穏やかな午後の風が赤レンガのあいだを吹き抜ける街中。道路に落ちた木漏れ日の輝き。静かな住宅街の途中に平然とした顔で突如出現する教会は、建物を何棟も擁するような大きなものではないが、まっすぐに伸びた屋根のてっぺんは周りのどの建物よりも高く、屋上には鐘を擁している。


 入り口横の花壇の前に、先日ピアノを弾いていた少女の後ろ姿が見えた。なにやら屈んで作業をしているらしい。スカートが地面につくすれすれの彼女の足元には、片手で扱えるスコップも見える。


 土いじりでもしているのだろうかと、その背中に向けて軽く首を傾げていると、視線を感じたのか少女が振り向いた。大きく目を見開いて、こちらの顔をじっと見つめて一秒、二秒、ぱあっと花がほころぶような笑顔を見せた。あまりに無防備で素直な反応に、思わずこちらの口元までゆるむ。まだ彼女の元へ着くには距離があったが、おかまいなしに屈んだままぶんぶんと大きく手を振る少女につられて、小さく手を振り返す。


「やあ、グウェン」


 少し遠くの彼女に声をかけると、「こんにちはおじさん!」と元気一杯に返ってきた。


「ハハ……お兄さんな」


 顔は笑っているがこれでも心は少なからず傷ついている。


 初めて彼女と対面したときもそう呼ばれたので、「いっておくがまだ三十にもなっていない。今年で二十九だぞ」と実年齢をしっかり伝えたはずだったが、今のところ彼女からの呼び名が改まる見込みはなさそうだ。


 ついでに、そのとき少女の隣に立っていた少年がしげしげとこちらの顔を眺めたあと、おもむろに「老け顔っすね」といったことまで思い出した。「大人の魅力といえ」と返し、しばき倒すぞクソガキ、という本音は大人としてぐっと堪えた。彼らといるとついつい計算することなく素が出てしまいそうになる。


「あ」


 立ち上がったところで、彼女は何やら悪戯を思いついたらしい。ニヤッとした笑みを残して、先に教会の中へと入っていってしまった。玄関口へのわずかな階段をばたばたと急いで駆け登っていく姿はじつに愛らしい。ひらひらと揺れる生成りのスカートの裾には、白い糸で大きな花の刺繍が施されていた。


 信仰と善意のもとで育った十三歳のまっさらな少女。そんな子供が仕掛けてくる悪戯などたかが知れているという、信頼にも似た妙な安心感が芽生えている。いったい何をされるのか楽しみですらあった。


 ゆっくりと階段をのぼった先、小豆色に塗られた木製のドアを、中の彼女に聞こえるよう、間隔をあけてノックしてから開く。すう、と小さく息を吸う音が聞こえたような気がした。


 静かに響き渡ったのは、少年の歌声だった。讃美歌。神の恵みと、この世の美しさについてうたった歌。


 空中にほどけていくような、低く優しい、ほのかな歌い出し。そこから少しずつ高くなっていく音程を難なく追いかけ、少年から溢れ出る音は祈るように澄んでいく。


 どこまでも高くなりゆくメロディーに、彼の声は必ず追いつき、届いてほしいと願うところまで届く。


 座席を左右に割るように敷かれた中央のカーペットをゆっくりと踏みしめながら、正面に祭られている聖女像のすぐ下で歌う彼を見ていた。ピアノの伴奏はない。それでも相変わらず見事な、聴覚のすべてを満たすような歌声。もはや感動するというより呆れて笑ってしまいそうだった。ああ、もう、まったく気持ち良さそうに歌いやがって、といったふうに。


 一番前の席にたどり着き、そこに腰を落ち着かせた。伏し目がちに歌う少年の瞳はきっと、床の赤いカーペットではなく自分とは違う世界を見ていることだろう。


 慈愛の笑みを浮かべる大理石の聖女。約束された楽園の姿が描かれた天井。さまざまな奇跡や教えをモチーフにしたステンドグラスの模様。そのどれひとつとして、まともに信じたことはなかった。この世に救いなどない。人間を都合よく掬い上げてくれる存在など、人間の都合のいい妄想でしかない。神にどれほど祈ろうと、引き金がひかれるときはある。


 目の前で歌う少年はきっとその瞬間を知らない。けれど、この美しく素晴らしき世界とうたいあげる彼の声は、耳とともに心をも満たし、幸福そのもののようで、この歌声がこの世に存在するというのなら、奇跡というものを信じてもいいような気がした。


 人を手ずから救ってくれるような者の存在は知らない。だが人では叶えられない美しさをこの世に与えた存在は確かにいるのだろう。たとえば彼の歌声。その存在のことを神や天使と呼ぶなら、そう呼べばいいと思う。


 背もたれに身体をすべて預け、目を閉じる。彼の歌声が響いているあいだは、穏やかな夢が見られそうだった。


 もしも神や天使がこの世に存在しているとしたら、それは善良な者を導くでもなく邪悪な者を裁くでもなく、こうやって恵みのような歌声でただうたうだけかもしれない。そう考えてみて、なんとなく、生まれて初めて何かに救われたような気持ちになった。


 震える余韻の中でまぶたを上げると、少年はまっすぐとこちらを見ていた。


「あ、また来たの?」


 そういって器用に片眉を跳ね上げると、こてんと小さく首を傾げた。

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