが、すぐに笑顔に戻った。

 三角形を描くように、三人は火の回りに腰掛け直す。足元から忍び寄る夜気に、雪の匂いが混ざっている。イフは湿り気のある土に指を這わせ、明日の朝になればきっとここも霜柱が現れるのかもしれないと白くなり始めた息を吐いた。顔をあげれば、砕いた氷のような星が、厚い葉群のすき間からでも地を射るように輝いている。枝葉の向こう、月のあるだろう位置は、瑪瑙のように淡い幾重もの光の輪を示している。そのとき、イフは、都のある方向が黎明のように薄青く白んでいることに気がついた。

 思わず立ち上がって木立に足を踏み入れた彼に、ロクスとユリユールは焦って声をかけようとする。しかし、白樺の影で立ち止まったイフの顔色がみるみるうちに沈んでいくのを目の当たりにして、目を見合わせて口をつぐむ。

 やがて、もう一度地面に腰をおろしたイフは、疲れた風に額に手を当てた。

 彼が目にしたのは、まぼろしの夜明けではなく、己自身の生まれ育った都だった。ノルニシュカの都は、氷と夜に覆われ、月の光を眩く反射して、煌々と闇のなかで死の色に輝いていた。その光が、イフの目を騙したのだ。街の灯りではないか、誰かが呪いから解き放たれたのではないか…という淡い期待を打ち砕かれ、彼は動転を悔いながら、そっと焚き火に手をかざした。

 その傍らで、ユリユールは同じ仕草をした。二人の手の影がゆっくりと重なる。

「夜は長くて短い。三人でなら、越せるわ……」

 夜告げ鳥がもう一度鳴く。

 冬の都が凍りついて、およそ半日が経とうとしていた。

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