許しの儀式

 窓の外は曇天だった。格子の向こう側で、灰色の重たげな雲が空を覆い尽くしている。


 部屋の中に立つ人間たちの顔はどれも暗く沈んでいた。彼らが囲む輪の中央に、この部屋唯一の椅子が置かれている。そこにうなだれながら腰かける若い青年の襟元は乱れ、第二ボタンまでが開けられ、シャツはぐしゃぐしゃになっていた。直前まで大人数相手に暴れていたからだ。


「ヤン」


 名前を呼ぶと、ぴくりと肩が震えた。十人以上を相手に大立ち回りをして逃げるつもりだったくせに、ヤンは呆然と顔を上げた。その顔だけが妙に白く部屋に浮かび上がる。


「ボス」


 未だにそう呼びかけてくる青年は、目を大きく見開き、悲しみとも怯えともつかない表情をしていた。だが絶望しそうなのはこちらも同じだった。


「レオンハルトに俺が無防備になる瞬間をリークしていたやつがいたのではないか」


 どちらかというとその疑いを打ち消すために始めた内部捜査がこんな結末になって、おまえの名前を聞いたとき、どれほど胸を掻きむしられたことか。


「どうしてだ、ヤン」


 すっかり抵抗をやめて大人しくなっていた青年は、再び顔を俯け、ぼそぼそと答えた。


「病気の妹がいるんです」

「おまえ、血縁はだれもいないと」

「血は繋がってませんよ。でも、俺たち、肥溜めのような場所で一緒に生きてきたんです。大事な家族なんです。だからどうしても助けたくて、それには金とか推薦状とか必要で」


 ああ、そんなごく単純なことで彼は俺の命を売ったのか。その冷えた事実が胸の内に降りてくる。


「そんな理由で裏切りが許されると思ってんのか!」


 そう叫んだのは自分ではなく、彼と行動を共にすることが多かったトーマスだった。


「ここにいる連中のいったい何人がおまえと似たような境遇で育っていると思ってる? おまえだけか? 違うだろ!」


 トーマスはヤンのことを弟のように可愛がっていた。近しかっただけに怒りも深いのだろう。ヤンもまた、燃えたぎるような瞳でトーマスを睨み付けている。


 怒鳴る声がヒートアップし、お互いの傷を抉るようなことばかり叫んでいるトーマスを、片手を上げて制す。


「ヤン。裏切りは組織の中で一番の禁忌だ。同じチームを組んでいる人間への裏切りは特に。わかっているな」


 くしゃり、と青年の顔が歪んだ。どことなく今にも泣き出しそうだった。


「好きでこんなことしたんじゃない! あの人より先にあなたと出会ってさえいれば、あなたの本当の部下になれたのに、俺、この組織の中であなたが一番好きです。酒も煙草もスーツの着方もあなたが教えてくれた。あなたが帰ってこなかった日、ほんとうに心臓が止まりそうでした」


 すがるような言い草に少し笑ってしまった。


「そうか。よかったな、自分のせいで俺が死ななくて。幾分か気持ちが楽だろ。──全員、銃を構えろ」


 号令をかけると、椅子を取り囲んでいた十数人の男たちが一斉に銃口を彼に向けた。これは組織に代々伝わる裏切り者の処刑の儀式だった。


「彼を罰したい者は引き金をひけ」


 そうして怒りに燃える仲間たちによって、裏切り者は身体中に穴を空けて死ぬ。けれど、こんな陰鬱な曇天の日に、十五のときから成長を見守ってきた青年を撃つ気には到底なれなかった。ため息をひとつ吐き出し、銃を下ろす。あとはどうにでもなってしまえという気分だった。


 彼と同じような貧困層出身の者が、この組織の中に、このチームの中にすら、どれほどいることだろう。そこに置いてきた家族のために組織に入った者の数も。彼らは自分と同じような理由で裏切ることを選んだ青年を許せないと思うと同時に、その切実な思いをきっと理解してしまう。だからか、彼を取り囲んでいた銃口は、躊躇いがちに揺れたのち、次々と下がっていった。


 今いる中では彼が一番若い。まだ少年の面影を残していた頃から、彼を可愛がって来なかった者はいないだろう。啜り泣くような音まで聞こえた。歯を食い縛っているトーマスも、この場で命までは奪えまい。それならそれでいい。


「全員、これでいいのなら、今日のところはこのまま解散とする。処分は追って決める」


 すべての銃が下がっていたから、半ば安心して背を向けたはずだった。そのとき、「やめろ!」とだれかが叫んだ。


 振り向いた先で、ヤンは、どこからか取り出した小さな銀色のナイフで自らの喉を掻き切っていた。


 急速に血の気が失せていく顔と目が合い、彼が何かをいいかける。ひゅうひゅうと風の鳴るような音が聞こえるばかりで、掻き切られた喉笛からはこぽこぽと血が溢れていくだけだった。


「ォ……ォ……コホ……」


 彼が最後にいいたかった言葉は果たして、恨みの言葉だったのか、それがわかる日は永遠に来ない。


 水分の重さに耐えきれなくなった雲から、とうとう雨が降りだしていた。外の空気を吸いたいと思ってわざわざ出てきたというのに、湿気を伴う空気は吸えば吸うほどに喉が詰まった。


 裏口から出た先はちょうど通りへと抜けられるようなトンネルになっていて、雨粒は防げたものの、じっとりと水分を含んだ空気の中には悪臭もまぎれていた。ゴミの溜まった排水溝。どろはねのこびりついた壁。かといってそれらに構う気力もなく、壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちてしゃがみ込んだ。


 別にスパイの存在はそう珍しくない。そうやって他人の裏をかくことはひとつの手段であったし、潜入に失敗した者に待ち受けるのは勿論死だ。今さらこんなことで心を壊すこともないだろうけど。


 煙草を吸おうとして、こんなに湿気た空気の中では火なんかつくわけないなと思い直して、笑ってしまった。なんの笑いなのかは自分でもわからない。


 ねっとりとした空気が肌に、首筋に絡みついて、まるで絞められているようで、息苦しい。腫れぼったい頭の中身を入れ換えたい。こんなときに限って、讃美歌が聞こえてくる。


「……うるさい」


 塞いだ耳の奥から、素晴らしきこの世界と歌う少年の声がする。


「うるさい、黙っていてくれ、頼むから……」


 自分の内側から鳴り響く音を打ち消すよう、よりいっそう頭を抱えてうずくまった。

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